デハ600形

デハ600形/モハ2600形



製造初年 1951(昭和26)年
製造メーカー 日本車輌製造
新木南車両
車輌定員 96名
全長 13,230mm
全幅 2,360m
全高 3,800mm
車両重量 16.4t
駆動方式 吊掛式
制御方式 抵抗制御(直接制御)
出力 製造当初は34.7kw×2
後に30kw×4
台車 扶桑金属ブリル76Eコピー
在籍車輌 7両
現在は全廃

 戦後、戦時中の酷使により使い物とならなくなった老朽車輌の置き換えと、戦後の復員や満州引揚者の移住に
よって増大した混雑が姫澄市内線に課せられた課題となった。そのために投入されたのが当車である。
 姫澄市は日本海側に存在した大規模都市の一つだったために満洲・朝鮮半島からの引揚の最前線基地となって
いたのだが、それらの引揚者のなかには既に内地における故郷を引き払った者も多く、そうした人々は姫澄から
東京や名古屋といった大都市部へと移住していく場合が多かったが、そのまま最初に内地の土を踏んだ姫澄市に
住み着いた人々も多く、そういった引揚者世帯の移住によって姫澄市は昭和20年代にベビーブームも相まって
過去例を見ないほどの人口増を記録した。
 彼ら引揚者世帯は所謂『外堀』内の旧市街ではなく、戦前には寺院の他は田園地帯が広がっていた『外堀』の
外に居を構え、当時増大していた姫澄港の荷揚げ作業や姫澄港付近の北陸製罐のスチール缶工場、深山町の工業
団地地帯に職を求めたのである。(余談だが昭和45年から昭和62年まで姫澄電鉄社長を務めた遠野肇氏も元は引
揚者で、南満州鉄道にも勤務経験があった)
 戦後に発生したこの『新市街』から彼らの職場、そして旧市街の繁華街への輸送に追われた姫澄電鉄だったが
当時収容力に優れた車両と言えば戦争直前に現在の京王電鉄から転入してきた木造ボギー電車のモハ2400形が4両
あるのみで、殆どの輸送力は収容力に著しく劣る単車によって担われていた。
 そのためラッシュ時間帯にもなれば乗客の殺到する外堀環状線や臨港線では単車が数珠繋ぎとなりながらまだ
乗客が乗り切らず遅延が多発すると云う状況が多発していたのである。
 さらに姫澄市内線の前身である姫澄市街軌道開業時からの木造単車郡の著しい老朽化と故障の多発も顕著と
なり、車両代替の必要性は誰の目から見ても明らかであった。そのため姫澄市内線は代替車両の発注を北陸鉄道
へと要求する。
 だが、設立からやっと十年を迎えるか否かの当時の北陸鉄道はまだ合併以前の各社の気風が根強く残っており
社内がひとつにまとまっていなかった上に、金沢・加南系の鉄道線の力が強く、これらの鉄道線の新車導入を
先決として鉄道線・軌道線ともに姫澄地域の新車計画は認められずに終わったのである。(とは云え、同時に
要求した路線修復工事はさすがに安全面にも関わるからか実施された)
 その間にも実情はさらに逼迫していくばかりで、それに業を煮やした旧姫澄市街軌道の藤村衛常務が音頭を取
って旧姫澄市街軌道関係者や姫澄市民からの寄付と云う形で新車購入資金を用意し、それにより混雑緩和のため
の新車を購入したのである。
 姫澄電鉄史の当時の関係者の弁によればこの新車購入寄付は建前で、実際には北陸鉄道に受け継がれず経営陣
が管理していた旧姫澄電気軌道の資本を投入したようであり、本当に寄付で購入したのは最後の7両目のみだった
らしい。
 しかしこれに腹を立てたのは北陸鉄道であり、姫澄鉄道のガソリンカー・戦災国電独断購入事件と併せて姫澄
系の独断行動に面子を潰されたとして金沢・浅野川地域出身の幹部をはじめとした他社幹部が姫澄地域の行動を
徹底的に攻撃する。だが元はと云えば新車を出し渋った北陸鉄道に原因があるとの声も上がり、結局この『新車
購入寄付事件』は加南系幹部の仲介を挟んで収束し、北陸鉄道も姫澄地域の車両整備を行なっていくのだが、こ
れ以来能登半島地域は北陸鉄道への不信感を示してゆき、1960(昭和35)年の姫澄電鉄独立へと至るのである。

 ともあれこうして1951(昭和26)年に登場したのがここで触れる姫澄初の鋼製ボギー車、モハ2600形だ。
 本車は少数導入が決定していたことから、限られた車両数においてやるべきことはまず何よりもラッシュ時の
積み残しと遅延の緩和とされ、そのため混雑緩和には大きな効果を上げるが旧市街の大半の路線への進入が不可
能な大柄な車体を有した車両として設計されたのである。
 戦前の名古屋市電の名車であるBLA(1200)形電車をモデルとしながら独自設計を取り入れた電車であり、ラ
ッシュ対策車として製造されたため全長は13.2mと大型で、構造も姫澄では初となる三扉車体となっており定員
数も96名(実際は100名以上の搭乗が可能だった)を数えている。車体の幅が大きく絞られた細面が特徴的だが、
これは姫澄市内線の建築限界ギリギリまで全長を伸ばした結果、曲線通過時に他の車両との接触を避けるための
対策だった。
 足回りにはまだまだメジャー所だった扶桑金属のブリル76E型のデッドコピー台車が用いられており、モーター
は36.8kwのもの2個を装備していた。しかしこの足回りは登場当初から力不足が問題視されており、特に冬期運用
においては重い姫澄の雪をかき分けての運行が行えず、完全にお荷物となる場面も多々あった。
 その一方で車内には電気暖房機を設置しており、大型車故のゆったりとした乗り心地も相まって運用上の問題
児として運用側から見れば頭を痛ませる車両だったが、乗客には大いに喜ばれた車両と評価がまっぷたつに別れ
る不思議な車両でもあった。

 モハ2600形は前述のように1951(昭和26)年にモハ2601~モハ2606の6両が日本車両に発注されており、翌年に
更に市民や関係者の寄付によってモハ2607が新木南車両に発注されて、前述のとおりに旧市街の半分以上の路線
に進入できない本車は幹線専用車として就役当初から専ら駅前線や外堀環状線、臨港線での運用に従事していた。
 特に臨港線と外堀環状線では朝夕ラッシュに際して3両のモハ2600形が数珠つなぎで工場労働者を輸送している
姿が姫澄市黄金時代の風景のひとつとして語られており、姫澄市内線を代表した一形式でもあった。
 1960(昭和35)年に姫澄電鉄が成立した際にデハ600形に改番され、その翌年には貧弱極まりないモーターの
改良・増設工事が順次行われ、これによって30kwモーター4基の足回りを有したのである。それでも自重が重い
ことや乗客定員の多さからダイヤを乱すのは今までどおりだったが、それでも遅延時間はぐっと短くなった。
 1965(昭和40)年には集電装置のビューゲルからZパンタグラフへの変更、ロックフェンダーの排障器化、木製
扉の金属製への交換、全面窓のHゴム化、方向幕大型化などの工事が実施されて、登場当初とは異なる趣を見せる
ようになる。1971(昭和46)年のワンマン化工事は全車に施行され、この時に後部扉は始発のみでの開放に限定
されるようになっている。
 廃車は1966(昭和41)年に万字橋停留所付近でダンプトラックと衝突し事故廃車された602が最初だが、本格的な
廃車は1978(昭和53)年、上小路線と青葉線が廃止された際に発生した車両余乗によるもので、より大型のデハ
750形やデハ1000形連結車の登場も遠因にあって601、603、605の3両が廃車。その後姫澄市の工業衰退も手伝って
1987年の車両整理に際して更に602と604が廃車される。
 最後に残った606と607はともに紙屋町車庫に配備され、1989(平成元)年には冷房化も行われたが、前述の通り
に冬期にはダイヤを乱すことが多い車両のために夏季のみ運行が行われ、それも予備車的な扱いで晩年は専ら
車庫に篭る事が多かった。
 そして2010(平成22年)年に超低床電車デハ2010形の2編成が就役したことによって全廃されている。この時は
曲がりなりにも姫澄市を代表した車両と云うことで大きな引退セレモニーが開かれ、地方紙を賑わせたことが
有名だ。

 最後に廃車された606、607は2両とも引き取られ、現在606は姫澄城址公園に保存。607は姫澄駅のカフェにて
屋外喫茶スペースとして再利用されている。

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最終更新:2012年09月26日 17:15
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