時計埋め込み2


時代区分の1.天動説をやる。

天動説で不思議なのは、北半球では東から昇り南中し西に沈む太陽。
北を背にした観察者にとって、左から右への動きと、上がって下がって。

それを地球を中心に太陽が廻る図を平面に描くと、

アナログ時計の12時を教室正面黒板の上方向。
6時を下方向に平面図を貼ると、

サイコロを積み重ねて5だけが見える方向。
つまり、教室の生徒になって、どの生徒達も、同じ方向から
黒板を見ている感じ。

席位置によって、方向が物理的に違うはずなのに、
まるで、黒板の大きさは変わらないのに、教壇から
ものすごーい生徒達の座席群が離れていて、
太陽からの光線が直線性を保っている、拡がらない感じ。

自分がどの席に座っているのかが問われないで、
黒板に垂直な視線。垂直な視線なんだけど、
黒板に下した垂線が、黒板全体面をただ1つの視線で直交してる感じ。

「1(自分)」対「多(黒板上格子点複数)」なのに1対1の対応のようであって、
「自分の席(複数席がある中の)を問わない」対「面の中に原点O選択」。


黒板に、昼間、太陽の動きを観察したときの見えを描いてみよう。
黒板が南にあるイメージ。

このとき、教室の席から黒板を見る視線方向と
太陽を観察した、北を背にした視線方向は重なる。

ところが、天動説の図を教室黒板に描くと、
本来、南中する太陽、斜めに昇って斜めに沈むを横だけの動きに絞って、
まるで、「かごめ、かごめ、うしろの正面だぁぁれ。」のようにした動きを
空高く、上から俯瞰して見ているようなのを、

自分の席から、正面に見ていることになる。


表現が整っていないので、もうちょっと整理すると、

日中、太陽の観察は、南を正面にする。
太陽の上下運動を無視すると、左から右への動き。

教室黒板にその様子をプロジェクターで投影すれば、
教室内の自分の席でリアルに太陽を観察してる感じ。

これを自分を中心に、太陽がかごめかごめをして、
「うしろの正面だぁぁれ」を俺に問うたなら、
それは真夜中の太陽位置になる。

ほんとは、3次元的に考えれば、後ろで、しかも斜め下。
それを平面にしているから、かごめかごめの質問者が俺の真後ろ。

この様子を空高く見れば、確かに俺の周りを太陽がぐるぐるしてる。
一つ目小僧の眼は、奥行きを認知しない。


教室黒板に描いた天動説図に注目すれば、それを見ているものは
その上空にいる。でも、説明を受けた生徒である俺は、変な感じ。

せめて、黒板を床に置いてくれないかな。
そうすれば、喉を縮めて、引いて、床を見下ろす感じがして、
わかる気がするのに。

ここまでは、回転運動を、立方体に投射した不具合感。
地球儀を平面地図にしたら、正方位地図とか正距地図とか、
なにかを正しく、なにかを誤魔化し。


アインシュタインの要請である光速度一定を導入してみよう。
だがその前に、もう一度夜空とプラネタリウム。

夜空を生身の眼で見る。オリオン座や北斗七星にカシオペア。
全天の星々を確認する為、見渡すとき、美術館のあまり大きくない絵を
見るときのように、眼球を動かして、絵内の注目部分を探るという動きをしない。

むしろ、首を動かし、体幹をねじって、さらには、足元で地転回して。
枠がないからだね。枠があるときは頭部を固定して眼球運動でさぼるときもある。

眼球運動でさぼってるときは、まるで、100メートル走者に並走してる
トロッコに載(の)ったカメラのよう。乗(の)ったという意識がないから、
眼球の回転運動を忘れて、左から右への直線性移動、対象の。
それだけに注意が行く。(遠い観客席にあるカメラ視点回転なしとの合成。)

で、話を戻して、

天動説のとき、惑星に対しては、周転円なんての使って、惑星の遡行を
巧い具合に表現しようとしてたりするけど、

星々への距離のこと、忘れてるよね。

これが地動説になると、星々の存在そのものを忘れてたりするんだけど。

太陽の周り、ぐるぐる。惑星が太陽からの距離も描かれながらぐるぐる。

プラネタリウムで北極星中心に回転に飲み込まれない、北極星周辺の見方。
見方ってのは、適当な範囲で回転しているんだと半径を仮設定するんだ。

うーん。表現がいま一歩。自分が回転してれば、無限性の平面が回転してる、
ように見える。と、思い込める。

でも、自分が動いてなくて、北極星の周辺の星々が廻っていると思うとき、
それはどこまでの範囲か、確認しなくてはならない。

でも、確認するには大きすぎるとき、視野の範囲を越(こ)えるとき、
その外側を忘却する。

地動説にはそんな欠陥があるんだ。と、ま、旨(うま)く説明できてないけど、
なんなく、あとでわかるように話を振ってから、

やっと、光速度一定。つまり、情報の摂取には経過時間がいる。
観察する行為、観察する主体、観察者のところまで、光子がやって来る。

これ、ホントはマズい表現なのかもしれないけど、取り敢えず、導入する。
ほんとのパラダイムシフトの前に、ローレンツの呪縛を解(ほど)いて、
電磁気学とニュートン力学を素直に繋げる必要があるからね。

2次元で考えるんではなくて、3次元そのままで考える。

まだ天動説の段階。天動説の段階を1人称の視点と呼称しよう。
地動説を2人称の視点。
ニュートンの万有引力を3人称の視点。

視点というかな、世界観。

これに5W1Hを付け加えて、規格化。


長くなってすまぬが、では、


半径30万キロメートルの球をイメージする。
プラネタリウムドーム半球。
地球を赤道で真っ二つにしたところが、プラネタリウムの床。

ところで、夜空を見る。星々の距離って、天文学者か、
天文学者から仕入れた知識にかぶれた、似非(えせ)詩人が、遥(はる)か
って、言ってるだけで、夜空を見上げて、星々への距離なんかわかるかい。

天動説前の人々も、天動説の人々も、星々までの距離を言及していないし、
太陽までの距離だって言及していない。

遠くは遠くだろうけど、どれくらい遠いということを考察はしていない。

俺等はすでに知識がある。オリオン座の三ツ星がそれぞれどれだけ地球から
離れているか。

それに、網膜に光子が当たって、電気信号に変換され。

それでも不思議である。夜空ってどれぐらいの高さにあるんだい。

3次元空間としての星々と地球の距離の話でも、
双眼鏡や望遠鏡や肉眼で集光した、いまここ0距離の話でもない。

天動説前の人々と同じように、夜空がドームのように見える、
そのドームの高さだよ。


夜空の星々は、俺からどれも等しく離れてるように見える。

俺は、これを想定平面(曲率のある)と呼称する。


洗面所の鏡で己の上半身を見てくれ。
鏡に写(うつ)った自分は、鏡の奥にいる。

この場合、実際の自分の立ち位置。
実際の鏡表面。
そして、鏡の奥の自分。ここが想定平面になる。

夜空の場合は、
実際の俺の立ち位置。
夜空。ここが想定平面。
夜空の向こう、3次元的空間に星々がある。

ちょっと考えれば怖いことに、地球は自転し、公転し、銀河中心をぐるぐる。
想定平面と呼称した夜空の向こう、延長した向こうには星々はない。

と、この恐怖はしばらく封印して。なにせ天文学をガタガタにするのは、
いまやることの趣旨じゃないから。

星々の光が到達するには経過時間がいる。だから、いま夜空に見える星々が、
いま3次元空間に同時に存在するかどうかわからないは、巷間(こうかん)に
広まってる知識。これを使わせて貰う。

点と空間媒体そのものの回転とか、そいうのは、取り敢えず無視。

一様(いちよう)、一応(いちおう)だったかな、前提条件。背景的なものは
説明した。

これからズバっとやるぜ。

イメージしてもらいたいのは、30センチ定規。
これを30万キロメートル定規にして、物理学の実験に耐えられる規格化。

日常の30センチ定規は両端も中央も同時に存在している。日常の感覚。
この日常の通常の感覚が、光速度一定で30万キロメートル毎秒で
使えるのかな。当然として。

そう、特殊相対性理論の問題は、そして電磁気学での問題は、
長さそのものが、いかなるものであるかを問い直さなければならない。

基準系だの慣性系だの関係ない。

そもそも、長さがなんであるか。それを物理学的に規格化シナオサナケレバ
ならない。

やっと、これで一番簡単な説明に入れるかな。

単刀直入に説明しても、背景がわからないと必要性に納得してもらえないと
思って。俺の方の不安解消に長らくおつきあいさせて、スマン。

では、本当にこれから図示して。長さを情報摂取してみよう。

その前にいきなりだが、円に内接する正六角形をイメージしといてくれ。

では、次のページに。

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Sun Jan 06 07:07:39 2013


最終更新:2013年01月06日 07:49