劉封

登録日:2015/03/29 Sun 03:00:45
更新日:2024/03/19 Tue 09:29:40
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劉封(りゅう-ほう)
立伝されている人物には珍しく、字が不明。
荊州、長沙の人。

三国志に登場する人物で、劉備の養子である。劉禅劉永劉理には義理の兄にあたる。


【出自】

元々は荊州の羅県侯の子。県侯の氏族は寇とも鄧とも言われるが、いずれも家系をたどれば光武帝円卓の騎士雲台二十八将にさかのぼる後漢の名家である。
加えて母はかつて光武帝を輩出した名門である長沙王家系の女性なので、実は劉備陣営の中ではなかなかの貴門の出身と言える。

劉備が荊州の劉表の元に身を寄せていた頃、跡継ぎがいなかったために彼の養子とされた。202年から206年にかけてのことであり、劉備は当時40台半ば、劉封は10歳前後だった。

しかし何気に問題である。劉封は母方が劉氏の出とは言え、宗族、即ち父方の先祖においては劉備とは別の家系。
つまりこれは漢民族の禁忌の一つ「異姓養子」にあたるため、劉備にとっては(そして劉封にとっても)思いっきり不道徳行為をしでかしたことになるのである。

だが当時の劉備は封戸も持たない名ばかりの左将軍であり、地盤も持たずに有力諸侯達の元を渡り歩いていた私兵集団の長に過ぎない。
道徳律にそれほどこだわる必要も感じなかったのであろうし、自身も既に当時40台。これから生まれる子供を後継者にしていては、幼児が軍事集団のリーダーとなってしまう不安があったのだろう。


【早くも跡継ぎ脱落】

当初は養嗣子として迎えられた劉封だったが、207年に劉禅が生まれたことで、若干雲行きが怪しくなる。
当時の建前の上では、養子はあくまで実子が生まれず祭祀が耐えてしまいそうな時に、止む無く使われる代用品でしかない。
実子がいるのに養子に後を継がせるというのは、祖先への不孝となってしまうのである。まして劉封は異宗から迎えた養子であった。

さらに劉表の死後、荊州を離れた劉備は孫権と同盟。赤壁曹操の勢力が弱まると荊州を奪還し、今度は君主として荊州を治めることになった。
名実共に一国の主になった以上、守らねばならない道徳律はより厳しくなり、異姓養子というブラックな存在である劉封は実質的に継承候補から外れてしまった。


【転職しました】

しかし後継者としてはダメでも、身近に一族が皆無な劉備にとっては貴重な人材。
まして劉封は「武芸に優れ、気力も常人に立ち勝っていた」というなかなか優秀な武人に成長しており、今度は武将として前線で酷使重用されるようになった。

数年後の213年、入蜀戦の佳境にあった劉備は荊州に援軍を要請。
20歳に達していた劉封も諸葛亮張飛らと共に参戦し、「行く先々で戦い、その全てに勝利を収めた」という華々しいデビューを飾った。
戦後はこの軍功により、早くも中郎将の階級を得ている。

さらに蜀漢成立後、初めての大規模な戦役となった漢中の戦いにも参戦。
劉備の直下で前衛部隊を率いて挑発的な襲撃や戦闘を繰り広げ、曹操自身から名指しで敵意を向けられるほどの活躍を示した。(曹彰の項も参照)


【転職したいです】

しかし先述の通り劉封は劉備の唯一の身内武将であり、そのこき使われ方はハンパではなかった。
漢中の戦いがひと段落すると、休む間も無く転戦命令が下る。次の任務は上庸・房陵の攻略で、関羽が攻略中の襄陽方面と、制圧したばかりの漢中とをつなぐ重要拠点であった。

この作戦に際し、劉封は陸路ではなく漢水を船で下る水上ルートで侵攻した。
このルートは失敗した場合に戻ってこれないため、後に蒋エン姜維ですら断念した危険なルートであったが、劉封は見事これに成功。
南から攻めあがる孟達との挟撃によって、あっさり現地の太守、申兄弟を降伏させることに成功した。この功によってさらに副軍将軍に昇格している。

ただしこの上庸攻略はあまりにも迅速なものだったため、本来この方面へ援軍として向かうはずだった魏の胡修らの軍が行き場を失い、そのまま関羽の目標である樊城に入ってしまうという結果を招いた。
関羽としてはなかなかに迷惑千万な話ではある。

このこともあってか、樊城を攻囲中の関羽は、上庸の劉封・孟達軍に何度も援軍を要請する。しかし指揮官の劉封は「占領したてなんで無理」とこれをすげなく拒否。
まあ劉封と孟達に与えられた任務はあくまで「上庸・房陵の制圧および維持」であり、関羽に援軍を送るために駐屯しているわけではない(というか上庸・房陵を保持しておくこと自体が関羽への支援と言える)。
また劉備は降伏した申兄弟をそのまま現地太守に留めるという危険行為に出ていたため、現地司令官である劉封としては「ここから兵力を割くなんて、そんな危険は冒せない」と判断したのも無理はない。

しかし政治的な見地に立てば、劉封はここで形だけでも援軍を送っておくべきだったかもしれない。
これによって劉封は重臣である関羽の恨みを買っただけではなく、「関羽が助けを求めてきたのにそれを拒否した」という事実を作ってしまったのである。
さらに関羽は呉から後背を襲われて敗北した時、呂蒙の欺瞞工作にひっかけられたのか、なぜか劉封が確保していた上庸方向へ逃げず、呉に占拠されている江陵へと向かってしまった。
当然関羽は呉に捕殺されてしまい、援軍拒否という事実がより大きな意味を持つことになってしまう。

関羽の死を知った劉備は、「劉封が関羽に援軍を頼まれたのに送らなかった」ことを聞くと劉封達に大激怒。
無論劉封からすれば「任務の為にやむを得なかった」ということになるだろうが、何と言おうが「関羽を助けなかった」のは事実であり、劉備の恨みを逃れることは出来なかった。


【敗北】

関羽敗死後、唯一の荊州領となった上庸で、劉封と孟達は陸遜率いる呉軍からの北上圧力に耐えていた。
しかし劉備の恨みは深く、唯一の最前線でありながら増援や配置転換も行われず、彼らは孤立した状態にあった。

そして劉封と孟達は元々仲が悪かったのだが、この極限状態でそのギスギスは更に悪化。ついに劉封は孟達の部隊(軍楽隊)を一部奪ってしまった。
このことを憎んだ孟達は劉備に恨まれていたこともあり、蜀での将来に見切りをつけ、兵を率いて魏に寝返ってしまった。さらに孟達は劉封に長文の手紙を送り、

貴方は廃された後継者という危険な身分でありながら大権を得ており、既に劉備に疎んじられている。
劉備の近くには、既に貴方に関して讒言する者がおり、いずれ必ず排除される。
しかしこの状況では貴方に勝ち目はなく、敗北して蜀に帰らざるをえない。
降伏すれば魏は貴方に対して本来の身分である羅県侯の身分を約束しているし、さらなる加増もある。

という旨で降伏を勧告するが、劉封はこれを毅然としてはねつける。

しかし孟達の裏切りによって上庸一帯は見張りも満足に出来ないほど手薄になっており、その隙を狙って魏軍の夏侯尚徐晃、孟達らが攻撃をかけてきた。
劉封は当初こそ耐えていたが、申兄弟の弟、申儀が魏側に寝返ったためついに敗北。戦死や虜獲こそ免れたものの、任地を失い漢中へ逃げ帰ることになってしまった。


【賜死】

なんとか本国に戻った劉封だったが、激怒した劉備に関羽を助けなかったこと、孟達と仲違いして配下を奪ったことを責められる。
とはいえ劉封ぐらいの身分になると、大逆や誣罔や公然たる命令無視でもしない限り、罪を得て処刑されるということはない。本来なら叱責だけ、悪くて降格程度で済むはずだったのだが・・・

諸葛亮「劉禅様の代になるとコイツ絶対なんかやらかすから、この機会に殺しちゃいましょうよ!」

という黒進言により、父親である劉備から自殺を命じられることになった。時は220年、いまだ30歳前(史跡によれば26歳)の若さであった。
死の直前に「孟達の言葉に従わなかった自分が恨めしい」と嘆息し、それを聞いた劉備は涙を流したという。

「感情を表に出さなかった」といわれる劉備が、人の死に際して流涕、即ち悲しみのあまりに泣いたとされるのは珍しく、他にはホウ統法正ぐらいしかいない。
なかなか泣ける最後ではあるが、現実的に考えると未来予想がドンピシャな孟達の手紙も含め、かなりの部分が創作された可能性が高い。最後の台詞なんか韓信の台詞そのままである。

ちなみに息子の劉林は連座されずに済み、後には牙門将の階級を得て蜀の滅亡まで生き延びた。
劉備の子孫は八王の乱で劉永の系統を除き全滅したとされるが、養子である劉封の系統が「劉備の子孫」に含まれていたのかは定かではない。


【創作作品での劉封さん】

現代日本ではマイナー武将の部類に入る劉封だが、1500年を超える三国故事(三国志創作)の変遷という面からみると非常に面白い、というか多面的なキャラクターでもある。
三国故事全体で見ても、ここまで時代・作品によってキャラがコロコロ変わる人物というのはなかなかに珍しい。というか具体的な個性を持たされているクラスのキャラでは彼しか思いつかない。

なぜ劉封がここまで複雑なキャラになったのかと言うと、まず彼に対する人物評価が、教養のある上流階級層一般的な庶民層によって全く異なったという点が大きい。

儒教的教養を持つ上流階級からすると、(特に古い時代では)劉封は「忠」あるいは「孝」という観点から肯定的に捉えられることが多かった。
基本的に役人であり、軍事的知識もある彼らにとっては「自分の任務を優先するため、関羽の援軍要請を拒否した」ということ自体は特に非難すべき行為ではない。
一方で、「厚遇を約束した敵の勧誘を断り、最期まで養父への忠誠を尽くした」という行為の方が、忠臣の鑑として高く評価されていたのである。
その報酬が父からの死罪であったことも逆に彼の忠誠をひきたてており、死ぬ間際の嘆きも宮仕えにストレスをためている士大夫たちからの共感を呼んだ。

特に五胡十六国時代~南北朝時代にかけては、君主が有力者を取り込むのに養子縁組を使うことが一般化し、結果として打算関係でしか結ばれていない養子(義子)たちが様々な不忠を働くことになったため、それらとの対比で評価はさらに上がった。
中国における諸葛亮の神格化というのは実際凄まじいものがあるのだが、そんな諸葛亮でさえ、この件に関しては「劉封は忠臣であり、それを讒言で殺したのは諸葛武侯(諸葛亮)の数少ない過ちであった」と評されることもあったほど。

一方で儒教的教養になじみがない庶民からすると、義叔父を見捨てた劉封は「義」「侠」に背いたクソ外道とみなされていた。この価値観はわかりやすく言えば任侠系、つまりヤ○ザのそれに近い。
素朴な庶民の価値観で言えば、劉封は「任務なんか捨ててでも関羽を助けるべきであり、それが不可能ならせめて共に馬を並べて討ち死にすべきだったのに、それすらしなかったチキン野郎」だった。

例えば庶民向けの戯曲や講談などでは、関羽と張飛が(なぜか同時に)殺された後、それをまだ知らない劉備の夢枕に立ち「劉備兄ィ、わしらのカタキを必ず取ってつかぁさい」と犯人たちへの復讐を願う、という定番シーンがある。
そしてここで関羽と張飛が「具体的にはこいつらをぶっ殺してくださいリスト」を歌い上げるのだが、なぜか劉封は実行犯である麋芳*1張達*2すら上回る優先度で、このリストの筆頭に挙げられてしまうことが多い。
「親父と盃を交わした義兄弟に義理を欠いた罪」というのは庶民にとってそれほどに重いのである。

そしてこの2つの対立を更にめんどくさくしているのが、作劇上「劉備の武勇に長ける息子」というポジションのニーズが大きかったことである。
関平諸葛瞻をはじめとして、三国故事には「活躍する息子世代」というモチーフがとても多いのだが、劉備にとってそれに相当する存在は劉封の他にいない。阿斗ちゃん「・・・・・・」
また劉備自身があんまり自分で戦うキャラではないため、その意味でも彼の代理人(鉄砲玉)になる息子ポジはぜひとも必要とされていた。
作り手側の「物語上このポジションは必要だが、劉封は使いたくない」というジレンマから、劉禅の弟にあたるマジメな劉永、劉禅の子である忠烈無双劉諶(りゅうしん)などが使われることもあったが、結局定着はできなかった。

三国故事における劉封のキャラはこの3種類の立場からのせめぎ合いであり、結果として時代や作品によって異次元レベルでキャラが変わってしまうことになる。


<劉封・極初期>-★★★★★★★

まだ三国故事が明確にジャンルとして成立する以前の時代は、劉封にとってある意味黄金時代だったかもしれない。

当時はまだ庶民のエンタメ業界が発達しておらず、地方の戯曲などでも土地の有力者である士大夫層の価値観がそのまま反映されたものが多かった。
このため劉封も「忠誠心が篤く、武勇に優れた劉備の養子」としてかなり美味しいポジションをもらっていたようである。

現に六朝時代の道教『真霊位業図』では、劉封は張飛や孔明・関羽といった人達を差し置き、劉備と共に神格化されていたほど。


<劉封・初期>-★★★★★★★★★

唐代。庶民向けのエンタメ業界が発展し「三国故事」がジャンルとして成立し始めると、前述の通り庶民から嫌われていた劉封は、その地位がじわじわと怪しくなってくる。

さらに宋の時代になると、関羽を信義の神・武の神として信仰する「関帝信仰」が広がり始め、関羽にとっての仇である劉封への風当たりは急速に強くなっていった。

そして士大夫層の庶民向けエンタメ業界への進出によって、三国故事全体が大きく発展した元代。
この頃には既に、戯曲や講談における劉封は麋芳麋竺(!?)*3と三馬鹿トリオを形成して蜀の足を引っ張ったり、ワガママぶりを発揮して孔明を困らせたりと、かなりのハズレ役になりつつあった。
関羽との因縁もかなり明確になり、「関羽の進言によって後継者の地位を追われたため、関羽を逆恨みし、後に関羽を陥れた」という設定が普及していく。

特に三国故事の1分野だった「関索もの」ではこの傾向が非常に顕著で、この系統の作品に登場する劉封は
  • 自分より先に関平に酒を注いだという理由で、関索にマジギレする
  • 喧嘩両成敗で流罪にされたがこの件を根に持ち、後に窮地の関羽が劉備に送った援軍要請を途中で握りつぶして彼を謀殺する。
などという超絶DQNなキャラになっている。

ただこれらの話から見てもわかる通り、扱いは悪くとも、出番自体はかなり多い方ではあった
当時の三国故事の主軸は「聞かせる物語」である講談だったため、受け手が混乱しないように登場人物を絞る傾向が強かった。
よってパシリやかませ犬など主役にやらせられない仕事が可能で、また場合によっては悪役や道化役、必要ならヒーロー系の役までこなせる劉封はかなりの便利キャラだったのである。

典型例としては、元代の戯曲『両軍師隔江闘智』などがある。
これは赤壁の戦いの後の劉備と孫夫人の結婚、及びそれを巡る孔明と周瑜の謀略合戦を描いた演目だが、劉封は孔明の(ちと間抜けな)パシリ役として全編出ずっぱり状態である。


<劉封・中期>-★★★★★★★★★

しかし明代になり、それまでの三国故事を正史の流れに併せて再構築した『三国志演義』が完成すると、劉封のこうした便利屋的側面は失われてしまう。
演義での劉封はその出番も大きく減らし、ちょこちょこと戦にモブとして登場し(そしてだいたいは負ける)、関羽を裏切って処刑されるだけのキャラになってしまった。
また関羽の子(演義では劉封と同じく養子という設定)である関平が大幅に活躍時期を前倒ししたため、ペアを組んだ彼の影に隠れて数少ない出番ですら目立たなくなってしまった

しかしストーリー上の扱いはともかく、キャラ設定の面ではいくらか回復もしている。
これは正史「三国志」における劉封の要素が再導入されたこと、そして演義の執筆サイドであった文士達が教養のある層の出身であったこと、などによるものだろう。

現代の三国志演義と比較すると、初期版三国志演義における劉封は以下のような点で特徴的。

▼「イケメンイケボ」
劉備が一目で気に入るぐらいのビジュアルの持ち主。イケメンはともかく、イケボ設定のキャラはかなり珍しい。

▼「武勇に優れ、学業でも優秀」
その割には弱すぎる気がするのだが、まあ設定的にはこうなっている。

▼「劉封が処刑される回のタイトルは『漢中王怒って劉封を殺す』
劉備が関羽を失った怒りのあまりに、早まって劉封を(不当に)殺してしまった、というニュアンス。

▼「劉封をはやまって処刑してしまった劉備が後からその忠誠を知り、『忠義の臣を殺してしまった』と泣く
横山三国志で有名なあのシーン。この時点での劉封はまだ「(少なくとも劉備に対しては)忠義の臣」とされている。

▼「泣いている劉備に対し、孔明が「劉封を殺した程度で女みたいに泣かないで下さい」とKY発言をし、語り手からブタ野郎呼ばわりされる」
所謂「李卓吾版」の記述。「孔明は千年、万年に一人のクズ」とすら言われており、地の文で孔明がここまで強烈にdisられているのは非常に珍しい。


<劉封・後期>-★★★★★★★★★

しかし中国最後の帝国となった清王朝は「忠義のあるべき見本」として三国志演義を国家レベルで推奨しており、特に「義の人」関羽と「忠の人」孔明を猛プッシュした。
かの西太后ですら、お芝居(京劇)で関羽の登場シーンになると起立して敬意を表したという。
しかし必然的に、その両者にとって「敵」であった劉封の立場はえらいことになっている。

清代初期、毛宗崗という文士によって、三国志演義の決定版とも言うべき版本が編纂された。
現代でも「三国志演義」として普及しているこの版における劉封は、

▼「イケメンイケボ設定削除
そんな設定はありません(断言)

▼「武勇に優れ、学業でも優秀設定削除
ただの凡人です(断言)

▼「劉封が処刑される回のタイトルは『甥が叔父を陥れ、劉封が法に服す』
劉封が関羽を陥れた主犯であり、正当な罰として処刑された、ということになった。

▼「劉封を処刑した劉備が後からその忠誠を知り、後悔する
……だけ。罪人が処刑されただけで泣く必要がありますか?おかしいと思いませんか?あなた。

▼「そもそも劉備が泣かないので、諸葛亮も何も言わない」
このあたりの記述はまるっとカット。

などのフルコンボを喰らい、もはやなんというか搾りカスのようなキャラになってしまった。

また三国故事が洗練されてきたことで、かつてのような道化役としての出番も激減。ただ「蜀の悪役・ハズレ枠」としての需要は何とか残っていたため、完全に消えてしまうことはなかったが……


<劉封・現代>-★★★★★★★★

そんな劉封だったが、現代になってアニメ、ラノベ、マンガ、ゲームなどといった新たな形のエンタメが隆盛してくると、「劉備の息子のダメじゃない方」という形での需要が再び息を吹き返してきた。
特に最大の敵とも言うべき関帝信仰がない現代日本ではこの傾向が非常に強く、しばしば劉備の息子枠として登場するようになってきている。関連人物のイメージダウンになるからか存在が抹消されることも多いが。

しかしこのタイプの新型劉封は、本来ならキャラ盛りに使えるはずの史実要素(経歴や設定など)、あるいは伝統的な道化的便利屋要素などを殆ど反映していないという点が興味深い。
特にかつて好まれた「悲劇的な忠臣」というモチーフはガン無視されており、むしろ「殺されたのは劉封の自業自得なんだけど、そこにはまあ目をつぶって……」という感じに優しくスルーされていることが非常に多い。
この辺りはやはり清~中華民国時代のキャラを濃厚に受け継いでいる部分か。
つまりあの時代のダシガラ劉封から悪役要素・不忠要素を抜き取り、ミリ残った武勇要素を大幅に増強することで出来上がったのが現代式劉封と言えるかもしれない。


『民間伝承』


◆「蒙在鼓裏」
故事成語。直訳すると「太鼓の中に入って何も見えなくなった」という意味で、「(関係者なのに)事態がわからずまったくついていけない状態」を指す慣用句。
現代中国語でも普通に使われるこの成語、実は劉封に由来している。

劉封は「関羽の仇」として歴史上そりゃもう様々な殺され方をしてきたのだが、最もメジャーな殺され方として「リアル黒ひげ危機一発」的な処刑法がある。
これは具体的に言うと
  • 1.劉封をだまして大きな太鼓に入れます
  • 2.劉封の入った太鼓を山頂に運びます
  • 3.劉封の入った太鼓に剣を何本も指します(ここで殺してしまわないよう注意しましょう)
  • 4.山頂から岩肌に向けて、劉封の入った太鼓を蹴落とします
  • 5.ゴロゴロ転がり落ちていく太鼓の中で、剣で刻まれてミンチよりひでぇ劉封の出来上がり!
というもので、元代には既に原型が見られる伝統的な劉封処刑法である。
これは戯曲や講談でも度々脚本化されており、張飛、関索、関興関三小姐(関羽の娘)、劉備など様々なキャラが処刑係を担当する人気演目になった(張飛verの『鼓滾劉封』などは現代でも残っている)。

この演目では、太鼓の中にいる劉封が剣を刺される段階で「外でいったい何をしているのですか!」とパニックになるのが定番であり、そのシーンが故事成語になったというわけ。


◆「劉封井」
「井」は井戸のことで、中国四川省(蜀)にある三国志ゆかりの観光スポットの一つである。
弘法大師様が杖をつくと水が湧き出し、それが井戸になりました」 という、いわゆる「弘法水」が日本各地にあるが、まあ似たようなものである。

しかしこちらの場合、「劉封が野営で飲んだ井戸とかかな?」と思いきや、「劉封が落とされて処刑された井戸」という情け容赦ないもの。
しかも例によって落とした相手がバリエーション豊かで、「劉備が劉封を落とした井戸」「張飛が落とした井戸」「関索が落とした井戸」など、様々な劉封井が四川省のあちらこちらに存在する。
ディアボロかお前は。


◆「劉安」
かなりグロいので格納。


『横山三国志』

横山三国志は基本的に吉川栄治の「三国志」準拠であり、吉川三国志は江戸時代に初版三国志から直接翻訳された「通俗三国志演義」準拠なので、劉封の扱いは比較的マシな方。
……といっても元が元だけに知れたものではあるが、まあ少なくともイケメン系ではある。
ちなみに横山三国志は作画資料として中国で普及していた2種類の連環画を元にしていることが多いが、劉封は明らかに造形が異なり、出典が不明。


蒼天航路

「武勇に優れた劉備の養子」という触れ込みで終盤にちょっとだけ登場。
血気盛んな青年で、襄陽にいる関羽の援軍に行きたがるが、ベテランの孟達(こちらの方が立場が上らしい)に理をもって諭され、「ならば自分と降伏した兵士達だけで行く」とまで言い出すが、やはり却下される。
ストーリーそのものが曹操の死で終わるため、最後は描かれない。


『反三国志』

清~中華民国時代の典型的な劉封が描写されているので、興味がある人は猛烈なつまらなさに耐える自信があれば読んでみよう。

諸葛均さえ張コウに勝ててしまう超絶蜀補正がかかる中、劉封さんのそんなものとは一切無縁のやられ役っぷりが光る。
立ち位置としては趙雲のパシリの一人といった感じではあるが、蜀陣営において貴重なハズレ枠担当ではあり、出番自体は前半でそこそこある。
そしてそんな中で最も目立つシーンは 甘寧に全く相手にならずに蹴散らされ、追いかけられているところを馬雲リョクに助けてもらい、あとは彼女に戦ってもらうという素敵なもの。
地の文では劉封などは馬雲リョクに比べ、全くものの役に立たず… などといわれる有様である。

劉封はこの後殆どフェードアウトするが、最後のあたりで唐突に名前だけが登場し、一応王に封じられたことになっている。
が、これは「劉表の一族を王族として扱うべきか?」という議論の引き合いに出されたためであり、「劉封ですら王になったんだから、劉表の子孫が王になるのは当然だよね」として劉表の孫が王に封じられる、という愉快な論拠にされるところで出番は終わる。


『コーエー三國志』

基本的にコーエー三国志は演義準拠であり、当然強くはない。
というか三兄弟の子供たちの中では最低レベルの能力で、戦闘力では準エース級である関平・関興・関索・張苞には勿論、女の子の関銀屛にすら負けている。
さらに知力と政治がガッツリ低いため、総合値でいうとロクに活躍の記録がない趙雲の子供たちや関羽の孫たち、戦闘要員ですらない張氏(劉禅の妻)にすら劣る始末。

しかし能力値以外の点では微妙に優遇されており、兵科適正が妙に実戦的だったり、優秀な特技を持っていたりする。また頭数が不足する時期に登場することもあり、実用性は意外に高め。
……だったのだが、これらの要素は「ハズレじゃない方の劉備の跡継ぎ」として使われることが多かったためであり、阿斗ちゃんの実用性が妙に上がってきた近作ではこういった微妙な補正も失われ、完全な二流武将になりつつある。


『三國無双シリーズ』

シリーズ初期作品では当然モブ。モブ武将にもパラメータが設定されるempiresなどでも特に優遇措置はなく、純然たるモブ。
その後横山三国志などで彼の相棒と言わんばかりにセットで登場していた関羽の息子関平がプレイ可能キャラに昇格し、無双オリジナルキャラとして張飛の娘星彩が登場してもモブのまま。それどころか演義での「関平の相方」というポジションも星彩に吸収されることに。
更にその後まさかの阿斗ちゃんこと劉禅・関興・関索・張苞に関銀屏までもが昇格してもモブのまま。
「関羽を見捨てて劉備に処刑された」ことしか書かれていない武将辞典が涙を誘う。養子という設定はともかく、どうにもパッとしないその最期が昇格しない理由であろうか。


『大戦シリーズ(三国志大戦、英傑大戦)』

全体的に端正な顔立ちの若武者として描かれる。
1~3の旧版ではいまいちぱっとせず、資産の少ない初心者向けのカード(その後有用な1.5コストの馬が手に入った途端捨てられるところまで史実通り)。
何気に少しずつ性能が上がっており、新版では6/5/1征圧力上昇持ちと数値は1.5コストトップクラス。
しかし計略が一貫して汎用で最も弱い強化戦法のままであり、上記の将器も逆に言えば劉封が1枠喰ってしまうと言うのが悩ましい問題。
そうでなくとも蜀1.5コスト騎兵は魏延に趙氏(趙雲の娘)に馬承(馬超の息子)と強豪だらけなのが悩ましい。ライバルの顔ぶれがまた凄い
とにかく何もなさ過ぎた為、遂に計略が汎用ながら爆発力のある寡兵戦法にエラッタされ、立ち位置がそれなりに向上した…が後述の遊軍と共存できないこともありすぐに魏延に奪われた。

さらに新バージョンで追加された「遊軍」システムにも蜀の遊軍として登場。こちらは巫女さんや軍師田中に押されがちながらも、瞬発力を求める層に一定の需要がある。

今までの大戦シリーズをごちゃまぜにした英傑大戦にもバージョンアップ後に追加。
相変わらず数値は平凡な1.5コストの騎兵だが、今回は何と碧勢力の味方の最高武力が高いほど能力の上がる超絶強化を持って参戦。
義父はもちろん、土方歳三のような高火力を叩き出す号令、本多忠勝や芹沢鴨のような高コストアタッカー等とも相性が非常に良く、
デッキ構成の邪魔にならず、手に入りやすいNの1.5コストという立ち位置も手伝って、追加直後から碧の定番カードへと躍り出た。

新版三国志大戦以降、実は優遇が続いている武将だが一向にレアリティは上がらない

BB戦士三国伝

「若き蒼竜騎」劉封ガンダム。ホンタイさんの養子。
外伝武将なので演者は設定されていないが、キットはドラゴンガンダムモチーフの「輝龍頑駄無」のリデコ。ただしカラーリングが青系に変更され、ドラゴンガンダムの要素を色濃く残していた輝龍の顔や脚部が新規パーツに入れ替えられたため、劉封のドラゴンガンダム成分はかなり薄い。

張苞、関平といった桃園義兄弟の息子世代と共に「小龍隊」を結成。
特に張苞は付属のボーナスパーツで劉封を三国伝体型に近付ける事ができるので、片方を買うならもう片方も揃えたい所。

諸々の都合で義弟(劉備の実の息子)たちが登場しないため実質的に後継者なのだが、名前繋がりで貰った「現代に蘇った項羽と因縁がある」という設定を主役補正で養父に盗られるなど、優遇されているのか不憫なのかイマイチわからない可哀相な侠。
コミックワールドでは項羽への介錯を務めたりはしているが。
とはいえ原典にあったような関羽との確執はカットされ*4、死ぬような目には遭っていないことは救いである。




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最終更新:2024年03月19日 09:29

*1 関羽殺害関係者その1。関羽の本拠地を預かりながら呉軍にあっさり降伏した

*2 張飛殺害関係者その1。張飛を暗殺して呉に逃亡した実行犯

*3 糜芳の兄。劉備の旗揚げからついていき、弟の裏切りの際には責任を感じ自ら死のうとするくらいに忠臣だった。自殺は止められたが最期は憤死

*4 というか関羽も原典のような傲慢さが全くない人格者になっている。