島津忠恒

登録日:2009/11/14 Sat 09:25:48
更新日:2024/03/24 Sun 14:16:10
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島津(しまづ)忠恒(ただつね)(1576~1638)は戦国時代の武将、大名である。別名家久だが、島津家には直近(叔父)に家久がいる為、この項目では忠恒で統一する。

島津義弘の三男として生まれる。バカ酷薄な性格で、家督を継ぐ予定がなかった。だが伯父で当時の島津家当主だった義久は息子がおらず、
義弘の長男は早世し、家督を継ぐ予定だった次男の久保も文禄の役の時に21歳の若さで病死してしまう。さらに豊臣秀吉が後継に口を出してきたために、元兄嫁な亀寿姫との結婚が決まり島津家家督を継ぐのが決まった。

家督を相続するまでは蹴鞠と酒の駄目男だったが、腐っても戦闘マシーンの血を引いていたらしく慶長の役での泗川の戦いでは父義弘と七千の兵で明軍数万を破る活躍を見せ、忠恒本人も負傷しながら七人斬っている。


正室・亀寿は島津義久の娘…つまり従姉妹である。従姉妹である。要するに忠恒は婿養子でもあった。しかし亀寿との仲は最悪で子供が出来ず、養子に徳川秀忠の息子を迎えようとした程。(この時は伯父・義久に止められた)。ただしこの養子の件の本当の目的は、

忠恒 「妻と子供が出来ないから養子欲しいです(泣)」
幕府 「まだ若いんだから側室もてばいいじゃん」
忠恒 「その言葉を待っていた(ニヤリ)」

という言質をとるのが目的だったらしい。元々島津家は一夫一妻の傾向が強く、おまけに彼が婿養子ゆえ側室を持ちたくても持ちにくい立場だった。

さすがに義久の存命中はそこそこ抑えていたが、その伯父の死後は当て付けのように亀寿を他の城に別居させて8人もの側室を囲い込み、33人の子供を産ませている。
しまいには別居先への仕送りをやめたため亀寿は困窮して、蝋燭を買うのもままならない貧乏生活を送った。
ただし、次代藩主光久の生母(薩州家島津忠清女)は伯父義久の曾孫であり亀寿の姉の孫にあたる。
秀吉の九州征伐の頃から島津家内部では義久閥と義弘閥の争いがあり、義久系統を無視することは不可能だった。

亀寿が亡くなった際に

「あたし世の 雲かくれ行 神無月 しくるる袖の つはりもかな」
(意訳:はかない世の中よ、亀寿はこの10月に亡くなってしまった。涙で袖が濡れるほどか、といわれるとそこまでではないけどね

という和歌を送る追い打ちまで掛ける始末。(もっとも、こちらに関して言えば「もがな」が「もかな」と濁点が抜けてしまっており、実際は「涙で袖が濡れるほど悲しい。亀寿姫が死んだことが嘘であって欲しい」という意味ではないかという推測もある)
だが亀寿も島津の女。やられっぱなしではなく、父から譲り受けた島津家の家宝が忠恒の手に渡らぬよう懇願しながら病死した。
亀寿死後も亀寿の墓を立てないでほっといたままであった(今現在の亀寿の墓は亀寿の祟りを恐れた光久が建てたものである)。


関ヶ原前に豊臣家に接近した筆頭家老の伊集院忠棟を誅殺し、これが後の島津家最大の内乱である庄内の乱のきっかけとなった。
庄内の乱を起こした伊集院忠棟の息子伊集院忠真とは一旦は和解したが、狩りの最中に供の者もろとも射殺忠真の母と弟三人も殺害される。忠真は忠恒の妹の御下の婿で、義兄弟の上朝鮮の役でも共に闘った仲でもあったが、この容赦のなさである。
また、1609年の琉球征服にも関与し奄美諸島をゲット、「琉球国」が明治時代「沖縄県」になるきっかけを作った。

ちなみに参加してないのに大坂の陣における真田幸村の有名な「真田日本一の(つわもの)」という言葉を手紙に残したのはコイツとされる。

島津義久の後を継ぎ、第2代薩摩藩主となった後は城下町・港の整備を行なったり、鶴丸城(のちの鹿児島城)を築いた。ただしこの鶴丸城は義弘に建造を反対されるくらい防御に難があり、
幕末の薩英戦争時には海岸に近すぎた為イギリス軍艦から砲撃を打ち込まれるなどの脅威に晒され、籠るはずの城から逃げる羽目になった。



いきなり家臣の剣豪同士を立ち合わせる、お抱えの方が負けるとキレていきなり切り掛かる(勿論忠恒が負けました)、文化財を破壊する、妻に対する冷遇っぷりなどの破天荒な振舞いが多く、
鬼島津、名将と呼ばれた父親・義弘とのあまりのギャップから、「戦国ちょっといい話・悪い話スレ」でDQN四天王に選出される。
4人の中では一番ネームバリューが低いように見えるが、伊達政宗と共に日本史の教科書に登場する。「家久(悪)」もこのスレで生まれた呼称である。



ただ、これだけははっきりとさせておく。

島津に暗君無し。

暗君無し。(死時に殉死者がでてるしなんだかんだで愛されていたのかもしれない)


彼を扱った作品
●ゲーム
「信長の野望」
「太閤立志伝」
「戦国大戦」:妻の亀寿姫の方が先に登場した。自分もその後登場したがレアリティで負けていた。イラストはイケメンだが大抵完全に狂ったような姿でしか書かれてなかった。
●漫画
風雲児たち」:島津「家久」として登場。DQN話や妻・伯父達がまったく出てこないため父のやらかした「島津の退き口」の後始末や琉球征服など真面目(?)に藩主として奔走する様子が描かれ、そのギャグ的な顔と髭は一部子孫に受け継がれた。




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最終更新:2024年03月24日 14:16