坂崎直盛

登録日:2019/05/24 fri 21:27:25
更新日:2024/02/06 Tue 17:20:24
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概要


坂崎直盛(さかざき なおもり、1563?~1616)は戦国時代の武将、大名である。
一般的には千姫事件の首謀者として知られる。
実父は宇喜多忠家で、坂崎姓になる前は宇喜多詮家(あきいえ)と名乗っていた。
そう、あの暗殺大好き大名の甥であり、八丈島から泳いで来る人の従兄弟なのである。
忠家の嫡男として家を継いだ詮家は、当然ながら一門衆であり宇喜多家中においても大きな影響力があった。
直家と忠家はなんだかんだ言われていたが仲が良いとされている。
その関係は息子たちの世代においても・・・
続くことはなかった。



宇喜多騒動


秀家は一部の家臣を重用していたため、他の重臣からは不満を持たれていた。
そのため不満が爆発、秀家の重用していた中村次郎兵衛への襲撃事件を発端としたお家騒動が起きる。
詮家も不満を持つ側であったためそちらの主導格であり、大坂の宇喜多屋敷に立て籠もって要求も中村次郎兵衛を出せの一点張り。
一方中村次郎兵衛は襲撃の際に古巣の加賀前田家に逃げ込んでおり、はいそうですかと出せるような状況でもない。事態は膠着した。
このお家騒動は徳川家康の介入により、詮家ら不満を持つ家臣らを家康が預かることで決着した。
その後関ヶ原が勃発。東軍側で戦功を挙げた詮家は戦後2万石と、宇喜多の名を嫌った家康から新たな姓「坂崎」を貰い、以降、坂崎直盛と名乗った。

この時はまだ家康も気づいていなかった。
直盛がイカレているということに…



異常な執念


石見国津和野藩主3万石となっていた直盛は、罪があったとしてある者の処断を命じた。
だがその者の尻愛知り合いであった甥の宇喜多左門は仇を取ろうとし、処断した者を殺害し出奔した。
左門はまだ存命であった忠家*1の下へと逃走、忠家は左門を助けようと富田信高に嫁いでいる直盛の妹に渡りをつけた。
直盛の妹は信高に左門を匿うことを懇願、信高は関ヶ原の前哨戦において直盛の妹のおかげで虎口を脱したこともあり断れない。
左門を匿うこととし、直盛に対し「来たけどどっか行った」と答えた。



激怒した直盛は伊勢は津にある信高の居城にまで押し入り捜索するも空振りに終わり、更に伏見にいた信高と一戦交えようとした。が、流石に周囲に止められた。
そこで今度は家康に訴え出たものの「天下のことは秀忠に言ってくれ」と言われ、秀忠にも「証拠がない」と突っぱねられた。
直盛は一旦矛先を収めた。収めざるを得なかった。だがやり場のない怒りはますます昂るばかりであった。

数年後、転機が訪れた。
信高が加増され伊予宇和島へ移封されることとなり、信高に匿われていた左門はまず加藤清正へ、次に高橋元種の下へと送り出された。
直盛の妹は左門に仕送りをしていたのだが、左門が人夫を手討ちにしたせいで人夫の父に直盛へチクられてしまう。
確たる証拠を得た直盛は狂喜した。


「当然!『訴訟』だッ!天下を受け継ぐ男への『訴訟』ッ!それが流儀ィィッ!!」


この判決で左門は処刑。更に富田信高と高橋元種、信高の弟の佐野政綱の3名もの大名が改易という直盛大勝利と言える結果となった。
これには佐野政綱が大久保長安の親戚だったため、そちらを処罰したかったという幕府の意向もある。
直盛は大満足したろうが、これが更なる増長と破滅に繋がったのかもしれない…


狂気の果て


坂崎直盛は大坂の陣の功により更に加増され4万石の藩主となっていた。
理由は諸説あるが、とにかく直盛は戦後処理の一端として豊臣秀頼を失い未亡人となった2代将軍秀忠の娘千姫のことを任された、と思っていた。
公家との婚約にこぎつけうまくまとめようとしていたらしいが、千姫は直盛の知らぬところで本多忠勝の孫にあたる本多忠刻と婚約すると決められてしまう。


だがそれがまたも坂崎直盛の逆鱗に触れた!


直盛は面目を潰されているので、ここはまず抗議をするのが筋だろう。
だが直盛はイカレていた。


「秀忠に娘をさし出してもらう 『強奪』だ!」


流儀はどこへ行った
しかしこんな無謀な行動は当然チクられ、直盛のいる江戸の屋敷はたちまち大軍に包囲された。直盛は立て籠り徹底抗戦の構えを取った。
この後柳生宗炬に説得され切腹したとか、説得に全く応じず籠城中に自分の嫡男をぶっ殺したとか、その後籠城中に寝首をかかれたとか…
諸説あって定かではないがとにかく直盛は家臣に首を落とされて死亡、坂崎家も改易となった。
宇喜多は改名しても結局徳川に牙を剥いたのだった。
墓はしばらくなかったようだが、直盛の元で厚遇されていた小野寺義道が13回忌の時にひっそりと建てた。


評価


こういったストーカー気質の他、DQN四天王以上にすぐに血を見せようとする凶暴さや行動の意味のわからなさからDQNどころかサイコパスとまで言われている。
DQNとしての性質は陰湿さと沸点の低さからいって細川忠興が近いのだが、教養や社交性を欠いているのかあちら以上に分別がなく同時代からの人間からも冷めた目で見られている。
また敬虔なキリシタンでもあったが、宗旨替えした当初公言しないで欲しいと言われたのに大っぴらに勧誘を始めたりここでも分別のなさを見せている。
ちなみに宇喜多家中には何人かキリシタン武将がいるが、大坂の陣で活躍した明石全登はこの誘いに乗ってキリシタンとなったという。

一方で武功を挙げて大名となり内政で藩政の基礎を築いたとあって、藩主としては見事と言える。仕えたくはないが


創作における坂崎直盛


千姫を扱う作品が少ないためか、どう見ても敵にふさわしい性格してる割には案外出て来ない。
百花繚乱 サムライガールズ(アニメ版)では、千姫事件の逸話である「家康が千姫を救った者に与えると言った」「救出の際についた火傷跡を醜いと嫌悪された」を元にデザインされ登場している。

余談


坂崎直盛の蜂起に対しての幕府の対応は「直盛の重臣に『直盛を殺せば世継ぎを立てる』という嘘の手紙を送って殺させた後に取り潰す」という割とあんまりな内容だったらしい。
これでは幕府にとって都合が良くないものが書面として残ってしまうため、直盛の最期がうやむやにされてしまい後世でもはっきりと定かな説がないのも頷ける。
ちなみにこれが協議で決まりかけた際には本多正純が「直盛の不忠にその臣の不忠をぶつける書面を出すなんて天下国家の信義が成り立たない、すぐ軍を出して直盛を殺すべきだ!こんな内容絶対賛同しないからな!」とブチ切れているが、正純が既に浮いた立場だったため結局スルーされてしまった。
後でこれを伝え聞いた柳生宗矩は「正純ってクソだけどここではめっちゃいいこと言ってるな」と称賛しており、新井白石も「天下の名言」とまで褒め称えている。






「直盛殿、我が主が朝飯を食べようとお呼びにございます。」
「じゃあ自分の記事追記・修正した後に行くわ」

「あの・・・もう正午なのですが」
「あとで言い訳はしてやるから帰っていいよ」

「お前朝飯を食おうと使者を送ったのに夕方に来てどういうつもりだ!」
「そんな事、知らん。そんな奴、知らん。抜いて斬れ。」*2

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最終更新:2024年02月06日 17:20

*1 当時は安心入道と名乗っていた

*2 使いに寄越した部下を殺してなかったことにしろという意。当然応じることはなく逆に直盛は縁を切られた