定山渓急行電鉄の沿革

定山渓急行電鉄の沿革


定山渓鉄道から定山渓急行電鉄へ

 定山渓鉄道が観光鉄道から都市高速鉄道への脱皮を図り始めたのは東急による
買収からおおよそ6年後の1965年頃とされている。
 このころ東急は札幌圏の人口拡大に伴い宅地開発に適し、北海道での田園都市の
開発に最適な札幌南部の石山や藤野といった土地を遊ばせ続けることを良しとせず、
東急や定鉄不動産部門の幹部が立ち上げた石山田園構想の開発のためにはまずは
観光私鉄然とした定鉄の体質そのものを改善すべきと判断した。
 この時分には東急でも北海道内の交通資本の買収は頓挫しており、通称札幌急行
電鉄と呼ばれる札幌~江別間を結ぶ路線プランも放棄されており、定山渓鉄道その
ものの存在すら疑問視する東急役員も多かったが、発展著しい札幌市においてこれ
ほどのダイヤの原石を捨てるのは勿体ないという意見も多く、東急やメインバンク
であった拓銀からの融資を元手に東急傘下参入時に目標として掲げた全線複線化工事
と線形改良、そして都市部区間での高速運転のための藤野までの高架化と新型車の
導入を1971年までに完成させると宣言。
 ちょうどこの頃札幌市では市電と市バスの乗客飽和による交通機関の麻痺を打開
するために大刀豊交通局長が筆頭となって地下鉄の建設を押し進め、1966年のIOC
総会にてオリンピックの札幌開催が決定するとその動きはより確実なものへと
変わっていき、1967年には地下鉄の敷設免許を得ることとなる。
 が、そこで札幌市は一つの条件を課された。
 当時の運輸省の担当官はそれまで札幌市営地下鉄が独自に試験を行い、推していた
ゴムタイヤ式地下鉄に批判的であったことや、まだ運輸省の大半の人間がゴムタイヤ
式地下鉄に懐疑的であったことから「鉄輪方式のみ」での建設という条件が課されたのだ。
 だがそれは地下鉄建設の財政不安を抱えた札幌市にとっても半ば光明であった。
五輪会場予定地の真駒内にはすでに定山渓鉄道の路線が走っており、その定鉄は1971
年までに複線化工事と豊平~真駒内間での高架工事を行うとしてすでに同区間での
工事を始めていた。ゴムタイヤ式では乗り入れ不能と判断された定鉄だが鉄輪方式
のみとなれば乗り入れはいくらでも可能であり、すなわち地下鉄の定鉄乗り入れを
行えば豊平川以南の区間の工事費は全額定鉄側に負担させることが可能となるのである。
 また定鉄側からしても札幌市中心部への乗り入れが現在の国鉄札幌駅への気動車
乗り入れより確実かつ簡便な直通運転に切り替わるのも好都合であり、むしろ石山
田園都市計画や藤野田園都市計画を進める上ではまさに天からの贈り物であった。
 なお、本来幌平橋~中の島間を経由して平岸に至るルートであった札幌市営地下鉄
は定鉄側の強い意向もあって市電豊平線のルートをたどり、豊平駅まで至るルートと
なった。
 かくして定鉄は札幌市営地下鉄開通直前の1971年8月にすべての複線化および高架
工事を終え、通勤通学ニーズにマッチした新性能電車を多数投入し旧態依然とした
旧型車を放逐、「定山渓急行電鉄」と社名を変更する。
 同年12月には五輪を一か月後に控えて開業した札幌市営地下鉄との相互乗り入れ
を果たし、翌年の五輪には観客の定山渓への乗客輸送に大車輪の活躍を行い、札幌
五輪の成功に一役買ったのは確実である。
 また同年から翌年冬にかけての都市部区間での大刀豊局長発案のスノーシェルター
や旧型電車改造の高速ロータリーブルーム除雪車の配備によって厳冬期においても
高い定時制運行を保っていたこと、通勤急行や温泉急行の設定や都心への直結という
アクセス性の良さが受けて田園石山や田園藤野の宅地分譲も進んだのである。この
二つの住宅街がのちの定鉄を支える柱となるのはこれを読む者ならばよく承知の通りであろう。

夕張鉄道買収と夕張線開業

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最終更新:2012年11月08日 20:08