古事記

登録日:2016/01/10 Sun 10:46:59
更新日:2024/03/31 Sun 15:32:54
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天地(あめつち)初めて(ひら)けし時、
高天原(たかまがはら)に成り座せる神の御名は、


古事記(こじき・ふることふみ)」は8世紀初頭頃に編纂された我が国最初の歴史書。
同時期に同じ目的で編纂された「日本書紀」の概略と比較も述べる。
また「古事記」と「日本書紀」を併せて「記紀(きき)」と呼ぶ。


【大まかな経緯】

内乱により失墜した王朝の威信回復のため、第40代天武天皇の指示により天武10年(681年)頃より「帝記(王朝の系譜と歴史)」と「旧辞(神話)」を記憶させられた舎人(とねり)稗田阿礼(ひえたのあれ)が編纂を開始。
背景には飛鳥時代に伝来した仏教と、それに伴い進められた神仏習合によるカミへの注目と国学の発展があったと考えられている。
つまりは、仏教に倣って各地で好き勝手に語られていた伝承を纏めて公式設定(おふぃしゃる)を作ってしまおうという話であった。

天武天皇の崩御による中断や都の移転を経て、平城京に移った和銅4年(711年)に第43代元明天皇の下で学者の太安万侶(おおのやすまろ)に稗田阿礼の読み覚えた記録を書き取らせる事により完成。翌年に献上された。

内容的には天地創造の物語から7世紀初頭の推古天皇までの時代がカバーされている。
同時代に編纂された「日本書紀」とは互いに補完し合う存在だが、「古事記」は国内向けに天皇家の支配の正統を保証するための物語である。
ページ数は上・中・下の3巻合わせても現在の400字詰め原稿用紙に換算して150枚程度、と意外にもコンパクトに纏められている。


「日本書紀」も同じく、件の天武天皇による命令から編纂が開始された。
しかし、こちらは国外で読まれる事も意識した公的な歴史書として複数の官人や知識人(川島皇子ら6人の皇親と中富連大島ら6人の官人らが最初のメンバー)が約40年かけて完成。養老4年(720年)に第44代元正天皇に献上された。

内容的には神話を少なめにした代わりに8世紀初頭の持統天皇の記録までが記されている。


「日本書紀」は正式な歴史書として完成した後には役人や学問の場で学ばれていたが、平安時代には紫式部が『源氏物語』の作中で「日本書紀ツマんね。古事記のがオモロい(意訳)」と光源氏にdisらせたりしている。*1

全30巻とボリュームもたっぷりだが、神話に割かれているのは最初の2巻のみで後は公式と認められた記録のみ。
「ツマんね」とボヤかれるのも仕方ないのかもしれない。


鎌倉、南北朝時代の頃になっても両書の位置付けは変わらなかったのだが、江戸時代になって状況が一変する。
寛永21年(1644年)に京都で古事記の印刷本が刊行され、ようやく一般人にも内容が広まる
それまでは宮廷以外では寺院で坊さんに読まれる程度だった。

国学者の本居宣長(もとおりのりなが)はこれを入手して熱心に研究すると共に、注釈書『古事記伝』を箸して喧伝。
それまでの「日本書紀」偏重の国学を批判した。


近代に入ると、「記紀」は「国家神道」の聖典に据えられる。
明治時代、日本は西洋化により急激な近代化を成し遂げたが、その中で大和の民族意識の支柱として「国家神道」が配され、歴史の分野で神話が学ばれた(「聖書」から歴史を学ぶ西洋に倣ったのである)。

……一方、神話は神話であり本来の歴史とは別との意見もあったのだが、昭和に入ると世界情勢の変化により日本も戦争に突入。
軍部はナショナリズムの興起とイデオロギーの統制に「国家神道」を担ぎ出し、そこに描かれた「神話」が絶対視されて国威掲揚に利用された。
※よって、前述のような「神話」を疑問視する研究は弾圧された。


こうした理由もあってか、戦後日本では史実の観点から「記紀」が読まれる事は遠ざけられてしまい、知ろうともしない国民から「神話」は遠い存在となってしまった。

……しかし、それに代わって今度は民俗学や考古学の立場から古代日本を解き明かしていく活動の中で「記紀」を純粋な研究材料とするアプローチが勃興。
客観的な視点の中から「記紀」から弾かれていた故事や隠された歴史が明らかになるなど、今日では予想以上に豊かで歴史も長かった古代日本の姿が浮かび上がって来ている。


【両書の主な違い】


■古事記
  • 編纂者は二人のみ
  • 神話がいっぱい
  • 物語形式
  • 日本語化させた漢文で書かれている
  • あくまでも天皇を主役とした物語である

■日本書紀
  • 編纂者がいっぱい
  • 神話は少ない
  • 記録が主体
  • 漢文で書かれている
  • 客観的な歴史書の体を為している

※「古事記」を編纂した稗田阿礼は実在が不明。
女性説もあり、正体が謎に包まれた人物として知られる。


【記紀は真実か?】

「聖書」を始め、何処の世界の神話でも同じだが、「記紀」にも真実もあれば嘘もあるのが当たり前である。
……まあ、二つの「記紀」に食い違いがある時点で何を言わんや、なのだが。

歴史の中で都合よく解釈された部分や無かった事にされた事も多い。
例えば「記紀」の語っていた日本とは現在の近畿地方辺りまでで、富士山の話がさっぱり出てこないのは有名な話。

また、神代の神話の舞台が基本的に古代出雲地方に集中している反面、やはり8世紀に編纂された同地域の事を記した「出雲国風土記」とは記述される内容に違いがある事からも、支配した側とされた側の視点の違いが見て取れる。

「記紀」の内容は日本由来の歴史を描いたものであるはずなのに、古代中国は勿論、古代オリエントや南方神話との共通項がある事でも知られるが、これは当時編纂に関わった面々が輸入された最新の情報や流行を加えて元の話を面白おかしく脚色していったためらしい。

この他、大体において同じものを指すのに別の名前が付けられたりしているが、これも元になった各地の神話を用語の言い換えもせずに纏めて取り込んでいった結果であるとの事。

※例:死者の国→黄泉国(ヨモツクニ)根之堅州国(ネノカタスクニ)常世国(トコヨノクニ)

この場合の死者の国のニュアンスにも微妙な違いがあり、現在では死者の国=地下世界のイメージが強いが原義的には黄泉国は山中異界、根之堅州国は地中(洞窟)、常世国は海の彼方……と、それぞれに別の異界のイメージが見えると言われている。
因みに黄泉=こうせんは古代中国の地下世界に湧く死者の集まる泉の事。
全くイメージが違うものなのに、同じ死者の世界を指す言葉としてやまと言葉の「よみ」の音に当てはめられた。
仏教思想の影響もあり、これらから日本では概ね死者の世界=地下世界とするイメージが主流になっていった模様。


【神々】

三つに分かれる「古事記」の内で上巻の主役になるのが神々である。
項目始めの天地開闢の場面から、伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の国生み三貴子の誕生大国主命の国作り天孫降臨海幸彦と山幸彦の争いまでが神話世界の物語となる。
「日本書紀」ではかなり簡略化されているが、これらは後に神道の各流派により補足されていった。


【カミ(神)の種類】


別天津神(ことあまつかみ)
項目冒頭の「古事記」序文に記される天地開闢と共に顕れた造化三神(ぞうけのさんしん)に二神を加えた五柱の神霊。
姿も性別も無い観念的なカミであり、特に“根源神”天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は「古事記」編纂者が生み出したと考えられている。

■神世七代(かみよななよ)
国之常立神(くにのとこたちのかみ)から伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)の夫婦神に続く七代の神。
物質的な国土を形成したカミであり、「日本書紀」では国之常立神が最初に顕れるカミとなっている(後の神道で天之御中主神と同体とされた)。

天津神(あまつかみ)
天孫系と呼ばれるヤマトの支配者系統の神々。
別天津神から続く王朝支配を正当化するために台頭させられていった。
最も有名で神格が高いのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)。
特に天皇家に連なる神には暴力や穢れから遠ざけるように編集された部分があるとの事。

国津神(くにつかみ)
ヤマトに平定される以前より各地で信仰されていたカミ。
主に出雲系と呼ばれるカミが登場する。
「記紀」では素戔嗚尊(スサノオノミコト)より続く系譜に組み込まれ、天津神とは血縁があるんだから国譲りは正当……という意図的な編集がされている。
荒事担当。

※天津神(天神)と国津神(地神)を併せて「神祇」と呼び、これのみで「八百万の神」を指す詞(ことば)にもなる。

■人物神
菅原道真や平将門、日本三大妖怪にも数えられた崇徳院など、祟りを及ぼしたとされる人々の御霊(ごりょう)や、安倍晴明などの伝説的人物、楠木正成などの武将、豊臣秀吉や徳川家康といった支配者の御霊(みたま)がカミとして祀られた人物として有名である。
「靖国神社」は幕末以降の戦没者の御霊を合祀した護国神社の総本社である。


【伝説的な支配者】

中巻の主軸となるのが天孫から連なる「伝説的な支配者」の血族の物語で、初代天皇として記されている伊波礼毘古命(イワレビコ=神武天皇)の「神武東征」や、古代日本の英雄として名高い日本武尊(倭武命=ヤマトタケル)の武勇伝、新羅(朝鮮地域)征服を行ったとされ、天照大御神や卑弥呼の事であるとする説もある神功皇后(息長帯比売命=オキナガヒメ)の活躍などが描かれている。
彼らはギリシャ神話に喩えるなら半神のような存在であり、実在したかどうかも疑わしいが、そのモデルとなった複数の人物、あるいは故事がある事は間違いないらしい。

なお、神功皇后は身重の体で新羅遠征を成し遂げたとされ、帰国してすぐに宇美の地(筑紫国=福岡県)で出産。
この時に生まれたのが品陀和気命(はむだわけのみこと)。歴史的にも実在の可能性が高いとされる、後の第15代応神天皇である。

ちなみに、渡来人である秦氏が持ち込み源氏の氏神としても知られる八幡神=神仏習合による国家鎮護、仏教守護の神とされた八幡大菩薩とは応神天皇の事である……と、平安後期に成立した歴史書「扶桑略記」には記されている。
何しろ第19代欽明天皇の時代に宇佐に出現した八幡神が自ら名乗ったと言うのだから間違いない。
……まあ、実在が確実視されている割にはこんな伝説が残っているくらいなので、応神天皇に纏わる全てが全て史実とされているわけではないらしいが。
八幡神が新羅から来た神と記されているのも、この辺りにも関連があるのかもしれない。

更なる余談として「古事記」と「日本書紀」は万世一系の天皇の系譜を伝える書として編纂されたにもかかわらず、応神天皇の時代(4世紀後半)に……というか、応神天皇によって「王朝交替」が成し遂げられたのではないか?とする説がある。
応神天皇以降の和風諡号(贈り名)が以降、応神天皇に由来する「和気」に変化している事などが理由として挙げられている。

……ここからの余談として、応神天皇の勢力が異母兄の忍熊王(おしくまのおう)の乱を平定し大和入りを果たしたとされる史実が、遡って神武天皇の伝説の原型として述作されたのではないか?との説もある。


【天皇・日本】

■天皇(てんのう・すめらのみこと)
ヤマト王朝の支配者。今日では我が国の象徴、精神的な支配者。
故・水木しげる翁は日本のヌシと評した。

元々は古代中国に倣い国号を「倭」、支配者を「大王(おおきみ)」と呼んでいたが、天武の命で国書(「記紀」)を編纂するに当たり、国号を太陽が昇る神聖な場所を意味する「日本(にほん・にっぽん・ひのもと)」に、支配者を東方世界の支配者を意味する「天皇」と呼ぶ事に定めたのである。

元々の「倭(わ)」が古代中国(中国=世界の中心の意)から見た辺境を意味する蔑称であった事を考えると、律令体制や学問に於いて古代中国に学びつつもあくまでも自分たちのアイデンティティを明確にした上で取り込もうという姿勢が見える。

「古事記」も下巻になると歴代天皇の名と系譜のみが記されているのみ。
「日本書紀」でも記述がより詳細に、列記されている名前が増えているのみ……である。

























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最終更新:2024年03月31日 15:32

*1 「書かれた時代の空気や書いた気持ちを想像できるし調べる余地も価値もあるじゃ~ん」くらいの意味の模様。文学少女ならではの感想である