永久欠番

登録日:2010/05/02 Sun 07:54:00
更新日:2024/01/04 Thu 20:35:27
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永久欠番とは
  • その選手の残した記録
  • その選手の(チームやそのスポーツ界での)功績
  • その他特別な事例
等によりその選手を讃えるために送られる特別なものである。

●目次

◆概要

簡単に言えば

「永久欠番を獲得する選手を忘れないで下さい」

と言ったものか。

また一部には選手ではなくファンに向けた番号を永久欠番にしているチームも存在している。

なお、「永久欠番」についての扱いは球団により様々であり、巨人や阪神のように多い球団もある一方で、
「あくまで選手を引退させるための妥協点としての設定」としている中日や、「恒久的な永久欠番は設定しない」ことを公表している日本ハム*1など様々であるが、
概ね日本では新たな永久欠番の指定は消極的と言える。

また永久欠番に指定された選手がスタッフ入りした際に背番号をどうするかも色々あり、
巨人の長嶋茂雄や巨人監督時代の王貞治、阪神の村山実や吉田義男(兼任コーチ期)、広島の山本浩二(監督第二期)のように、
同じ背番号を使ったケース*2*3もあれば、
監督やコーチになった際には現役時代の背番号や預かり番号とは別の背番号にする選手も多い。

背番号のない時代からプロ野球が存在したアメリカでは「ジャッキー・ロビンソンの42を全球団欠番」の他に、
「その当時は背番号という物自体が存在しなかったり、付けてても毎年コロコロ変えていたりするが欠番扱い」、「ファンやオーナー、アナウンサーといった選手でない者を欠番扱いにする」なども存在している。
また、複数の選手の連名での永久欠番も存在している。

◆例

本当は全部紹介したいが、あまりにも多すぎる(偉大な選手が多いことは素晴らしいのだが書き切れない…)ので一部を抜粋した形で紹介する。

◇永久欠番

日本プロ野球】(永久欠番)

  • 王貞治(巨人、背番号『1』)
ご存知世界のホームラン王。
長嶋茂雄(こちらも永久欠番『3』になっている選手である)と共にV9の立役者として貢献した。
なお、ソフトバンクで監督時に着用していた背番号『89』も、ソフトバンクで永久欠番入りするかもしれないと言われているとか。

  • 黒沢俊夫(巨人、背番号『4』)
初耳の人もいるであろう選手。
戦中・戦後の選手不足の中で巨人を支え、4番を打っていた選手…なのだがシーズン中に腸チフスで病死
その時のチームでの活躍ぶりや選手らの要望によって制定された。
火葬される際に仲間が棺にユニフォームを入れたという話もある。
本盗10回*4の記録を持つ。
病死したことと「4=し=死」を嫌がったから永久欠番にして封印したという説もあるがデタラメである。

  • 沢村栄治(巨人、背番号『14』)
後の沢村賞のモデルとなる投手。
「ベーブ・ルースから三振を奪った投手」として有名で、野球漫画のキャラクターに名前が採られることも多い。
チーム創設後のエースとなり、初のノーヒットノーラン*5初の投手三冠王初のMVP、史上2人目のシーズン防御率0点台*6に輝くなど、数々の功績を残した。
まさに日本プロ野球史上に残る伝説の投手である。
しかしの第二次世界大戦による1度目の出征で肩を壊し*7、制球とドロップを武器に活躍するも、2度目の応召*8で肩を完全に壊してしまい、巨人を解雇される。
公式戦最後の出場は投手ではなく代打であった
その後3度目の出征で戦死。27歳という若さであった。
前述した黒沢と共にNPB史上初の永久欠番となった。

  • 衣笠祥雄(広島、背番号『3』)
何があっても試合に出場した、文字通りの『鉄人』。
その体の頑丈さは彼の教えを受けた金本知憲に受け継がれた。
1976年に盗塁王、1984年に打点王とMVPを獲得しており、非常に万能な選手でもあった。

  • 藤村富美男(阪神、背番号『10』)
戦前期から1950年代まで阪神を支え続けた初代「ミスタータイガース」
物干し竿バットや三振の際の尻もちなど、パフォーマンスでも名を博した。
なお、NPBの選手に対する永久欠番では唯一の「創設以来ただひとりがつけた番号」である。

  • 稲尾和久(西武、背番号『24』)
「神様・仏様・稲尾様」と称えられた西鉄ライオンズ黄金期を支えた大投手。ヴィクトル・スタルヒンと並びシーズン42勝という記録を持つ。
現役時代及び続けての監督時代の2年間この番号を付けたが、1973年に西鉄ライオンズが太平洋クラブライオンズと名前を変えるにあたり背番号を変更。このとき永久欠番になる話もあったが稲尾本人が断ったという。
その後は一時保留番号とされた時期もあったが、普通にライオンズの中で使用され続けた。
2012年、稲尾の生誕75周年を記念し、改めて永久欠番に指定された。同年7月1日には背番号24の付け納めということか、全員が背番号『24』を付けて試合を行った。
NPBでは唯一の「永久欠番の該当選手以降の着用実績のある番号」であり、パ・リーグ唯一の選手の永久欠番である。

  • ファンの皆様(楽天 背番号『10』)
  • ファンの皆様(ロッテ 背番号『26』)
下のサッカーと同じで、10はスタメン9人に続く10人目*9、26はベンチ入り25人に次ぐ26人目のメンバーという意味で26が欠番指定されている。ロッテの26については別の意味もあるとされるがここでは触れないものとする
他にファンのための欠番はMLBのクリーブランド・ガーディアンズの『455』*10がある。
また選手以外まで広げるとオーナーや実況アナに永久欠番が振られているチームがある。


【メジャーリーグ】(永久欠番)

  • ルー・ゲーリッグ(ヤンキース、背番号『4』)
野球史上初の永久欠番。
俗に「ルー・ゲーリック病」とも呼ばれる難病「筋萎縮性側索硬化症」に罹患し引退を余儀なくされたゲーリッグが、
いつまでもチームに所属できるようにというはからいで制定された。

セレモニーの際に「私はこの世で最も幸せな男です」という名言を残している

ちなみにヤンキースはその歴史と実績に相応しく22人(+ジャッキー・ロビンソン)もの永久欠番選手が指定されており、1~9までの一桁背番号が全て欠番となっている。

  • ジャッキー・ロビンソン(全球団共通、背番号『42』)
当時(1950年前後)は野球は白人がするものであり、黒人(有色人種)のするものではないと思われていた。
というか、前提として当時のアメリカはバリバリの白人至上主義で人種差別国家であり、それらの解消には50年代~60年代の公民権運動の高まりを待たなければならない。
そんな中、ベースボールというナショナルスポーツの頂点であるメジャーリーグは当然白人のものであり、黒人はニグロリーグという黒人専用のリーグでプレイをしていた。
それを打ち破った選手が彼である。
実力で這い上がり、多くの心無い差別と戦いながらも監督やチームメイトらに支えられ、メジャーリーグで新人王を獲得した。
その後もコンスタントに活躍し、多くの黒人や有色人種への活路を開いた。
当時のドジャースのオーナーが言った「君は偉大なプレーヤーであるばかりか、立派な紳士でなければならない。」という言葉を彼は間違いなく実行したのだ。
この功績を讃え、ロビンソンのメジャーデビュー50周年を期に1997年に全球団で永久欠番に指定された。
ちなみにドジャースでは1972年の時点で永久欠番に指定されている。

永久欠番制定前から着用していた選手には退団まで特例で使用が認められていたが、ニューヨーク・ヤンキースのクローザーであるマリアーノ・リベラが2013年に引退したことで特例対象者はいなくなった。

なお、カージナルスではブルース・スーター、ヤンキースではリベラがジャッキーと連名で永久欠番の対象者となっている。

また、彼がデビューした4月15日はジャッキー・ロビンソンデーと制定され、希望する全球団の選手全員が背番号『42』をつけてプレイすることが出来る特別な日である。

なお、日本で活躍する外国人選手に『42』が多い理由はメジャーリーグではジャッキーの背番号が着用出来ないかららしい。
日本人は42番を「縁起が悪い」として嫌うので*11、どこの球団でもだいたい開いており希望が通る。

【サッカー】(永久欠番)


  • 松田直樹(横浜F・マリノス 背番号『3』)
練習中に急性心筋梗塞で急死した元日本代表。
亡くなった時に所属していたチームはJFL・松本山雅FCだが、山雅はこの年に彼の遺志を継いだ後輩達によりJ2昇格を達成している。

  • サポーター(多チーム 背番号『12』)
ピッチに出る11人の選手の次の選手 という意味で12を欠番とするチームは多い。
日本だと浦和レッズとサガン鳥栖*12以外はだいたい12を飛ばしている。
殆どのチームは暗黙の了解で飛ばしているが、オランダのフェイエノールトは正式に永久欠番としている。

【NBA】(永久欠番)

  • マイケル・ジョーダン(シカゴ・ブルズ、マイアミ・ヒート、ノースカロライナ大学、背番号『23』)
マイケル自身はヒートに在籍したことがないが、彼の活躍を称えたヒートのパット・ライリー監督が2003年に彼の『23』をヒートの永久欠番に決定した。
マイケル・ジョーダンに苦しめられたライリーが、自チームで23番を見たくないからだとする説もある。

【MotoGP】(永久欠番)

  • ケビン・シュワンツ(ゼッケン34)
まだmotoGPになる前、2st500ccマシンを使うWGP時代唯一の欠番。
チャンピオンは1回しか取っていないが、絶大な人気を誇った故の扱いである。
なお本人はまだ健在で、49歳で迎えた2013年の鈴鹿8耐で加賀山とほぼ変わらないペースで走っていた。
そして2018年にはチーム監督として元気な姿を見せていた。

  • バレンティーノ・ロッシ(ゼッケン46)
『生きる伝説』として多くのファンに愛されたライダー。
現役時代は125ccと250ccで1度ずつ、500ccで1度、MotoGPで6度と計9度のチャンピオンに輝き、通算432レースに参戦して115度の優勝と235度の表彰台を獲得した。
引退レースとなった2021年のMotoGP最終戦となる第18戦バレンシアGPの後には、チャンピオンシップの年間表彰式でMotoGPレジェンドになることが発表され、殿堂入りを果たした。
それから翌年の2022年に最高峰クラスにて彼が使った『46』が永久欠番になる事が発表された。
『46』はロッシのトレードマークとしてファンに浸透しており、ロッシが引退後もレース会場で、このゼッケンが書かれたアイテムを使うファンも多い。
ちなみにロッシはmotoGPでの活動終了後、Team WRTに所属して4輪の耐久ドライバーとしてのキャリアを始めたが、こちらでもゼッケン46と蛍光イエローのカラーリングを継続している。
2023年からはBMWとファクトリードライバー契約になり、WECのGTクラスがGT3マシンとなる2024年からはWECという舞台で再び世界に46が輝く事となった。

  • 加藤大治郎
日本人初のMotoGP殿堂入りライダー。カーナンバー『74』
2003年鈴鹿サーキットでの日本GP決勝レース中、マシンコントロール不能に陥りバリアに激突。
重体の後逝去。享年26。

  • 富沢祥也(ゼッケン48)
motoGPの下位クラスであるmoto2初戦のウィナーであり初の死者、享年20。
転倒した所後続2人に轢かれた衝撃で大動脈破裂を起こし、ほぼ即死であった。

【F1】(永久欠番)

  • ジュール・ビアンキ(ゼッケン17)
鈴鹿サーキットでの事故から9ヶ月間闘病生活を送っていたが、結局意識を取り戻すこと無く逝去。
F1では21年ぶりとなる本番セッションでの死亡事故であり、これを忘れないための欠番。

◇諸事情で永久欠番では無くなった人

球団が合併したりして永久欠番では無くなった人もいる。
  • 中西太(西鉄、背番号『6』)
かつて福岡に本拠地を置いていた頃のライオンズのスラッガー。通称『怪童』
史上最年少でトリプルスリーを達成し、その後も三冠王を狙い続けたがなし得ず故障→選手兼任監督→引退。
ライオンズが西鉄から太平洋クラブになる時に、上述の稲尾の鶴の一声で欠番ではなくなった。

  • 鈴木啓示(近鉄、背番号『1』)
最後の300勝投手にして、長年近鉄のエースとして君臨した大投手。
長年パ・リーグ唯一の永久欠番とされていた番号。
近鉄とオリックスの合併に伴い本人の同意のもと失効し、ブルーウェーブで『1』を付けていた後藤光尊に引き継がれた。
その後は一時期コリンズ監督が使用した以外は後藤が使っていたが、後藤の楽天への移籍後は中島裕之(宏之)、モヤ、福田周平へと引き継がれている。

ちなみに近鉄最後の監督となった梨田昌孝は、最終戦を前に当時の在籍選手たちに「お前たちが付けている背番号は、全て近鉄バファローズの永久欠番だ」と言っており、近鉄の永久欠番は残っていると考える人間もいる。

  • モントリオール・エクスポズの各永久欠番(『8』、『10』、『30』)
エクスポズ黎明期を支えたゲイリー・カーターとラスティ・スタウプ、通算で400-300を達成したアンドレ・ドーソン、エクスポズの各種球団記録を持つティム・レインズの4名が永久欠番とされていた。
球団がモントリオールからワシントンD.C.に移り、ワシントン・ナショナルズと改名されたのを機に各番号の使用を再開した。一方で4選手は「エクスポズの永久欠番」として引き続き顕彰されている。


◇実質的な永久欠番

長年にわたり使われず実質的に永久欠番扱いにされている番号や、その背番号の保持者が認めた者に継承される番号もある。

【野球】

  • イチロー(オリックス、マリナーズ、背番号『51』)
1990年代に7年連続の首位打者を獲得してチームの2度の優勝に大きく貢献し、2001年以降大リーグでも活躍した安打製造機。
チームが合併してブルーウェーブからバファローズになった後も欠番とされており、じきに永久欠番になると予想されている*13
マリナーズでもほぼ同様の扱いであり、ランディ・ジョンソンと連名で永久欠番になると予想されている。

ちなみに2005年にオリックス時代の恩師である仰木彬監督が監督に復帰する際に、イチロー本人から「51をつけてはどうでしょう?」と提案したことがあるが、
仰木の方から「いくらお前本人の提案でも恐れ多い」として断ったとのこと。
なお仰木本人は1970年に近鉄のコーチになった際に51番をつけたことがある。

ダイエーが暗黒期から黄金期へと移り変わる時期に活躍。「炎の中継ぎ」の異名をとるなどしたものの、肺癌で若くしてこの世を去った。
将来的には永久欠番化が検討されているものの、20年近く経つ現在でも永久欠番にはなっておらず、現在に至るまで使用されていない。
一方で、チームがダイエーからソフトバンクに変わっても背番号15の藤井の缶バッジが配布されるなど、「藤井は永遠に現役」という考え方もできる。
優勝して胴上げが行われる際には、彼の背番号である15番を着用したハリーホーク人形が毎回胴上げに加わっている。

  • 「永久預かり」(広島)
広島東洋カープ特有の制度で、「チームを支える活躍をした功労者の背番号を、引退した功労者が推薦するものが現れるまで欠番とする」というもの。
これまでに『20』(北別府学)、『7』(野村謙二郎)、『1』(前田智徳)、『25』(新井貴浩)、『9』(緒方孝市)に適用されている。
その後『20』は永川勝浩*14、『7』は堂林翔太、『1』は鈴木誠也*15、『9』は丸佳浩*16、『25』は監督に復帰した新井本人が着用した。
なお新井は監督就任時永久欠番の15を要求したところ本人からあっさり承諾が取れてしまったというエピソードがある。結局仲の良い2人のイジりあいだったわけだが球団関係者は肝を冷やしたことだろう。


同様の扱いをする球団は多く、近年の例では
DeNAにおける『18』(三浦大輔、2017〜18、21)*17、『25』(筒香嘉智、2020~)
楽天における『18』(田中将大、2014〜20)*18
阪神における『6』(金本知憲ほか、2012〜15、2019〜)*19
日本ハムにおける『11』(ダルビッシュ有・大谷翔平、2018〜)
などが挙げられる。
下記のものも似ていると言える。

  • 「ミスター・スワローズ」(ヤクルト、背番号『1』)
基本的に生え抜きかつチームの中心である選手にのみ使用が認められる番号であり、「ミスター・スワローズ」の称号が必ずセットでついてくる。
初代である若松勉が1989年に引退する際、「永久欠番に」という運動があったために制定された。

以後の着用者は池山隆寛(1992〜99)、岩村明憲(2001〜09)、青木宣親(2010〜11)、山田哲人(2016〜)のみ。
全員、かつての着用者から資質を認められて元の背番号から変更する形で使用しており、衰えたり一度ヤクルトを離れて再入団する際には最初の番号に戻している*20
特に山田に関しては比較的長期に渡って「ミスター・スワローズ不在」が続いていた中での継承であり、ファンも多少の驚きがあったそうな(といっても既に走攻守すべてで大暴れしていたため「ついにか!」という趣旨のであろう)。

ちなみにヤクルトは他に『6』(宮本慎也)、『27』(古田敦也)もふさわしい選手(『27』は捕手のみ)に引き継ぐための番号としている。
それぞれ、『6』は2021年よりルーキーの元山飛優に期待も込めて、『27』は2022年よりヤクルト20年ぶりの日本一の立役者である中村悠平に継承された*21

  • 景浦安武(南海/ダイエー/ソフトバンク、背番号『90』)
ご存じ酒しぶきでおなじみ代打の神様。
但し福岡以降はチート成績のため賛否が分かれる。
ここでお気づきの人も多いと思うが、実在人物ではない。
水島新司の漫画「あぶさん」の主人公が付けていた番号で、南海時代からホークス一筋の人生だったので、リアルでも水島に了承をとり90を欠番扱いとしていた。
あぶさんの連載終了後に、水島から了承を経てロベルト・スアレスに継承され、2021年からは指導者としてソフトバンクに戻った小久保裕紀が日本代表コーチ時代から背負っていた番号ということで再度着用している。
余談だが、あぶさん本編では景浦の実子・景虎も近鉄入団に際し、ピッチャーだったことから前述した永久欠番の「1」を球団から贈られている。

【サッカー】

「PKよりフリーキックの方が簡単だ」の言葉で有名なファンタジスタであり、OBE(大英帝国勲章)を受賞している。
その技術はナポリ時代チームメイトだったマラドーナ直伝のものであり、「マラゾーラ」という愛称も持つ。
フランク・ランパードは「25番をつけてフリーキックを外したら恥ずかしいね。だからゾラの退団後は誰もつけていないんだ」と語っている。
ちなみにジョン・テリーの背番号26はゾラに続く選手になるという意味を込めていると思われがちだが、
実際は、トップに上がった時に空いている番号が26しかなかったからとのこと。

ゾラが去った後は長きに渡り空席だったチェルシーの背番号25だが、2023年に加入したモイセス・カイセドが本人に許可を取り、実に20年ぶりに25番をつける選手になったことが発表された。

◆創作における永久欠番

魔力炉脱出の為命を落としたので永久欠番になる。
でもなんだかんだで生きていた。

尚、「永久欠番」と俗称されることもある、「大人の事情でソフトに収録されず、される見込みもないエピソード」に関しては封印作品を参照。


◆スポーツ以外の永久欠番

「以前は使用されていたが何等かの理由で使用しなくなった番号」はスポーツ以外にも存在する。
スポーツ以外の場合は単に「欠番」と呼ばれる事の方が多い。
ここで言う「何等かの理由」とは多くの場合大事故を指す。
過去の凄惨極まりない大惨事を想起させる縁起の悪い数字として、そのような事故に見舞われた便名や車両番号が使用されなくなる例は国内外で散見される。
詳しくは『忌み数(欠番)』の項目を参照。









追記修正は、欠番になった背番号を使った選手を思い浮かびながらお願いします。

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最終更新:2024年01月04日 20:35

*1 背番号11を空き番にすると公表しているが、あくまで「ダルビッシュ有・大谷翔平の番号をつけるのにふさわしい選手が入団した時まで(要約)」としている

*2 長嶋は監督第一期、及び第二期の大半の期間は3番を使っていない。監督時代に3番を使ったのは第二期末期の2年間のみ

*3 王は引退即スタッフ入り、吉田は兼任コーチだったため選手時代との空白期間がない

*4 日本歴代2位

*5 生涯に3回達成。最多タイ記録である。

*6 史上1人目は景浦将(タイガース/1936秋)である。

*7 手榴弾の投げすぎ。当時野球選手(特に投手)は手榴弾を的確な位置に投げることが出来ると徴兵されていた。

*8 予備役として

*9 楽天の所属しているパ・リーグはDH制だろというツッコミもある

*10 455試合連続ホームゲーム満員を記念して

*11 読みから「しに番号=死に番号」となるので

*12 こちらはチーム創設に多大な貢献をした大学教授の命日である1月7日、およびかつてのベンチ登録人数が16人であったことにちなみ『17』が欠番

*13 基本的に選手が引退しないと永久欠番にできないため。2019年にイチローが引退したためこの先指定されると考えられる。

*14 引退に伴い2020年は空き番となっていたが、21年より栗林良史が着用

*15 カブスへのポスティング移籍に伴い22年より空き番

*16 巨人へのFA移籍に伴い19年より空き番

*17 「横浜ナンバー」という呼称がある。19、20年は三浦がコーチとして着用し、21年に監督就任に際して81に変更したことで再び空き番に。22年シーズンからはルーキーの小園健太が付けることとなった

*18 21年より復帰し再び着用

*19 16〜18年は金本が監督として着用

*20 岩村のMLB→楽天からの復帰、青木のMLBからの復帰時には、どちらもヤクルトに新人入団した時と同じ番号の48・23を着用

*21 この他、相川亮二の入団の際に球団と預かり人の古田敦也の同意のもと27が提示されたが当人が断り、『2』を選んだ。ちなみに中村も2021年には『2』を付けていた。