デハ800形

デハ800形



製造初年 1956(昭和31)年
改造初年 1968(昭和43)年
製造メーカー 帝国車輌
ナニワ工機
車輌定員 96名
全長 12,480mm
全幅 2,469m
全高 3,800mm
車両重量 16.5t(冷房搭載後)
駆動方式 直角カルダン式
制御方式 抵抗制御(間接自動制御)
出力 30kw×4
台車 住友金属FS-252
在籍車輌 24両

 大阪市電3001形と2601形を譲渡・改造した姫澄市内線最大勢力の車両。
 昭和40年代、姫澄市内でも都市部から霧里・姫神などの郊外地区の人口増加が著しくなり、それにともなって
郊外線の需要も増加、またデハ700形の大量投入によって所謂『外堀の内側』の車輌が整備されたこともあって、
それまで姫澄市内線でも路線の重要度が低く長らく昭和初期の単車が闊歩するような状態で放置され続けていた
姫神線・霧里線への新車投入を図ることが決定された。
 だが姫神線・霧里線ともに当時はまだ単線路線であり、さらに霧里線は複雑な霧里海岸の地形に起因する
濃霧と云う複雑な路線環境を抱えていたため専用の車輌の投入を果たさなければならないという問題があった。
 当初姫澄系の幹部はデハ700形高性能車の増備を望んでいたのだが、当時姫澄電鉄は鉄道線の老朽設備改修
工事により財政が厳しく、新車の導入は拒否され、あえなく中古車の導入に落ち着くことになった。
 導入予定の中古車もすべての路線で使うことを前提としたため、あまり大型な車両を選ぶことも無く、いず
れも大都市で余剰気味となりつつあった小型から中型の車両を中心に選んでいた。
 当時は大都市では路面電車の廃止が進みつつあった頃であり、姫澄電鉄もこれに目をつけて経年の浅い戦後
製の中型車を大量購入することを検討していたのである。
 度重なる考察の末に1967(昭和42)年までに姫澄電鉄が選定したのは東京都電1000形、同じく東京都電の
3000形、名古屋市電1050形、大阪市電2601形、大阪市電3001形の五車種であった。
 とは言えこのうち前者三つはあくまで保険程度にしか考えられておらず、最初から本命は大阪市電の全鋼製
新型電車であった後者であった。
 当初は3001形と同様の走り装置を持っていたデハ700形高性能車に運転士と整備員が難渋していたのを考慮
して2601形を購入することを考えていたのだが、乗客からはデハ700形高性能車の評判は高く、また運転士の
側からも好評の声が聞こえるようになり、また価格的にも2601形と同程度でありながらより高性能であり、
デハ700形での整備・運用ノウハウもあったことから姫澄市内線は3001形の購入に踏み切ったのである。
 こうして1967年12月22日に11両の3001形が姫澄港に陸揚げされ、『大阪市からのクリスマスプレゼント』と
地元の新聞に銘打たれた車両は順次当時の南姫澄工場で姫澄市内線対応工事を受け、翌年の1968(昭和43)年
1月にはデハ800形として運行を開始した。

 主な改造点は燈火類の設置を中心に行われ、ワンマン運転用続行運転表示灯と保安用の霧中位置知らせ灯が
装備されており、ワンマン改造準備工事とZパンタ化工事、長軸車輪への交換による改軌も同時に行われた。
この霧中位置知らせ灯は霧の影響を受けにくい黄色の灯光が採用され、輝度を上げるためにシールドビーム化
がなされたのである。
 この霧中位置知らせ灯は大成功とは行かないまでも一定の成功を収め、その後の霧里線専用車に標準装備が
行われており、これ以降の車輌全てに取り付けが義務付けられた。

 デハ800形は中古車ながら姫澄市民からの好評を博したが、郊外線の需要には当初譲渡された11両のみでは
車両数が足りず、追加譲渡を行おうにも鹿児島市電への譲渡もあって既に姫澄市内線の望んだFS252台車を履
いた車両は存在しなかったのである。
 このため姫澄鉄道は思い切った行動に出たのである。
 それは、FS252台車をはじめとしたモハ2700形高性能車相当の機器類の計13両分にも及ぶ新規発注であった。
 姫澄市内線は大阪市電の廃止によって出回った3001形同様の車体を持ち、しかもより両数の多い2601形の車体
のみを購入し、それに新規製造した機器類を装備するという、車体更新の逆をやったのである。1973年発注の
812~824号の各車はこうして生まれたハイブリッド車なのだ。(ちなみに価格はデハ700形通常性能車の約5分
の3程度まで押さえ込んだというが、それでも譲渡車にしては高くついたようだ)

 こうして計24両の大所帯を築いたデハ800形は特に姫神線・霧里線を有する姫神車庫と赤沢車庫に集中配備
され、両線の開通当初からの生え抜き単車を駆逐した。カルダン駆動の高速性能に優れた足回りは特に専用
軌道の存在する霧里線では喜ばれ、赤沢車庫の完全カルダン化へのステップともなったのである。
 1971(昭和46)年には全車ワンマン改造が行われてこの時に側面方向幕の設置と行先表示幕の自動化改造が
実施され、1988(昭和63)年からは順次冷房化工事も実施されている。

 現在は全車庫に配備されているが、外堀の内側よりも郊外線を中心に使用されており、霧里線や姫神線では
現在も主力車両として使用され続けている。

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最終更新:2012年08月31日 13:21
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