ウラービー革命

登録日:2014/09/13 (土) 11:58:42
更新日:2023/12/13 Wed 15:11:52
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我が国はもはやアフリカではなく、ヨーロッパの一部である。



我々が以前の方法を取り止め、社会的状況に適している新しい制度を採り入れることは、すなわち自然なことである。


概要


ウラービー革命とは、1879年から1882年にかけて、エジプトで起こった革命運動である。
別名として、オラービー運動やオラービーの反乱とも呼ばれることがある。

反乱の名前の由来は、アフマド・オラービー陸軍大佐から。

ムハンマド・アリー朝のヘディーヴとヨーロッパ列強に対抗した反乱。


革命までの背景


エジプト政治は腐敗、財政は壊滅状態…あああああああもうやだああああああ!!!!


1870年代のエジプトは、全ての面において最悪の状況であった。

1800年代にムハンマド・アリー朝は、オスマン帝国から事実上の独立を勝ち取った。
しかし、シリア出兵はヨーロッパ列強からの介入で失敗に終わる。

この出兵により、エジプトにおける近代化・富国強兵がうまくいかないであろうことを示唆する結果となってしまった。
列強は、ムハンマド・アリーに迫って、オスマン帝国が各国と結ぶ不平等条約に基づいて治外法権の承認・関税自主権の放棄・国内市場の開放を実現される。
このことがきっかけでエジプトは列強の経済的植民地化に片足を突っ込むこととなった。

だが、この時のエジプトはまだ一定の繁栄を見せていた。

19世紀半ばには土地の国有廃止が行われて地主制が浸透。
エジプト経済は莫大な産出をする綿花農業の利益に支えられて繁栄を極めた。

エジプト綿花で利益が出る、もう最高だね!

またエジプト政府主導による近代化改革路線は形を変えて続けられる。
イスマーイール・パシャのもとであのスエズ運河が建設され、列強にとってのエジプトの経済的・軍事的な重要性がさらに高まった。


しかし、エジプトの繁栄は長くは持たなかった。


極度の綿花輸出への依存は経済をモノカルチャー化。
その結果エジプト経済は外国の景気変動に極度に影響を受けるようになるという最悪の状況になり不安定になる。

そしてスエズ運河の建設はエジプト財政に過大な負担を強いることとなり、財政を壊した。
イスマーイール・パシャの過度な欧米化政策によって生み出された巨額な負債は、返済不能の状態にまで追い込まれてしまったのだ。

エジプトやべぇよ…やべぇよ…

1870年代にはアメリカで起きていた南北戦争が終結して、アメリカ合衆国産の綿花が国際市場に大規模に流入。
すると国際綿花価格の下落が引き起こされ、綿花ばかりに頼っていたエジプト経済は大打撃を受けた。

外債は瞬く間に膨張し、1875年にはスエズ運河会社株をイギリスに売却する。あぁ、もうめちゃくちゃだよ。
1876年、ついにエジプト財政は破産し、財政部門は債権者である列強の管理下に置かれることになる。

イスマーイールあぁ、もう財政は駄目だ…ならエジプト人を奮起させよう!

カスが効かねぇんだよ!

イスマーイールは、エジプト人にこの外部環境に対して奮起させようという計画を試みる。
だが、イギリスとフランスは、イスマーイールを退位させ、自国に従順なタウフィークをヘディーヴに据えた。


イギリスを初めとした列強お前らは俺のおもちゃでいいんだ上等だろ!


エジプト世界は、徐々にヨーロッパ人に支配された。

高等教育を受けたエジプト人の公務員や軍人はヨーロッパ人がエジプト社会を牛耳ることによって、自らの出世の道が閉ざされることを感じる。
エジプトの農民は課せられた重税に対して不平を募った。

ムハンマド・アリー朝の建設に活躍したトルコ系の傭兵たちの存在も、欧米による支配と同様にエジプト人の不平を募らせた。
彼らは政府と軍隊を支配していたし、ヘディーヴの手によって教育面でも優遇された。
内閣はこういったトルコ系の人々によって組閣されていた。

エジプト軍人腹が減った…どうしてくれんのこれ…

財政状態の悪化は、軍隊の大量リストラを引き起こす。
このことによって、エジプト国内において高等教育を受けた軍人たちが職を失うという状況を抱えることになってしまった…
余談だが、当初のリストラをさらに上回る大規模なリストラも計画されていたとも言われている。


政治は腐敗し、社会体制はヨーロッパ化、財政はイギリスやフランスに握られる…

ムハンマド・アリー朝は、もはや独立国では無く、ヨーロッパ列強の『犬』状態だった。
結局オスマン帝国から独立したもの、オスマン同様に列強に支配されていく社会。


だが、エジプト民族による反乱が起きる前兆は既に起きていた。

1870年代から1880年代のエジプトは出版が盛んになり、この時代で既に新聞も発行されるようになった。
エジプト国民の識字率もかなりの向上を見せた。

エジプト社会において、反王政の世論は十分に高まっていたのだった…


反乱開始とぶつかる意見


1881年の夏のことである。
ウラービーが指導するエジプト人の指導者層とヘディーヴの間での緊張が高まった。

そして、1881年の9月。
ヘディーヴは、ウラービーに対して、職を辞し、カイロを立ち去ることを命令。だが

ウラービーてめぇの言うことなんか聞くかよ馬鹿

ウラービーは、ヘディーヴの命令に背く。
そんでもってトルコ系の内閣の総辞職と選挙によって代表された人による政権の樹立を要求した。

タウフィークは、ウラービーの要求を斥けることが出来なかった。

タウフィーク…しょうがねぇなぁ…

それでウラービーと彼の支持者による政権が成立した。

これが、エジプト最初の民族主義運動であるウラービー革命の始まりである。
反ヨーロッパ列強、反オスマン帝国、反エジプト副王(ヘティーヴ)など様々な要素も絡んでいた。
革命はうまく成功したと思われた。

しかし、イギリスなどがこの状況に黙っているわけがない。

1882年1月8日、フランスとイギリスは共同で、ヘディーヴが政府の代表であることを宣言した。
この共同宣言は、ウラービーを首班とする政権を怒らせた。

新政権ふざけんな!!なら欧米人には消えてもらう!

ウラービー政権は、今まで政権を支配してきたヨーロッパ人を追放する。

新政権トルコ人も邪魔くさいし消えてもらうかな

この追放劇とともに、多くのトルコ系の公務員を解雇した。
こうして起きた騒動の中で、怒りに燃える身分の者は多くいた。

ヨーロッパ人・大土地所有者・トルコ系のエリート層などである。


この他にも、高位のウラマーやシリア系のキリスト教徒の反発を招いた。

では逆に、ウラービーの動きを歓迎する身分者はどうのような人々だったのか。
ウラービーの支持層は、低位のウラマー、エジプト系の公務員層、地方出身の指導者などだった。

エジプト民衆の間にもオラービーを支持する者が多かった。
オラービーはヨーロッパの植民地支配に立ち向かえる唯一の人間という意味で「アル・ワヒード」と言われていたとか。

一方そのころ、コプト教徒は両方の立場に分かれた。

結果として、コプト教徒の一団はウラービーを指示する層と紐帯関係を結んだ。
しかし、この関係に納得がいかないコプト教徒がいたことも頭に入れておこう。


また、オスマン帝国のスルタンに接触する試みも両者の間で行われた。

タウフィークは、スルタンに軍隊の派遣を要請した。
だが、スルタンは、海外のキリスト教徒の干渉に対して奮闘しているムスリムに対して軍隊を派遣することを好まなかった。

また、ウラービーもスルタンにタウフィークがヘディーヴの地位を退位することを要請した。
しかし、スルタンは、ウラービーの要求に対しても拒否した。


アレクサンドリア砲撃によるイギリスの行動開始


1882年6月11日の昼、アレクサンドリアの通りで、暴力事件が発生した。

暴動を起こした人々は、ギリシャ人、マルタ人、イタリア人のビジネスマンを襲撃。
約50人のヨーロッパ人と250人のエジプト人が殺害された。この暴動が発生した理由はよく分かっていない。

マスコミは様々な意見を報道した。主な報道としては

  • ヘディーヴによってウラービーの信用を失わせるために起こされたものである

  • 外国人攻撃を決心していたウラービー軍によって起こされたなどと報道された

といったものである。
ところが、この報道も推測にすぎず、結局誰がこの事件のトリガーを引いたのかは分からなかった。

ヘディーヴ、ウラービーともに、互いを非難しあった。

ヘディーヴ何やってんだお前!(どうしてこうなったのかなぁ…)

ウラービーお前らが悪い、お前らが!(…誰がやったんだ…)

やはり、両方にその非難する根拠を持っていたわけではなかった。

これに対してヨーロッパ各国はすぐに反応した。
避難者がアレクサンドリアから逃げると、ヨーロッパ各国の26隻以上の艦船が港内に集結した。

7月6日までにエジプト人以外はほぼアレクサンドリアから逃げ出した。
守備隊は、シーモアが「作業をやめなければ砲撃する」との最後通牒をするまで要塞や塔の強化を行い続けた。


最後通牒は無視され、7月11日午前7時に期限を迎えた。


イギリス今からお前らに罰与えっからな


1882年7月11日午前7時、インヴィンシブル座乗のシーモア提督は、アレクサンドリアに対し『ラス・エル・ティン要塞』への攻撃開始の信号を送った。
続いて敵砲台に対する攻撃命令が出された。

イギリス海軍は、ビーチャム・シーモアの指導により、砲台に砲撃を開始した。
フランス海軍もまた、アレクサンドリア砲撃に参加した。

アレクサンドリアではその後数日間火災が続き、街は混乱して無法状態の世紀末と化した。
これは、ベドウィンによる街の略奪を許すこととなった。

廃墟となった街を掌握し略奪を防ぐためにイギリス軍が上陸した。
秩序が回復し、大部隊がアレクサンドリアに上陸しウラービー攻撃に向かった。

イギリス海軍は、結果的にエジプト軍の抵抗にあったもののアレクサンドリアの占領に成功した。


9月になるとイギリス陸軍は、運河地帯に上陸した。

運河地帯への進出はアレクサンドリア及びカイロの占領に先駆けて実施された。
イギリスは、イギリスがエジプトに供与してきた多くの借款をウラービーが破棄することとスエズ運河の支配に注目していた。


1882年9月13日、テル・エル=ケビールの戦い において、イギリス陸軍はエジプト陸軍を圧倒。
カイロは無血開城され、占領された。

オラービーは逮捕された。

彼は12月3日に当然のごとく死刑判決を受ける。
しかし、エジプト民族主義運動に同情したイギリス人著名人の嘆願などでタウフィークから減刑が認められ、英領セイロン島に流刑となった。


こうして、ウラービー革命は幕を閉じたのであった…


その後とか


イギリスはエジプトを保護国化。

スエズ運河を通じて繋がったインドを植民地とするイギリスは、エジプトをかなり重要視した。

イギリスは、生命線であるエジプトの掌握に細心の注意を払い、ムハンマド・アリー朝の政府を温存。
その一方でイギリス領事やイギリス人顧問によって実質上のエジプト政府支配を実現した。

またイギリスは、第一次世界大戦開始までオスマン帝国の宗主権を握り続けた。

1922年のエジプトは独立したが、それ以降もイギリスはエジプトの内政に干渉しまくった。
この関係は1952年のエジプトで起きたエジプト革命まで続いた。






一方セイロン島に流されたオラービーはどうなったか。
彼は、1901年に恩赦され、エジプトへ帰国する。

だが、帰国した当時は、民衆からは忘れられた存在となっていた。
彼の存在を覚えていた民族主義指導者層の間でも改革を急ぎすぎてイギリス占領を招いた人物として評価は低かった。

以降は政治に関わることなく、1911年にカイロで死去。


だが1952年のエジプト革命後、ガマール・アブドゥル=ナーセルらから「エジプト民族主義の父」として名誉回復を成し遂げる。
彼はエジプトの民族的英雄に昇華した。

良かった…のか。


日本との繋がり


実はこの革命、日本との繋がりがあったりする。

■オラービーと日本

オラービーは、日本の明治維新の成功についてかなりの興味を持っていた。
彼は、日本の明治維新の成功の理由として

  • 明治初期の日本は生糸しか主要産業がなく、イギリス・フランスにとっての日本の価値は清に比べかなり低かった
  • 日本はスエズ運河を擁するエジプトと比べると列強の目に入りにくく地理的条件が良かった

と考えていたようである。

彼は、地理的条件の良かった日本を羨ましがっていたと言われている。

■革命に対する日本人の反応

セイロンにいた際、谷干城(当時、農商務大臣)、東海散士(同秘書官)が彼を訪ね会見している。

東海散士は後に『埃及近世史』を著した。
彼は、列強による植民地化の巧みな手口への警戒を呼びかけた。


また、末松 謙澄は、イギリスのケンブリッジ大学でこの革命においてのイギリスを批判している。
その批判内容はこのようなものである。


エジプト人民が怒るのも当然しごくではないか。
もしあなたたちイギリス人が、このようなこと(反乱への軍事介入)を我が国日本に対してするのなら、私も必ず抵抗蜂起の首謀者になるでしょう。








追記・修正は、エジプトで反乱を起こしてからお願いします。

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最終更新:2023年12月13日 15:11