黄皓

登録日:2015/11/13 (金) 03:53:18
更新日:2023/12/08 Fri 10:18:03
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黄皓とは中国の三国時代、蜀漢の国にお仕え申し上げていた宦官なのでございます。


奸臣曹丕が漢帝国を不埒にも簒奪し奉った後、偉大なる先代昭烈帝陛下に於かれましては、光武大帝の例に倣って再び漢の国号を復古し、万民の歓呼の元に即位なされました。
そして黄皓はそのお志を受け継いだ二代劉禅陛下のお側近く仕え、その近侍として陛下の公私に渡ってお支え申し上げてきた侍従なのでございます。


先帝陛下が身罷られて後、劉禅陛下は弱冠17歳にして即位なされました。
陛下はお若いながらも英明で、先帝がお遺しなさいました丞相諸葛亮閣下などを適切に用い、充実した治績をお上げになられました。

とはいえ凶猛な魏の圧力、偉大な先帝の偉功は若き陛下にとって大きな重圧であり、黄皓はその陛下の心労を癒すべく懸命にお仕えしておりました。
しかし侍従の長である董允はそのご心労を察そうともせず、激務の合間の些細な息抜きにさえ文句を付けてくる有様で、ささやかに私時においてすら陛下のお心は晴れなかったのでございます。
幸いにも董允は程なくして倒れ、以後は陛下のお心を知る黄皓が抜擢されて中常侍となり、陛下の心も少しく明るくなられたのでございます。


さて、劉禅陛下は平和を愛され、常に民を慈しむことを忘れない仁君であられました。
しかし臣下の一部は愚かにもそれを解せず、北伐を唱えてみだりに兵を起こし、国費を浪費し士卒を失うこと度々だったのでございます。
特に録尚書事、督中外軍事の重職にある姜維めの失態はまさしく目に余るほどで、なんら成果を上げることなく膨大な戦費を蕩尽した挙句に従軍していた将からも非難の声が上がり、それが軍内の不協和音となって綻びを見せ始める次第で御座いました…

本来宦官という者はお仕えする方に絶対服従であり、逆らうことは愚か意見すら許されぬ立場であるのですが国の惨状を見かねた黄皓は、憂国の情故に陛下に姜維の更迭を進言申し上げたので御座いました。
されど姜維めは脅迫めいた強談によってこれを圧迫し、ついに果たせずに終わってしまうのでございます。
そればかりか黄皓こそが国を滅ぼす元凶であるから即刻殺すようさらに脅しを重ねる始末で御座いました(幸いにして陛下は自らの権限で阻止されましたが)。


…そして姜維めの無謀な北伐によって国力が消耗したのを見計らうかの如く魏の軍勢が蜀の領内に攻めこんできたのです。
悲憤した黄皓は、残された最後の手段として評判の高い巫女を宮中に招ぜしめ、天に必勝を祈願したのでございます。
しかし姜維の無道に天が怒りを示したのか、一向に天佑は現れず、ついに蜀漢の帝都は魏の攻囲を受けることになってしまったのでございます。

劉禅陛下はここにいたり、最早これ以上民を苦しめたくないと、ついに魏軍への降伏をご聖断なされました。
黄皓ら心ある者は「もっと早くに姜維を除いておけばよかった」と涙を流して悲しんだのでございます。


劉禅陛下のご信頼が厚かった黄皓は、残念ながら同僚たちの妬みを受けざるを得ませんでした。
そして降伏後、そういった者達の讒言によって黄皓は魏軍の審問を受けることになってしまったのでございます。
しかしそれを担当した魏の将は、密室で実際に黄皓と論ずるに及ぶと、その志の高さと清廉さに心を打たれたのか、最終的には笑顔で黄皓を解放するに至ったのでございました。

その後のわた…黄皓の動向については史書では不明となっておりますが、恐らくは魏に連行された劉禅陛下のことを思い、遠い地よりその無事をお祈り申し上げ続けていたのでございましょう。






















   *   *
 *   + うそです
  n ∧_∧ n
+ (ヨ(*´∀`)E)
  Y   Y  *


……とまでは言えない。少なくともあからさまな嘘はついてない。
が、まあ超美化しているとは確実に言わざるを得ない。




恐らく三国志ファンの間でもっとも有名な宦官。
場合によっては趙高魏忠賢と並んで三大宦官的な扱いを受けたりするが、それはあまりにも過大評価である。あるいは過小評価というべきか?


【経歴】


劉禅に仕えた時期は定かではないが、諸資料から逆算するとそれなりに古株な模様。

劉禅の寵愛を受け出世していくが、近侍の統括者である董允による抑制が働いている間は、一宦官としての立場を越えることはできなかった。
だが246年に董允が死ぬと、後任である陳祗によって黄門令に昇進し、政府の人事に口出しも始める。
とはいえ陳祗は腰巾着という評価こそされているが北伐については姜維と協調しており、まだ黄皓の権限はさしたるものではなかった。
さらに258年に陳祗が死ぬと宦官の最高位である中常侍に昇進し、宦官ながらその立場は宮廷の実権を握るレベルにまで達した

董允死後、黄皓の人事に対しての干渉は著しく、
  • 劉禅の弟である魯王劉永が黄皓の重用に反対したため、劉禅に讒言して謁見することを禁じさせる。
  • 劉禅の太子舍人も経験したことのある羅憲を、自分におもねらなかったからという理由で僻地に飛ばす。
  • 年齢からしてそれほどの地位ではなかったはずの陳寿(正史三国志の作者)を、自分に楯突いたという理由で左遷する。
  • 姜維の政敵であった諸葛瞻らの支持をとりつけ、漢中にいた姜維から軍権を取り上げ左遷しようとする…がこれは劉禅に拒否され失敗(ただし、姜維のしていた事も問題が無かった訳ではない(後述))。
と、上から下に至るまで広範囲の人事に干渉した。

当然だが、宦官である黄皓の官職はあくまで中常侍(皇帝個人の取次兼お世話係のボス)に過ぎず、
宮廷の公的な人事に対して(というか朝廷の政治機構そのものに対して)なんら正統な権限を持っていない。
しかし皇帝の最も近しい者であるという立場から、「陛下はこう仰っていた」「これが一番陛下のご意向に沿うだろう」という形でいくらでも影響を及ぼすことができてしまう。

これは会社に例えれば、社長の奥さん(専業主婦)が会社に出てきて、夫の名を借り命令や辞令を出していると考えるとわかりやすいかもしれない。
当然部下は困惑するし反発するし最終的には反抗するし、ド素人の奥さんが出す命令が適切なわけもないので、会社全体も混乱してしまう。

とまあそんな具合に、黄皓の専横によって蜀漢政府の権威や臣下の規律とやる気は著しく低下してしまった
同盟国である呉の外交官は「今の蜀の臣はもはや自分の身を守るのに一生懸命で、朝廷では誰も正論を唱えなくなった」と断言し、
数年後には「宦官の専横で国家は滅亡に瀕しており、今攻められれば亡国は確実である」とまで言われるまでになってしまう。


【亡国】


そして263年、正しくその言葉の通りに亡国の時がやってきた。内ゲバに決着をつけた魏が、ついに本格的な総攻撃を開始したのである
当時姜維は黄皓の讒言を恐れ沓中に駐屯していたが、魏の大規模な南征の動きを察知すると、本国成都に警告すると共に援軍を要請した。

しかし黄皓は援軍要請の上奏を受けた劉禅に「占いによれば魏軍は攻めてこないので大丈夫です」と断言。お前は何を言ってるんだ。
そして劉禅は恐るべきことにこれに納得してしまう。お前も何をやってるんだ。
結局、この報告は朝廷に知らされることもなくこの時点で握りつぶされてしまった

これによって蜀軍の初動は致命的に遅れ、この戦力では守りきれないと判断した姜維は漢中全体を放棄して剣閣まで後退することを決断。
蜀は戦わずして生命線である漢中を失ってしまったのである
しかしこの段階になって、ようやく事態に気づいた朝廷からの援軍が到着する。
戦力を回復した姜維は要衝剣閣に陣取り、数に勝る魏軍に対して有利に防衛戦を展開した。

だが魏軍の副将鄧艾はこの戦況に際し、自ら別働隊を率いて剣閣を迂回し直接成都方面を急襲する。
道中には江油関という要害もあったが、守将の馬邈は満身創痍の鄧艾軍に対して戦いもせず降伏していた。前線も何をやっているんだ。
成都からも蜀の迎撃部隊が出撃したが、それを率いるのは黄皓とは昵懇だが実戦経験皆無の諸葛瞻であり、百戦錬磨の鄧艾との差は歴然としていた。
諸葛瞻は堅城綿竹に篭ったが鄧艾の前に完敗し、成都を守る戦力は消失
諸葛瞻の子であり、孔明の孫にあたる諸葛尚「黄皓を斬っておかなかったからこの有様になってしまった!」と泣き、魏軍に突撃して戦死した。

そして成都を攻囲された劉禅はあっさりと降伏し、ここに蜀漢は滅びたのである。
黄皓はよほど群臣の憎しみを買っていたらしく、蜀の占領行政を行っていた鄧艾はその評判を聞いて黄皓を処刑しようとするが、黄皓は鄧艾周辺の部下に手厚く賄賂を贈ったことで処刑を免れたという。

以後の消息はまったく伝わらない。
劉禅降伏直後は鄧艾・鍾会の反乱騒ぎで相当な混乱が起きており、そのどさくさで逃げたか、巻き込まれて殺されたかと言った所だと思われる。
鄧艾が彼を処刑しようとしたのは事実ではあるが、「魏にとっては取り立てる価値もないが処刑すべき価値もない、どうでも良い存在だった」のかもしれない。
なお、彼が左遷した羅憲は、蜀滅亡に伴って火事場泥棒にやってきた呉軍を見事撃退し、魏で重用されている。*1

【戦犯?】


…とまあ、三国志関係のお話で「蜀滅亡の最大の元凶」みたいに言われてしまうのも無理の無い経歴ではある。

しかしそれは冒頭で述べたとおり、実際にはあまりにも過大評価というべきだろう。いい意味でも悪い意味でも。
まず黄皓は正規官僚ではなく、侍従一本で栄達した宦官であることに注意がいる。
このタイプの宦官は君主が自分の意思を具体化するための手足として使うか、あるいは逆に君主の怠慢による放任・委任がない限り、絶対に朝廷で権力を握ることは無い。
黄皓の場合明らかに前者ではない(黄皓の姜維更迭案を劉禅は却下している)ので、必然的に後者のパターンになる。

つまり順序としては、黄皓が劉禅や重臣を堕落させたのではなく、劉禅や重臣が堕落していたから黄皓が台頭してきたという方が正しい。
劉禅が宮廷できちんと政務に励み、自身で宦官をちゃんと監督していれば黄皓が宮廷を混乱させることはなかったわけである。
よって黄皓の無茶に関して言えば、劉禅はぶっちゃけ共犯者といっても過言ではない。

また事実上の宰相職であった姜維の責任も決して小さくない。
録尚書事であった姜維は、宦官の台頭を防ぎ内政の安定を保つのも仕事の内だった。
そして姜維の北伐厨っぷりにはもはや反宦官派の官僚達ですら非難の声を上げており、それは結果として反姜維である黄皓への追い風となっていた。
いわば内政を省みようとしない姜維自身、間接的に黄皓の台頭に手を貸していたとすら言えちゃうのだ。
これを考えると前述の姜維への軍権剥奪も(他はともかく)一理なくはない。

※ただし、かといって『姜維のせいで蜀漢が衰えた』というのもまた言い過ぎ
姜維の項目に詳しいが、前線にいて本国にいない姜維が内政を見れるはずがないし、姜維に内政を担ってほしいなら、少なくとも漢中から引き揚げさせて成都にポストを用意するべきだろう。
北伐に関しても蜀漢の存在意義を考えれば「やらない訳にはいかない」国事である点も考慮するべきである。


黄皓と結託していた董厥や諸葛瞻らの罪も見逃せず、こちらの方が罪が重いと言える。
彼らも自分達的には「姜維を止めなければ亡国あるのみである」と思っていたのかもしれないが、宦官に頼って政治制度を自ら破壊するようでは本末転倒だろう。
宦官禍で滅んだといってもよい王朝がほんの半世紀前にあり、お隣の魏王朝はしっかりそれを考慮した体制を作っていたというのに…。
しかし、現に黄皓が権力を握ってしまった以上は、おもねらなければそもそも「国を支える」こともできない。
かと言って黄皓を除こうとすれば派手な内ゲバとなり、ただでも弱り切った国力がもちそうにない。
そう考えると、他の重臣たちが黄皓排除に力を入れなかったことにも残念ながら一理あるとも言える。

そもそも、諸葛瞻・董厥・樊建・廖化といった閣僚・将校たちも、やることと言えば私党を立てての争いや足の引っ張り合い、責任のなすりつけや罪の庇いあい、内政のために為すべきことを何もしなかった
そして黄皓が台頭してからも排斥するどころか、おもねって自らの保身に走る始末である。
上記の姜維排斥すら黄皓任せで、成都から姜維ら北伐派を追い出すだけで結局うやむやで終わってしまう程の体たらくである。

正直重臣一同に姜維批判など、どのツラ下げてできるかというところである。姜維の方が彼らよりもはるかにマジメで、人間としてまともだったのは間違いない。

とまあ、蜀の亡国に対して言えば、黄皓のような小悪党の跳梁は、むしろ国家の衰退の結果であり、原因ではなかったというのが正確なところではなかろうか。
むしろ(一般的に嫌われやすい)宦官であった事を考えると蜀を滅ぼした原因として劉禅と共にスケープゴートにされている感もある。

実際、下手をすれば自身が劉禅*2や姜維に不振や不興を買って激昂して殺される可能性すらあるのに本来は重臣すらも賛同して行われた正規の政策であった筈の姜維排斥の一件で黄皓が讒言した首謀者と言わんばかりに矢面に立たされる事をふまえればあながち間違いとも言い切れないのだ。

黄皓自身、自分の保身のために人事に専横を振るったり、派閥抗争のあまり超重要な案件を握り潰したりなどしているが、逆に言えば悪行といってもその程度である。
その程度で国が滅んでるんだから大概ではあるが、同じ排斥した方がいい悪徳宦官でも史上に名を残す超ド級宦官達に比べればこの程度、まさにカワイイもんなのである(ぶっちゃけ十常侍なんかは皇帝の外戚の将軍(何進)すらも平気で殺しているので…)。
それでも悪行は悪行ではあるが、この項目を見ればお分かりなのだが重臣一同も似たり寄ったりでとても黄皓を批判できるとは思えないのだ。

結局、漸減した国力弛緩した国政政治に無関心な君主超タカ派の元帥目先のことしか考えない無責任な重臣達と、当時の蜀は黄皓を除いても既に世紀末状態だったんである。
たとえ黄皓がいなくとも別の宦官が同じような立場を手に入れた(或いは押し付けられた)だろうし、そうでなくともこんな末期的国家は長く保てなかった可能性の方が高い。

ぶっちゃけ史実の三国志自体、かつて黄皓に左遷された陳寿による著作であり、 恨み節で(伝聞や自身が対面していた時の発言の記憶を)悪く記載した 可能性すらあるのだから…

…まあ黄皓が佞臣な事には何の変わりも無いんだけどね!


【フィクションでの黄皓】


  • 三国志演義
活動時期や悪事の内容は底本によって結構な変動をしているが、「佞臣」「悪徳宦官」という点は貫禄の不動。

むしろ演義は姜維の先鋭化や董厥・樊建らの無責任さをあまり描写せず(尺や人気の都合もあるが)、諸葛瞻も父親の七光りで宦官嫌いの綺麗な諸葛瞻になっているため、亡国の全責任が黄皓(と劉禅)に集中する感じに。

「君主に遊びを教えて堕落させる」「敵国から賄賂を受け取って国内を乱す」など歴史上の佞臣達の典型的悪行が付け加えられている反面、史実のようなスケールの小さい悪行はスルーされ気味。

ただし史実同様のフェードアウト生存エンドでは読者の気がすまないからか、きちんとした末路が用意されてしまうことが多い。
当然全てバッドエンドで、みじん切りにされたり車裂きにされたり食われたりとバリエーション豊かである。


  • コーエー三国志

「わたくしめの出番でございますな!」

3594な主君同様、ネタ枠筆頭。が、意外にもIVでの初登場時は政治71に知力49とそれなりの能力を持っていた。

「わたくしめにかかればこの程度たやすいことでございますぞ!」

が、VIIあたりを境目に急落
IXでは脅威の政治2(100点満点中)をマークするなどネタ化が進み、11ではついに総合能力値670人中670位偉業を達成、ネタ枠の地位を確固たるものとした。
しかし黒歴史と名高い12ではなぜかリストラされてしまう。

???「俺はお前のことを永遠に記憶の片隅にとどめておくであろう黄皓。シャボン玉のように(ネタ的な意味で)華麗で(リストラ的な意味で)はかなき男よ。」

???「黄ォォ皓ーォォ!!」

しかし彼は死して尚、栄えあるネタ王の座を他国に譲り渡すことはなかった。

???「一緒に戦ってくれ!黄皓!」

その志は主君という名の友に受け継がれ、見事総合能力値最低の座を守り通したのである。何やってんのお前ら。

そして13で再登場。統率1、武力1、知力30、政治10という圧巻のステータスで総合能力値ワーストに返り咲く。
14では再び主君に最低の座を譲り渡したものの、魅力も1に設定され、3部門でワースト制覇という快挙を成し遂げた。

これだけ強烈な能力値ながら、実はまったく使い道がないわけではない。
彼が登場する年代は末期シナリオ特有の人材不足が深刻化し始める時期であり、武将一人の価値が相対的に高くなっている。こんな能力でもいないよりはマシなのだ。
さらに劉禅とは相互に親愛関係にあるため、劉禅が主君である限りは金を積まれようが恫喝されようが絶対に寝返らないという男気を見せる。熟練プレイヤーならこの特徴を活かして囮などに使える……かもしれない。

また、14PKのとある仮想シナリオでは当然と言うべきか暗愚や佞臣、総合ステータスの低い雑魚が一同に会した勢力に配置されている。
劉禅?彼は蒋エンや費イ等の蜀後期の家臣や母親を連れて独立してます。

  • 三國無双
残念ながらいまだモブだが、7ではついに劉禅とのイベント会話が実装された。
が、無双の劉禅は「暗愚詐欺」といわれるほどの底知れないキャラなので、「暗君と佞臣」的なネタ成分は弱め。


  • 三国志大戦
痩身で血色の悪そうな顔をしている。必ず兵種アクションのない歩兵にされており、扱いに困る。
初出の2では史実を反映してか最も武力の高い味方を自城に戻すという計略を持っている。
武力の高い味方を即座に戻して回復や防衛に回せるが、使えそうなのに本人がどうしようもなく使いにくい。
そんなわけで3では反逆者に与えられる特技である暴乱をつけられ、計略も暴乱所持者を全員戦場に引きずり出すという正反対のものにされている。
ただ、蜀には暴乱所持者が少なくやはり使いにくい。

新版では知力が下げられて特技も奪われ、スペックが更に終わっている。見た目もシェーな感じに一新。
計略はまたも新しいものとなり、武力を下げて自城に戻れなくするという妨害計略とまとも……そうに見えるがかける対象が味方のみ。
その代わり計略終了時に生存者に応じて士気を増やすことができる。
そのまま使うとハイリスクノータリーンリターンなので、ぶっちゃけ同じ用途なら馬謖の首でも落とした方がマシ。使いにくいっていうか使えないの域。
後にもう一枚が追加され、今度はちゃんと強化するようになっているのでまとも…なわけはなく対象が敵限定。
その代わり計略終了時に必ず士気が増えるようになっている…が、速度も上げてしまうため好き放題暴れて槍に刺さって自殺という選択まで生まれてしまっている。
それでも相手を選べば一枚目よりはまだ使える。


「追記・修正をお待ちしておりますぞ!」

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最終更新:2023年12月08日 10:18

*1 サラっと書いているが、羅憲はほぼ初陣の上、呉の大将は名将陸抗であり、兵力差からしても不利は歴然であった。

*2 諸葛亮死後に、諸葛亮を罵った者を即座に死罪を申付けているのでやる時はやるというのは周囲に認知されていたと思われる。