エルヴィン・ロンメル

登録日:2010/05/15(土) 17:57:33
更新日:2023/09/23 Sat 19:11:42
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■概要

エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(Erwin Johannes Eugen Rommel 1891~1944)はドイツ陸軍の軍人で、
第二次世界大戦におけるフランス、北アフリカにおける驚異的な活躍で砂漠の狐として知られる。

アフリカ戦線において、巧みな戦略・戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、英首相チャーチルに「ナポレオン以来の戦術家」とまで評された。
その手腕、英雄的な活躍からプロイセン貴族の独壇場であったドイツ国防軍において中産階級出身者初の陸軍元帥で、最年少の装甲師団元帥でもある。

数々の戦功だけでなく、騎士道精神に溢れた行動や国防軍であった事などから、当時のみならず現在でも各国での評価・人気が高い将帥のひとり。
かのチャーチルをして「敵の指揮官ロンメルは、きわめて勇敢な、きわめて巧みな敵将だ。戦争という行為は別として、偉大な人物だ。…悔しいが!」と言わしめた。


■生い立ち

エルヴィン・ロンメルは1891年にドイツ帝国南部のヴュルテンベルク王国*1(今のバーデン・ヴュルテンベルク州)、ウルム郊外に生まれる。
父も祖父も数学教師という中産階級の家系であり、若き日のロンメルは航空機に熱中するも、父の意向で陸軍へと入隊する。


■第一次世界大戦から第二次世界大戦まで

第一次世界大戦において、ロンメル少尉はまず歩兵部隊の士官として西部戦線に従軍し、次に山岳歩兵部隊を率いてルーマニア戦線、イタリア戦線に赴く。
カポレットの戦いなどによって一級および二級鉄十字章、最高位のプール・ル・メリット勲章を受章した。
1915年に中尉に昇進したロンメルは1918年の終戦後もドイツ軍に残留し、ドレスデン歩兵学校(1929年-1933年)、ポツダム歩兵学校(1935年-1938年)の教官を務めた。

1937年には第一次大戦の回想録「歩兵は攻撃する」を出版。この本は50万部売り上げるベストセラーとなり、本書を絶賛した人物の中には、既にドイツ国総統の地位にあったアドルフ・ヒトラーもいた。
記録によれば既に何度かロンメルと会っているヒトラーであったが、彼がロンメルを本格的に評価、寵愛するようになるのはここからとみられる。

その後1938年に大佐に昇進すると、マリア・テレジア女王の名を冠する陸軍士官学校校長に任命された。
1939年にはチェコ併合やメーメル返還での総統警護大隊の指揮官に任命された後、常設の護衛部隊である「総統大本営管理部長」に任命。前線近くに停められた総統専用列車「アメリカ」の警備にあたった。
これらの働きによってロンメルはポーランド侵攻前の8月1日に遡及し少将に昇進した。


■フランス戦

ポーランド戦が終わりフランス侵攻が噂されるようになると、ロンメルもまた前線勤務を志願。
最初は第一次大戦に引き続いて山岳歩兵部隊の指揮官のポストを提示されるも、ロンメルはヒトラーに「戦車の指揮がしたい」とゴネて申し出て、
フランス侵攻当時、たった10個しかなかった戦車師団の一つ、第七装甲師団の師団長に任命される。

ここでロンメルは猪突猛進っぷり勇猛な突撃精神を発揮。
ベルギーとの国境であるムース川を渡る際には不足した資材をお隣の第五戦車師団からパクったり必要性に応じて借りたり、
ドイツ軍上層部やヒトラーが戦車師団の快進撃っぷりに「あれこれ深入りしすぎて分断されんじゃね」とビビって出した進撃停止命令を無視したり現場の判断で聞いていなかったことにしたり*2しつつ、
Ⅲ号指揮戦車に乗り込み第七装甲師団の先鋒とともに敵を蹴散らし始め、その進撃に連合軍は第七装甲師団をいつの間にか防衛線をすり抜ける「幽霊師団」と呼んで恐れることとなる。
なお上官*3で、この後も勇名を馳せる名将ヘルマン・ホトは借りパクを嗜めたら逆に噛みつかれたり、失踪に振り回されたりと散々な目に遭った。

しかしあんまりにも突っ走りすぎたんで先鋒部隊の弾薬は枯渇。
偶然出会った戦意喪失済みのフランス軍兵士を武装解除した後、「お前ら自分で勝手に捕虜収容所に行け」と命じたり
30km後方にいた師団主力部隊で「全然連絡取れないしこりゃ死んだな」と判断されたりと笑えない事態も起きて渋々進撃停止命令に従うこととなる。

そんなこともありつつも、マンシュタインの思惑通りにドイツ軍は連合軍主力*4を包囲することに成功する。
が、言うまでもなく連合軍は包囲網からの突破を試みる。その結果、戦車部隊が進撃停止命令解除後も「ガンガンいこうぜ」とやっぱり突っ走り、方向転換中だった第七装甲師団のガラ空きな横合いをイギリス軍がブン殴ることとなる。
折悪くというか案の定というか、ブン殴られた師団指揮下の歩兵部隊は例によってロンメルとは音信不通。
同行していた武装親衛隊所属の自動車化連隊「髑髏」*5は手持ちの3.7cm対戦車砲が効かないイギリスのマチルダ戦車にビビって逃げ出す始末。
しかし、異変を聞きつけたロンメルが急行、陣地を立て直し、8.8cm対空砲の水平射撃でマチルダを吹き飛ばし、どうにか事態の立て直しに成功する。
(アラスの戦い)

……しかしこの戦いの余波は大きく、イギリス軍は包囲された部隊をごっそりイギリス本国へと脱出させることを決断。
そしてこの戦いにショックを受けたヒトラーとドイツ軍上層部は包囲した敵部隊を叩き潰すことを躊躇い、その結果、装備を捨てた34万もの連合軍将兵がイギリスへの退却に成功する。
(もしこのとき包囲した部隊を叩き潰すことが出来ていたら、イギリスは欧州派遣軍の殆どを失うことになり、ドイツはイギリス上陸作戦を成功させていたかもしれない

■砂漠の狐

1940年末。枢軸国・イタリアがアフリカで大敗を喫する。
航空機といえば複葉機・ありえないほどに遅い進行速度……イギリスならまだしも、
ギリシャ軍やエジプト軍にすら勝てないイタリア軍に勝算があるとは到底思えない。
そんなイタリア軍からの救援要請を受けたドイツは、ロンメルを北アフリカへ派遣した。
ロンメルは北アフリカをヨーロッパ要塞のやわらかな下腹としてこの戦線を重要視し、エジプト侵攻を果たして中東を横断し、東部戦線へと合流するという誇大妄想構想をたてた。
ロンメルと同様、イギリス軍は北アフリカ戦線を戦局を左右する重要な戦場とみなし、多くの海軍兵力と度重なる地上戦力の増派を行ったが、
ヒトラーはソ連を短期間で降伏させたのち、本格的に対英戦を行えばよいとして派遣時の北アフリカは二次的な戦線とみなしていた。
これらは他の上級将校達の間でも顕著な思想であり、ヒトラーの命じた補給命令を無視するなどの行為もあった。

翌1941年2月12日、ロンメルは専用機で北アフリカに到着。主力であるドイツアフリカ軍団を率いて3月に反攻を開始する。
リビアの都市ベンガジを奪回し、トブルク包囲戦を開始した。
包囲を突破しようと侵攻してきた連合軍の増援を「バトルアクス作戦」で撃破し、ガザラの戦いでは2倍以上の兵力を用いて反攻してきたイギリス軍を壊滅させた。
1941年2月14日にエルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」はリビアのトリポリに上陸し、
その後迅速に攻撃を開始、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。
さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。
ロンメルは対戦車砲や戦車砲では撃破しにくいマチルダⅡの対策としてFlak88を駆使し多数撃破することに成功したが、
補給に致命的な問題が生じたこととイギリス軍が航空優勢を確保したことにより12月4日から撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され。翌年1月6日にはエル・アゲイラまで撤退する。

1943年に入り再編したロンメル機甲師団は1月20日から再度攻勢を開始し、6月21日前年には占領できなかったトブルクを占領。
同23日にはエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、またもや補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。
10月23日から開始されたエル・アラメインの戦いで燃料及び弾薬の不足などによってイギリス軍に敗北、再び撤退を開始。
11月13日にはイギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。
イタリア軍の大多数は終始頼りなく*6、事実上一国で戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見る事となる。
さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、アメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。
さらに年が開けると、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と東のリビアから進撃するイギリス軍によって、独伊枢軸軍はチュニジアのボン岬で包囲された。

ロンメルが戦死することを恐れたヒトラーの命令で本国に帰還していたこともあり、
有効な手が何一つ打てないまま…5月13日ドイツ軍約10万・イタリア軍約15万は降伏した。

こうして北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。
ちなみに、連合国軍(特に米第三軍)は7月10日イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。
パットンの並外れた進撃により8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシナを占領した。


■その後のロンメル

北アフリカ撤退後、各地を転戦するが、北イタリアの守備から外されたロンメルはノルマンディーのルントシュテット元帥の元で指揮をとることになる。
しかし上陸地点をノルマンディーと予想したロンメルに対し、イギリスに最も近いカレー上陸と踏んでいたルントシュテット*7
また制空権の有効性を主張し、戦車だろうが海岸に張り付けさせる徹底的な水際防御を主張し「大西洋の壁」と呼ばれた要塞線の構築を推すロンメルと、
艦砲による上陸支援で消耗する水際防御よりも、最も脆弱な敵の上陸直後をたたくべきとして、空襲での損耗を抑えるべく後方待機した航空戦力や装甲師団を集中的かつ迅速に投入して叩く機動防御の構想でいたルントシュテット……と、
二人の構想は真っ向から対立し、ルントシュテットは「ロンメルは戦傷で頭がおかしくなったのだ」とぼやく始末。
今まで鮮やかな機動戦を演じてきたロンメルが水際防御に拘るのは意外に思えるかもしれないが、ロンメルはむしろ北アフリカでの経験で機動防御の限界を感じていた。
彼は敵の航空優勢下では機甲戦力はいい的になるだけであり、ルントシュテットの機動防御案では機甲師団は前線に辿り着くまでの間に空襲で戦闘能力を失ってしまうか、無事でも投入時機を逸してしまうだろうと予測する(そしてこの予測は的中する)
そのため敵の航空優勢が確定する前に水際で敵を迎え撃った方が結果的には戦力を活用できると考えていたのだ。
ロンメルからすればルントシュテット案は空襲での損耗を抑えるために後方に置いた機甲師団を、わざわざ空襲に晒させながら前線に投入するということであり、お前は何を言っているんだと感じたことだろう。

二人の間にこうした認識の差が生まれたのは能力の差というよりは、ある時期からは連合軍側が一方的に制空権を握っていた北アフリカ戦線と、空においては一進一退でありどちら側も明確な航空優勢を確保し得なかった東部戦線という、二人の経験した戦場の違いによるものだと思われる。
またルントシュテットはシチリアでの連合軍上陸で激烈な艦砲射撃を経験していたが、ロンメルはシチリア戦線を未経験……というのも指摘される。
ルントシュテットは一方的に制空権を握られる事態を経験していないために、その本当の意味までは理解できなかったのだろう。
結局二人の主張は平行線を辿り、業を煮やしたヒトラーが介入して両者の案を折衷する形で装甲師団は一部をロンメルに渡し、残りは後方に置かれることとなった。
そして雨期には来ないとの予想が裏目に出て、ロンメルがヒトラーに戦力増強を直談判するため(あと妻の誕生日を祝うためという説も)に前線を離れていた1944年6月6日に連合軍のノルマンディ上陸を許してしまう。
相次ぐ爆撃でボコボコになった交通網とカレー上陸予想を支持したヒトラーらの反応の遅さからルントシュテットの機動防御も結局失敗。*8
その後、1944年7月17日に搭乗していた軍用車が、英軍のスピットファイア戦闘機に機銃掃射され、ロンメルは頭部を損傷し左目を失明するほどの重傷を負う。

自宅で静養中の7月20日
ヒトラー暗殺未遂事件が発生。

実行犯のシュテュルプナーゲルが自決ののちうわ言で「ロンメル…」と抜かしたため、
ヒトラーの命令により二人の将軍が「7月20日に起きたヒトラー総統暗殺事件の容疑がかかっている。」と言い、逮捕か自決を迫った。
もちろん逮捕されれば、裁判にかけられ極刑になるだけではなく、妻子も巻き添えになってしまう。
ロンメルは自決を選んだ。

享年53歳

そのは上述の傷が悪化したためとされ、死後国葬の栄誉を受けた。

■個人としてのロンメル

仏侵攻時は幽霊軍団、アフリカ軍団時のロンメルは砂漠の狐と渾名され、
あまりの連勝ぶりに敵味方を問わずロンメルを崇拝するものが現れる。
「ロンメルはに守られている」と信じ込む者もおり、英国司令部によって、
「我等が敵ロンメルは巧みな戦術家ではあるが、人間である。あたかも彼が超自然的能力を持っているかのように評価するのは危険であり、戒めねばならない」と、
布告されるに至った。
またドイツ国内でもゲルマン人らしい端正な風貌などから英雄視され、彼を讃える歌まで作られて、宣伝に利用された。

しかしロンメル自身は華やいだ場を嫌っていたらしく家族をナチ幹部に引合せることはなかったと言う。
社交界への唯一の参加は、妻にせがまれて渋々ナチスの舞踏会に参加したのみであり、
その時にしても着飾った女性たちに囲まれて身動きができなくなった際にすごい形相で「私を通して下さいっ!」そう怒鳴り、周囲が静まり返ったとされている。
もちろん舞踏会中は非常に不機嫌そうだったと。

プロイセン貴族が多数派だったドイツ軍においてプロイセン出身でも貴族でもない出自のロンメルは珍しかった。
これもまた上述のように宣伝に利用された一因だったともされる。

ロンメルは当時のドイツ軍将校のエリートコースである陸軍幼年学校の卒業生ではない。また当然陸大卒業生でもない。
さらには第一次大戦の終戦後も軍には残れたが、ロンメルは中央参謀としての教育を受けていない。
このことは軍内部での大きなハンデとなっていて、のみならず作戦指揮にも影響を与えたと分析する向きもある。

第一次大戦の頃からロンメルは自分の戦功を声高に主張する傾向があり、またフランス戦での借りパクのようにその為にはなりふり構わない部分があった。
参謀総長のフランツ・ハルダーは日記中に「病的な功名心」「性格的な欠陥」と酷評しており、ホトも戦後の論文でフランス戦の扱いを手厳しく批判している。
ダンケルクで停止命令が出た原因として「ロンメルが戦果を猛烈に盛って報告したことで、英仏がそれほど大軍なのかとヒトラーがビビった」という話もあるほど。

戦時中からの名声と、戦後の国防軍潔白神話*9もあり、長らく名将として語り継がれるが、戦略家としての専門的な教育を欠いていたことや、数々記されたように無茶をする性格も相まって、現在の軍事史的な評価は現場での仕事は向いてるけど、組織の上の立場にはちょっと……というものに落ち着きつつある。


【余談】

  • ロンメルは写真等でゴーグルを着用しているものがあるが、軍の装備や私物などではなく、リビアで鹵獲したイギリス軍ガスマスクの付属品だったりする。

  • 戦後彼の伝記映画が作られたが、原作者はイギリス人。また彼を演じた俳優は別の映画でもロンメル将軍役を演じている。


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最終更新:2023年09月23日 19:11

*1 ドイツ帝国はプロイセン王国その他複数の王国から成り立つ連邦国家であった

*2 当然軍法会議モノであるが、その活躍っぷりにヒトラーの手でもみ消された

*3 第七戦車師団を指揮下に置く第十五軍団長

*4 このときはフランス軍の大半及びイギリス大陸派遣軍

*5 後の第三SS装甲師団「トーテンコップ」である

*6 イタリア軍の名誉のために言っておくと、機甲師団「アリエテ」や空挺師団「フォルゴーレ」など奮闘した部隊ももちろんある

*7 が、これについてはロンメルもカレーを有力視していたという分析も有力

*8 ならロンメルの水際防御策だったら……と言いたいところだが、当のロンメルは指揮が取れなかったし、フランスに置かれていた部隊は東部戦線でボロボロになった部隊や「東方大隊」と呼ばれる占領地から引っ張て来た人間による部隊だらけだったことも考慮したい。

*9 ドイツの残虐な行いはナチの行いであり、国防軍はこれに無関係とする説。