カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー

登録日:2010/03/12 (金) 00:51:
更新日:2024/01/13 Sat 11:06:48
所要時間:約 3 分で読めます




カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー(1786年11月18日 - 1826年6月5日)とは、ドイツの作曲家・指揮者・ピアニスト。


名前はドイツ読み以外にウェーバーとも。


ドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成させ、ワーグナーに影響を与えた作曲家として名高い。
また、オーケストラの編成を現在に近い形に直し、指揮棒を初めて使った人物としても知られる。


生涯
1786年、ドイツのオイティンに生まれた。小児麻痺で、片足が不自由だったといわれる。

父方の従姉はモーツァルトの妻・コンスタンツェだった。そのため、父親はヴェーバーをモーツァルトのような音楽家に育てたかったらしく、
劇団を結成してヴェーバーと共にドイツ・オーストリア全土を旅する。これは、モーツァルトの生い立ちと酷似する。

しかしヴェーバー少年、そんな父親の元ではモーツァルトのような神童にはならなかった。

9歳になってやっと正式な音楽教育を受け、1798年に初のオペラ「愛と酒の力」を作曲する。

1804年、ヴロツワフの歌劇場の指揮者となるが、父親の投機的な性格と自身の理想主義が災いして2年で辞める。しかも硝酸を誤飲してしまい、声を失う。

1813年にはプラハ歌劇場の芸術監督に就任、1817年にはザクセンの宮廷楽長に任命される。
当時の宮廷はイタリア・オペラが主流だったが、ヴェーバーはあえてドイツ・オペラを演奏しまくる。
結果、それは成功してヴェーバーの名を世に広めた。また、ピアニストとしても地位を確立する。

1821年、ベルリンにてオペラ「魔弾の射手」を初演すると大反響を呼び、ワーグナーやベルリオーズが作曲家を目指すきっかけとなる。

1826年、ロンドンのコヴェント・ガーデン歌劇場から英語のオペラの作曲を依頼される。ヴェーバーは結核を患っていたが、家族を養う為に渡英して初演する。
初演は大成功したが病状は悪化、6月5日にロンドンにて客死する。

家族には病を隠していた。


作品
11歳で初めてのオペラを作曲し、「魔弾の射手」や「オベロン」などのオペラほか、「舞踏への勧誘」などの器楽曲も残す。

【魔弾の射手】
ドイツ民話を題材とし、射手の意のままに命中する魔弾(7発中1発は悪魔の望む場所に命中する)と、
結婚前の若い猟師・マックスを主人公とするドイツオペラの傑作。
ナチスは国民的オペラである本作を頻繁に上演した。


その他
平野耕太の漫画「HELLSING」に登場する主人公に銃姦された女吸血鬼は、その能力から「魔弾の射手」と呼ばれる。
彼女は劇中、「魔弾の射手」の狩人の合唱を歌っている。


追記&編集お願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 音楽
  • クラシック音楽
  • 魔弾の射手
  • 美声
  • ドイツ
  • 作曲家
  • 音楽家
  • 指揮者
  • ピアニスト
  • ヴェーバー
  • ウェーバー

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年01月13日 11:06