龍驤(航空母艦)

登録日:2015/05/19 (火) 23:00:34
更新日:2024/03/07 Thu 08:22:13
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龍驤(りゅうじょう)とは、かつて大日本帝国が建造、保有していた航空母艦である。
戦闘詳報では「竜驤」と記す部隊もあった。

「龍驤」というのは「龍が天に昇っていく様」を表す言葉で、『三国志』蜀史 諸葛亮伝に由来する。

この名を持つ艦としては2代目。先代は明治時代に熊本藩がイギリスに発注、後に明治政府に献上された装甲コルベットだった。
初代龍驤は創設期の日本海軍の旗艦として有史初の御召艦を務めており、由緒正しい名前であると言えよう。





経歴

起工:1929年11月26日
進水:1931年4月2日
竣工:1933年5月9日
戦没:1942年8月24日
除籍:1942年11月10日


基本性能諸元*1

公試排水量:10,150t → 12,732t
全長:175.39m → 176.62m
全幅:20.3m → 20.78m
吃水:5.56m → 7.08m
機関:ロ号艦本式重油専焼水管缶 6基
   艦本式ギヤード・タービン 2基2軸推進
最大出力:65,000hp 
最大速力:29.0kt
航続距離:14kt/10000海里
燃料搭載量:2,943t
乗員:924名
兵装:
 【新造時】
   八九式12.7cm(40口径)連装高角砲 6基12門
   九三式13.2mm(76口径)四連装機銃 6基24門

 【最終時】
   八九式12.7cm(40口径)連装高角砲 4基8門
   九六式25mm(60口径)3連装機銃 6基18門
   九六式25mm(60口径)連装機銃 2基4門
搭載機数:36機+補用12機
飛行甲板:158.6mm×23.0m → 156.5m×23.0m
昇降機数:2基




建造までの経緯

1922年。留まることを知らない海軍強国の海軍軍拡に対し、日米英仏伊の5ヶ国はワシントン海軍軍縮条約を締結することでしばし休息の時を得た。
所謂「海軍休日(ネイバル・ホリデイ)」である。

しかし、保有枠が米英に比べて少ないことに強い不満を抱いていた日本は抜け道探しに奔走、その結果が特型駆逐艦の誕生や大型巡洋艦の発展であった。
日本の空母保有枠も例外ではなく、米英の135,000tに比べその6割の81,000tではあった上、既に54,000t分を赤城加賀の改装に費やしてしまっていた。
そこで目を付けたのが、「排水量10,000t以内の小型空母は規制の対象外」という点であった。
10,000t以内の空母を量産すればアメリカやイギリスとの戦力差を埋めることが出来ると考えた日本は早速計画を実行に移した。

元々龍驤は旧式化した水上機母艦若宮の代艦であったが、この制限対象外にぶち込む為、帝国海軍初の空母鳳翔の設計を基に排水量9,800t、搭載機数24機の小型空母として建造が開始された。

だが、世界は無慈悲であった。
ロンドン海軍軍縮会議で制限が強化される運びとなり、10,000t以下の空母も81,000tの枠内に含まれることになった。
こうなると龍驤を10,000t以下に抑える必要がなくなり、設計は変更された。

そして1933年5月9日、政治と外交に振り回されつつも横須賀海軍工廠にて正規空母・龍驤は就役した。




設計と特徴

青葉型重巡の船体を基にした10,000tクラスの小さい船体だが、航空母艦としての分類は一応正規空母である。
小型空母特有の全通式のフラットトップ*2の飛行甲板が特徴的。特に龍驤は艦橋の真上で飛行甲板が切れているので上から比べても解りやすい。

実験的な意味合いの強かった鳳翔と違って龍驤は当初より実戦的な空母として設計されている。
ただ、上記のように元々の龍驤は排水量9,800tの予定であり、運の悪いことにロンドン会議で規制が強化された時には既に完工寸前で船体の拡張など既に不可能な状態だった。
だが、ここで誰が思い立ったか、鶴の一声が。

「上に伸ばせばいいんじゃね?」

「いいね、採用。」

そうして完成したその姿は各々でググっていただきたい。
扶桑型戦艦や三景艦もかくやという、小さな船体に溢れんばかりの箱を載せたような逆三角形の、トップヘビーなど知らんと言わんばかりのあまりにも独特過ぎるシルエットは見る者を不安にさせること間違いなし。
実際、就役当初の龍驤は安定性を大きく欠き、当時の乗員は

「転舵中に昇降機から空を見上げたつもりが水平線が見えてるんですがそれは」

と証言している。ホントよく転覆しなかったな…
その後は1934年の「友鶴事件*3」でトップヘビーの脅威が露見した為、

  • 船体からはみ出ていた高角砲を6基から4基に減らす

  • バラスト代わりに予備の燃料タンクを兼ねたバルジを新設する*4

などの改修を行った。
だが、龍驤は翌年の1935年10月にもっと大きな事件の当事者となった。
岩手県沖で演習中の艦隊が台風と接触し、艦隊の大半が何らかのダメージを被った「第四艦隊事件」である。
この事件で艦橋圧壊のダメージを負ったのを契機に二度目の改修工事が行われ、

  • 煙突の位置を低めに置く

  • 錘として船底にキール(竜骨)を設ける

  • 飛行甲板を削る

などの改修が行われた。
この改修で吃水を7.08mに引き上げる等の改善に成功したが、それでもなお転覆とは紙一重の恐怖が付き纏ったという。


艦載機運用能力

龍驤の搭載機数はおおよそ36機。補用として更に12機の運用が可能だった。
小型なので他の正規空母に比べればかなり少ないが、精々27~30機程度の瑞鳳型(祥鳳型)や千歳型などの改装空母よりは流石に多い。

ただ、飛行甲板はそれらに比べて30~40m程も短く、格納庫も小さいので大型化していく航空機の進化にはついていくのは難しいだろう。
そもそも龍驤が建造されていた頃の航空機と言えば複葉機だったので仕方ないっちゃあ仕方ない。長生きすれば鳳翔や龍鳳のように延長してもらえたのかもしれないが…


防御力

防御力を維持しつつ、少しでも排水量を減らす為に当時最新技術だった電気溶接が導入された。
しかし日本の溶接技術はまだまだ未熟だった為、防御力は計画より二割減という結果に終わり、「第四艦隊事件」で吃水の低い龍驤は強烈な波浪で艦橋が凹み、大規模な改装を行う羽目になった。


機動力

速力は最高29ktと大型の正規空母程ではないが改装空母や特設空母などよりは大分速い。
ついでに言うとアンバランスさが幸いしたのか、旋回性は良かったらしい。


攻撃力

20cm単装砲を積んでるやつもいることだし、まあ一応触れておこう。
生まれついての空母なので火力は対空兵装程度しかない。
一応高角砲の水平射撃で軽巡由良や駆逐艦夕霧と共同でオランダ軍の輸送船や武装商船を、単艦では蘭軍哨戒艇を撃沈した記録が残っている。
だからどうしたというものでもないが。


その他

龍驤の厨房設備は高雄型重巡の物の改良型でとても優秀であったらしく、本艦以降の艦艇に広く採用されたという。
え?居住性はどうかって?お察しください。

なお、龍驤は訓練が大変厳しい*5ことでも知られ、「赤鬼、青鬼でさえ『龍驤』と聞いただけで後ずさりする」と噂された程だった。
その甲斐あって搭乗員は「雷撃の神様」こと村田重治少佐など熟練揃いだったが、日米開戦が目前になると熟練搭乗員を根こそぎ南雲機動艦隊に引き抜かれ、寄せ集めの未熟な搭乗員だけで太平洋戦争に臨まなくてはならなくなった。

余談だが、日本を代表するエースパイロットの一人である「零戦虎徹」こと岩本徹三は元々龍驤の整備員だったが後に搭乗員に志願、一時期は龍驤で訓練していたこともあった。
岩本徹三以外にも「大空のサムライ」坂井三郎も龍驤で発着艦訓練を受けた経験がある。もっとも、坂井が空母搭乗員を経験したのはこれが最初で最後だが。




総合

どう贔屓目に見ても、龍驤は失敗作としか言いようがない。
だがしかし、この龍驤での失敗と経験があったからこそ後続の空母建造や改修のノウハウを得たという点で大きなアドバンテージを持つという大きな評価点があることは見逃せない。
また、機動部隊黎明期の空母だけあって大戦中にエースとなった熟練搭乗員にはこの龍驤で経験を積んだ者も多い。
特に艦上爆撃機が初めて配備されたのはこの龍驤が初めて*6で、帝国海軍艦爆隊の歴史はここから始まっているのである。

そういう意味では、龍驤もまた鳳翔のように「空母の母」と言えるのではないだろうか。




活躍

龍驤は鳳翔、加賀と共に*7第一航空戦隊を編成、日華事変に参加した。
この日華事変こそ龍驤の初陣であり、三隻の活躍は世界に大きく報道された。

その後は搭乗員の育成を行っていたが、太平洋戦争が目前に迫ると主要な搭乗員は根こそぎ真珠湾攻撃に赴く南雲機動艦隊に引き抜かれ、龍驤に来るのは未熟な搭乗員ばかり、しかも零式艦上戦闘機の配備が間に合わず、艦載機は旧式の九六式艦上戦闘機であった。
欠陥だらけの空母に未熟な搭乗員に旧式戦闘機とか、こんなので活躍出来る訳が…


大活躍でした。


これは開戦時に竣工していた空母の内、主力の6隻が全てハワイに向かい、鳳翔は本土防衛、瑞鳳は訓練中で、南方作戦に投入出来る空母は龍驤ただ1隻であった為で、龍驤以外の航空戦力は長大な航続距離を誇る零戦を保有している基地航空隊しかなかった。

猛将・角田覚治中将指揮の下、開戦当初の12月8日から南方ではダバオ飛行場爆撃、レガスピー攻略作戦、ダバオ攻略作戦、アナンバス攻略作戦、バンカ・パレンバン攻略作戦、アンダマン・ビルマ攻略作戦、インド洋機動作戦、マレー作戦、スラバヤ沖海戦、北方ではアリューシャン攻略、ダッチハーバー空襲など、八面六臂、縦横無尽の大活躍を演じた。
小型空母でここまで働いたのは龍驤以外には無く、ようやく日本に帰ることが出来たのが4月23日だというのだからその働きぶりが窺える。
特にマレー半島とシンガポールでは基地航空隊の零戦と共に英空軍を圧倒し、陥落に大きく貢献した。


アリューシャン列島攻略の頃には念願の零戦も配備され、空母隼鷹と共にMI作戦*8の陽動としてアリューシャン列島を攻略するAL作戦に臨んだ。
この時、ダッチハーバー攻撃に参加し、ほぼ無傷で墜落した1機の零戦*9が後にアメリカ軍が回収・徹底分析したアクタン・ゼロとして戦争に大きな影響を与えることを知らずに…


ミッドウェー海戦後は第三艦隊に配属され、飛鷹、隼鷹と共に壊滅した第二航空戦隊に編入された。
そして1942年8月24日、出撃準備が整わなかった空母瑞鳳に代わって翔鶴瑞鶴ら一航戦と共に第二次ソロモン海戦に臨む。

ガダルカナル島に上陸する陸軍の支援を行う為に龍驤は分遣隊を率いて飛行場攻撃を行っていたが、艦隊を分散させ過ぎていた為に孤立。
空母サラトガ所属の攻撃隊による集中攻撃を受けて指揮を執っていた将校も全滅、遂にガダルカナル島北方の海域に散った。

図らずも囮となった形の龍驤に気を取られていた米軍は翔鶴と瑞鶴ら機動部隊本隊を見過ごしており、日本側は米機動部隊を叩き潰せる絶好のチャンスだったのだが、戦果は不死身の空母エンタープライズを中破させたのみで開戦以来の南方作戦で活躍した龍驤の戦没に見合った対価とは言えず、第二次ソロモン海戦は日本の敗北に終わった。


決して高い性能を持った空母ではなかったが、日本海軍の歴史の中でも「殊勲艦」と呼ぶに相応しい一生であったと言えるだろう。




同型艦

最初期の空母だけあって鳳翔と同じく同型艦は無い。
ただ、船体は青葉型重巡を基に建造されたので、そういう意味では遠い親戚と言えるかもしれない。




創作での龍驤

正直に言って影は薄い。
しかし、かわぐちかいじ氏の漫画「ジパング」では史実よりも長生きし、イギリス相手に大立ち回りを演じてみせた。
結局は撃沈されるものの、沈没まで大きくクローズアップされている。

近年ではブラウザゲーム「艦隊これくしょん -艦これ-」にて実装。公式からも大きくピックアップされている。
本ゲームにおいては艦種が航空駆逐艦軽空母になっており、横須賀出身なのに何故か関西弁を喋るのが特徴。
詳しくはこちらへ。




余談

何故かチェコ版Wikipediaの龍驤の記事が異様に詳しく書かれていることが有志によって確認されている。
扶桑が海外で大人気なのと同じような理由だろうか?







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最終更新:2024年03月07日 08:22

*1 改修後も含む

*2 フルフラットとも。艦橋や煙突が無いまっ平らな飛行甲板のこと

*3 水雷艇友鶴の転覆をきっかけに艦船設計の不備が露呈した大事件

*4 だが、使うと旋回時のバランスが取れなくなって転覆する可能性があり、結局使えないというオチが付いた

*5 毎月のように殉職者を出していたそうな

*6 昭和9年採用の九四式艦上爆撃機

*7 赤城は近代化改装中で未参加

*8 ミッドウェー攻略作戦

*9 龍驤所属・古賀忠義一飛曹の機体