扶桑/山城(戦艦)

登録日:2012/06/19(火) 08:37:49
更新日:2022/12/03 Sat 11:37:48
所要時間:約 7 分で読めます





 扶桑とは(画像なし)         山城とは(画像なし)


大日本帝国が所有していた戦艦。扶桑型戦艦の一番艦と二番艦にして、日本初の純国産の超弩級戦艦である。
互いに姉妹艦であり、最初から最後までほぼ一緒に行動し運命をも共にした。
「扶桑」とは日本の美称であり、「山城」も日本の中心地である京都南部、平安京のあった国名。
まさに日本を代表する艦名であり、帝国海軍の思い入れが感じられる。

そこ、某空飛ぶ飛行機少女は関係ないぞ!

起工
1912年3月11日
進水
1914年3月28日
就役
1915年11月8日
戦没
1944年10月25日、スリガオ海海戦で沈没


性能(最終状態時)
全長:212.75m
全幅:33.8m
吃水:9.69m
基準排水量:34,700t
乗員:1,396名
最大出力:75,000hp
最大速度:24.7kt
航続距離:10,000浬/16kt
武装:45口径35.6cm連装砲6基(主砲)
50口径15.2cm単装砲14基(副砲)
40口
◆誕生

戦艦の数と性能が政治すら左右した大艦巨砲主義の時代。英国は画期的な戦艦ドレッドノートを建造、他国もそれに倣った弩級戦艦を建造した。やがて弩級すら超える超弩級戦艦が誕生し、大建艦狂争はいよいよ白熱した。

日本もまた、時代の潮流に乗り遅れまいと準弩級の薩摩型河内型に続いて超弩級戦艦の建造を画策する。しかし、建艦狂争によって日に日に最先端の技術が改まる時代、自国の技術力では困難であった。
そこで、当時世界一の海軍国であったイギリスに、日英同盟の縁にすがって金剛型巡洋戦艦を発注、二番艦以降をライセンス生産し、その技術を学んだ。
そしてさらに日本は、薩摩型河内型までの経験と最新技術とを併用した、最初から最後まで自力での戦艦の建造を模索した…が…
背伸びをし過ぎた

まず当時は戦艦の主砲はコンパクト化出来る三連装砲塔も選択され始めていた頃だったのだが、


(´・ω・`)『三連装の主砲は重量制限に優しいけど弾がばらけちゃって当たりにくいよね……機械の信頼性も連装より不安があるし…。


…という理由で金剛型と同じ二連装を選択。手数を得るために中心線上に増やした6つの主砲が船体を圧迫してしまう。そのヘッポコさはあまりの重さに船体が歪み、水圧機の能力不足に困る始末…
(水圧機の能力不足は扶桑型特有の問題ではなくこの時代の日本の戦艦や巡洋戦艦全てに言える問題である。
この問題のため日本海軍では交互打ち方が主流になった。斉射時に船体が歪んだとされるが具体的にどのような影響が出たのかは不明。)
しかもその自慢の主砲を斉射すると爆炎が艦橋を包み、煙くて周りが全く見えない。敵艦に照準をつけにくいのだ。おい、造船技術者…
ただ、爆炎による影響は他の戦艦などでも見られた事ではある。扶桑や山城は演習で好成績を出していることもあるので爆風の影響はそこまで深刻なものではなかったとする意見もある。

無闇に砲を詰めこんだ弊害はこれだけではない。
煙突を挟んで3、4番砲塔を配置した為射撃指揮がやりにくい事この上無い。
しかも機関区を挟んでいる為、大出力機関への換装が困難である
何より…広い範囲に砲塔が散らばったせいで、同時期の米戦艦ネヴァダ級の2割引の防御力でしかない。
余談だがネヴァダ級は集中防御式の採用により全体防御式を採用していた扶桑型など同時期の戦艦よりもバイタルパートの装甲が厚かった。

ちなみに扶桑の竣工とほぼ同時期に攻撃力や防御力、速力などを上回る性能を持つクイーン・エリザベス級が出現したため当時の日本の技術者に

(´°д°`)『扶桑型は装甲も速度も弱すぎ、頼りなさすぎてワロエナイ

と言われる程である…おのれ造船技術者ッッ…!!


こんなのでも使わぬ訳にはいかない。第一次、第二次に渡る大改装を(山城は二回分を一回で)施すことを決定。やっと扶桑と山城は報われたのだ…


その工事は大規模で、主砲・副砲の最大仰角を引き上げ射程を延伸、新型徹甲弾を使用出来るよう揚弾機構を大改造し、砲塔装甲を強化。
更に水平装甲の強化により、遠距離砲撃戦に対応した。
全長を5m伸ばして抵抗を減らし、機関を強化して約25ノットの快速を得た。

そして、艦橋上の測距儀も8mのものを搭載し、防空施設の増設や水上偵察機の搭載を行った。後に電探も積まれている。





…まぁそれはどうでもいい。扶桑はそれ程の大改修を受け、その姿も劇的な大☆変☆身を遂げたのだ!


生まれ変わった扶桑と山城の姿がこちら!
↓↓










どうよ
(画像なし)



(;^ω^)…アレ?



すごく…艦橋が大きいです…








どうしてこうなった…
`___
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| ̄\三⊂/ ̄ ̄/
|  |( /  /

どうしてこうなった!?

`___
/∥ ̄∥ ∧∧
L∥_∥ (^ω^)
| ̄\三⊂/ ̄ ̄/
|  |( /  /


どうしてこうなった
 どうしてこうなった

`___ ♪ ∧∧ ∩
/∥ ̄∥ r(^ω^)ノ
L∥_∥ └┐  レ―
| ̄\三/ ̄/ _ノ⌒
|  |/ /(_(  ♪

どうしてこうなった
 どうしてこうなった

`___ ♪ ∩ ∧∧
/∥ ̄∥  丶(^ω^)7
L∥_∥  /\ノ  ┌┘
| ̄\三/ ̄/\_ ノ
|  |/ /   )_) ♪



ホントどうしてこうなった!

この違法建築だとか気持ち悪いとか後世散々な言われようの新型艦橋、前述した一斉射撃の爆風対策の為で、その理屈は



(´ω`)『煙たいんだろ?じゃあ艦橋を高くすれば見えるよね!


その結果、特徴的な艦橋は爆風から逃れる為に上へ上へと健やかに育ち、遂には日本の戦艦中一番デカい艦橋を持つに至った。
これ以外にも、爆風対策よりも砲戦距離の延伸に対応して観測設備の位置を上げたかった事や、砲塔に挟まれた構造上、艦橋を前後に拡張できず上に増設していくしかなかったとする意見もある。


おんのれ造船技術者ァァァアッッ!!


ちなみに二隻の区別が難しいという方。…識別点は艦橋だ。扶桑はスペースの都合で三番砲塔を前向きに変更した為に、艦橋下部が細く絞られた、見るものを不安にさせる形状となっている。
もしかして→ジェンガ?



◆戦歴

…さて、ここからはネタ抜きで真面目に記述するとしよう。


扶桑と山城は建造から30年も出番がなかった。そんな二艦が参加することとなった戦争が太平洋戦争である。

しかし最早艦歴30年の老朽艦である扶桑型の二隻は二等級の戦力と見なされ、大掛かりな任務には着けず予備戦力扱いであった。

というか両艦とも頻繁にドック入りしていたため、艦隊にいるのが珍しい程だったらしい。ただ、ドック入りしている期間は金剛型も同等以上に長かったのだが…。ドック入りの期間の話は戦間期の話とされる。

そもそも当時は戦いが空母が主体になっていたため戦艦は出番がなく、空母の護衛にしようにも速度が足りない。

というか扶桑に任せるなら、既に30ノットに増速する改修を済ませた金剛級戦艦がいるという始末。
おい、こっちも改修しろよ…

その間、扶桑姉妹は仕方なく地道に操艦訓練を繰り返す毎日であった…(一応出撃する機会は数回あったのだが、何かしらの理由で全て空振りに終わっている)
ちなみに山城の訓練はきつい所の騒動ではなく、「乗るな山城鬼より怖い」などという言葉もあったという。
扶桑は太平洋戦争中期頃に爆沈した陸奥の代わりにトラック島方面に進出し、長門と戦隊を組んでいた。

だが、そんな扶桑達も出撃する時が。それがレイテ沖海戦である。

空母を囮とし、戦艦や重巡による2つの艦隊で直接レイテに居る米補給船団に殴り込むという『捷一号作戦』。
何と扶桑と山城は西村艦隊の主戦力として編入されることになったのだ。

そして山城は旗艦となり西村中将が座乗、北方から攻め入る栗田艦隊とは別に、南方のスリガオ海峡からレイテ湾を目指し出撃する。




しかしその動きは敵に読まれていた。海峡に入った途端に魚雷艇30隻に遭遇。合計30本の魚雷の連続発射を受けてしまう絶望的な状況に。



しかし


なんと西村艦隊は魚雷30本全てを回避。日頃から受けてきた訓練が功を成したのだ…
その後も度々出てくる駆逐艦に悩まされ続けながらも進撃する西村艦隊。


しかし、扶桑は狭い海峡の中で魚雷4本が被雷。急速に落伍し20分後に弾薬庫に引火…艦体が真っ二つに折れるほどの大爆発を起こし散っていった
皮肉にも日本海軍が望んでいた駆逐艦による戦艦の撃沈を果たしたのはアメリカ軍だった

西村艦隊は、扶桑が落伍したことに暫く気づかなかったという…



敵の猛攻撃は止まずに僚艦も次々と被雷、山城も魚雷一本を受ける。満身創痍の西村艦隊は三隻しか残っていない…それでも、山城は突撃をやめなかった。





そして夜。最終防衛ラインで敵主力艦隊と遭遇。
戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻以上。




西村艦隊が次々と戦艦と巡洋艦からレーダー射撃を受ける中、山城は自らも敵艦が上げる砲火の閃光を目標に応戦した。

このとき西村祥治中将は「我魚雷を受く。各艦は我に省みず前進し、敵を攻撃すべし」と残存艦に指令。
自らを囮にして僚艦を進ませようとしている




しかし猛烈な火力を前に山城も機関が停止、火薬庫が引火して大爆発を起こす。

そして艦橋がその後急速に傾斜、総員退去の命令が出されてから僅か2分後、午前4時19分に右へ転覆。


扶桑の後を追うように海中へ姿を消していった…


この大爆発までの間、山城の前部主砲は最後まで砲撃をやめなかったという。
生存者は約4000人中、僅か十名であった



失敗作・無様と言われても最後まで懸命に海を駆け抜けた扶桑と山城の姿は、自らの使命に生きた立派な戦艦だったと言えるだろう。


なお、日本では(『艦これ』が流行る前は)あまり知られておらず、時には低い評価を受ける戦艦ではあるが、海外では、その不安を煽る艦橋が(ネタ的に)人気だと言う。
例えばWoWsでも後期型扶桑のモデリングは最初に行われたとかなんとか。




追記・修正は艦橋をジェンガで再現してからお願いします。

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最終更新:2022年12月03日 11:37