合肥の戦い

登録日:2010/01/21(木) 23:04:25
更新日:2024/02/09 Fri 18:11:01
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合肥の戦いとは、三国志において魏と呉が長江流域の覇権を争って幾度となく合肥及び濡須口にて争った戦である。

この項目では、特に激しかった212年から213年にかけての濡須口の戦いと、215年の合肥の戦いについて触れる。


212年濡須口の戦い


前年、西涼の馬超らを平らげた曹操孫権を討つべく南下。
関中をも平定した曹操は赤壁時よりも多くの兵を率いて呉に迫る。

開けて213年正月、曹操は濡須口に布陣。
孫権も自ら軍を率い当たるが、水軍を率いていた董襲・徐盛の船が暴風雨に晒され、
董襲は部下に下船を促されるも将軍としての職務を全うせんと船と運命を共にし、徐盛の船は曹操軍の真っ只中に放り出されてしまう。
だが、徐盛は怯むこと無く部下と共に船を下り、曹操軍を急襲。
共に打ち上げられた他の船の者達は恐怖に震えていたが、徐盛の勇気ある行動とその武に奮い立ち共に突撃し、見事に陣営を一つ潰して徐盛は悠々と帰還した。

思わぬ先制打を食らった曹操軍は夜間に中洲に上陸、攻撃の足掛かりとしようとしたが、孫権軍の襲撃に逢い撤退を余儀なくされる。

二度の打撃にすっかり曹操軍が意気消沈すると、若さ故に血気盛んな孫権は、軍楽を大きく鳴らしながらに自ら強硬偵察を強行。
更に甘寧に100人の兵を率いらせ、曹操軍の陣営を奇襲させ大混乱に陥れる。

結果、呂蒙の献策により呉軍が築いていた土塁に進軍を阻まれたこともあり、一月の対峙の後に曹操軍は撤退を余儀なくされる。
孫権の陣営が全く乱れて居ない様を見た曹操は「息子を持つなら孫権のような子が欲しい」と語ったという。


215年合肥城の戦い


この年、劉備陣営との荊州を巡っての係争が一段落ついたことにより後顧の憂いが無くなった孫権は、赤壁時より執着していた合肥に10万の大軍を進める。

対する合肥城内には、武将こそ張遼・楽進・李典と歴戦の名将が揃っていたが、兵は七千程しか居なかった。

張遼は敢えて800人の決死隊を募り、楽進に城の守りを任せ李典と共に突撃、敵の包囲が完成する前に出鼻を挫くことに決めたが、それには一つの問題があった。二人との仲の悪さである。
楽進とは兼ねてから折り合いが悪く他の幕僚が仲裁に入るほどであったし、李典には一族の長だった叔父を殺した呂布の一味として恨まれていた。
これほど仲が悪くては二人とも張遼の命に従わぬ可能性があったのだ。
しかし李典は「国家の大事において、私怨などにとらわれるものか!」と断言。楽進も李典の説得に応じて張遼との協調を約束した。
これにより張遼の決死の突撃は決定。出撃は明朝となり、彼に従う決死隊には牛が振る舞われた。

張遼が日が昇るのと共に自ら陣頭に立ち突撃を開始。
張遼らは孫権軍を蹴散らし、自ら兵数十と二名の将を叩き切り、孫権の旗本へ肉薄する。

孫権軍は陳武が戦死、徐盛が負傷し、一時牙旗を奪われるなど苦戦。
孫権自ら戟を振るい崖の上へ必死に逃走、孫権軍は大混乱に陥ってしまう。

だが、その大混乱が功を奏し、張遼は自ら孫権に近づいていることを理解はしていたが、どれが孫権か解らず、捕らえる絶好機を逃してしまう。

張遼が孫権が丘の上に避難したのを理解しては「下りて来て戦え!」と非難したが、
流石の孫権のそんなに強く無いのに最前線に出たがる癖も鳴りを潜め、張遼が寡兵であることをここで漸く理解、張遼を幾重にも包囲する。

張遼は左右を指差して側面から突破すると見せかけて、一気に中央から強硬突破。
脱出には成功するものの、張遼に従えたのはたった数十名のみであり、
残された兵の「将軍は我々を見捨てるのですか?」という声を聞いた張遼は自ら包囲網に再突撃、救出に成功する。

孫権軍の兵士はびびってしまいロクに張遼に攻撃出来ず、日中まで戦い続けてから撤退、張遼軍には殆ど被害が無かった。


完全にボッコボコにされた孫権軍。包囲には成功するが、堅城の合肥城をそんな状態で落とせる訳でも無く撤退を開始。

真っ先に撤退すればいいものを孫権はわざわざ殿軍に残り、
従う者は近衛兵千と甘寧・呂蒙・凌統・蒋欽と僅かな者だけであることを知った張遼は李典・楽進と共に再突撃。

またも張遼は孫権に肉薄、孫権は自ら弓を放って防戦することになる。

将が死に物狂いで防戦する最中、凌統が300の配下と共に包囲網に血路を開く。
孫権は橋まで逃げるも、既に橋は張遼らにより破壊されていた。
しかし、谷利が孫権の馬に鞭打つと、なんとか橋を跳び渡ることに成功する。

凌統は孫権脱出後も戻って奮戦。配下は全員死に、自らも傷を負いながらも鎧を来たまま泳いで脱出。
凌統の生還を聞いた孫権は歓喜したという。

張遼は後に降将を尋問、目撃した「赤髭で短足の騎射の上手い将軍」が孫権だと知ると、
「あれが孫権だとわかっていたら捕縛できたろうに」と楽進に漏らしたという。

この時の戦いは、唯一正史の記述が演義より凄まじいことになっている。
また、演義ではこの時の戦いで赤壁より前に病死したシギーが戦死している。

ただし正史=史実というわけではない。
正史はあくまで魏の正当性を謳ったものであり、イコールその内容が全て真実というものではない事だけは覚えておきたい。
もし正史の全てが史実だとしたら進化論を真っ向からぶった切るレベルの進化の跳躍をする事になる。


蒼天航路では212年の濡須口の戦いと215年の合肥の戦いが逆になっている。

ちなみに有名な「遼来々=張遼が来るぞ!」だが、実はこの台詞、吉川三国志の造語。
実際には「遼来遼来」だったそうな。

更に張遼のリアル三国無双っぷりで孫呉の兵どころか民衆までをも震撼させ、
子供に「泣き止まないと張遼が来るよ!」と言い聞かせる親が多かったとか。この逸話が「泣く子も黙る」の語源になったと言われている。


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最終更新:2024年02月09日 18:11