五代目三遊亭圓楽

登録日:2017/04/02 Sun 23:10:46
更新日:2024/04/01 Mon 22:41:25
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酒は米の水 水戸様は丸に水 意見する奴ぁ向こう見ず
といったところで笑点お開き!!また来週のお楽しみ、ありがとうございました。


五代目三遊亭圓楽(旧名・三遊亭全生)(1932~2009) は日本の落語家。
東京都台東区出身。本名は吉河寛海(よしかわひろうみ)
没後、弟子の三遊亭楽太郎が圓楽の名跡を継いだが、彼は「圓楽」は師匠が大きくした名前であるとして、
圓の字を新字体にした六代目三遊亭円楽を名乗った。


落語家としての概要

1932年(昭和7年)12月29日*1、浅草の浄土宗の寺院に生まれる。
本名の「寛海」は童謡でお馴染み「海」の冒頭「海は広いな大きいな」に由来し、笑点で「海」を題材にした問題が出題されたときに本人の口から語られた。
元は武家であり、祖先の一人はかの秀吉による「鳥取の餓え殺し」によって滅ぼされた吉川経家(きっかわつねいえ)である。
圓楽の曽祖父である常家が切腹し、それを祖父・寛雅は立ち会っていたことから武士の悲惨さを嘆き僧侶となったという。明治に入ってから、寛雅は川の字を河にして吉河(よしかわ)と苗字を改めた。
ちなみに後年、常家の銅像が建立される際、像のモデルの一人として圓楽自身も呼ばれたとか。
戦後、上野の鈴本演芸場で落語を見たときに「戦争で暗い顔になった人を笑わせる落語は凄い」と落語家になる決意をする。
最後まで自分の面倒を見てくれる可能性のあった当時50代の6代目三遊亭圓生に「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門。三遊亭全生を名乗る。

この全生という名前に関しては後年自身が枕のネタとして度々話していたが「相撲部屋に行くと「縁起が良い」と喜んで迎えられ、逆に火災現場へ向かうと「縁起が悪い」と追い出される」という、つまりは「全勝」と「全焼」に引っ掛けた洒落が入った名前だった。

「噺は上手いが圓生の真似」と言われ伸び悩むものの、母親の「お前は名人だよ」の一言で自分には応援してくれる人がいるとの思いでスランプを脱出*2
その後は端正な顔立ちと博識で人気を博し、入門から7年目という超スピード出世により真打昇進を果たす。
このことから後にキャッチコピーを「名人圓楽」としようとしたが師匠らに怒られ「星の王子様」に変更した。

師匠圓生と犬猿の仲とされた八代目林家正蔵(彦六)は自分以上に短気な全生を気にかけており、「お前さんも気が短いようだが、私も気が短くて苦労をした。だから気は長く持たなければいけないよ」と窘めると共に稽古をつけるようになる。圓生はあくまで正蔵との諍いは個人間の問題として捉えていた為弟子が正蔵に稽古をつけてもらう事に対して特に咎めはしなかった。
真打昇進の際には既に四代目圓楽は死去していた為、三代目圓楽であった正蔵が二つ返事で了承し「五代目三遊亭圓楽」となった。

大量真打昇進問題を契機に師である三遊亭圓生と一門と共に1978年に落語協会を脱退し、新たに「落語三遊協会」を結成するものの、師圓生の人間性の問題や三遊亭一門の中での人間不信から来る不和、更には席亭側の支持を得られず寄席から締め出しを喰らい地方巡業を余儀なくされる。

また、一時期は全幅の信頼を置かれていた師圓生との関係もこの頃からギクシャクし始め、圓生の急死後に落語三遊協会は解散、圓楽の直弟子以外は全員が落語協会に復帰するも圓楽と彼の一門は大日本落語すみれ会(現:五代目円楽一門会)を結成し、圓楽の死後も独自の道を歩んでいる*3

笑点引退後の2007年2月に自分の進退を賭けて本番の半年前から稽古して「国立名人会」で高座に上がったが、脳梗塞の後遺症で以前ほど上手い噺ができず、自身もその出来に納得できず落語家としての引退を決意した。
その後はテレビ出演などからも退いたが、弟子の真打披露口上では公の場に姿を見せていた。
また、笑点のスポンサーでもある日本香堂の「毎日香」のCMナレーションを長年務めていたが、こちらについては引退後も亡くなるまで続投していた。*4
2009年10月29日に転移性肺がんにより死去。
生前に「どこの馬の骨に圓楽を名乗られるか分かったもんじゃない」と楽太郎に圓楽を継がせる事を表明するものの、6代目圓楽襲名に立ち会い、5代目と6代目で共演することは目前にして叶わぬ夢となった。
ちなみに6代目襲名後も存命だった場合、5代目圓楽は隠居名を名乗らずに本名の「吉河寛海」に戻るつもりだったが、楽太郎が「師匠が落語家でなくなってしまう事」を強く反対した為、5代目と6代目が併存する形式を採る予定だった。つまり、予定通りなら先代側が一線を退いてるとは言え、5代目と6代目で二代の圓楽が同時期に存在する事になっていたようだ。

存命中の落語は豪放とした声で非常に聞きやすく、マクラで出す武家や公家、「死神」に出てくる陰気な死神などでは「この人からこんな声が出るのか」というほど声色ががらりと変わる。
人情噺が得意なイメージが強いが、面長で細目でオールバックという濃い顔から繰り出される表情の演技も相まって滑稽噺の切れ味もとんでもない。話の筋に忠実でそこまで大胆なアレンジは加えていないこともあり、笑点の司会でなじみがある方には落語の入門としても勧めやすいものだった。
一方でかなり緻密大雑把なところもあり、「目黒のさんま」を演じている時にさんまをまずいと言ってしまってさんまを大量に食べる筋にしてごまかしたり、「さんま」を間違えて「いわし」と言ってしまいそのままいわしで通したり、小道具の扇子を忘れてキセルを吸う演技ができないので手拭いを丸めて代用したり(桂歌丸曰く「あれじゃカポネだよ」)、「芝浜」で「こんな朝早くに出なくちゃいけないなんて。魚屋なんてなるんじゃなかった」というべきところを「噺家なんかなるんじゃなかった」と言ってしまったりという面白い話がいくつか残っている。


逸話

寄席や笑点で思い浮かばれる豪快で大笑いする好々爺のイメージが強いが、楽屋裏では芸事や師弟関係に厳しく(楽太郎曰く「怖いんじゃなく厳しい」)、
笑点司会就任直後に新しく弟子となった*5林家九蔵改め三遊亭好楽を「古典落語を修行させる」という名目で一旦降板させ、5年後に復帰した時も一番司会席寄りの1枠に置いた*6
このため、好楽は隣に師匠が居ることに萎縮してしまい、ついには顔色を窺うあまりまともに回答できなくなることが続き、笑点の収録前に楽屋裏で好楽がその日の自己紹介を披露した所、面白くなかったと言う理由で大目玉を食らわせ、あまりの剣幕に好楽は本気で引退を考える程落胆したという(この時は歌丸の取り成しで事なきを得た)。
この事態を見かねた小遊三が自分と席を入れ替えさせ、その席順が1992年から2021年まで続いた。
当然、後に六代目円楽となった楽太郎に対しても厳格に接し、プロデューサーに諭されるまでは呼び捨てで指名したり*7、回答でスベった時は「楽太郎はダメ!笑点この辺でお開き!」と〆のあいさつで駄目を出し、時には座布団運びの山田君に扇子でシバかせた事もあった。
その後も弟子達は折に触れては小言をネタにしており、6代目三遊亭圓橘*8は「圓橘とクリントンは同い年だよ」と注意されたことを、6代目円楽は「これは小言じゃないよ」と言われたら小言が始まる合図だったことを語っている。

加えて極めて短気な性分であり、偏頭痛に悩まされていた時は風の音にすら腹を立て「うるせぇ!」と怒鳴る程であったとされ、
全生と名乗っていた二つ目時代に懇意にしていた音曲師柳家小半治の死を聞き、先輩噺家の7代目橘家圓太郎と2代目古今亭甚語楼に葬儀の場所を尋ねた所
嘘を教えられ葬儀に立ち会えなかった事に腹を立て、後日楽屋で二人を見つけて口論となった。
そこへ圓太郎の師、八代目林家正蔵(彦六)が現れ「後輩の癖に生意気な口を利くな、俺が相手になってやるから表へ出ろ」と一喝され、逆に「上等だ相手になってやる」と大先輩に突っかかった事もあったという。
一応小遊三曰く「歳を取るごとに丸くなる」ではあったらしく、最後の弟子である三遊亭王楽*9も晩年「怒るっていうのはエネルギーが要るもんなんだなぁ」と言っていた事を覚えている。

また弟弟子に当たる三遊亭圓丈によれば、マスコミ受けが良い八方美人な上にホラ吹きの気があるとされ、かなり好き嫌いの分かれる人物像であったという。圓丈は自身の著書の中で前述の落語協会分裂の首謀者は圓楽であると断言し、圓生の死以降両者の対立が表面化した*10
それに関連してか、一時期は全幅の信頼を置いていた師の圓生とも晩年は不仲となり総領弟子にもかかわらず圓生の死後、未亡人との不仲から「圓生は留め名にする」と宣言されてしまい、師匠の名跡を継ぐことはなかった。

逆に相性の良かった相手の1人が林家木久扇で、前座時代から面白いことをする奴だと気に入っていたとのこと。
そしてよくニコニコしながら彼が何をするか楽しみにしてることがあったらしい。
笑点の高座では当時木久蔵だった彼の答えを聞いてゲラゲラ笑いながら「くだらねえ!」という場面がよくあったが、どうやら木久蔵のくだらない答えが本当にツボに入ってようだ。
楽屋裏では当初伸び悩んでいた木久蔵にアドバイスを送ったこともあったとのこと。

一方で、自分を厳しく律する場面も見られ、笑点の司会者として引退した直後に日本テレビから受けた取材では、自分の晩年の司会を振り返って「テレビに失礼だ」「もう少し早く()くべきでした」と発言している。自分の名を広く知らせたテレビには恩義を感じ、笑点の司会者を引き受けたのも恩を返す心持があったが、そのテレビの場で情けない姿を見せるのは申し訳ないと感じたと思われる。

大の甘党として知られ、弟子達を集めて説教をする際には羊羹*11とハサミを持ってきて説教をはじめ、羊羹の上の部分をはさみで切りとるとまるでバナナでも剥くようにしてそのままかぶりついていたという。
弟子たちはその羊羹を食べる様の方が気になって説教の内容などほとんど頭に入らなかったという。
しかも話が長い場合は2本目を食べ始めることもあり、弟子達は身体を心配したという。
また控室に苺が置かれていたとき、苺を盛る器や苺スプーン、コンデンスミルクがあるにもかかわらずそのままヘタをとって食べはじめ、誰にもさあ食べなさいと言うこともなく黙々と食べ続けた。
楽太郎がコンデンスミルクがあってそれをつけて食べたらと勧めるとコンデンスミルクをそのまま吸い「腹に入っちまえば同じだ」と答えたという。桂歌丸と林家木久扇の前でコンデンスミルクをそのまま一杯飲み干したという話もある。
一方酒は全く飲めず下戸であった。

大変なヘビースモーカーで、肺がんで入院している時に見舞いに来た歌丸(この人もヘビースモーカーだったが圓楽の死を切っ掛けに禁煙している)に「歌さんタバコ持ってない?」と尋ねて呆れさせるなど、落語家らしいエピソードにも事欠かない。
非常な寒がりだったようであり、「靴下の上から足袋をはいた」「タートルネックのセーターの上に羽織を着て、弟子に止められても『客は素人だよ?分かりゃしねぇよ』と意にも介さなかった」「どてらの上にそのまま羽織を着て高座に上がった」などすさまじい話がいくつか残っている。

一門創設後は若竹の借金返済のため全国各地で講演や落語会を行っていた。同様に講演活動を行っていた永六輔氏によると、講演先で「ここに有名人は来たことあるか?」と質問を振ったところ、必ずと言っていいほど圓楽の名前が客から返ってきたという。
「星の王子様」なんてあだ名からか、1968年に映画『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』にちょっとだけゲスト出演した際、王子様ならぬ異星の貴族役を演じていた。

1986年の参議院選挙には出馬を打診されたことがある。これは、自身が衆議院議員や文部大臣を歴任した灘尾弘吉と親戚関係にあったことも縁があり、圓楽自身もラジオ番組で社会問題等に積極的なコメントをしていたことから打診があったとされる。

意外な趣味として麻雀があり、しかもそっちでの腕前も名人の域という雀鬼ぶり。
自宅近くの雀荘が行き着けの場所であり、暇になれば下駄を履き、弟子の誰かを引き連れて足しげく通っていて、先述の通りの腕前であった為に雀荘の常連達は玄関先から下駄の音が響いてくると戦慄したという。*12
また雀荘のみならず自宅でも商品券やお歳暮の余り等をダシに賭け麻雀も良く開いていたが、甘言に誘われてホイホイ勝負に乗ってしまった人の末路は好楽曰く「大抵はケツの毛どころか産毛に至るまでむしり取られた」とのこと。
その影響か、麻雀漫画「むこうぶち」では圓楽をモデルとしたキャラが三游会の若武(わかたけ)という代打ちとして登場する。

また、読売ジャイアンツファンであり、笑点の高座ではジャビットの描かれたオレンジの柄付き扇子を愛用していた。巨人ネタは落語のクスグリにも使われており、分かりやすいところでは落語「死神」で死神が恨み節を吐くシーンで「お前が余計なことをしてくれたおかげで、俺は二軍に落とされた」「多摩川*13行っちゃうの!?」と言ったりする。

日本航空で客室乗務員をしていた妹がいたが、1972年にインドのニューデリーで墜落事故に遭遇し、23歳の若さで亡くなっている。
その事故が起きる時間の直前、圓楽は実家の本堂で寝ていたものの誰も居ないはずの本堂に急に木魚の音が一つ響き渡り、驚いて目を覚ましたすぐ後に訃報が届き、また驚かされたという逸話がある。
生前に実家の寺院に建てた自身の墓の隣には先述の早逝した妹の供養観音があり、毎年彼岸の時期になると手を合わせに来ていたという。
なお、圓楽自身はその13年後、メンバー全員で笑点の地方収録で徳島へ移動する時、本来搭乗予定の飛行機が遅れていたので日本航空123便に振替しようとしたが、こん平の提案で本来乗る飛行機で行くことになり墜落事故を免れている*14

笑点メンバーとしての概要

4代目司会者で笑点黄金時代を支えた元回答者で名司会者。司会の期間は23年と歴代では最長。
その柔らかな話し方はまさに「お耳の恋人」。圓楽の名はこの人が大きくしたと言っても過言ではない。
若い頃は立川談志らと共に四天王と呼ばれており、そのイケメンさと相まって「星の王子様」また回答者時代には紫の着物を着ていたことから「ラベンダーマン」とあだ名されて多方面に進出。
他の回答者とは一線を画し、挙手が少なく綺麗な答えをひとつふたつ言うスタイルで個性を出して人気を確立した。
面長な顔から「競馬新聞」「馬刺し」など馬面やに関するネタを言われることが多く、たまに高座でそのネタに触れたり、馬の話でお客さんが自虐だと思って笑うと「自分のことじゃないですよ!」と言ってさらに笑いを取ったりしていた(本人曰く顔の長さは28センチ)。
OPでも乗馬を嗜んだり、殿様姿でペガサスに乗ったりするほど。別名、モアイ像。
定位置は5人制だった談志時代は中央の席、6人制となった三波時代は4枠。この席は後に歌丸→昇太林家三平と受け継がれ、いずれも司会者になっていることから「出世頭の4枠」と言われることも。

回答者時代に獲得した座布団10枚の賞品は棒と茄子でボーナスだったり、英国ダービーが見られる権利を獲得したが旅費は自腹だったり、挙句の果てには胴上げされたはいいが誤って落とされて足を負傷したり*15貧乏くじを引かされてばかりいた

笑点以外のテレビ番組にも出演し「落語家タレント」として人気を博していた頃、1977年に師匠である6代目圓生から「最近の圓楽はテレビに出すぎて芸がふわふわしている。安っぽい芸人で終わる気か」と諭されたことを機に、落語に集中するために全レギュラー番組を降板。降板前にはポストに入りきらず足元にも置いてあったファンレターを見て「売れていくと人間ダメになる」と本人にも葛藤があった。
翌年には前述の通り落語協会を脱退する。

1983年1月、前年暮れに急逝した三波伸介の後任として笑点4代目司会者に就任。
三波が白の着物を着ていたのに対し、当初は2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたためか、様々な色の着物を着て出演していたが、同年9月から紺色の着物に定着した。回答者時代、定紋は圓生一門の紋である「三つ組橘」を使用していたが、司会就任後は楽太郎との差別化の為か「丸に桔梗」を使用していた。

40分時代は、大喜利の答えの合間に都都逸を披露したり、落語に専念していた頃に学んだ知識を生かして「圓楽のよろずガイダンス」というコーナーで落語にまつわる話を披露するなどしていた。

司会者になってからは回答者を次々と指し、進行にテンポとスピード感を出す時代に即したスタイルに変更。
また、三波時代の司会者の強烈なキャラクターを軸としたスタイルからメンバーひとりひとりにスポットを当てて全員を主役とするスタイルに移行し、笑点を国民的な番組とするのに大きく貢献した。

メンバー全員で一つの家族を形成しているという考えと、馴れるのに時間が掛かることからメンバーの入れ替えはほとんど行わず、1988年の好楽復帰後は2004年にたい平が加入するまで16年間同じメンバーで通した。なので読者の中には笑点といえば未だにこの時期のメンバーを思い浮かべる人が多いことだろう。特番などではバスツアーや前述の寺院訪問など、メンバー全員によるロケ企画も頻繁に行っていた。
こん平が長期離脱を余儀無くされた時にもプロデューサーから弟子の誰かを後釜に据えれば良いのではないかと案を出されたが、「それなら山田君を座布団運びから昇格させた方がいい」とまで言った程*16
実際司会末期に加入した林家たい平は、圓楽自身が名前を憶えていないので指される事が少なかった*17事を明かしている。
座布団運びを紹介する時は、三波時代に散々いじられていた松崎真に対しては「交通安全の守護神」、四半世紀経っていじられることになる山田隆夫に対しては「山椒は小粒でピリリと辛い」「江戸川のスター」などと、あくまでも賞賛するようなキャッチコピーを言っていた。

エンディングでの締め文句はほぼ「と言ったところで、笑点お開き」。この挨拶でおなじみの人も多いことだろう。
一説によれば、当時は長年笑点の看板的出演者だった小圓遊と三波が立て続けに急逝し、「笑点に長く出続けた人はよろしくない死に方をする」という曰くまでついていたため、縁起担ぎの言葉である「お開き」を使ったのではないかと言われている。
なお対となるオープニング直後の演芸紹介でも(はな)は(芸人・グループ名)、どうぞ。」と「花・華」に通じる縁起の良い験担ぎ挨拶をしている。
他方、回答者としての出演経験を持つ初の笑点司会者ということもあってか、彼の司会就任と同時に「次期司会ネタ」が開始、以後司会が歌丸、そして昇太へと受け継がれた今日まで続くこととなる。

この間、1985年に自費で江東区東陽町に「若竹」という寄席を建設したが、立地の悪さ*18に加えて自身も弟子も地方公演に出ずっぱりだったため経営が立ち行かず1989年に閉鎖。*19
後年は自身が建てた若竹の倒産から借金ネタ、そして同時に借金返済の為司会者権限で座布団十枚の賞金や出演者のギャラをピンハネしているというネタが加わった。

笑点の高座に上がれば豪快で身内の弟子もベテランも平等に扱うことを心がけていた。但しあくまでも基本的には平等というだけで、気まぐれで年の近い歌丸や弟子の好楽・楽太郎に対し、ニコニコ笑いながら手厳しい采配をすることもあった。
前任の三波と異なりいい加減な性格であり、「(付き合いが長いのに)メンバーの名前を忘れてしまう」「平気で読み間違いをする」「寝ながら司会をしている」などとイジられることも多く、自らもその意趣返しとして「緻密な司会」と称していたこともあった。そのせいか、メンバーが揃った追悼企画では終始圓楽の悪口で盛り上がることとなった*20。この記事の中で挙げているエピソードの多くも追悼企画でメンバーから暴露されたものである。
一方そのいい加減さが回答者側に突っ込ませる余地を生ませており、歌丸は「同じ落語家の間を持っているので、歴代司会者の中で一番やりやすい存在でした」と評している。


後任の歌丸や昇太と決定的に違う点が、罵倒ネタを受けた時の反応である。
大抵の場合は怒らないどころかガハハと豪快に大笑いしているのだが、笑いながらも容赦なく座布団を没収していた。
罵倒合戦がひどい時は、「喧嘩両成敗」と称して当該メンバーの座布団を1枚ずつ没収することも。
若竹の借金ネタは「それはもう忘れろよ」と突っ込む。
1998年には自身が指名手配犯にされたという問題が出され、ほとんどが圓楽の悪口になったためメンバーの座布団がほとんどなくなってしまった(しかも桂歌丸、林家こん平は座布団10枚まであと1枚という状況だった)。

座布団運びの山田君に対しては全幅の信頼を置き、「回答者に悪口を言われたら突き飛ばしても構わない」と目立たせるためのネタを提案し、山田君罵倒ネタの際は彼を庇う発言をしたり、判断を任せていた。
反面、自分を褒めた回答者に座布団を上げなかった際は「気が利かない」と叱ることもあった。「山田君何をぐずぐずしてるんですか!」という若干理不尽さのあるいじり方は彼ならでは。

2001年頃、誤って大喜利2問目でお開きにしようとした。項目冒頭のセリフはその時に発したもの。このミスがきっかけで「引退」の二文字が脳裏をよぎったという(このミスは後の司会者である桂歌丸、春風亭昇太もやらかしている)。
2005年脳梗塞を患い休演。後に病気は概ね回復したが、後遺症で司会者としての上手な切り返しが出来なくなり、翌2006年3月に番組復帰を果たすも大喜利司会は休演中に続いて歌丸が代行し、冒頭の案内役のみを務めた。そして、2006年の5月に番組が40周年を迎えるのを機に、身体の自由がまだしも利く内に司会を勇退した。

その他名言・名回答集


多すぎるので格納、回答者だけでなくこの人が司会の時代の『笑点』が、一番印象に残っている人も多いだろう。

+ そいつは何者だね!?
笑点とかけて、初な男の新婚初夜と解く。
んー、その心は?
見たくて見たくてドキドキするでしょうw
何か、忌憚のない答えだねえw
いいじゃないの!
ドキドキすっるってのいいね。でもドキドキしながら笑点見るってのもないよね。1枚やってくれ。足が痛いから立たしたり座らせたりいじめてやろうとw

いいなあ、2人(牽牛と織女)は年に一度会うだけで。こっちはお化け(小圓遊)と毎週会ってら
ははは、1枚やってくれwほーんとに、お化けと毎週会う辛さなんてわかんないよほんとにみんなw

私も、歌丸さん家の冨士子さんを見て見つけました
どんな蛙?
びっくりカエルw
(木久蔵を引っ叩く)
何だよー!
よしなさいよ!
向こうまで手が届かないんだもん!
おい、かわいそうだから木久ちゃんの2枚取れコノヤロー!
何でよー!何でかわいそうなのに取るのよー!

松崎さん、ちょっとこれは答えですから、(木久蔵にやるはずの)座布団を2枚持ってきてここに敷いてください。そうそう、こうやってポーンと座って、松崎さん、握手。どうもありがとうw
何だよ、それじゃ考えオチだよ。2枚持ってけ!いや3枚持ってけついでに!冗談じゃないよ!

引き際の見事さに感心しました 前首相・三木武夫
なるほど、はい5枚どうだ!後ろへ置いといてくれ、座布団

バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!
お、いきますか?どうしたんです?
ええ、鰻に山椒を掛け過ぎたんです。万歳山椒(三唱)ってw
おい、くだらないこと言ったってw
今日はこういうのが多いね
長老がそれじゃみっともねえ、2枚取れ!何だよ万歳山椒って

ピンポンパンポーン(鉄琴の音)、本日、笑点10周年記念パーティーにご出席の皆様に申し上げます。入口で、沢山のご祝儀本当にありがとうございました。なお、ご祝儀を持ってこない方は交通事故に気をつけてください

えー、海苔には褌、突っ張って海苔の勝ち
きたねえな、だけどなw
汚い
汚いでしょ?
もっと清潔に
きれいなのを
はい、こんちゃん行きましょう
褌には猿股、はみ出して猿股の負け
誰がきれいなんだそれが!
ちょっと、木久ちゃんもこんちゃんも何で
汚いよ
レコードに収録するんですよ
そうだよ
笑点の10周年を記念してレコードに出るんですよ
そうだよ
これはいけなかった
ねえ長老、見本にね、きれいなやつ
長老かいw
長老かいってw圓楽さん一つ口直しに
はい、口直しにきれいなやつ、大便には小便
きれいじゃねえじゃん!
いや、これをちゃんと…
後があるんだよ
大便には小便、下手ひねりでウンコの勝ちw
おいおい、きたねえな!
汚いよ!
何だいその、下手ひねりは何だい!ほんとだったら絞り出すって言わなきゃ!きたねーなー何だか、次の問題行こう!
他人に小言言えた義理か!
もっときれいなの行こう
ほんとにレコードになるのこれが?
大丈夫だよ

(英訳する問題)圓楽、ロングフェイス
こりゃわかりやすくていいやwロングフェイスって
違うと思います、ミスターホースマン

(花婿が泣いているという問題)ねえ、どうして泣いてるの?
だって、スターの結婚式に、平凡も明星も来ないでダービーニュースだけ来るんです
1枚やってくれ!ダービーニュースだってw

(許される嘘とは)2本撮りなのに、「1週間は夢の如く過ぎました」という司会者の言葉
ダメだよ圓楽さん、昔から「立つ鳥跡を濁さず」って言うじゃないw
いやー、僕は濁していくw

楽太郎のは梯子乗り、はい
師匠のあれは何ですか、馬ですか?
これはねえ…バカ!!
おい楽太郎に1枚やれやw
あいつは!
馬にこだわってんだよw
もう他の弟子笑点に出すよ!
他の弟子をねwはいいきましょう
楽太郎や
はい
(羊の絵を手に)来年は未年だよ。従って、あ、来年って今年か
三笑亭夢楽:おい、座布団取れよ!
いいんだよ!これからね
いいじゃないか!
これからね、法律が改正になって続くんだよね
僕はね、ハワイから帰ってきたから時差があるんだよ
ああそうか、わかるわかる
いいかい、今年は未年だよ
三笑亭夢楽:間違えるんじゃねえぞw
はい、間違えるんじゃない。道草を食って歩いてはいけないよ
(出初式の絵を手に)私はトントン登りまして、いつか落語界の纏持ちになりたいと思います
あのー、師匠のかけことが良かったから1枚やってくれ

うちの弟子の楽太郎はね、やっぱり私時々笑点見てますとね、ああ大学出だなっていう答えを出すのはいいんです。これが長所なんです。ところが短所はね、木久蔵とこん平を尊敬していることです
おい、1枚いけよw
何だよ、いいじゃないですか!

えー、さあ皆さんお待ちかねでございます、大爆笑編でご覧になれます、笑点大喜利のコーナー。今年は、せんはっぴゃくきゅうじゅう…
1983年ですよw
いいじゃないか!
ちゃんと(台本に)書いてありますよw
グズグズ言うんなら辞めるよあたしゃ!でねえ
たかが100年…
(こん平に対して)あんたやってごらんよ!

(歌丸しか手を挙げていないのに)はい、楽太郎さん。あー、違う違うwの、隣w歌丸さん
少しは名前覚えようよ、長い付き合いじゃないか!
34年も付き合ってるのに
随分付き合ってるなーって思うんだよね、で、だけど、冨士子さんは知ってんだよね。「あ、冨士子さんの亭主か」と、そこから筋道を辿っていかなきゃ。はい歌丸さん
…問題何だったっけ?

圓楽師匠が「俺の後はお前だぞ」と言ってくれたんで嬉しくて嬉しくて…
そりゃ~あ嘘だ!
!?(軽くずっこける)
嘘だwwwww
(拗ねて席を立ち、袖へ帰ってしまう)
嘘じゃダメじゃんw
わっはっはwwww
おい、座布団座布団w座布団座布団w
(袖へ行って、座布団を1枚取ってきて司会席へ行き、その座布団を司会席に置く)
ありがとうw
よく言ってくれたw
うまいねw
もうハナから言う訳ねえぞバカヤローw
(ちゃっかり楽太郎の席に座る)
おいおいおい!
うまい!うまいねー
うまいうまい
はい、山田くん、何かやんなさい
言ってごらん、「嬉しくって嬉しくって」って
嬉しくって嬉しくって
嬉しくって嬉しくって
早く!
ここへ座れて嬉しくって嬉しくって
そりゃあ結構だ
ずーっと座らせてください!
バカ言ってんじゃねえよw
そうだ、それでいいんだよw1枚やってください
(袖に向かって)おい、1枚!
「おい、1枚」だって!w
(画面には映っていないが、おそらくアシスタントの誰かが山田の席に座布団を持ってくる)
木久蔵さん
人間ドックの結果が出てどっこも悪くないと言われて嬉しくって嬉しくって
そりゃあ結構だ
頭を除いて
よしよし、1枚やってくださいw
(座布団を1枚持って袖から出てくる)
なあ山田くん
(木久蔵の席に座布団を置いたと思ったら、置いた分も含めて全部没収)
wwwww 怒っちゃったw
怒っちゃったwww
(山田に対して)こういうのを覚えないと…
(山田の座っている座布団を引っこ抜いて袖へ投げる)
(足下を掬われる形になる)うわー!
はい、と、言ったところで「笑点」お開き…
(好楽をどつき倒して座布団を全部没収)
うわー、何だ!?(圓楽に対して)あいつ八つ当たりしてんの!
八つ当たりwと、言ったところでこの辺でお開きに致します、もう場内は乱闘状態でw
(どさくさに紛れて小遊三の座布団も全部没収)
まだある!
もう1問
まだあと1問ある!
なあに?
1問!
あ…とは…とは言いましたが、まだ1問(ありました)ww
(司会席に行き、先ほど歌丸が置いていった座布団を没収)
(背後の襖をドンドン叩いて爆笑)
何ですかその……「とは言いましたが」!?w
いや…とは言いましたがwww(こういう事も)あるんだよ。…ね?
まあ立ち話もなんですから座りましょ(司会席から取った座布団を敷いて座る)
おめぇだけ自分だけ!(敷いてんじゃねーよ)…(楽太郎が座っている座布団を取ろうとする)
おいおいおい!どさくさに紛れて自分だけ持ってきやんの
(楽太郎に対して)もうちょっとそっち(行って)…(他メンバー共々席に着く)
はい。さあ、3問目
わはーw
今日は~ゆっくりやりましょうwねえw

こん平さんが声が出なくて、これがほんとの声患い

この洋楽のいい所はもう非常に親孝行でしてね、ええ、でね、そのまあ、あの強いてこれ欠点って言えるかどうかわかりませんがね、毎日香を必ずあげてくれるんです。もうだから、言うことありませんな。
林家たい平:何ですかそれw
見てごらんなさいよ。どっから見たって悪い所ない。
春風亭小朝:だけど師匠さっき「この子誰?」って言ってたんだよ
春風亭昇太:小朝師匠に1枚w

三遊亭洋楽:前々から本当に聞こうと思ってたんですけど、師匠にお聞きします。私はこのまま落語を続けていいもんでしょうか?
もう、しょうがないじゃない。続けるより。(洋楽が振り向いたので)前見てなさいよ!君は照れ臭がっていけないよ。やっぱりカメラに映ってなきゃ。こうやって喋っている間に映ってるんだから。僕は永遠に…
春風亭昇太:本当に小言いうのやめてください!
何か悪いことしたんか?

春風亭小朝:圓楽師匠にぜひ前から聞きたかったんですけど、お正月のお餅なんですけどね、あれ何でカビが生えるんですか?
あれはね、早く食わないからだよ。


追記・修正は一門会を立ち上げてからお願い致します。

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最終更新:2024年04月01日 22:41

*1 戸籍上は昭和8年1月3日

*2 親孝行系の噺を演じるときはよく両親、特に母のことを語っている。あえて面と向かって言わず、それとなく気づくように仕向けるタイプの人だったようだ。

*3 元々圓生と行動を共にした理由自体、あくまで師弟関係に基づいて「弟子である自分が師匠と道を異にする事はできない」という考えからであり、真打昇進に対する考え方自体は師匠とは異なっていた為、独立して自身の一門会を立ち上げた際も結局圓生の考えとは違う形で、若手の真打昇進を他の協会同様に行っており、圓生の「真打になれない者はそのままで良い」という考えは惣領弟子たる圓楽にも受け継がれることは無かった。

*4 当人は「ギャラもらっているから」と冗談めかした事を話していたらしいが、圓楽の没後に日本香堂会長が明かした話によると、かねてから会長と親交があった事や自身が健在である事を示す場として継続していたようだ。

*5 彦六の逝去に伴う身請けだが、好楽は彦六門下に入る前に圓楽の惣領弟子として入門したいと考えていた時期があって、既に惣領弟子(三遊亭楽松→現・三遊亭鳳楽)がいた事で考えを変えて最終的に彦六門下に入った経緯があるので、ある意味落ち着く所に落ち着いた様な移籍劇であった。しかも、好楽は九蔵時代に真打昇進を果たしていた為、真打の状態で別協会の門下に移籍するという比較的珍しい事例となった。

*6 その前週まで桂才賀が座っていた位置。ちなみに、楽太郎も圓楽の司会就任から9ヶ月後の1983年10月から1年半の間師匠の真隣の1枠に座っていた。

*7 呼び捨てでの指名自体は前任の前田武彦や三波伸介もしていた。

*8 5代目圓楽の3番弟子だが、元は3代目三遊亭小圓朝の最後の弟子で、師匠の死に伴い移籍してきた。

*9 大喜利メンバーの好楽の実子。記述通り5代目圓楽に入門したため好楽とは兄弟弟子の関係となったが、近年は好楽一門の一員にカウントされることが多い。

*10 最終的に5代目圓楽の死去により両者は対立したままとなってしまったが、2010年代になって圓丈と6代目円楽がふとしたきっかけから意気投合したことで、落語協会に残留した圓生一門と5代目圓楽一門会の交流が復活し、2021年現在も年1回ペースで一門の合同落語会を開いたり、圓楽一門会のホームグラウンドである両国寄席に圓丈の弟子が出演するようになるなどやや軟化してきているといえる。6代目円楽も事ある毎に「師匠は孤高の人だったが我々は交流で行きたい」と語っている。

*11 コンビニで100円程度で売っている小さいものではなく、拍子木サイズの小皿に切り分けて出すでっかい物。

*12 本人があるとき高座で語った話によれば「あの辺で圓楽を知らなければモグリだというほど名が知れていた」とのこと

*13 多摩川グランドと呼ばれる巨人の二軍の本拠地が1998年まで存在した。

*14 同行していた広告代理店の社員は振り替えて搭乗したため犠牲となっている。

*15 そのせいで、過去の笑点で現存する最古の映像とされる浅草大喜利の時は、正座ができず足に包帯を巻いてあぐらをかいて出演する事態になり、この時のイベントでメンバーが芸者姿で練り歩く際も参加せずに談志・三波と共に実況側に回った。

*16 とはいえお茶の間が殆ど知らない者を入れるよりは、メンバーに匹敵する存在として広く知られている山田を後釜にする考えはおかしい話ではない。

*17 但しこれは発症していた脳梗塞の影響も大きく、覚えていないのではなく覚えることが出来なかったともうかがえる。

*18 通常は繁華街に構えることの多い寄席をターミナル駅から遠く離れたビジネス街である東陽町に構えていた。行ってみると分かるが客が入らないのも納得の立地である。

*19 なお閉鎖後も入居していたビルの屋上には「円楽党」と書かれた看板が2020年頃まで残っていた。

*20 もっとも、追悼特番自体は既に放送していたため、それとは趣旨を変えるという番組側の意向もあった