中央アルプス1

1 空木岳 北部縦走 吹雪きの中の山頂のビバーク  1988年2月
2 空木岳 南部縦走 快適な夏山縦走 1988年8月
3 空木岳 恐怖の一夜を明かした中央アルプスの山 1995年12月30日~1996年1月1日
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1 空木岳 北部縦走 吹雪きの中の山頂のビバーク  1988年2月
2/15(月)晴れ
10時30分分発あずさ15号で岡谷乗換え、駒ケ根14時20分着。夜勤を終えてそのまま東京駅から新宿まで。ザックは東京駅構内のコインロッカー内に預けておいた。長い電車とバスの旅で、今日の歩行はない。仕事が終わって即の山行は初めてのことで、こういう場合は一日を有効に使える。今後も機会がある事だろう。
 
駒ケ根の駅前でバスを待つ間、北と南にそびえる白い山並みを眺めてあきない。三年振りの景観である。北に千畳敷から宝剣、伊那前岳が懐かしい。南に仙丈、北岳、間の岳。駅前のガラス張りのビルにその白根が写る。まるで写真のよう。月曜日と言う事もあり、登山客は私一人。もったいなくも大型バスは私1人の貸切りである。途中で下山客数人を乗せた小型バスとスイッチ。しらび平まで来ると一面の銀世界。すぐに最終のケーブルカーに乗って千畳敷山荘へ。折り返しで山荘に残っていた一般客が降りてしまうと静かな山荘内に従業員2人と、一足先に着いたという定年を過ぎた登山客1名と私だけがとり残された。
 
一階大座敷に陣取り落着くと展望風呂へ。大きな湯船に一人つかる。南アルプスの展望が素晴らしい。風呂から出ると夕食の仕度ができていた。定年氏と2人で、山荘の浦野さんの差し入れの酒を汲みかわし楽しい食事。山荘内は常に暖かい。定年氏は昨年定年を迎え、今はボイラーの資格を反古にしてビルの清掃業務に就いているという。東京は田端にお住まいの西畑さん、何時でも気軽に休暇がとれるように、この仕事を選んだとのこと。その内、山荘の浦野さんと若い人のすすめで一緒に焼き肉までごちそうになった。その為酒のお替りを重ねる事になり、かなり酔っ払ってしまった。もう一度風呂に入って寝たのは12時近かったのではないか?朝6時に起きた時には、案の定、二日酔いで気持ちが悪くフラフラする。山に来て、しまったと思ったがすでに遅い。こんな体調で厳しい自然の中に入っていけるか?しかも単独で空木岳までの縦走である。遭難の典型的なパターンだとさえ思う。豪華な朝食も卵を割ったご飯だけやっと喉を通し、テルモスに熱いお茶を入れると当然の成り行きのように山荘を出て極楽平めざして歩き出した。時刻は8時半になっていた。風強く少し雪まじりである。木曾側は幾分雲が切れているが、伊那側はガスって視界がきかない。雲行きも早い。フラツク足取りを心して一歩一歩深い雪に足跡をつける。少しいっただけで呼吸は激しく心臓は高鳴り一体自分が何をしているのか判らなくなる位、気が遠くなるのを感ずる。斜面の中ほどまで来て勾配がいよいよ激しくなると、ようやく二日酔いの体中の汚れも汗となって出てしまったのか気も確かになり、それと同時に登行にリズムが出てきた。
 
カメラ器材を背にしたキャンパーが一人降りてきた。昨夜はどこかでキャンプしたようだ。九時五五分極楽平着。稜線に出るとさすがに風が強い。小雪はやんだようだ。岩影を選んでテルモスを取り出す。三の沢岳が全身を白くしてどっしりと構えている。難しい所は特に無さそうだ。何時かのんびりと往復してみたい。
 
岩と雪の尾根歩きは曇天でもある程度の景観を一人占めできる楽しいひとときであるが、3000メートル級の稜線に一人でいるという意識が働き緊張感が先に立ってしまう。目指す稜線上に空木岳、南駒ケ岳、右に遠く浮かぶ御嶽山、乗鞍岳などはいずれも私の未踏の山である。
 
11時45分、濁沢岳に着く。極楽平から何と二時間もかかってしまった。夏山なら一時間もあれば余裕もって着ける。しかし焦ってはいけない。遅くても確かな足取りで歩を進めよう。多分今日中に木曾殿越山荘までは無理だろう。桧尾避難小屋に泊ることになりそうだ。そうなると日程から、南駒は割愛せねばなるまい。
 
稜線漫歩といってもピークは大なり小なり幾つもあり、苦しい上下を繰り返さなければならない。しかも所々やせ尾根や岩稜があり雪庇にも気をつけなければならぬ。重荷の山行で度々深い雪に足を取られると大変に疲れる。やっとのことで桧尾岳に到着したのは一四時半だった。東方直下の小高い台地にポツンと避難小屋がたっている。既に今晩の宿泊地に決めていた。
小屋の周りは強風の為、雪は吹き飛ばされてあまり無かった。さて、小屋の戸を開けようとしてもなかなか開かないではないか! それでも辛抱強くガタガタさせてわずかに開いたところで中を覗くと沢山の雪が吹き込んで山のようになっていた。この分だと強風の寒い外でツェルトを張るしかないかなと思いながらも、やっと手が入る隙間ができると今度はピッケルを入れて中の雪を掃き出しにかかった。雪は戸のまわりだけで部屋の中は大丈夫、ツェルトを張れば暖かく快適に一夜を過ごせる。尚も三〇分も悪戦苦闘して30センチくらいに広げ、体をこじいれると今度は中からの雪かき作業は順調に進んだ。ツェルトの中に入ってホッとしたものだ。一リットル余りの水も山荘で補充してきた。水作りの手間はない。
 
2/17(水)
夕べおしっこで小屋の外に出てみると星が輝き駒ケ根の街の灯が美しくまたたいていた。朝起きてみると少し雲がかかっているがまずまずの天気。午前中は良い天気が続きそうだ。食事を済ませると七時には出発。すぐに桧尾岳に登り返し、さあ縦走の続きだ。近づくに従って空木岳も大きく迫ってくる。しかし、それよりも目前の熊沢岳が見た目より厳しい。かなり難しい所もあり、慎重にクリアしてようやく二時間で山頂に到着した。巨岩が立ち並ぶ頂上で風を避けてテルモスの熱い紅茶を飲む。南アルプスの連山がもう既に顔なじみとなった。右の方の南アルプス南部はいよいよ今年の夏に挑戦だ。木曾側は広い頂上を見せる御嶽山。この冬登れるか、ただし、スケジュールはまだ決めていない。そして、その奥には白山がやはり私を待っている。
 
空木岳手前のピーク東川岳には更に一時間で着いた。小休の後、木曾殿越へ下りる。急な斜面を山荘まで慎重に下りた。切れたった鞍部のわずかなスペースに立つ山荘の脇に冬季解放小屋があった。引き戸の下の部分が雪で埋まっている。30分位頑張れば中に入れよう。時刻は一時、さあどうしようか迷ったが結局、先へ進むことにした。夏だと一時間半のコースだ。急な坂をそれでも焦ることなく一歩一歩確実に登って行く。1時間も過ぎた頃、それまで時々薄日がさしていたのが、下からガスが湧いてだんだん上昇してきた。この分だと天候はくずれて荒れるかも知れないと考えてドキリとした。
 
上部の岩稜帯まで来てホッとしたところで、ルートが分からなくなってしまった。急な一枚岩をよじ登っては、これはおかしいと思って戻ったりウロウロ。少しく平静さを失ったところで、道を失った場所に何度目か戻って必死に目をこらす。時刻は既に3時半だ。木曾殿越から2時間半を経過している。意外に時間を食ってしまった。疲労感が襲う。だんだん闇がせまってきた。早くルートを見つけないと、ヘッドランプでの歩行となると極めて危険である。
 
豊富な雪で覆われた急なルンゼの向う側にわずかな赤印を発見したときには、思わず万歳したものだ。これで助かったと思った。ルンゼを慎重にトラバースしてその岩稜にとりつき、ルートであることを確認するとそこを越えて向う側に出た。いよいよ山頂かとおもったら、これは手前のピークで山頂は少し下った先にあった。もう3〇分は頑張らなければならないが、ここまでくればもう大丈夫である。難関は突破したのだ。それからは雪を伴って一段と強くなった風に抗して、ようやく待望久しい山頂に立った。既に4時になっていた。木曾殿越から実に3時間費したことになる。それ程までに苦しんで極めた山頂は展望は得られず、感激を充分味わう事なく直下の小屋に駆け下りた。
 
ホッとする間もなく今度は宿の確保だ。戸が開かないのではないかと一瞬不安がよぎる。小屋は谷側に入口があって強い風が吹きつけている。引き戸の足下は案じたとおり吹き溜まりとなっていた。溜め息をつきながらも気を取り直して雪をかきはじめた。きのうの桧尾避難小屋のように30分も頑張れば何とかなるだろうと思っていた。ところが外側のレールはきれいにクリアしたのにどうしても開かない。内部で凍結してしまっているのか、ほんのわずかの隙間でさえできない。あちこち叩いたりピッケルでこじ開けようとしたがダメだった。あげくの果ては大事なピッケルのシャフトの上部を折ってしまった。何とか使えそうなので胸をなでおろしたが、明日下山するのに大事なツールだ。「あなたは物を大事にしない人だ。」とかつて十文字小屋の管理人さんに言われた事を思い出す。あの時は大きな木の切り株を載せた背負板を無造作にかつぎあげようとして注意されたのだった。試しにかついでごらんと勧められてのことだった。
 
時間も迫ってきた。ついに諦めて小屋の脇にツェルトを張ることにした。強い風に何度も持っていかれそうになりながら、ようやく張り終わって中に入ると大きな溜め息をついた。標高2800メートルの高所で、薄いナイロン一枚の仮の宿である。風をもろに受けて朝までどうかと不安でいっぱいだったが、セーターもジャケットもある。羽毛のズボン下もある。その上シュラーフもあるではないか!! とにかく雪をビニール袋に詰めこんできて水つくりにかかった。ツェルトの中は吹き込んでくる雪で冷たいが、外の寒さとは比較にならない。靴は履いたままで爪先が冷たく感覚がなくなりそう。ようやくのことで熱いコーヒーを飲みカロリーメイトを食べてシュラーフの中に潜り込む。食べれば元気になるのに食欲がまったく無い。相当に疲れてしまった。暖かく快眠できる条件ではなく少し寒いが、死ぬことは無かろうとウトウトを続けてついに長い夜が明けた。
 
風は相変わらず強い。しかも曇天である。深いガスで視界もきかない。これは弱った。ルートが分かるか? さあ、大きな試金石を目前にしたのだ。それでもツェルトをたたんで出発するころには東の空が明るくなりだした。これは天気が回復する兆候だと合点して急に元気になる。山腹を適当に見当をつけて下り始めた。良く見るとルートらしい部分がある。ガスが少しずつ引いて尾根が見え出してくると、ようやく余裕が出始めた。巨岩の重なる駒石まで来ると空木岳避難小屋が丸山との間の空木平に建っているのが見える。恐らくだいぶ雪に埋もれている事だろう。テントを設営したらしい跡を過ぎて、木立ちの尾根道を行くようになると雪が深くなり出した。ここで始めてワカンを取り出す。前回山行の黒斑山でテスト済みだ。順調に歩を進める。高度を下げて行くと視界は少しは良くなってくる。時折日も差しはじめた。迷い尾根の頭で小休止。
 
迷い尾根の頭からちょっと行くと遭難碑が在り、そこからいよいよ難所にかかる。トラバース道が延々と続く行程が始まるのだ。急峻なガレの斜面のトラバースは滑落したらおしまいである。雪崩の危険もある。深い雪を一歩一歩、そしてピッケルを深く差し込んでバランスをとりながら進んで行く。疲れてくると山側の足を抜くのに苦労する。やっと一か所クリアして息をつくと、また更に深くなった雪の樹林帯を抜けた先に次のトラバースが待っている。ある時など余りにも苦しいので急傾斜を下っていったら、やはり谷で行き詰まってしまい登り返すのが大変だった。小地獄、大地獄まで来てやっとトラバースが終った事を知って、生きて帰れることに確信を持ち大きな喜びがわいてきた。一体どの位の時間を費したろうか? 一度ならず二度までもワカンやアイゼンを引っ掛けて転倒した。そのまま滑落したが、とっさにピッケルを強く打ち込んで事無きを得た。思い出すとゾッとする。トラバースの時などはその距離が一か所で10メートルから20メートルあり、渡り終えると肩で大きく呼吸したものだ。疲労は大きく、その後の樹林帯の歩行は危険こそないが、雪に足をとられて遅々として進まなかった。
小地獄、大地獄の難所は慎重にかかれば造作ない。そういった難所は去年暮れの甲斐駒黒戸尾根で経験しており、体力が必要な場合と比べて技術でカバーできる通過なのであれば願ってもないことだった。
 
難所を完全にクリアした事を知った時既に時刻は3時に近かった。予定どおり今日下山することは出来なくなった。マセナギの頭で緊張から解放されて残りのさめた紅茶を一飲みすると、崩壊地を右にみながら原生林の中を降りていった。そして池山に続く尾根の鞍部に適当な場所を見つけてツェルトを張った。少し雪が落ちてきたが風はない。立派なテント空間も設営することができた。中は広々として雪も舞い込んでこない。昨日に比べれば天国である。雪を溶かして水をつくるのも気持ちの上に余裕がある。シュラーフは濡れていたが、冷たくはない。今夜は十分に夢を結ぶことが出来る。
 
2/19(金)
美しい原生林の中で静かな朝を迎えた。家では心配しているだろう。今日こそ帰ることが出来る。麓には12時にはたどり着けるだろう。赤いリボンと立ち木につけた赤いペンキ標を追って、ようやく晴れ上がってきた中、尾根どおしに降りていく。雪が尽きるとヤブ漕ぎのおまけまでついた。林道に下り立ったのは、やはり12時だった。無事に下山できたことに神に感謝した。バス停までの道のりはかなり長かったが、苦にはならなかった。3000メートルの稜線を縦走できた満足感がいっぱいに広がり、まちがいなく又一皮むけた自分を見出だしていた。文字通り一度は通過しなければならない道だったのだ。
 
駒ケ根駅で家に電話したら涙声の由美子の声だった。胸が一杯になった。家に帰って風呂から出てくると、もう会社へ出ていかなければならない時間だった。
 

今回の装備品

 羽毛インナーパンツ、薄手のセーター、フリースジャケット
 替え下着・靴下、手拭、バンダナ、帽子(ウール)、マフラー、手袋(ゲーツ)、オーバーミトン、スパッツ、ゴアテクスウェア上下
 シュラーフ、テントシューズ、アイゼン、ピッケル、ワカン、ツェルトザック、ポール・ペグ・細引き、テントマット
ロールマット、ヘッドランプ、ラジオ、カメラ、レスキューシート、チリ紙、テルモス、ハミガキセット
ガスストーブ・カートリッジ 2ケ、コッヒェル・スプーンセット、ポリタン
 
 

2空木岳 南部縦走 快適な夏山縦走 1988年8月
 
あずさ一号の車窓から夏の強い日差しが入り込んで来ていた。塩尻で中央西線に乗り換える頃には今日の天気は上々と言えた。11時30分無人の倉本駅に着く。降りたのは村の人三人だけだった。まごまごしているうちに私一人だけ取り残されて、はるばると遠い知らない田舎にきた心細さが旅情をいやがうえにもつのらせる。いったんホームを降りてガードを右に回り込み反対側のホームに出る。そちら側が駅の表玄関になっており待合室には水道があった。先ずは塩尻駅で買った釜飯弁当で腹拵えだ。いつもそうだが、旅の始まりはわずかの不安と期待感とでワクワクする。落ち着いて食べれは良いのに、つい早食いになっていた。
 
11時50分出発。大洞、大久保、イザルボテ、笛掛、中土湯、そして中八丁と樹林の中を行く。暑い上に重荷を背負って随分しぼられた。途中水を補給しなかったため、中八丁の少し下にある清水にありついた時はようやく生き返った気になる。軽い心臓の動悸を覚えたのはオーバーヒートしたためか。スタート前にもう一度ガイドブックを読んで置くべきだったのだ。大洞清水がちょうど良い所にあったのに、このコースはどこにでも水場はあると決めてかかり、何の気もなく通り過ぎたのがまずかった。
 
林道に出るとまもなく伊奈谷避難小屋に着いた。小さな小屋の割にまずまずで、中はそれ程汚れてはいなかった。ツェルトを張る必要など全くない。雨が一日に一度は落ちてきそうな時期なので、小屋に泊れるのは有り難いことだ。到着は三時二〇分。水場は一〇メートル下の山側にあって少し細いが貴重である。ステテコ姿で水場を往復していると山猿にでもなった気分で一人苦笑してしまう。
 
 
快適な小屋の一夜だった。六時過ぎにはシュラーフにくるまりラジオを聞きながら眠る。丹沢の避難小屋に初めて泊って以来、無人の小屋泊りは数えきれない程経験しているのだが、今もって恐い思いは変わらない。ちょっとした物音に敏感で、つい身構えてしまう。酒を飲んでいても警戒心はなかなか解けない。不思議な事にテント泊りの場合は恐怖感は余り無く、ぐっすり眠れるわけではないが無人小屋の場合よりは睡眠の深さは在るようだ。 朝は四時前に起きる。窓ガラスがほんのり明るい。外に出て見ると月明りだった。朝食を済ませて外に出る。出発前に用足ししていると小型のライトバンが小屋の前で一時止まって、またすぐに車道を上がっていった。林業関係の人か? ずいぶん早いものだ。朝露の笹を分けて小屋前の急な登山道を行く。
 
薄く雲がかかるが上々の天気。朝の冷気がとても清々しい。幸せな気分になる時だ。一時間もして急な上りが終わると、左方に御嶽山が浮かんで見えた。この三月に登った懐かしい山である。雪深い御嶽山をたった一人、何であんなにまでして登ったのか自然と涙が出て仕方なかった。考えてみれば何時も単独行で“何であんなにまでして登ったのか”という山が沢山ある。これからも自問自答は続くだろう。
 
一時間半で北沢を渡る。小屋跡は見過ごしてしまった。ここから八合目までは感じの良いブナやツゲの林の中を行く。急登だが楽しい登りである。仙人の清水でのどを潤す。大変うまい。七合目で休んでいると高校生らしきお兄さんがジャージ姿で下りてきた。駆け下りてきたのだ。若い人が羨ましい。木曾福島から駒ヶ岳~木曾殿越しと縦走してきたとのこと。夏休み最後の日を充分楽しんだことだろう。
 
八合目に来ると苦しい登りも終り、木曾殿越し迄はゆったりとしたトラバース道を行く。途中御嶽山や乗鞍岳が遠望できる展望台を過ぎた所で、小屋のお爺さんが登山道を整備していた。崩壊した道に生木を渡して、それにナタメを入れていた。 木曾殿越しは東川岳と空木岳との鞍部にあり懸崖の場所である。そのわずかなスペースに小屋が建っている。10時ちょっと過ぎに着いた。おかみさんから缶ビールを買って飲む。11月3日まで営業しているそうだ。暫くお邪魔して10時45分出発。空木岳の懐かしい登りである。今年2月、迷いに迷った場所だ。しかし、夏道の経験があればあのように迷うことはなかったろう。右への例の巻き道はさすがに夏道ははっきりしていた。
 
なつかしの空木岳山頂には十二時ちょっと前に着いた。今回もガスが出ているが時々スウーッと晴れて、あの駒峰ヒュッテが姿を現した。あの時はルートが見つからず散々迷った後、やっとのことで山頂に着くとゆっくりする間もなく小屋に降りたのだった。雪まじりの風が木曾側から強く真横に吹き付けて山頂の感動を味わっている余裕もなかったし、相当疲れていたのでとにかく小屋の中に入って温かいものでも飲んで横になりたかった。ところが何とかんじんな小屋の戸が開かないという最悪の事態に遭遇したのである。
 
ガスが晴れると夏の烈しい太陽が照りつける。今日も誰もいない山頂の孤独を味わう。暫くして下におりてみた。戸はしかし簡単に開いた。中はきれいに掃除されている。ああ!この部屋の中でシュラーフにくるまって眠りたかったのだ。戸外に張ったツェルトの中はずいぶん辛く厳しいものだった。足の指が凍傷になりかけた程である。何回となく押し寄せては引いてゆくガスの中から池山尾根を目で追ってみる。長い尾根である。苦しい闘いは、この尾根を下る時もずっと続いたのだ。生きて帰る為の懸命な闘いだった。
 
12時45分、山頂に戻り今晩の宿をめざして縦走路を行く。南駒ヶ岳が目の前に大きい。避難小屋はその手前にある。少々疲れたが時刻も早い。ゆっくり行くことにしよう。さすがに午後になるとガスが多くなってきた。そして時々晴れて見通しが良くなると、夏の終りにアルプスを歩ける幸せを感じる。ハイ松と白砂、そして高山植物も一つ二つ遅咲きの花が慰めてくれる。
 
空木岳から五〇分程で赤椰岳に着く。打ち寄せてくるガスの合間に摺鉢窪避難小屋の赤い屋根が見えた。遠くに人の声。漸く展望を楽しんだ後下山を始める。南駒との鞍部まで行き、そこからカールへ下ってゆく。小屋はかなり大きく、中はきれいで立派だったが窓が一つもなく、ドアを閉めると昼間でも真っ暗になる。時刻は一四時半だった。小屋の裏側を踏跡をたどりわずかに下って行くと、なる程すごい崩壊だ。こんな状態なのに更にこの下ずっとまだ登山道が続いているのだろうか。
 
小屋に戻ってラーメンの夕食。
 
 
次の日は朝5時30分出発。昨日と同じような空模様。夜中外に出た時、月はおぼろに霞んでいた。今日は早くガスってくるかも知れない。
 
縦走路に登りかえして六時一七分待望の南駒ケ岳山頂に立った。東方は南アルプス連山のシルエット、西方は御嶽山がいよいよい大きく右へ乗鞍岳、そして笠ケ岳も見える。昨日赤椰岳下りで出会った三人連れパーティは今頃はどこを歩いているだろうか。駒峰ヒュッテ泊りなら空木岳山頂にいるだろう。木曾殿越し泊りなら東川岳で日の出を待っているに違いない。
 
山頂でだいぶ時を過ごした。6時45分出発。30分も歩くと仙崖嶺の全容が見え出した。さすがに厳しく屹立している。7時40分岩頭に立つ。伊那側から早くもガスが湧き上がってきた。先を急がねばならない。
 
8時47分越百山山頂に到着。御嶽山の上部は既に雲がかかって見えない。遠く穂高の山々はまだはっきりと識別できる。南アルプスは先ほどまで見えていた甲斐駒ヶ岳が雲の中に。仙丈、北岳、間の岳が今回縦走の最後の越百山までずっと付き合ってくれた。名残惜しいが縦走路からさよならしなければならない。
 
「浮き石に注意すれば大丈夫ですよ」と昨日木曾殿越しのおばさんが言っていた。与田切渓谷は要害懸路である。10分位で水場に着き水を補給する。有り難い。日は高く上がって暑い。雑木林の細い急な路を降りて行く。時に河原に下り、時にはるか下にそれを見下ろしたりして険しい山道が続く。三〇分で飛龍の滝の展望台に着いた。但しこれは自然の展望台である。一息入れるとこれから先はいよいよクサリとハシゴの難所である。
 
相生の滝、そして乙女の滝を通過し平坦な落葉松林にはいってようやく無事に切り抜けたことを知る。ナメ岩にしがみついたり、飛び石伝いに対岸へ渡ったりスリル満点であった。やがて登山口に下り立つと長い車道歩きが始まる。
 
七久保への車道に入って暫くの所で、蜂に後頭部を刺されたのにはまいった。生まれて初めて蜂に刺されたが、こんなに痛いものとは思わなかった。タンコブみたいにふくれてしまった。巣をいじったわけでなし、何だってこんな目に会わなければならないのだ!
 
千人塚キャンプ場を過ぎると街内をゆくようになり、七久保の駅はまぢかである。





3 空木岳 恐怖の一夜を明かした中央アルプスの山 1995年12月30日~1996年1月1日
冬の空木岳は数年前に千畳敷から縦走してひどい目にあった山である。夕闇が迫っている中で必死になってルート探しをした頂上手前の岩稜登行、頂上直下でのビバーク、下りで苦しんだ迷尾根の頭付近のラッセルなど思い出してもぞっとする山行であった。その空木岳に今回の年末年始登山の照準を当てた。千畳敷からの縦走ではなく池山尾根を往復して、あの迷尾根の頭付近の地獄の苦しみを今一度追体験してみようと考えたのである。今回は池山尾根にキャンプして、そこから頂上を往復する戦法を取った。軽装で行けるから余裕をもって難所を越えることが出来るだろう。

出発を30日の土曜日に決めたのは、他に入山する人がいるのではないかと期待したからである。中央アルプスと言えば「しらび平」からロープウェイを使って、短時間で登れる木曽駒ヶ岳に人気が集まる。山小屋も数日間は営業している。大ていの人はそちらへ行くだろう。まして其ほど人気があるとは思えない池山尾根の方は、30日より前に行けばトレースの期待は殆どなくなる。単独行でのラッセルの苦しさは例えようもない。一時間で百メートルも進めない苦しみは今回は避けようと思った。楽しいだけの山行にしたかった。

暮れの30日では電車は混む。そこで席がリザーブ出来る高速バスならと電話してみると、前日の申込みなのにあっさりOKがでた。新宿から駒ヶ根まで乗換なしでゆっくりできる。しかも料金はJRを使った場合より安く上がる。これ以上言うことはない。

新宿を朝7時10分に出発。駒ヶ根には11時過ぎ着。約4時間かかった。菅の台にはうまく市街バスが接続して丁度12時の到着だった。スキーのお兄さんと私の二人だけだった。小雪が舞って寒い。雪国に着いたという感懐があった。バスを降りた十字路にレストハウスがあったので先ずは腹拵えをすることにした。

依然として小雪の舞う中、坂道を歩きだしたのが12時40分だった。間もなくスキー場が現れる。登山口までは一寸迷ったが、そのスキー場を回り込んだ先に大きな看板が立っていた。これを登ってゆくと、駐車場を突っ切ってスキー場の左脇の林の中に登山道が続いていた。雪の上に二人分位の踏み跡がある。これは古い足跡ではない。今朝方歩いたばかりの跡だ。一人歩きにあれ程こだわっているくせに、こんな大して面白くもない尾根を他にも登る人がいたという事で、私は何となく嬉しくなってしまった。ここで、ヨシッと気合が入る。

久し振りに背負った重いザック。しかし、雪景色の中を歩く感触が何よりも素晴らしく、本格的な冬山は何時以来かなと考えるのも楽しい。去年はほぼ一年間ご無沙汰してた気がする。丹沢にばかり通いつめていたからだ。ああ、そうだ、三月に金峰山に登ったのが雪山らしい雪山と言えないこともない。あの時は少しはラッセルの真似事もできた。好天に恵まれて山頂も往復出来た。まずまずの山行だった。

スキー場から離れて高度が上がったと思ったら林道に出た。軽トラックが一台止めてあった。これは何かな? 地元の人が登りにきたのかな? こんな時期に仕事でもあるまいに・・・。登山道はすぐ前に繋がっていた。

ひとしきり又足跡を追って行くと、再び林道に出た。少し先に大きな観光用の看板が立っており、空木岳への道と周遊道路の道案内の矢印が書かれていた。ところがどう見ても両者は同じ方向を指差しているように見える。まことに曖昧な標識である。新しい2人分の足跡は手前の林道に続いており、大勢通ったと思われる古い足跡がその奥の尾根に登っていた。ここでどちらをとるかが問題だった。普通なら私はより困難でも近道をとることにやぶさかではない。しかし、この時はどういう訳か新しい足跡のある林道の、あとで分かったのだが、迂回コースの方を取った。尾根を行くコースが周遊道路ではないかと逆に考えてしまったのである。私の持っている地図も奥の方に周遊道路を描いていた。何よりも新しい足跡が味方のようにも思えたのだ。果たして長い林道歩きの末、その先は右に山腹に取りつき元に戻るかと思える程、少しだけ高度を上げただけの迂回コースであった。かなり時間をつぶして尾根道に合流したのであった。ここにきてザックの重みがいっそう肩にのしかかってきた。こんなはずではなかった。三時前には池山小屋に到着できるはずであった。三時を過ぎて未だ山腹を登っている。小屋はまだ遠くにあると予想された。少し焦りが出てくる。

ようやく山道は傾斜を緩めて山腹の左側を巻くように更に先へと続き、一つの山際の左に斜めの線が落ちて、その向こうに待望の小屋があると期待された。しかしそれをやっと越すとまた次の斜めの線がその先にあった。疲れを感じる時である。何度かそれを繰り返した後、前方に赤いものが動くのを見た。一瞬ビクっとしたが、すぐに安堵に変わる。とうとう先行の足跡の主に追いついたのである。そして、元気がまた出てきたところで今日の執着駅はもう間近だった。雪をかぶった小屋がようやく目の前にあった。

先客は若い夫婦だった。小屋の奥にテントを張りだした。私は入口に陣取ってフロアマットを広げた。早速、雪を取ってきて炊事にかかる。先客とは挨拶を交わしただけで話をする事もなかった。ただ、今日も寂しい夜を過ごさないですんだのは有りがたかった。

翌早朝、二人は軽装で五時に出て行った。ここから山頂を往復するらしい。十時間以上はかかるだろう。私には少し厳しすぎる。私は予定通り荷物を纏めて七時の出発である。雪の登山道は結構よく踏まれていて歩きやすい。幕営の跡を二箇所見てマセナギを通過し、稜線上の適当な場所にテントを張った。これ以上、上部では設営困難と判断したが、結果的にその通りだったことは翌日の往復で分かった。今日はわずか二時間のアルバイト。もう少し上まで登っておきたい所だが、途中に難所があるのでは仕方がない。難所は今回は軽装で通過すると決めているからだ。そのかわりテント場は充分時間をかけて整地し、なるべく快適なテントサイトになるようにした。

一所懸命雪を踏んで整地を続けていると、上から三人組が下りてきて遭難対策協議会のものだと名乗った上で、いろいろ質問してきた。私は入山届けを出していなかったので、警察署に郵送するという手もあるんですよと婉曲に注意された上、この場で書かされてしまった。私の不注意は自明のことなのでおとなしく、また有難くこれに従ったのであった。しかしそんなことよりは、ロープを持っていなければ迷い尾根の頭付近の通過はしないで欲しい、と言われたことには少々ショックであった。そこで私は、この尾根は二月の厳冬期に単独で縦走した経験があると言うと、今年は例年になく雪が多く極めて危険だとのことで、実際、彼自身もトラバース地点で雪崩に飛ばされ、ロープのお蔭で助かったと言う。別れ際に又中止するように念を押されたが私は生返事をしただけだった。

それから暫くして小屋に同宿した夫婦が下りてきた。さては途中で諦めたなと思って私の方から声をかけた。

「トラバース地点は悪かったですか?」
「いや、遭対協の人に脅かされて下りてきたんですよ」 

「やはりそうでしたか」
「おや、小屋で一緒だった方ですね」

やっと二人は気づいたようだった。連れ合いがじっとこちらを見る。フードをとった顔はなかなかの美人である。彼の方は口を尖らせて更に、

「雪崩に飛ばされたと言ってましたが、自分で滑ったんじゃないですかねえ。だからって人に、中止するように、だなんて横暴ですよ、ただ、女房がそんな事なら止めましょうよって、行く気をなくしたんで止めたんです」

いさぎよく止めたのはこの人たちの場合は正解だったかも知れない。10時間以上の登行では帰路に危険が多すぎる。私も明日の往復は中止したほうがいいだろうと思い始めていた。行ける所まで行って、これ以上は危険と判断したら引き返すことにしよう。

翌朝はそんな思惑もあって出発は8時になってしまった。山頂往復にしてはぎりぎりの時間である。実はそれだけではなく、昨夜大変な運命的な試練を受けたのが大きな理由なのだった。今日中にはどうしても家に帰りたいと思い始めていた。テントで夜を迎えるのが怖くなってしまったのだ。普通の感覚ではちょっと信じられない話である。

昨日は朝のうちは良い天気だったのが、午後になって風が出てきて雪も降りだした。そして深夜のことである。何時ものごとくウツラウツラの状態から目を覚まして、何気なく辺りを見渡したら真っ暗闇で何も見えない。普通なら幾ら暗くても雪明かりがテントを照らすものだ。それがまるっきりの暗闇で目を皿のようにしても何も見えない。シュラーフを蹴って立ち上がっても暗闇の世界は変わらない。私は言いようのない焦りをその時感じた。気が狂うのではないかとさえ思われた。あわててテントの入口を開け外を覗いて、暗黒の広がる中にぼんやりとした空の色を確認した時は、ああ見えた! これで気が狂うことはないだろうと本当にホッとしたのであった。雪は既に上がって風も幾分弱まっていた。ラジオも言っていたように、天気は今日午後には回復するのだろう。昨日あれほど余裕持って広く整地したテントスペースも、ふんわりと綿を被ったように形をなくしていた。

通気口を完全に塞いだままにして寝てしまい、妙な感覚で飛び起きた時に、気が狂ったのではないかと思った経験が一回ある。その時は吐き気がして、自分が今何を考えているのかという認識と確認がどうしてもできなかった。狭いテントの中にいることにどうにも耐えられない圧迫感を感じて外に出ると、暫くして落ちついたのであった。怖い経験だった。恐らく一酸化炭素中毒による幻覚症状だったかと思われる。夕食に酒を飲み、うっかり換気口を閉めたままで寝込んでしまったのがいけなかった。

雪山では水の調達は勿論、雪を融して作る。従って夏山縦走のように重い水タンクを背負わないで済む。ところが、その融かした水は大抵、松脂くさい味がして私はどうも苦手である。たまに草原上に幕営して何ら味も臭いもしない水にありつけることもあるが、稜線上ではヒノキやらトウヒやらの樹林帯の雪を解かすことになる。この松脂くさい味と共に幻覚症状の思い出が甦ってくる。ひょっとしたら、その水の中にアルコールと一緒になると幻覚作用を起こす物質が含まれているのではないだろうか?

自分が今何を考えているかという自己認識やその確認が出来ないという事、自分を自分として同一視出来ない、自己の中に自身のアイデンティティを認めることが出来ないという事、これは恐ろしいことで気違い同然である。その時以来、私は本当に気が狂ってしまうような、そんな幻覚が何時か又現れるのを心の底で恐れるようになった。そういう風に考えるのを極力抑えつけて、わざと意識しないようにしてきた。それがまた出たのである。恐ろしかった。今度は目が見えないという形で現れ、ここで初めて私は自分の目で形を見ることが出来ない暗黒の世界に住む人たちを思い、その不幸をはっきりと思い知らされたのであった。私に耐えられる世界ではなかった。

もうこのテントの中で夜を迎えることは出来ないと思った。今日にも家に帰ろうという気になっていた。そこでまたウトウトしながら山では遅すぎる朝を迎えてしまったのである。



昨日確認できたトレースの上を雪が覆って暫くは多少のラッセルが必要だったが、それも大したことはなく、やがてやせ尾根の大地獄小地獄に到着した。数年前にここを下った時は雪の中に壊れた木の梯子があったのを覚えている。それが立派な鉄管の梯子に変わっていた。ここは無難にクリアし、この先でいよいよ崩れた斜面のトラバースが始まるという地点でアイゼンを装着した。

昨日の雪が踏み跡を隠していても全体にそれと確認出来る形跡は残っており、ルートを探す心配は殆ど無い。やがて小さな崖が次々に現れ慎重にトラバースを終えると、上部に爪痕のような雪崩の跡がある急斜面のトラバース地点に到着した。遭対協の人がすべった場所に違いない。良く見るとここから上の方へ登っていった跡がある。雪崩を恐れるあまり、あんな上部から横断しようとしたらしい。どう見ても自然にできた雪崩ではない。急斜面の上部なので、足を踏み出せばあの辺の雪は表面が剥離して滑り落ちることは目に見えている。本物の雪崩だったら、この引っかいたような爪痕はもっと下の方まで残っているはずである。

通常のトラバースルートには通過した痕跡がわずかに残っていた。そこを慎重に一歩一歩確実に進んでゆく。昨日の雪がトレースを隠したと言っても30センチ程もぐり込むだけだ。あの時は腰までつかる程のラッセルだった。しかも重荷を背負っていたのだ。もぐり込んだ一歩の足を引き抜くのに大変な労力が必要だった。雪崩の怖さなど少しも感じなかった。そんなことはどうでもよく、ただ早く楽になりたかった。自棄になっていたのだと思う。足がもつれて転落した二度とも、その瞬間の怖さを感じることはなかった。この深い谷に落ちかかったというのに・・・。

あの時と比べると雪の量は少ないように思う。例年にない大雪だと遭対協の人もバスの運転手さんも言っていたが、案ずる程ではなかった。それでも慎重にトラバースを繰り返して、とうとう、迷い尾根の頭に立った。ここから派生している尾根の方角にはロープが張られて、入り込まないように配慮されていた。ここまで来れば確か悪い所は無い。難所はクリアしたと見て良い。あとは時間である。今日中に帰宅する為には十二時までに登頂しなければならない。時刻は9時半を過ぎていた。山頂までにあと4時間はかかるだろう。無理はしたくない。結局、ここではっきりと登頂を断念し、あと一時間だけ進んで引き返すことにした。

それから間もなく、上から3人パーティが下りてきた。昨夜は上の避難小屋に泊まったそうだ。他のパーティも何組かいて今朝縦走するべく木曾駒に向けて出発した組もあったという。元気にどんどん下りて行く。若い人がうらやましい。

樹林の中に山腹を左から右に巻きおわった見通しの良い場所があった。大きな岩がある。前方に仙崖嶺らしいのが見えた。ただし空木岳は見えない。此処まで来れば最後の稜線までほんのわずかで、高度差もあまりない。しかし、先ほど決めたように、ここで休憩をとってから引き返すことに決めた。昨日遭対協の人に会っていなければ、たとえ夜が怖くなったとしても予定通り山頂を往復して、もう一晩キャンプしただろうと思う。山頂の往復だけなら充分な時間があった。しかし、今の私にはもう、その気力はなかった。体力はまだ充分に残っていたけれども、既にこれ以上前へ進む気持ちは消え失せていた。それでも、遭対協の人の言う、悪い箇所は既にクリアしたのだ。中止はしたが、彼らの言いなりで終わった訳ではないという慰めはあった。

迷い尾根の頭まで戻ると二人連れが登ってきた。マセナギあたりにテントを張ったそうだ。七時に出たと言うから私のキャンプした位置は理想的だったようだ。彼らより一時間後に出て、しかも尚一時間あまり先行している。彼らを見送りながら、これから山頂まで行くのには少し時間が遅いような気がした。登頂出来たとしてもテントに帰り着く前に日が落ちるだろう。迷うことなく先へ進んでいったところを見ると、それも納得ずくなのかも知れない。しかし、私だったら絶対そのような事はしないだろう。冬であれ夏であれ、日が暮れても行動するなど考えたことはない。そんな遅くまで動き回っていれば疲労で注意力が散漫になる。ましてや暗い中での行動は危険が多いものだ。あらかじめ予想出来るそのようなマイナス要因は、私は出来るだけ排除する事にしている。ただ、そうまでしても結果的に、石橋を叩いた私の方が逆に危険にさらされる場合もある。例えば、長時間の歩行を避けるため頂上アタックを翌日にまわし、為に当日悪天の行動を余儀なくされると言うようなことがままある。冬の白峰三山を縦走した時がまさにそうだった。私の後からきた若いお兄さんが長時間の歩行に耐え抜き、更に上を目指して頑張るのを驚異の目と哀れみの目とで見送ったものだった。そして結果は、一日遅れの私の方が悪天の強烈なパンチを食らうことになってしまったのだ。

下山してきた3人の足と登ってきた2人の足が、雪崩と滑落の危険のあるトラバースを容易にしてくれていた。遭難対策協議会のあの人たちでも、もう何も言えない程危険ではなくなっていた。私の足取りは軽かった。それなりに雪山を楽しんだと思った。アイゼンを装着した場所に戻って来て、再びそこに腰を下ろしゆっくりとそれを外しに掛かった時、今回の年末年始山行もこれで終わったと思った。





  • 雪山はやった事はありませんが想像以上の寒さなんでしょうね。
    しかし、青空のもとの山頂から見る周囲の山は素敵なんだろうな~と思います。
    避難小屋の扉が開かないなんて考えたことがありませんが冬季の避難小屋はそんな心配があるんですね。
    桧尾避難小屋はよく使いました。inadaさん若いころは凄かったんですね。
    プリントアウトして寝る前読んでいます。
    いつまでもお元気で周辺の山並み歩いてください。
    今から、寸又峡へ行き明日早朝前黒法師、黒法師岳を登ってきます。 -- M (2016-12-09 17:15:37)
  • おや、南豆のMさんのコメントがありますね。東伊豆では、Mさんのサイトもロケハンの参考にしました。
    -- 岬石 (2017-02-18 20:12:33)
  • Mさん;総じて寒さを感じた記憶はありません。その代わり、下着や上着、ヤッケなどの準備には気を使いました。従って行動中は特にラッセルの時など汗びっしょりになるのが普通でした。
    私の場合、厳冬期の八ヶ岳が修業の場でした。薄いツェルト一枚で赤岳の稜線で吹雪に耐えた経験などでその後の雪山の恐怖を克服した思いがあります。


    岬石さん;いろいろコメントいただいていたのにご返事なくて申し訳ありませんでした。「伊豆稲取便り」のほうにしか顔が向いていなかったようです。それと、このサイトは中止になるという運営会社のメールを誤解していました。 -- inada (2022-04-16 22:02:35)
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最終更新:2022年04月16日 22:02