徐庶

登録日:2017/07/06 Thu 18:12:25
更新日:2023/12/14 Thu 21:10:17
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徐庶(じょ-しょ) (?-?)
字は元直。元々福と言う名前だったが、後に庶と改名した。
豫州、潁川の人。

三国志の人物。劉備にかの諸葛亮を紹介したことで知られている。


【出身:単家】

出身地は豫州の潁川郡で、荀イク荀攸などと一緒。今で言う河南省の許昌市あたりである。
若い頃の徐庶やその家族については殆ど何も記録が残っていないが、それもそのはず、徐庶は当時の言葉で言う「単家」(あるいは「単寒」)出身だったのである。

単家というのは「一族内あるいはその近縁者に格の高い者がいない、規模が小さな一族」のことで、平たく言えば庶民の出ということ。

後漢末期と言うのは動乱・戦乱の時代であり、「つまり実力本位でどこまでも成り上がれた乱世」だと思っている人も多いだろう。
まあそれも確かに事実ではあるのだが、しかしこの場合の「実力」というのは必ずしも本人の才能だけを意味しない。

というかぶっちゃけこの群雄時代に名を上げた人というのは大半が豪族、官家、あるいは盗賊の出であり、つまりそれなりの財産(土地や郎党、部曲*1)や人脈を元から持っている人達だった。
彼らを採用するということは即ちその「財産」を自勢力に組み込めるということであり、当時の群雄たちにとってはむしろそちらの方が重要なぐらいだったのである。

勿論裕福な単家というのもいないわけではないが(魏の張既とか)、環境の変化に弱い単家としてはあくまで例外的なケースであり、徐庶の場合もそれほど金持ちであった様子はない。

つまり徐庶のような貧乏、かつ単家出身者というのは本当に社会的に小さな存在だったので、出自や若い頃の経歴についてはほとんどわからないのである。


【タイプ:侠】

だがそんな徐庶の経歴の中で、確実にわかるのは彼が若い頃「侠」の人だったという点。
「侠」というのは漢民族の文化というか道徳律の一つで、「法律や統治者、儒教倫理を無視してでも、個人的な友情や仁義を命を懸けて貫く」こと、またそういう生き方をする人、その人達の結社のことを指す。

まあぶっちゃけて言えば、徐庶は若い頃ヤ○ザだったということである。
それも曹操袁術甘寧といったボンボンの半グレとは次元が違う、冗談抜きでガチの筋者(しかも相当な武闘派)であった。

実際徐庶は189年頃、侠客として「人の仇討ちに手を貸して」殺人事件(多分)を起こし、お尋ね者になってしまったことがある。
一時は変装して逃亡するも結局逮捕されてしまうのだが、すごいのはこっからである。

逮捕された徐庶は役人の尋問に対して一切黙秘を貫いたため、役人は市街地で市民の前にさらし者にして素性を確かめようとしたが、市民は誰も答えようとしなかった。
そしてその後さらし者になっていたところを「仲間」が襲撃し助け出したため、再び自由の身となったという。

「官憲に名や顔を知られていない」
「逮捕自体を免れるほど公然たる力はない」
「しかし土地の人々に口をつぐませられるほど隠然たる力はある」
「逮捕されても(当然拷問も受けているはず)一切黙秘を貫く根性」
「官憲を襲撃して救出できる程の仲間がいる」
……などなど、明らかにそういう組織に繋がりがある、というか構成員そのものである可能性が極めて高い。

こういった侠客出身の人物というのは古代中国ではそれほど珍しいものではない*2が、基本的に歴史に残る程の大物になるとフィクサー級の「親分」であることが多く(劉邦とか)、現場仕事の経歴が残されている人物というのはかなり希少である。

まあそんな感じでスリリングな人生を送っていた徐庶だったが、逮捕されながらも一命をとりとめたことで何か思うところがあったのか、これ以後は剣を捨て、また派手なヤ○ザファッションも改めて勉学に励むようになった。

そして本格的に学問の道を進むためある私塾で学ぼうとしたが、塾生たちは徐庶が前科持ちの元ヤ○ザであることを知ると全く関わろうとしなかった。当たり前である。
しかし徐庶はめげることなく謙虚な態度で彼らに接し、自分の学問を深めていった。またこの頃、生涯の友となる石韜と出会っている。

しかし190年頃になると、中原では董卓と諸侯たちの抗争が勃発したため、徐庶と石韜は戦乱を逃れて平和な荊州へと移住することになった。


【荊州】

荊州での徐庶は、それなりに高名な名士である司馬徽(水鏡先生)が開いていた古文の私塾で学んでいた。
というか司馬徽は徐庶や石韜と同じく潁川の出身なので、あるいは以前から既に関係があって、師弟一緒に南へ避難してきたのかもしれない。

司馬徽の名声は荊州でも広まり、その門下にはホウ統韓嵩向朗尹黙といった荊州在住の学生たちが多く集まってきていた。
更に他国に移ったことで前科持ちの悪名も薄れたのか、ここでは徐庶にも多くの学友たちができる。
そしてそんな学友たちの中で、特に諸葛亮という年下の男と親しい友人になったことが徐庶の名を歴史に残すことになった。

当時の諸葛亮は、司馬徽から「臥龍」と称された才能の持ち主であり、兄は呉の孫権に重用されていて、親戚縁者には荊州の名士・豪族がずらりと並ぶ*3という若手の有望株だった。
だが「俺は古の管仲や楽毅に並ぶ人材だ」と放言したり、徐庶や石韜ら年上の先輩に対して「まああんたらでも郡のトップぐらいならいけるっしょ(俺はもっと上だけど)」と言い放つなど、典型的意識高い系のイヤな若造でもあった。

しかし徐庶は「実際に大口に相応しい才能がある」とそんな諸葛亮のことを認めており、当時荊州の新野で人材を求めていた劉備に会いに行って、諸葛亮をぜひ迎え入れるようにと進言した。
しかも「そんな人材がいるのなら是非連れてきてくれ」と言った劉備に対し、徐庶は「私が呼んでも来ないでしょう。将軍自らが足をお運びになって迎えられるべきです」ときっぱりこれを拒絶する。

(一応)漢の正式な左将軍である劉備に対し、仕官歴もない青年に礼を尽くして迎えに行けというのも凄い話に思えるかもしれないが、当時の価値観からすると名の通った名士を迎える際にはそれぐらい礼を尽くすのが筋だった。
またもちろん「我れ劉備は無名書生にもここまで礼を尽くすのだ。天下の異才よ、我が下に来たれ! その才能を用いるぞ!」というアピールにもなる。

ましてや諸葛亮の場合、その気になれば劉表や孫権といった大勢力にも簡単に仕官できるコネを持つ身分である。
劉備のような田舎町一つをレンタルしているに過ぎない弱小勢力なら、なおさら礼を尽くして丁重に乞い願うのがむしろ当然と言える。

そして徐庶の助言を聞き入れた劉備は、自ら三度も家を諸葛亮を訪問して仕官を願うことで、ついにこれを配下に加えることができたのである。


【方寸】

だが208年7月になると、旧袁紹勢力との決着をつけた曹操が荊州への侵攻を開始。
劉備は自分に無断で降伏した新君主劉綜に従わず、同年8月には自分に従う民衆を連れて南へと逃亡した。

これを知った曹操軍は急いで劉備に追撃をかけ、劉備本人とその側近こそ逃がしたものの、多数の民を捕獲して連れ戻すことに成功した。
そしてこの時捕まった民の中には徐庶の母もいたため、徐庶は「母が心配で、もはや劉将軍の力になることはできません。ここで別れさせてください」と劉備に告げ、樊城へと戻ってしまった。

……さてここで「あれ? 孔明はわかるけど、徐庶本人っていつから劉備に仕えてたんだっけ?」と思われた方もいるだろう。
そう、実は史書における徐庶には「劉備に仕えた」という記録がないのだ。

無論劉備の元から去ったということは、それまでは仕えていたと考えるのが自然だが、客分のような形であって厳密な配下ではなかった、という可能性もある。
というかこの頃の劉備の地位と立場を考えれば、この両者が厳密に区別されていなかった可能性もかなり高い(決まった給料を出せてたかどうかも怪しいし)。

まあそれはともかく、徐庶はこうして劉備や諸葛亮と別れ、曹操の支配下になった荊州北部に(親友の石韜と一緒に)残ることになった。


【in魏】

それからの徐庶に関してはほとんど記録が残っていないのだが、曹丕の治世には魏の右中郎将・御史中丞になっているので、曹操あるいは曹丕に仕官していたのは確実である。

また魏の郡国(王に封じられた皇族に領地として与えられる郡)の一つ、彭城国の相になった記録もあり、諸葛亮の予言通り「一郡のトップ」にはどうやらなれたようである。

没年も不明だが、『魏略』のエピソードから推定すると、諸葛亮の没後数年ぐらい(230年代後半?)で没したようだ。


【人物】

とまあなんだか異様にあやふやな経歴からもわかる通り、歴史上の人物としての徐庶は「諸葛亮を劉備に推薦し、その後は曹操に仕えた人」の一言で済ませられる程度の人物でしかない。
実際、陳寿が書いた「三国志」では伝すら立てられていないほどで、諸葛亮の推薦以外の事績というのも全く残っていないため、能力的な面に関しては不明としか言いようがない。

ただし徐庶の最終官職(多分)である御史中丞というのは、九品官人法においては四品にランク付けされるなかなかの高官であり、単家出身者としては充分に出世できた方ではある*4
また御史中丞は既に実権を失った名誉職に近かったが、本来は監察・弾劾系の職務なので、権威という面からはなかなか侮れない官職である。司馬懿陳羣のように、これをキャリアに挟んで出世していった人物も多い。
案外、魏国内でも徐庶の能力はそれなりに高く評価されていたのかもしれない。

また敵同士となった諸葛亮も、徐庶(と石韜)の官位を聞いて「あの2人ですらそんなに低い地位に留まっているとは、魏にはよほど人材が多いと見える」と驚いたと言う。


【創作作品におけるジョショ】

創作分野における徐庶は、一言で言うなら「人気は高いけど活躍は少ない」キャラである。

活躍の少なさについては、劉備軍への所属期間があまりに短く、また元ネタになる行動の記録もないためであるが、それと相反する人気の高さに関してはやや複雑な経緯がある。

◆ 第1部 ~官渡ムブラッド~ ◆

六朝~唐代にかけての時代、つまり三国故事(三国志創作)がジャンルとして確立する以前から、徐庶はなぜかそれなりの知名度を誇っていた。

これは「母の為に自らの志を捨て、孝を尽くした」という点が高く評価されたためだと考えられている。
儒教において「孝」、即ち両親を敬い大切にすることは重要な徳目とみなされており、徐庶はその点美談の主人公として十分な資質を持っていたのである。

六朝時代の道教書に、当時神格化されていた人物たちをランク付けした『真霊位業図』というものがあるが、徐庶は張飛関羽、孔明といった後の大スターたちを差し置き、劉備と共にこれにリストアップされている。
他に蜀から選出されたのは劉備の養子劉封のみであるが、劉封もまた「義父への孝ゆえに死を賜った」という点で徐庶に通じるキャラである。


◆ 第2部 ~戦董超流~ ◆

唐~宋にかけての時代、三国故事がジャンルとして確立し個々のキャラが個性を持ち始めたが、この時代の徐庶はそれまでとは打って変わって目立たない存在になっている。

というのも前述した経歴からもわかる通り、徐庶は三国志的な観点からすると「孔明を劉備に紹介した人」でしかなく、軍事・政事共に話のネタにできるような記録がまったくない。
また先述した通り、徐庶の立脚点は「母の為に劉備の下を去った」という点にあるため、他のキャラと違って活動時期が非常に限られていて脚色がしにくかったのも一因と思われる。

しかし「侠」「孝」という庶民好みの二大要素を備えた徐庶は人気という点ではやはり相当なものだったようで、これ以降「三国志のキャラ」として本格的な脚色が施されていくことになる。

例えば元代の小説『三国志平話』では、初めて「軍師としての徐庶」というキャラ付けが現れている。
もっとも当時の講談/小説らしく、軍師と言っても戦略や戦術を考えたり、謀略で敵を陥れたりするわけではない。
孔明やホウ統同様、術で風を起こして敵(曹仁軍)を炎に包み込むという魔術師的な軍師()である。

これは「孔明やホウ統の知り合い&同門」→「なら同じ軍師でいけるんじゃね?」という安直な発想によるものと思われるが、それ故に非常に説得力に富む設定であり、以降の徐庶にとって鉄板の要素となる。


◆ 第3部 ~スタ阿ダス斗クルセイダーズ~ ◆

元代を通じて徐庶の脚色はどんどん充実していき、明代初期に『三国志演義』が完成する頃になると以下のようなキャラになっていた。

◎「偽名が『単福』」
これは脚色と言うか作者の勘違いで、史書にある
「庶先名福、本単家子」……「徐庶は昔の名前は福で、もともとは単家(前述した通り、庶民の家)の出身である」
という一文を、
「庶先名福、本単家子」……「徐庶は昔の名前は福で、もともとは単さん家の出身である」
と、「単」を苗字として読んでしまったためだと考えられている。

◎「作中最高クラスの軍師」
孔明には劣るが、その他の軍師の中では最強クラスのキャラ。
孔明の加入前には劉備軍の軍師を一時期勤め、曹仁・李典率いる数万の魏軍をたやすく蹴散らした。
曹操軍の程昱が「彼の才能は自分の10倍はあります」と評するほどで、後には孔明と同等の知略の持ち主とされるホウ統の策も見破っている。

◎「母親を人質に取られて曹操に帰順させられる」
史実では「長坂で捕まった人の中に母がいたため、その身を案じた徐庶が自発的に離れた」のだが、「徐庶を帰順させるために、曹操が徐庶の母を狙い撃ちにしたため、泣く泣く離れた」という設定にされた。
このため徐庶は、劉備の下を離れる時に「曹操に仕えても献策は決していたしません」と堂々たるサボタージュ発言をしている。

◎「母親の脱モブ」
「離れ離れになってしまった老母」でしかなかった徐庶の母(徐母)がキャラとして自立した。
演義での徐母は曹操に人質、しかし形式としては賓客として迎えられ、
「御子息は優れた才能をお持ちなのに、道を誤っておいでです。逆臣劉備の下で働くより、私の下で漢室の臣としての正道に立ち返るようにご説得いただけませんか」
と丁寧に申し込まれるが、
「劉備様は仁君であり漢室の忠臣である!実際はお前の方が国賊&暗君じゃねーか、だれがそんな手紙なんぞ書くか!」
と怒鳴って、置かれていた硯を曹操に向かって投げつけるという忠烈かつファンキーな婆様となった。更年期障害か?
しかしその後程昱が徐母の筆跡を真似た偽手紙を送ったため、結局徐庶は母の身を案じて降ってきてしまうのだが、事情を知った徐母は
「どのツラさげてここに来やがった我が家の恥め!」と嘆き、そのまま奥に引きこもって首をくくって自殺してしまう。

この徐母は『漢将王陵変』の登場人物「陵母」を手直しして輸入したキャラとみられているが、劉備の仁、曹操の非道、徐庶の孝をそれぞれ強調させる効果的なキャラとなっており、観客人気も高かった。
……いや、徐庶的に言えばむしろ高すぎたというべきか。詳しくは後述。


◎曹操に帰順後も登場
赤壁の戦いの直前に、曹操の部下として再登場。
曹操軍に連環の計を仕掛けたホウ統の帰路に「曹操程度なら騙せてもこの私は騙せんぞ!」と立ちはだかり、ホウ統に最早これまでかと覚悟させた。
しかし実際は「私はいまだ劉備様に忠誠を誓っているので告げ口したりはしませんが、でもこのままでは私も焼け死んでしまいます。何とかなりませんか?」といっただけで、ホウ統から生き残るための策を授かると、喜んでそのまま見送る。
行動だけ見ると完全に腐れ外道である

……と、元々の原型を維持しつつも、キャラの格・重要度・活躍など多くの点に渡って大幅に引き上げられているのがわかる。

しかしそんな数多のアッパー補正を受けた演義徐庶だったが、同時にそれ故に生まれた強力なライバルの存在に悩まされることにもなった。
そう、かつてはなんの個性もないモブキャラにすぎなかった「年老いた母」こと、徐母その人である。

三国故事において曹操が痛い目にあわされるシーンはどれも人気なのだが、老いて無力、しかし善良忠烈な徐母が命も顧みず曹操を貶めるというモチーフは特に大ウケした。
キャラ成立以降の徐母は、かの禰衡と並び「罵曹」(曹操をディスる演目)の双璧として人気が沸騰し、本来メインであったはずの息子を完全に食ってしまうまでの人気キャラになってしまったのである。

初期の三国志演義の版本(李卓吾本)でも「徐母は敬うべき偉大な人物であるが、孝のために忠を捨てたのに母を自殺させてしまって孝を全うできなかった徐庶はマヌケである」と完全に「徐母>>>徐庶」にされているほど。


◆ 第4部 ~藤甲兵は砕けない~ ◆

そして清の時代になると、毛宗崗の手によって三国志演義が概ね現代に残る形に完成した。
毛版での徐庶はやや扱いが向上し、「徐母は漢に対し忠節を貫いた偉大な母であり、また母を自殺させてしまったとはいえ、それは曹操が外道過ぎたためしかたないことで、徐庶もまた孝の道に恥じぬ立派な人である」と両者に花を持たせて曹操をさらに貶めた形に落ち着いている。

しかしこの時代以降、庶民向けの三国故事のメインとなった京劇などの演劇分野では、徐庶は依然として母の脅威に悩まされていた。

演劇における三国故事(というか長編ストーリーもの全般)は、基本的に1話づつ上映される連続ストーリーではなく、「名シーンを個別に演目化したもの」の集合体である。
だが徐庶の唯一の活躍シーンである「新野・樊城の戦い」は(孔明のデビュー戦である人気演目『博望坡』ともろ被りするため)ろくに舞台化されず、一方で徐母が主人公の『徐母罵曹(あるいは撃曹硯)』は人気演目として相変わらず大きな地位を占めていたのだった。

ただ母親に食われ気味であったとはいえ、徐庶の人気や扱い自体は決して悪いわけではなかった。
例えば民国時代の火葬仮想戦記小説『反三国志演義』でも、「孔明の策で徐庶が劉備陣営にとどまる」ところからifルートに突入することになっており、その存在感の大きさがわかる。


◆ 第5部 ~黄権の風~ ◆

そんな感じで中国ではやや微妙な感が否めなかった徐庶だが、現代三国志エンタメの出発点となった日本では一転してかなりの人気者になっている。

この現象はおそらく、日本における「曹操への好感度の高さ」に起因するところが大きいと思われる。

中国伝統の三国故事では、曹操は単なる極悪人とされることが多いが、日本では現代三国創作の出発点とも言える『吉川三国志』『横山三国志』をはじめ、三国志の主役の一人としてある程度ヒロイックに描く方が圧倒的に主流である。

よって三国故事の重要な一部を占める罵曹も日本では全然人気がなく、必然的に禰衡や徐母の扱いも小さい。
そうなると徐庶は元々中国でも「人気はあるけど、母親の存在感がでかすぎる」というキャラなので、母の圧迫がなくなった途端に人気やキャラ性能が急上昇したのはむしろ当然だったと言える。

こうして母親のオプションという呪縛から離れた徐庶は、「孔明やホウ統と同門の軍師で、後に袂を分かって敵の陣営についた」という属性の方が重視されることが多くなり、キャラとしても大きな変化を遂げている。


『横山三国志』

あまりにも個性的なカニ型ヘアーが特徴の徐庶。子供の頃に読んだ横山三国志から三国志に入ったファンなら、「徐庶=カニ」のイメージが染みついていても不思議ではあるまい。
ちなみにこの徐庶、髪型と顔以外は中国の連環画三国志からそのまんま流用されているのだが、カニヘアーのせいで全然イメージが違って見える。
漫画と言う形式上、ストーリーをあちこち端折っている横山三国志だが、徐庶関連は一切省略なしで丸々描写されている。
ビジュアル的なインパクトも含めて扱いは上々であり、子供の頃にこの作品を呼んで徐庶のファンになったという人も多いかもしれない。
アニメ版でも徐庶のエピソードは丸々収録されている。


蒼天航路

横山式の「道服を着たサリーちゃんのパパ」と180度違うスキンヘッド徐庶。
それに加えて元刺客という経歴を反映させたのか、顔全体が刀傷だらけでさらにやばいことになっており、最早歴戦のヤクザにしか見えない。
しかしそんな外見とは裏腹に、奇人変人に事欠かない蒼天航路の中では逆に浮いてしまうほど常識的な人格の持ち主で、むしろキャラ立ちが弱く感じてしまえるほど。
出番の最後は、後の世に「劉備に諸葛亮を紹介した男」としか認識されないのでないかと気づき絶叫するというなんともいえないものであった。
なお、この辺りの気が触れたような描写、その後まったく登場しないこと、などを鑑みるに、完全に発狂して廃人化した可能性が高い。
とどめに曹操が当時の諸葛亮を認識できなかったため、徐庶の発狂も忘れられた模様。むごい……


『天の華・地の風』

その筋では有名なドキッ!ヤンホモだらけの耽美系BL三国志。
主役である孔明との関連性を中心として脚色された徐庶で、登場から死に至るまで主要キャラの一人として活躍?する。
孔明の知人にして仇敵であり、魏に対するスパイであり、それでいて孔明の命を狙う刺客団「赤眉」の重鎮でもあるというなかなかに複雑なキャラ。


コーエー『三國志』シリーズ

孔明やホウ統には一歩劣るが、それでも最強クラスの知力と一級の統率・政治・魅力を誇る優秀な人材。
また同門の二人に比べ、元武闘派ヤクザという設定からか武力が倍近く高く(といっても武官には負ける程度なのだが)、戦闘システムによっては彼ら以上に活躍できることもある。
孔明を仲間にする三顧の礼のイベントを起こす際にも、彼が劉備陣営にいないといけないので地味に重要。
顔グラ面ではそれほど特徴がない文官型だが、VIあたりから20~30代っぽい若手のヒゲ有りイケメン文官フェイスで固定された。
しかし顔のデザインは固定されたものの髪型が一向に定まらず、無難に帽子をかぶってみたり、ラフに髪留めだけにしてみたり、浪人チックなナチュラルロングにしてみたりと試行錯誤している。
ⅨやⅪでのチュートリアルで劉備と一緒にはしゃぎ回る姿は必見。


『三國無双』シリーズ

孔明・ホウ統という2大軍師がいたせいか長らくモブに甘んじてきたが、モブの身でありながらもストーリー上での活躍は多く、Empiresでも高めの能力値を与えられるなど優遇されてきた。
そして6empiresで武器:撃剣、CV:私市淳でついに待望の脱モブを果たす。
一応蜀枠での参戦だが、「元は武人だが兵法を学び、仕えるべき主人を探して荊州をさすらっていた野良軍師」という設定で、劉備と曹操の双方に仕えたことを無理なく設定に落とし込んでいる。
無双は曹操を主役の一人として肯定的に描いているため、演義のように曹操にいやいや面従腹背するというキャラではちょっとまずく、そのための脚色と思われる。
7に置いては蜀伝と魏伝両ルートにおいて、彼の加入がifルートへの突入条件の一つであるため非常に重要な役割を果たす。
現代日本の三国志モノらしく母親の設定はほとんどカットされており、孔明やホウ統といった同門、そして2人の君主である劉備と曹操との関連性が重視されているのも特徴。
8では新野での戦いがクローズアップされる形で展開されるが、彼を操作出来るのは実質この戦場のみと出番が非常に少ない。7のような魏での活躍というものはなく、史実エンドでは魏では文官として活躍するが実質それだけ…というなんとももやもやする形で締めくくられる。
後に発売されたDLCでは追加シナリオの一人に選ばれ、母親の身を案じてすぐに許昌へ行かずにもう少し行動することでIFシナリオへ移行する。彼の母親もここで初めて登場し、曹操へ帰順せず劉備に仕えるように発破をかけてくれる。このIFシナリオでは劉備が劉表から荊州を継ぐように奔走し、孔明との関係もより強調されたシナリオとなっている。
一方、8での徐庶は基本的に蜀寄りの人物として描写されており、曹丕や郭嘉のIFシナリオでは魏にいながら裏で蜀へ物資を横流ししていることが判明し、戦場では敵に回ってしまう。
固有武器の撃剣はスタイリッシュ&広範囲というなかなかの強武器で、固有性能の面でも強力な乱舞と固有技をもち隙が無い。8では将剣となり、他の武将とのコンパチになって残念がられていたが、後のDLCで撃剣が追加されて一応以前のようなスタイルに戻すことも出来るようになった。有料だがな!
この高い性能、そして妙に自信のなさそうな性格、厨二病をくすぐるビジュアルと相まって、登場直後から圧倒的な人気を集めている。


SDガンダム BB戦士三国伝

SDガンダム達が三国志の登場人物に扮する三国伝シリーズでは、徐庶ジェガンとして登場。
孔明νガンダムとホウ統ヤクトドーガに合わせて逆襲のシャアのMS繋がり。

全体的に少年漫画的アレンジが行われている三国伝なのだが、この3人の関係は特に異質。
ホウ統が劉備ではなく曹丕(と司馬懿)に仕える軍師として孔明と宿敵関係にあるという、それ徐庶のポジションじゃねえの!?といわんばかりの設定なのだが、これは彼ら2人の過去にあった。
水鏡ガンタンクに師事する3人の弟子のうち、孔明は伏龍、ホウ統は鳳雛と称されていた。
徐庶はならば自身は虎となり、2人に並ぶことを宣言。孔明・ホウ統も驕ることなく研鑽を続けるよき友であった。
しかし董卓軍との戦いで、友と民を守るために徐庶は戦死。劉備・曹操とは会ってすらいない。
無力を感じた孔明は世捨て人となってしまい、ホウ統は力を求めて司馬懿の元へ向かうのだった。
劉備の軍師としての活躍を見たかったという徐庶ファンには残念な結果であるが、過去回送のみの登場ながらケロケロA版・コミックワールド版ともに存在を語られており、孔明とホウ統の関係を語る上では欠かせない人物となっている。


三国志大戦

あまり出ているような印象はないが、意外と枚数が多い。設定的には演義準拠。

1枚目は蜀のR。固有のダメージ計略落雷を持っているものの、1.5コスト騎馬ながら3/9伏兵とやや見劣りする。
それでも高知力伏兵・ダメ計持ちであることと騎馬なので対象を吟味しやすいことが強み。
とはいえ1.5コストで武力3しかないと流石に総武力に難が出るため、同じく武力難のSR劉備と噛み合わせが悪いためこちらは専ら局地戦タイプのデッキや高知力を求められる桃園、降雨落雷などに用いられた。
だがVer3で武力が4に上方修正され、汎用性の高さから使用率が一気に爆発した。
2枚目はVer1.1で登場した魏のSR。雲散霧消の計を持つが、性能は槍兵で3/9伏と蜀の未練たらたら。やる気のなさに従って使用率も伸びず排出停止。ただし価格は非常に高かった。
3枚目はVer3になって登場したRの蜀の軍師。転身増援と移動舞陣とニッチながら需要をしっかりと満たしていたためなかなか使用率が高く、武将の方の自身とシェアを食い合うことにもなった。
4枚目はVer3.59で登場した蜀の武将で、久々にSRで登場。騎兵で6/9伏兵募兵と相変わらず武力に難があるが、士気7と非常に重いながらカードの方向によって効果が変わる旋略を引っ提げて登場。
上方向が計略無効&武力+5と非常に優秀で、効果時間もまずまず。妨害計略が強化されると相対的に使用率も伸びた。
下方向が敵全体に威力の低い落雷1本。落雷は2本3本をまとめて落として確実に倒すことが求められるので、こちらはコンボなしにはあまり使われなかった。

新版は再び蜀のR徐庶がベースとなった。
騎兵で4/9落雷といった基本は変わっていないが特技は剥奪され、更に計略の威力はどんどん低くされている。
ただそれでも桃園需要は健在。騎兵であることから小回りが利きスペック自体も悪くないため、根強いシェアを持ってい
最近は武力4特技無しが響きに響きまくってどうも死に体。何せこの場に及んで「撃剣使い」である事が反映されて武官(つまり一騎討ちする)になっちゃったから…。
忘れられたころに伏兵が戻ってきて往時のスペックとなったが、大体手遅れ。全てはコストと計略が同じで武力が高い雷銅のせいである…
ついでに魏にも懐かしの元雲散が復活。こっちは2/7伏兵の槍兵。ついでに文官。
計略もほぼ変わっていない。雲散の名は消えたが雲散もする。ただ、単体対象の割に士気5なので無駄打ちは厳禁。

新版三国志大戦をベースにしたパズルゲーム「さんぽけ」では劉備の嫁である甘夫人を診察するシーンがある。
旦那の子を身籠った嫁に「お宅の旦那に惚れてます」と言い放つなかなかの剛の者。*5

三極姫

1〜3では見た目は非常にイケメンなのだが、幼女大好きのロリコン
若者というキャラ付けをされているためか「」時代の彼に近い筋者で専用スキルも「超絶撃拳」という敵に攻撃を与え自身の武勇を上げるといった技となっている。

鳳雛こと龐統とは師弟関係で乱世になっても機を待ち籠り続ける姿にうんざりして師の元を離れている。
その後は喧嘩にあけくれる日々をおくっていたが、とある女性に一目ぼれして告白するも、「頭の無い男は嫌い」と断られ、暴力を封印し、自称「愛の軍師」として学問を志す日々を過ごすもすぐに短気な素が出てしまう。

1〜2の蜀シナリオでは軍師サイドの主人公と呼べる程に見せ場が非常に多く、戦いを積み重ねて次第に軍師としての才能を開花させている。
幼女に目がないのだが、もう1人の師となる諸葛亮が自分よりも長く生きてることを知った後は彼女をババアと呼んでいる。
粗暴な魏延とは犬猿の仲ではあるが2人で連携し、鄧艾から成都を守る活躍をしている。

4からは女体化して大幅にキャラも変わっていた。




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最終更新:2023年12月14日 21:10

*1 私有民・私兵

*2 そもそも当時の侠客自体、今で言うマフィアや幇などといった組織ほどイリーガルなものでもない。民間互助組織、もしくは用心棒組合といってもいい。

*3 例えば、諸葛亮は荊州ナンバーワンの実力者・蔡瑁と縁があった。蔡瑁の次姉は劉表の妻だが、長姉は黄承彦の妻。その承彦の娘婿が諸葛亮なので、諸葛亮は劉表・蔡瑁の義理の甥になる。

*4 記録に残っている限り、魏での単家出身者は九卿(三品)クラスが出世の上限

*5 無論アッー!な意味ではない…と思いたい