中央アルプス2

木曾駒ヶ岳~三の沢岳  学童集団遭難のルートを行く 1990年
恵那山、南木曽岳 1988年5月
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木曾駒ヶ岳~三の沢岳  学童集団遭難のルートを行く 1990年
12/28(FRI) 曇り、ときどき晴れ
 新宿から駒ケ根行き高速バスの朝一番に乗る。伊那市駅からはタクシーで内の萱まで、行ける所まで入ってもらう。桂古場の登山口の手前、キャンプ場でおりた。三千円で釣り銭はおごった。

 40センチはある積雪の車道を行く。ガケの補修工事現場の人なつこそうな人夫に声をかけて、まもなく登山道に取り付く。猿のなき声とおぼしきが、けたたましく聞こえて沢の方へ逃げていった様子である。昨日大雪が降って中央高速道は閉鎖されたという。今日運よく山に入ることができたが、その代わり思わぬ雪のラッセルに苦しむことになってしまった。先程の蛮声の主のあわてて通った足跡のみが乱暴につけられている。とにかく先は長い、あせらずゆっくり行くことにする。

 一汗かいたところでブドウの泉に着いた。ちょろちょろと冷たい水が流れている。ここで1.2リッターの水筒を満たし小休後出発。ちりめん坂といわれるジグザグの苦しい登りが続く。だんだんと雪の量が増えてくるにつれて、スピードは遅くなる。かなり進んだと思うがなかなか稜線に達しない。当初大樽小屋泊まりを考えていたのが、その手前の馬がえし迄も難しくなってきた。感覚的には高度をかせいだつもりでも、実際には半分も進んでなかったのだ。三時半で遂に行動をうちきった。

 登山道の比較的平らなところを選んでテントサイトをつくる。雪を踏み固めて、まずまずの敷地ができるまで三十分もかかってしまった。テントの入り口から前方に伊那市の町の灯がちらつき始める頃、ようやく今日のアルバイトから解放されて、熱い酒をちびりちびり飲ることができた。


12/29(SAT) 晴れ

 朝7時の出発。深くなってきた雪のラッセルを一時間も頑張り、ようやく野田場の展望台に着いた。樹林がじゃまでまるっきり展望は得られない。巻き道に出てゆるやかな登りをしばらく行くと、なんと五人組みのパーティがどかどかとおりてくるではないか!! ツイニ ラッセル カラ カイホウ サレル!!!

 大雪の前日に入山、この日はトレースをゆうゆうと歩けた。しかし次の日、大雪が降って登山道はたちまち重い雪にうまってしまった。苦しい歩行を続けて、やっと駒ヶ岳を往復してきた。以上が彼等の話しである。そう言いながら彼等の目が笑っている。苦笑いという奴だ。それはとにかく、若い学生パーティのラッセルの跡を、これまでの半分の労力もかけないで先へ進むことができたのである。

 学生パーティに会って十分もすると、馬がえしに乗っこした。右に権兵衛峠の標識があった。雪に埋まってルートは判然としない。さて、ここからは山のふところ深く入って行く。明らかに樹相もかわって傾斜もきつくなる。

 大樽小屋に十一時ちょっと前に着いた。なかなか立派な小屋で中も清潔である。外で木もれ日にあたると暖かいが、光はそれほど強くない。小屋の中に入って昼の腹ごしらえをすることにした。

 小屋からはいよいよ胸突き八丁を行く。六合目の平らな展望の良いところ(やっとこ平?)から、将棊頭山が見えた。今日の宿は西駒山荘あたりかなと思いながら尚も行くと、なんとトレースがなくなっているではないか!!!! さてはあの学生連中め、途中でギブアップしたものと思える。ずいぶん生半可なアルバイトだ。最後までやりとおす一途な気持ちというよりは、ある程度苦しみも味わうが適当なところでやめて、次に目を移す、いわば山行は単なる遊びの一つに過ぎないのだ。こんなに早く下山して、またどこかの山に行くのかと聞いたら、いや、いろいろする事はあると笑っていた。当世学生気質である。 ザックをおろし、空身でラッセルする。50メートル位さきに津島様の祠があった。すると、胸突き八丁の頭までたいしたことはない。しばらくの辛抱である。ザックをとりに戻ると、またまた驚かされた。屈強の青年が一人身ごしらえをしているではないか! 助かった。二人でかわるがわるアルバイトすれば、かなり捗る。しかし、よもやこんな所で追い付かれるとは思いもよらなかった。トレースのある雪道を追ってきたからこそだろう。昨夜は内の萱のタクシーストップまでマイカーで来て、そこにテントを張ったという。

 かなりの急登で腰までつかりながらの雪との格闘が続く。先頭に立って雪を崩し踏み固めてのラッセルの交替を何度か重ねて、4時、とうとうピークに達することも出来ずテントを張ることにした。


12/30(SUN) 快晴
 素晴らしい天気。今朝はいつになく遅い出発で八時少し過ぎていた。青年は30分前に既に出発した後である。有り難く彼のトレースの跡を追う。昨日テント設営中、私より遅い出発では立場がないと言っていた。私も2日にわたるラッセルで少々疲れた。彼の好意に甘えることにしたのである。

 彼のつけたトレースをたどるとはいえ、たった一人の跡だ。容易には進まない。およそ一時間かかって待望の胸突き八丁の頭についた。登ってくる途中、右手に茶臼山が見えがくれしていたが、すぐ上が行者岩で、その先に茶臼山が続く。行ってみたい。けれども、この深い雪を蹴散らして進む時間も体力も余分にはない。残念だが先へ進むことにする。少し下ってまた少し登ると、そこは森林限界を抜け出した展望この上ない稜線上であった。前方に将棊頭山、そして馬の背の先に木曾駒ヶ岳が目にはいった。はるか遠く先に見える。今日中に、あの駒の山頂を踏めるだろうか。まだ疲労が抜けず、むしろ体力的には最低のどん底にあるようだ。けだるい無力感、脱力感に支配されている。それでも美しい白銀の山々を眺めていると、勇気がわいてくる。なによりも彼が待っていてくれたではないか。あれが御嶽山、あれが笠ケ岳、あれが浅間山ですね・・・。いつも一人の山岳展望が、今日はいつになくうれしい、苦しみを分かち合った友との会話のキャッチボール。

 アルプス三千メートルの稜線歩きは風こそ強いが、快晴の好日。岩稜歩きも楽しい。しばらくで将棊頭山頂上に到着。直下に西駒山荘が見える。冬季には部屋は一部解放されているのだろうか。新田次郎の「聖職の碑」を最近読んで、この辺は特になつかしい感じを持つエリアである。あの子達はどんな思いで死んでいったのか、そして私の甥っ子の少年時代の友達を含む、高校山岳部の遭難も未だ耳あたらしい。私たちは風を避けて岩の影に腰をおろして、それぞれの思いにふけった。

 この山頂からは大きく下降することなく、稜線漫歩がつづく。馬の背の手前で一休みした後、最後の頂上アタックである。後ろから一パーティが追い付いてきた。皆、腰にシットハーネスをつけ、肩にスリングをかけて厳重な装備である。

 風いよいよ強く時には吹き飛ばされそうになるが、ちょっとした岩の間を潜り抜けると山頂は目の前にあった。何年か前に千畳敷きから登った時、学生パーティがワカンをザックにくくりつけた物々しい格好で登ってきたのを見て、私もいつかは内の萱から縦走してきたいと思ったものだった。それが今日こうして現実となった。感慨無量である。

 千畳敷き方面から人々が次々と登ってくる。風が強く冷たいので、写真を撮ると直ぐに下ることにした。中岳を越えて、今宵の宿は宝剣山荘と決めた。



12/31(MON) 晴れ

 山荘の朝食を腹一杯詰めて、七時過ぎに宝剣に向けて出発。彼の青年も後からやってきた。私は暖かい山荘に泊まったが、彼は外にテントを張った。夜中相当、寒かったに違いない。背の重荷が多少心配ではあるが、三十分で難無く山頂に到着した。厳冬期二度目の山頂である。狭い岩の上に立ち上がって四方に万歳。眼下の千畳敷き山荘が、豆つぶのように見える。この宝剣の岩稜縦走はちょっと緊張した。両サイドが切れ落ちた痩せ尾根である。雪はあまり付いておらず、鎖も夏道と同じように露出していた。

 三の沢の分岐点に着いてホット一息。ここで桧尾根を下る青年と別れることになった。私の方は、三の沢岳往復は今回の目玉の一つである。十六時までに戻ることを絶対条件として、行ける所まで行ってみようと、敢然と一人向かった。片道三時間の往復六時間を頭に置いていた。今晩から天候が崩れる予報を昨夜から何度も聞いていたので、稜線上に一泊して、明日悪天の中を苦しむよりは、今日のうちに山行を完了させたいと考えていた。 三の沢岳は縦走路からはずれていることもあって、夏でも静かな山だという。しかし、ピラミダルで大きな山体は人の気をそらさない。まして白銀で化粧した美しい山をどうしてほおって置けよう。折しも先日の降雪以来、歩いた人もいないようだ。雪の肌に私だけの足跡を刻みつけるのだ。

 痩せ尾根をほぼ忠実にたどって、山頂に到着したのは、やはり三時間後であった。風はそれほど強くなく、まず快適に四方の景観を楽しんだ。雲が少し出てきている。サブザックの用意がなかったので、雨蓋をはずして使った。山の雑誌に書いてあったもので、これはうまい利用法である。ザックは途中にデポして、テルモス、食料、それにカメラを入れて軽い荷で往復することができた。特に緊張するような場所はなかった。

 縦走路に戻る少し手前の岩塊の一角に、五~六人用のテントが張られていた。明日やはり三の沢岳をやるものと見える。中から明るい笑い声がもれていた。縦走路では、空木岳の方からきたパーティ二組みとすれちがった。池山尾根を登ってきたのだそうだ。何年か前に死ぬほどの苦しみを味わった尾根である。今回も、苦しいラッセルを味わい、岩稜の通過に神経を使って、こうして無事目的を果たすことができた。この中央アルプスは歩くたびに色々教えられ、新たな自信を与えてくれる。

 極楽平から千畳敷きに下り、ロープウェイで山をおりた。千畳敷き山荘が生まれ変わって立派になったが、山小屋ではなくなって、高額の宿泊料を取るホテルになってしまったのは残念である。



恵那山、南木曽岳 1988年5月

5/20(金)四時二〇分津田沼始発。6時15分高尾発。途中上諏訪駅で時間調整がてら駅の温泉風呂に入る。畳ふたつ程の広さで湯温がちょっとぬるかった。ホームのすぐ脇にあって人が往来するので何となく落ち着かなくなる。

 塩尻から特急に乗る。中津川に着いたのは11時半だった。川上行きバスは一時間も待たないと来ない。仕方なくタクシーに乗ることにした。長い林道歩きを割愛出来て内心喜んだのは言うまでもない。黒井沢キャンプ場まで入ってもらった。かなり年配の人が下ってきたが、帰りのこのタクシーをつかまえる事だろう。

 歩き出したのが12時20分。かなり暑い。すぐに汗だくになる。沢くずれの工事現場を過ぎて尚行くと登山道入り口にやっと着いた。登山道は沢を渡って続いている。水をどこで補給するか考えながらゆっくりと進んで行く。新緑の中、沢音を聞きながらのゆるい登りである。

 一時ちょうどに休憩小屋に着く。中を覗くと立派な避難小屋で十分泊まれる。川上からの長い林道を歩いていたら、ここに泊ることになったことだろう。古い大木がそこかしこに残ってそれぞれに名札が掛かっている。いつしか急登となり更に沢ぞいの道をジグザグにあえいで二時に野熊の池に着いた。池の脇の冷たい湧水で乾きをいやし軽く食事をとる。 これより上はかなり笹が多くなってくる。しかし登山道はまずまず。さすがによく踏まれている。高度を上げてゆくと南アルプス南部の山並みが、依然として雪をかぶったまま浮かんで見えてきた。いったん鞍部に下り最後の登りが始まると原生林の中である。落ち着いた雰囲気でいかにも山奥に入った感じがする。残雪がだんだん多くなってきた。この時期はあまり多くの人が入山しないようで雪は踏み固められていない。ズボリとはまり込むと靴の中に雪が入り込んで不快である。

 何と素晴らしい水場があったではないか!! 冷たくて旨いこと!! こうなると野熊の池で補給してきた一リットルの水の何と重かったことよ!! 尚も残雪の中をトラバース気味に登ってゆくと待望の山頂小屋に着いた。真新しい木造の小屋で山の中ではもったいないくらいの御殿のようだ。時刻は四時二〇分、日の暮れるまではまだ余裕がある。山頂を往復することにした。恵那山山頂には一等三角点があった。樹林に囲まれ展望はないが少し先へ笹を別けてゆくとわずかに東側の見晴らしがよい。立派な祠に手を合わせて直ぐ戻ることにした。五時には小屋に上がりこんで、たった一人の満ち足りた宴会が始まる。

 夜中に目を覚ますと雨が降っていた。明日の天気は良くないらしい。


5/21(土)出発は6時20分。雨にぬれるというのではなく霧に濡れるといった感じで、それでもレインウェアを着て小屋の裏手から縦走路を進む。すぐに残雪が現れた。ルートが隠れてしまっている。これは困ったと一瞬緊張したが小さなブリキの看板とリボンを頼りに予定通り御坂峠に向かう。500メートルくらい下れば雪もなくなってこよう。もしルートファインドが難しければ往路を戻ればよい。

 ルートを探しながらの緊張が続き大判山を通過してホッとする。二つ目の“なぎ”を通り過ぎて今度は背の高い竹藪との闘いが始まる。しかし道ははっきりしており懸念していたルートファインディングに苦しむこともなかった。九時、鳥越峠着。依然として霧に濡れる。ローバーの靴の中は水が入り込んでジュクジュクしている。スパッツを持ってこなかった代償である。少し寒い。やはり冬用のシャツを着てくるべきだった。

 10時には御坂峠に着いた。既に車道上の峠である。登山道はこの先、所々車道を横断して続き、およそ一時間で強清水に到着した。きれいな水場でのどを潤す。更に車道を下り霧ケ原バス停を過ぎる頃には青い夏空が顔を出した。中切まで歩いてバスを待つ。

 南木曽駅に5時ちょっと前に着いて尾越行きのバスを待つ間、駅前のソバ屋に入る。老夫婦が歓待してくれた。良かったら上がってコタツに入れという。お言葉に甘えるとはこの事、茶の間で相撲を見ながらお茶をいただいた。おばあちゃんの世間ばなしをいつまでも聞いていたかったが、今晩の泊り場所を探さねばならない。名残惜しくもさよならしてバスに乗る。尾越から野宿先を求めての山里歩き。日は既に落ち、ポツリポツリと雨も落ちてきて少々暗くなると、さすがに焦ってきた。30分余り歩いてようやくキャンプ場に到着。テントを張り終わってゆっくりできたのが六時半。シーズン前の静かなキャンプ場に夜のとばりが降り始めていた。

 飯田から養子にきて静岡からきた婿の旦那と一緒になり、お爺さんが営々として築いた南木曽の宿屋を受け継いで現在に至ったという。その表情には人生を悔いなく生きて燃焼し得たやすらぎがあった。愛らしい顔だった。旦那は一言もなかったが平和な顔をしていた。小雨が間断なく降り林間の静かなキャンプ場に情緒を添える。次の機会には南木曽駅前のソバ屋の二階に泊ろう。そしてあのソバをもう一度食べよう。


5/22(日) 朝五時起床。雨具を着けて出発は七時。静かな山麓の林道を詰める。「登山道」「下山道」の標識のある分岐点に到着したのが七時四五分。登るにしたがってなかなかの険崖地を行くようになる。「のどの滝」は圧巻だった。頂上近くになると背丈のある竹藪に苦しめられる。九時四〇分、とうとう南木曽岳山頂に到着した。今回も相変わらずの孤独の山頂である。一休みして下る。晴れていればこの先の展望台からの眺めを期待できただろうに残念である。

 魔利支天への分岐で雨に打たれながら、きのう南木曽駅で買ったパンを食う。笹藪と樹林に囲まれて熊でも出そうな雰囲気である。かなり急な道を下って谷間の景観が開けて来ると、今回の山行も終わりに近くなる。恵那山、南木曽岳と二つの山を征服して満足感でいっぱいである。

 無事下山した後、一段とひどくなった雨の中、車道を延々妻籠まで歩き旧い宿場を訪ねた。さすがに観光客でいっぱいだった。





  • 「山一人旅」をすべて、拝見しました。
    私は登山は経験ありませんが、中学生の時に毎月愛読していた「アルプ」という創文社の雑誌を思い出しました。
    山ですれ違う人も、それぞれの人生を過ごして行くのでしょう。
    年取って、若い頃の思い出は、切なくて感傷的になりますね。「稲取便り」のサイトも毎日楽しみにしていますので、体調を整えて出来るだけ更新してください。 -- 岬石 (2017-02-19 18:56:29)
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最終更新:2017年02月19日 18:56