黒部五郎と笠ヶ岳


 朝仕事を終えると、すぐ上野発九時半の金沢行きに乗る。六時間近くかかって富山駅に着いた。電鉄富山線に乗って有峰口で降りる。雨である。タクシー代がどの程度かかるか駅員に聞いてみたら一万二千円もするという。それならばということで駅員の斡旋してくれた旅館に泊る事にした。五〇〇〇円なりで朝食なし。旅館なのにずいぶん貧弱な夕食だった。なんとカレーライスだけとは!! ただ、こちらは徹夜の仕事明けで長い時間電車内でも眠れず睡眠不足だったので、簡単に食事を済ませてすぐに寝るにはちょう度よかったかも知れない。朝おばさんにおにぎりを作ってもらい、旅館前でバスを止めて乗ったのが七時〇五分。折立着は八時〇〇分。無料休憩所では売店のお婆さんが周りをほうきで掃いていた。今朝はこのバスが一番の到着だそうだ。私を入れて総勢二十一名だった。8時10分出発 9時35分三角点着。

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 かなり苦しむと思ったが以外と早く三角点に到着した。ここまで来れば後は大したことはない。太郎平の辺りは青空だが薬師岳はガスで見えない。時々太陽が顔を出すとさすがに暑い。少し行くと期待したとおりニッコウキスゲのお花畑。振り返ると有峰湖がかすんで見える。イワイチョウ、チングルマ、コバイケイソウetc。森林限界を過ぎると小石の詰まった歩道をゆくことになる。コイワカガミが目につきだすと、やがて太郎平。時刻は十一時四〇分。小屋で缶ビール五〇〇円也と水を分けてもらう。若い元気な娘さんたちの笑顔の挨拶もきちんとしていて気持ちが良い。これから一夏アルバイトで過ごすそうだ。セキレイが二羽小屋前で遊んでいた。

 十二時二〇分小屋を出発。午後二時頃を予定していただけに、あとの行程がだいぶ楽になった。水を補給して少し重くなったザックを気にしながらも、のんびり行くことにする。北の俣岳の稜線に出ると薬師岳は依然雲の中だが、赤牛岳、水晶岳、鷲羽岳、三俣蓮華岳と懐かしい山々が現れた。目の前真ん中の小台地が雲の平だ。汗をかいた肌に快い風。多めの雲の間から青空があちこち顔を出す。まずまずの天気。昨日電鉄富山線の車内で三人連れの中年女性行楽客が“今日はたくさん降ってもいいから明日だけは晴れて!”と都合の良いことをいっていたが、立山に泊って早朝の青空の下、展開する大景観に満ぞくしたことだろう。今頃は黒部アルペンルートをケーブルカーに乗ってるかもしれない。

 岩に腰をおろして、つい時を過ごしてしまった。北の俣岳にはそれでも午後二時一八分に到着した。何の変哲もない山頂を下って一〇分位したところで、登山道のど真ん中にテントを張っているバカ者がいた。ポツリと雨が落ちてきたが大した事は無さそう。しかし先を急ぐ気持ちが少し強くなる。まもなく赤いヤッケにショートパンツ姿の単独行のおっさんがやって来た。ザックカバーも大きく万全である。重そうな三脚。今朝三俣蓮華を発ってきたという。時刻は三時半。小屋到着はどうみても六時半頃だ。そんなに遅い到着スケジュールで良いのか、少し心配になる。 急にガスが引いて青空が広がる。雲の平を見下ろして水晶、赤牛岳をその周りに見ながら、中俣乗越を過ぎた五郎の中腹辺りに平なスペースを幸運にも見付けてテントを張ることにした。五時を過ぎて酒盛りだ。幸せ!!



 翌朝四時四五分出発。深いガス。雨具を付けて登りにかかる。昨日は軽快だったのに今日は体が重い。やはり昨日無理しすぎたか? 食欲がないので朝飯を十分とることができなかった。それでも一時間苦しんでようやく待望の山頂に達した。もちろん視界ゼロ。小休して出発。黒部カールを下って行く途中雷鳥の親子に会った。ゾロゾロと雛が寄り添って続く。親子連れを見たのは初めての事で感激。そのうち子供達を先に行かせて親鳥が擬傷行為を始めた。羽をきちんとたたまず、みずから傷ついてビッコをひく真似をして相手の気を引き、その間に子供達を逃がそうという行為である。何とも涙ぐましく早々にその場を立ち去った。

 八時ちょっと前に黒部五郎小屋に着く。ビールを所望してから食欲の無いのをカバーできるメニューがないか尋ねると、若い娘さんが出てきて『それではお茶漬けを作ってあげましょう』と奥へ引っ込んだ。やがて出来上がったお茶漬けはワサビがきいてとてもおいしい。小屋の主人は三〇〇円でいいという。人なつこく親切な白ひげのおじさんである。昨夜この小屋に三名泊り、先ほどカールの下りで会ったのはその内の一人らしい。後の二人はまだ寝ているという。小屋の前はコバイケイソウが群落を成しており見事である。白ひげの小屋の主人は、昨日黒部源流を歩いてきたそうだ。そして今日は五郎山頂からカールを下るルートではなく、稜線上を南に行くルートを検分、補修に見回ってくると言っていた。

 小屋の横から三俣蓮華を目指す。稜線に出るとガスがスゥーッと引いて夏山が姿を現した。太郎から北の俣岳、そして黒部五郎の全姿。昨日隠れていた薬師岳が巨大な山容を見せている。その右に赤ザレが印象的な赤牛岳、そして水晶、鷲羽岳と続く景観を楽しんでいると、屈強のお兄さんが一人ザックの雨蓋にアイゼンをくくりつけ、手にピッケルを持って現れた。結構、さまになっている。扇沢から入山して針の木雪渓を登り、峠を越えて奥黒部ヒュッテに泊った後、黒部川上の廊下ぞいに高天ケ原まで来て温泉につかり、更に黒部源流を溯行して黒部五郎小屋にたどりついたと言う。途中相当のヤブコギを余儀無くされたようだ。あとで双六小屋脇のベンチで話しを聞いたが、大阪から来た既に四〇才を過ぎた好漢であった。

 ピッケル氏が先に発ってすぐに、もう一人の小屋に泊った娘さんが上がってきた。昨夜は小屋のオヤジさんが源流でとってきたイワナの骨酒をみんなで飲んだのだそうだ。つい飲み過ぎて薬までもらったと表情はいま一つさえない。中津川の某山岳会のメンバーだと言っていた。かなり山なれしている感じだ。

 三俣蓮華岳の山頂は懐かしかった。去年はガスで視界はまるっきり無かったが、今回は時々晴れてまずまずの展望。双六岳へは稜線沿いに進む。彼女はトラバース道を行くべく下りていった。お花畑が散在した楽しいルートである。ピッケル氏と私は前後して稜線を行く。このルートもなかなかお花が豊富である。笠ケ岳がほんのわずかの間姿を見せてくれたが、それっきりだった。南の方は雲が晴れない。しかし水晶岳や鷲羽岳はずっと道連れになってくれた。

 少し小屋の方へ下り過ぎたかなという所でピッケル氏と別れて双六岳へ向かう。ほんのわずかの踏跡をたどってやがて広大な稜線に出た。万一ガスにまかれた時の目印などを探しながら万全を期して頂上に向かう。山頂でまた雷鳥に会った。メス二羽とオス一羽。雲の平側にひらけた景観をしばらく楽しんで下山する。

 小屋の前の野外テーブルでは彼女が食事の用意をしていた。彼の方はそのベンチにゴロり横になっていた。ビールとラーメンを小屋に頼む。今日は持参した食料がなかなか減らない。彼女は自分でインスタントラーメンを作って食事を済ませると、笠ケ岳はあきらめて鏡平に下るといって出発していった。彼の方は今日は双六小屋泊りで明日笠ケ岳へ行くつもりらしい。テントを張って軽く食事を済ませるとシュラーフにもぐり込んだ。遅くなってから若い女の子が一人近くにテントを張り出した。最近は女子の単独行が多くなってきている。


 次の日は雨。出発は五時四五分。完全に雨だが、それでも視界はそんなに悪くない。ルートの確認はとれる。迷うことなく笠ケ岳に向かってGO。

 新穂高温泉から鏡平分岐までは去年登ってきた道である。この辺は高山植物がいっぱい。初めてミヤマダイモンジソウを見たのがこの場所だった。あの時の感激が忘れられない。分岐に咲き誇る花をめでた後、稜線をそのまま進む。雨の中、少しガスッているので緊張する。誰にも会うこともない。秩父平には八時ちょっと過ぎに着いた。しかし、どうも落ち着かない。食事もあまり進まない。とにかく今日の行程の半分は過ぎた。気を取り直して出発する。秩父平から異様な形をした岩稜を左に見ながら、急な雪渓を踏んで再び稜線に立った。

 稜線歩きは晴れていれば最高なのに残念である。所々で東側についたトラバース道を行くと、風が横なぐりで雨が頬を打つ。笠新道分岐に来て一瞬ドキリとした。ペンキマークのついた下りルートが雪壁でさえぎられている。しかも急傾斜の雪壁である。その下部はガスの為、どんな形状か皆目見当がつかない。この道は帰り道だ。明日ここまで戻ってここから下山するコースなのだ。

 そのうちガスが晴れて全体がはっきり見え出した。尾根の南面がカール状にえぐられて杓子平へと続いている。良く見ると下降点直下の雪壁の左隅にルートらしいのがある。ザックを置いて空身で探索してみた。そしてようやくなんとか下れそうだと分かって気持ちが落ち着いた。さあ、笠ケ岳山荘まではもう間もなくである。路傍の草花が急に優しく見えてきた。

 それから一時間ほどでテント場に着いた。十一時一〇分。山頂はもちろん山荘がどこにあるのか分からない。時間をかけてやっとテントサイトを見付け、テントを張り終えると岩ゴロを跳び伝って更に上部へ上がって行った。山荘はかなり上の方にあった。早速ラーメンを頼む。小屋のお兄さんが出てきて、わざわざストーブをこちらに寄せてくれた。今日初めての客だと言われた。野菜や色々な具がたくさん入ったうまいラーメンだった。おかげで持参のザックの中のラーメンが減らない。

 食べ終えると小雨の中を山頂に向かった。ほんの一五分位、岩くずの登山道を行くとケルンの立つ山頂である。例によって心の中で皆に感謝すると涙が出てきた。そして四囲に向かって万歳する。細長い山頂を往復してすぐに下山だ。雨が少し強くなってきた。ついでに小笠にも登ってからテント場に戻る。水場は雪渓の下すぐの所にあった。ポリタンに一杯詰めてテントに戻ると雨が更に強くなってきている。見るまにテントの下を小さな川となって流れ出した。急いでテントを安全な所に移す。濡れたズボンを脱いでオーバーパンツにはき換え、セーターを着てシュラーフにくるまった。一時間も横になっていたが雨はますます強くなる一方だ。明るい内に夕食を済ませることにして、酒を温め、ちびりちびり始める。シチューを温め終わった所で火を消した。風が強い、これ以上は危険である。 そのうちテントの入口の部分に水がたまりだした。手ぬぐいで水を含みとりテント外へ絞り出す。かいだし終わってやれやれと思っていると又すぐにたまりだした。これはたまらない、一晩じゅうこんな事をしてはいられないと、いろんな事を試している内に運良く雨が小降りになってくれた。今の内にと、オシッコに出たり水を絞り出したり息つく暇もない。去年双六小屋テント場で幕営した時も強い風で少し濡れたが、今回はかなりの豪雨だった。テントの水をかいだしていて、うっかりオーバーパンツまで濡らしてしまった。水濡れには十分な注意が必要で、その対策も考えておかねば大変なことになりかねない。今回シュラーフカバーはザックの軽量化のため持参しなかったのだが、やはり必要だ。そうでなかったら、表地にゴアテクスかエントラントを使ったシュラーフが欲しい。ラジオの予報は明日も雨で始まり、後曇りという。先程までの豪雨で登山道が荒れて通行が難しくなるような事があったら大変だ。そうならない事を祈って、まずは寝ることにした。


 朝テントをたたんで出発したのが七時。霧雨でもレインスーツは付けた。笠新道分岐まで来ると何故かホッとした。悪天の稜線歩きでは何が起こるか分からない気持ちが強かったのだろう。きのう確認しておいた雪壁のルートを慎重に降りて行く。カール内の下部の雪渓に降りてきてやっと安心。杓子平までは残雪の多いルートをゆくが、そこから尾根を越えて樹林帯に入ると完全に別世界となる。アルペンの世界ともお別れである。

 左股谷の車道が見え出して、それが手に届く所まで来ると適当な場所で休憩だ。ふと上を見るとカモシカがジッとこちらを見詰めているではないか!! 親子連れである。逃げ去ることもなく、そのうちそこへゴロリと横になった。危険でないと判断したのだろう。

 車道に出てから発電所の建物のわきでレインウェアを脱ぐ。散々五々登山者が行く。新穂高温泉では勿論湯につかった。実に五日ぶりである。なかなか清潔な大衆浴場で湯量もまずまず。売店の食堂で定食を頼む。一〇〇〇円也。冷えたビールをキュッとやるとほてった体にしみわたる。そしてタクシーをおごり松本駅まで一気に飛ばして一万円也。

















































最終更新:2013年09月03日 14:26