仏教

登録日:2012/03/10 Sat 20:12:59
更新日:2023/01/29 Sun 12:36:36
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ざっとした概要

仏教ってなに?

哲学っぽい宗教。仏となるための教え。これを説き始めたのは、釈迦(シャカ)族の王子ゴータマ・シッダールタ
日本では古くに神仏習合(=神道との融合)をして、今に続いている。
日本では、確かに外来に由来する神道(信仰)の一部という感覚で取り入れられたが、扱いについては暫くは坊さん達による研究、国家守護の為の学門という扱いで一般人向けでは無かった。
仏教の側面には多神教・アニミズム・汎神論がある。同時に、一神教・無神論・虚無主義・楽観主義・反神秘主義・反形而上学なども。

仏ってなに?

「悟りを得た者」を指す語。仏陀(ブッダ)、特に悟った後のゴータマを指す。
「仏」の語が指すものは他に、死者・絶対者・無・虚無・虚空・霊・魂・八百万の神的存在・あらゆる全てなど多種多様。



もう少し細かい概要

仏教とは何か?

元々の目的は、自らが仏になること。元々の形態は、実践的思想思想の実践
教団化した後の大乗仏教も目的は同じなのだが、解脱があくまでも個人的な体験である(と思われる)以上、一度の人生での修行の完成をあくせく急いで目指すよりも、来世を繰り返す中でいつかの人生での解脱を目指して日々を正しく生きる事が何よりも大事である。……とされるようになった。
僧の身ならばついでに困ってる人でも助けられる位にまでなれば御の字である。
世の中には苦しか無いが、原因を突き詰めていくと凡ては有るけど無いも同じだと御釈迦様がお気づきになった時に仏教は産声を上げたのだと、仏教では考える。

宗教学・神話学の研究によると、もともとの初期仏教の教義(特に知識階層向けの教義)は、信仰するべき神を持たない。しかし現在の仏教は、前述のように多神教や一神教などの神秘主義的・形而上学的な側面も持っている。
この理由は、仏教が象徴的な「師」を崇拝しているためである。この「師」は例えば、開祖のゴータマ、ゴータマ像から派生した仏(如来・菩薩・明王)、神々(天部)である。
こうした多面性は、仏教のベースがインド神話(古代インド哲学)であることも理由である。

歴史学から見ても、その影響力は大きい。しかし、西洋では長らく中途半端に知られていた。例えばかつての西洋では、ブッダは古代ローマの神、エチオピア人、またはマーキュリー(ヘルメス)と同一視されていた。さらには仏教の虚無主義的な面ばかり注目したことで、イエス・キリストの打破を目指す悪魔崇拝だと誤解されることさえあった。
この辺は大乗仏教が伝わった日本でも勘違いされている事だが、本来の仏教の目的は仏様を拝む事では無いのである。
これを分析し再評価する人々が現れ始めたのは、近代になってからである。オリエンタリズム・民俗学・文化人類学からの注目が高まり、さらに哲学や社会思想が仏教を取り入れた。

自然科学的な哲学は、仏教の開祖であるブッダ(ゴータマ)を、超常者でなく哲学者と見なしている。
一方で現代でも世界宗教の一つであるし、物語やファンタジーにも影響を与え続けている。*1



仏とは何か?

空(インド哲学)の項目もあるように、この世の真実に目覚めた人のこと。
故に如来、仏陀である。(意味は同じ)
前述の通り多義的な存在。古代インドや初期仏教では基本的に「悟りを得た者」だったが、後に神格化・神秘化が進み、多種多様な神話や宗教と融合するに至った。
その結果、仏教には相反する無数の性質が含まれるようになった。例えば、

一神教としての仏教

仏教とキリスト教には類似性がある。端的には、「景教」はキリスト教ネストリウス派から始まり、仏教と融合していった。景教の広まった地域には、中国はもちろんとして、日本も含まれると推測されている。

アジアでは一神教(キリスト教)そのものも広まっていった。日本ではイエズス会による布教があり、神仏習合の文化に加わっている。例えば、唯一神は「大日」と日本語訳され、大日如来と同一視された。
(なお神仏習合によって、大日如来は日本神話の最高神かつ皇祖神である「天照大御神」と同一視されていた。また、明治維新による近代化以降では、神道の一神教化(≒国家神道化)および、天皇の唯一神化が進められた。
例えば、帝国大学の宗教学者の加藤玄智は、「日本に於きましては天皇陛下に対し奉る時は吾々臣民は絶対的服従でありますが、西洋に於きましては、歴史的にに対して絶対的服従を要求されて居ることになつて居ります」と発表した。)



汎神論としての仏教

例えば、四字熟語に「 一切皆仏 」「一切皆空」(いっさい全ては仏=空)とある。真理と虚偽、強と弱、金と塵、あらゆる物事さえも仏と見なす仏教思想には、二項対立や多元論をまとめる一元論がある。「生滅即不生滅」「万物同根」「是非一体」「有無一体」とも。

これだけではイミフすぎるが、そもそも敗北や死も「仏」なのが仏教である。

「解脱は名づけて虚無といふ。虚無はすなはちこれ解脱なり。解脱はすなはちこれ如来なり」

滅びること(= 寂滅 )は仏に成ること(=成仏)、と仏教では説かれる。というのも、成仏・虚無・虚空はまとめて「ニルヴァーナ」(nirvana)と表現されるため。仏や僧侶の滅びも寂滅・入滅という。
元々の仏教では、仏であるゴータマが死んだ(=80年の生を終えて涅槃(ニルヴァーナ)に入った)ことを、寂滅・入滅という。

「仏」が「成仏」するという話にハァ?となるかもしれない。だが、そもそも仏教や多神教では前後の論理展開がぶっ飛んでいるのがザラ。例えば、大黒天(=シヴァ)は「殺害、剃刀、殺されたもの」("the killing" "the razor (that kills)" "that which is killed")という異名がある。

あなたは”時”にして、悪い時、未熟な時、熟し過ぎた”時”。
あなたは殺害、剃刀、殺されたもの。
あなたは助力者にして敵対者。そしてこの両者の破壊者。
(山際素男訳『マハーバーラタ』第7巻 159ページ 三一書房)

Thou art Time, thou art bad time, thou art time that is premature, and thou art time that is over-mature. Thou art the killing, thou art the razor (that kills), and thou art that which is killed. Thou art the auxiliary and thou art the adversary, and thou art the destroyer of both auxiliaries and adversaries.
( Mahabharata: Book 12, Section 285(CCLXXXV) )

なぜ加害側と犠牲側が同一なのか? そもそもなぜ「A」と「Aでないもの」が同一なのか? 説明は全くないが、ともかくそういう一体化がインド的思想・仏教である。
言わば「逆もまた真なり」。
そこに説明をつけたり解釈を加えると、仏教の哲学的側面が強まってくる。
この辺も空(インド哲学)で説明出来てしまう。

ざっくり言うと、仏になること(=解脱)とは、束縛から解き放たれることである。

象徴的・神秘的に言うと、輪廻の輪から外れて二度と自分の望まぬままに生まれて来る事の無いことである。
生き物に限らず、生きとし生ける物は自分の生の形を選べない。
人の身ばかりか神や魔すらが生まれもった宿業や属性から逃れられないが、仏のみはそれすらからも自由なのである。
因果応報や宿業、善いことをすれば来世が報われる、悪い事をすると地獄に落ちるといった事が仏教的な戒めとして語られるが、本来の仏教にそんな思想は無い。
と云うより、それらのインド的な運命論から逃れる道として御釈迦様が見出したのが仏教(=仏に到る道)なのである。
つまり、人としての釈尊の死も何らおかしいものではなく、悟りを拓いた釈尊は浄土を開き輪廻を超越した“仏”と“成”ったのである。
己は最初から『無我』であり、この世は『空』である。
釈尊は二度と自らの望まぬままに生まれてくることは無い。
この境地と同じ処に行こうと云うのが“教え”なのだ。

根本的な教典を紐解けば大乗仏教の基本も同じである。
よって宗教としての仏教の本質とは御釈迦様の言葉の積極的な解釈と普遍化によって、それを学ぶ人間皆で御釈迦様に近い所に行こうとする行為なのだとも言える。
日本では最初は国家の守護を担う役目を担わされ、現在では生を終えた人を彼岸に送る宗教として定着しているが、それを仏教の本来の道から外れた道と呼ぶのもまた違う。
仏教とはあくまでもその時に生きる人を救う為の思想であり、世の姿もまた時と共に刻々と変わるものだからである。
仏の教えに触れたものが正しく生きる道を選んだとするのならば、それは間違いなく仏の道に沿った行いであるし、
仏の名により救われた衆生が自分もどんな形であれ、仏の道に沿いたいと願うならば、そこには貴賤も差別も性差も年齢の差も無いからである。





細かい経緯





■仏教

『仏教』は紀元前6~5世紀頃にインド(というより現在のネパール)で誕生した、成道者(仏陀)たるシャカ族出身の偉大なる王、ゴータマ・シッダールタが開いた世界三大宗教の一つ。
誕生したインドでは隣接するイスラム教徒と、排斥したバラモン教が姿を変えたヒンドゥー教徒による激しい攻撃を受け滅亡寸前となったが、
対岸のスリランカやタイ、ヒマラヤのチベット、中国を経て朝鮮半島や日本と云う、東アジアに信仰が広がった。
※インドに関しては吸収によるヒンドゥー化と云うのが正しい模様。
根本的な世界観が共通しているのである。

特に日本では、道教の影響を受けて変化した大陸仏教から更に、日本古来の神道と結びつく等の独自の進化を遂げており、
他地域の仏教とは大きく形態を変えているのが特徴である。

現在の総信者数は約4億6千万人と、三大宗教では第3位。
実はヒンドゥーに信者数では負けているのだが、インドにのみ限定されるヒンドゥーに対して、
他地域の文化圏に強い影響を与えた歴史により三大宗教に数えられている。

インドでは滅亡寸前と云うのは事実だったが、近年では再びバラモン教に根付くカースト制度への反発から仏教に回帰する傾向も見られる様だ。
また、ハリウッド俳優を初め西欧人にも仏教徒である事を公言する人も増えている。


【起源】

シャカ族の王子として何不自由ない暮らしをしていたシッダールタ王子が29歳の時に「自らの満ち足りない心(苦)」を晴らすべく家と妻を捨て、
バラモン教の修行者となったのが始まり。
しかし、バラモンの厳しい苦行の中でも疑問は解けず(断食、片足立ちによる生活…etc.)、6年目にして苦行を「無駄」と看破しネーランジャラー川で身を清め、
村娘スジャータの乳粥で腹を癒やすと菩提樹の下で瞑想に入り、
「この世の全ては複雑に他の物と結びつき、自由にならないのが本当なのに、愚かにも執着を持ち手放したくない等と願うから思い悩むのだ、
ならばその原因を見定め、それへの執着を捨てる事が出来れば幸福(輪廻から解放される)になれる」……と云う真理を悟る。

……これが仏教の基本原則であり、教えの基本である。

後の大乗仏教で極楽往生を目指す、六道輪廻からの解脱を目指すと云う思想が誕生しているが、
結局の所はこの真理を悟り、仏陀となった釈迦牟尼(シャカ族の聖者)の思想を多くの人が実現出来る様に分かり易いイメージを後付けしただけに他ならない。

この真理を得るべく御釈迦様が得たのが「中道」の思想であり、これは「どちらにも属さない境地」を示す。
無論、優柔不断を奨励している訳では無く、自らの意志で真理を見極め、確固たる自分であれ……と説いているのである(己の解答に否定に否定を重ね、己の存在を疑う程に突き詰めても尚、答えを投げ出さない事で漸く答が見えるかな?と云う境地である)。
この「中道」を貫く為に示した道が「八正道」、 上記の宿縁と解脱を4段階に分けて説明したものを「四諦」と云う。

……さて、偉大な聖人の誕生を危惧して瞑想の邪魔に訪れた「魔羅(マーラ様)」をも退け真理を得た御釈迦様だが、
当初は自分が至った境地が他人に理解する事は不可能と考え、自分一人の胸の内に閉まっておくつもりだった(実際に伝わったかどうかは怪しい)。
……しかし、真理の達成の後の更なる瞑想の最中に、バラモン教の最高神である創造主ブラフマー(梵天)が御釈迦様の下に現れ、
その真理を万物の生命に伝える事を懇願(梵天勧請)。
これにより、神をも自らの思想に従えた御釈迦様が、自らの真理により世の中の苦しみを無くそうと旅に出たのが教義の起こりとなったのである。


【大別】


仏教は大まかに分けると上座部仏教と大乗仏教に二分できる。
またこの二系統に加えて、チベット仏教を第三の系譜として区分されることもある。
以下に、その違いをざっくり説明してみる。


■上座部仏教

開祖の釈迦に倣い、修行により世の凡る苦難と執着からの解放により仏(如来)となるのを目指す。
スリランカやタイ、東南アジアと南方に派生した為に南伝仏教ともいう。
もっとも、後には現地の信仰と結び付き大乗仏教のような形態となっている。
上座部とは、釈尊の弟子の内の古参の派閥から派生したと云う意味であり、彼らが集会で上座に座っていたことから付けられた。
言うなれば、本来の形式を守りたい保守派の呼び名であったのである。
基本経典を古代インド言語のパーリ語で記したことから「パーリ仏教」ともいわれる。

■大乗仏教

原始仏教のうち、修行者では無い信者をも救うべくとの考えから生まれた大衆部仏教が形を整えられたもの。
中国で当地の道教思想・儒教思想を取り込む等、伝わった土地の思想も取り込みつつ大勢を救う道を示すのが特徴。
バラモンの神秘思想が取り込まれた発展型である秘密仏教(密教)や、釈尊に倣い瞑想の中で真理を悟ろうとして生まれた禅も含まれる。
要は、釈尊の言葉の積極的な解釈と研究により個人のみで修行を完成させるのではなく、知識を皆で共有したり、それを利用して僧ではない信徒にも悟りの道を拓こうという改革派の呼び名である。
三大宗教としての仏教とは、この大乗仏教の分派と発展により根付いた歴史だと言える。
なお、上記の上座部仏教を南伝と呼ぶのに対して、こちらを北伝仏教ともいう。

■チベット仏教

原始仏教のうち、ヒンドゥー教に飲み込まれる少し前の仏教がチベットに伝来したもの。
上座部仏教(南伝仏教)とはインド古来の仏教の教えを継ぐ点で共通項があるが、南伝系は釈迦没後から初期の教えを土台とするのに対し、
チベット系は釈迦没後より数世紀を経て密教などが発展した、いわゆる後期インド仏教を受け継いだ点で異なる。
広義の大乗仏教に含まれるが、大乗仏教の主流をなす漢籍仏教とは相互に影響がほとんどないのが特徴。
チベットからモンゴル、満洲族など、主にユーラシア大陸北部に広まった。


※大勢を救う大乗仏教に対し、修行者自身しか救われない上座部仏教を小乗仏教と呼んでいた時期もあるが、現在では侮蔑語とされる為に自重するのが正しい。
上座部仏教の立場からすれば念仏を唱えるだけで修行者以外も救われる大乗仏教に一家言ある所であろう。
尚、元来は釈迦は現世の苦しみを救う事のみを説いている為に死者や霊魂、死後の世界の概念等は存在していなかったのだが、
大乗仏教に於いては地獄や極楽の概念が生まれている。
※より正確にはインド哲学の根付いた社会で生まれたので、来世や輪廻、霊魂の有無は「当たり前」の所からスタートしている。
釈尊が呪術を否定したのも、本質を見失い修業が疎かになるのを戒めた為で、身辺を守る祈祷や在家信徒の願いによっては弟子達にも呪術は許していたそうである。


【主な用語】


仏陀

本名はゴータマ・シッダールタ。
梵名シャーキ(釈迦)。
仏陀とは「成道者(真理を悟った者)」と云う尊称で、古代インドの聖者の事で仏や如来と同じ意味となる。
日本での通称は釈尊、御釈迦様、釈迦牟尼。
29歳にして修行の道に入り、35歳で真理を悟って以降、80歳で入滅するまで45年に渡り布教に努めた。
釈迦とは出身部族の名前であり、釈迦牟尼とは“シャカ族の聖者”と云う意味である。
歴史上、仏陀と呼べるのは御釈迦様しか居ないのだが、仏教では世界は人間如きには計れない程に長い時間を循環すると考えているので、
釈迦以前にも6人の仏陀が居ると説かれた(釈迦を含め「過去七仏」と呼ぶ)。
釈迦の教えが完全に忘れ去られる末法の世界には、弥勒菩薩が未来の仏陀として降臨すると予言されている。
ちなみに、よくインド人扱いされるが、生まれたのはネパールである。

■阿羅漢

原意は「資格を有する者」。施しや尊敬を集めるに足るある一定の域に達した修行者を指す。
学説も様々で大本の確たる定義も定かではないが、
大乗仏教に関しては「成道者だが、自ら開眼した仏陀と違い、他の聖者からの教えを受けて悟りを開き解脱した者」としている。
釈尊その人に「自分と同じ域に達した」と認めた500人の直弟達である五百羅漢と「過去七仏」を区別するといった意味をもつ定義だが、
宗派によって解釈はバラバラ。

■三法印

仏教に於ける人生に於いて知って、目指すべき三つの基本原則。

  • 諸行無常
世の凡ての物は絶えず変化し留まる事は無い。
  • 諸法無我
世の凡ては因縁により生じ、何物も独立はしないと云う事。
  • 涅槃寂静
煩悩を断ち切り涅槃に至れば、凡て無問題。

■三蔵

中国では『西遊記』でも有名な偉い坊さんの名前としても引き継がれているが、経蔵、律蔵、論蔵の三種の基本教典の形態の事。

  • 経蔵
御釈迦様の言葉を纏めた物。大乗仏教や密教の各根本教典も含まれる(釈迦の言葉の解釈と扱われる為)。
  • 律蔵
仏教教団の守るべき戒律を纏めた物。
  • 論蔵
仏典の注釈書。

この三蔵をマスターした僧侶を「三蔵法師」という。そのため西遊記の玄奘のほかにもこの称号を得た僧侶はいる。

■六波羅蜜

安心して彼岸に渡る為の修行法を6段階に分けて解説した物。

  • 布施波羅蜜
財や仏の教えを施し安心を与える。
  • 持戒波羅蜜
戒律を守る。
  • 忍辱波羅蜜
苦難に耐える。
  • 精進波羅蜜
仏道を極めるべく努力する。
  • 禅定波羅蜜
瞑想により精神を養う。
  • 般若波羅蜜
真理に至る智慧を得る。
※般若とは仏教用語で「智慧」の意味。


■六道輪廻

……の六道を指し、解脱をするまでは輪廻の転生の輪を廻り続けると云う大乗仏教の思想。
あるいは、輪廻は空間的事象や死後に赴く世界ではなく、心の状態を示しているともされる。
「神」の住む天道も衆生の一つに過ぎず死後はまた閻魔の裁きを受けて六道のいずれかに転生する。
仏教の天道では悟りを啓くこともできないし死すらある。
更に上位に仏の世界が位置するが、本来的には上位と云うより完全に輪廻から外れた世界であり、これを浄土と云う。


【仏の種類】


※本来の仏とは釈迦のみだが、仏教の成立によりバラモン教の神々や仏教の教義の解釈に伴い、様々な仏が考え出された。
尚、人が死後に仏や神になるのは一神教でないなら割とある。*2



■如来

梵名:タターガター
上記の様に本来「仏」とは如来のみを指す言葉であった。
成道者たる仏陀を指す言葉だが、大乗仏教の成立と派生により、様々な思想上の「仏」が生まれた。
釈迦に倣い、シンプルな修行者の姿をしているが、思想上の最高仏である大日如来のみは王者として煌びやかな冠と衣を纏う。

■菩薩

梵名:ボーディーサットヴァ
元来は修行中の釈迦が神格化された存在で、
転じて如来の前段階にある仏や、自らも修行中の身でありながら、衆生を救うべく菩薩の位置に留まる(と、された)仏をこう呼ぶ様になった。
菩薩とは梵名を漢訳した菩提薩埵を略したものである。
如来に比べて衣装が煌びやかなのは、王子であった釈迦の姿になぞらえた物。
観世音菩薩地蔵菩薩などが有名。

■明王

本来は密教独自の尊格だが首位の不動明王愛染明王は一般層にも信仰される。
如来が姿を変えた者、或いはその従者であり、悪魔や悪竜、悪鬼と云った救い難き者も仏陀の教えに力づくでも導き救う。
菩薩と同じく煌びやかな衣装を纏うが、戦闘専門らしく忿怒相で武器を携えた姿が多い。
持明者(マントラを操る者)の王者と云う意味。

■天部

バラモン(ヒンドゥー)の神々が釈迦の説法に感銘を受けて帰依(屈伏)した存在。
本来は密教独自の尊格だが、多様な現世利益の効能から日本の神々に混じり熱い信仰を得る。
仏教を広める存在では無い為に地位は低いが、非常に祟りが多く、本格的な信仰や扱いが難しい鬼神の類も多い。
四天王や、その主の帝釈天弁才天等が有名。
民間信仰にも良く取り入れられ、神社で日本由来の神様と仲良く祀られたりもしている。

■垂迹神

仏教の仏や神が神道や民間伝承の神と集合した存在。
古事記の神々は実は仏教の尊格の変身であるとするのが基本形だが、日本独自の尊格も生まれている。
「権現」や「明神」とは元々は垂迹神を指す言葉である。
ぶっちゃけた話が、各文化圏に適応すべく土着神とのすり合わせを行う、多神教で良く見られる習慣といったもの。

■三身

大乗仏教における、仏の3種の在り方。三身説とも呼ばれ、仏教を大衆向けに体系化する過程で生まれた解釈の一つ。
元々二身と定義されていた他、「そもそも完全な一である仏を分けて考えるべきではない」という意見も昔からあるが、主として次のように定義される。

■応身

仏が衆生を救済すべく、教えを広めるために現世に現れた姿。分かり易く化身とも言われる。
その代表とされるのが生前の釈尊。

■報身

仏陀となるための修行を成し、完全な功徳を備えた身。悟りを開いた者が入滅した、正真正銘の不滅の成道者。
神格化された釈尊である釈迦如来や大乗仏教の代表的な如来である阿弥陀如来薬師如来がこれ。
つまり、既に修行を経て仏となった者を指す。

■法身

仏陀の教えそのものとしての仏の身。要は、教えが不滅たる仏の身体ないし存在そのものである、という解釈に基づく。
教えの中に釈尊その人の人格や、そこから来る更に深い理解を得ようという発想から生じた概念とも言われる。
仏教の成り立ちの起源を釈尊以前にまで遡るばかりか、宇宙開闢をも越えた平行世界的な観点から見出だそうとした「華厳経」の盧遮那仏や、更にそれをも発展させたと考えられる、多元宇宙的な概念をも内包する密教思想の根源仏である大日如来をこう呼ぶのは、宇宙その物の法則とも呼ぶべき天然自然の理が釈尊を誕生させたのだ……と考えられた為。
つまりは宇宙の根元と=としての仏の本性こそが「空」であり、宇宙その物である故に、そこに存在する凡ての物もまた、等しく仏となり得る証となるのである。


【仏教の登場人物や教義をモチーフとした作品】

ブッダ手塚治虫
聖☆おにいさん(中村光)
仏ゾーン(武井宏之)
孔雀王(萩野真)
阿佐ヶ谷zippy(岩佐あきらこ)
悟れ!弥勒ちゃん(ぼるぴっか)
一休さん
西遊記
女神転生シリーズ
女犯坊(滝沢解)





追記・修正は自らの成すべき生き方を見つけ、輪廻より解き放たれてからお願いします。

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最終更新:2023年01月29日 12:36

*1 ※理由は複数あるが、その一因は、他ならぬ仏教教団が初期段階から師を神格化したことにある。

*2 ※実際にはキリスト教などにも聖人や殉教者への信仰があるので何と呼ぶか位の違いである。