ポル・ポト

登録日:2012/02/10 Fri 23:47:18
更新日:2025/03/26 Wed 23:16:56
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「腐った林檎は、箱ごと捨てなければならない」
*1


1975年、アメリカ合衆国の傀儡だったロン・ノル政権を打ち倒しカンボジア共産党が建てられた。
これを率いていた人物こそがポル・ポトである。

それまで内戦に疲弊していたカンボジア国民はようやく平和で穏やかな日々が来ると信じていた。

しかしそれは更なる地獄……
いや、生き延びた一人によれば「地獄の方がマシ」な、凄惨な日々の幕開けだった。

■ポル・ポトの人物像

1925年もしくは1928年生まれ。
「ポル・ポト」とは「Political Potentiality(政治の可能性)」という意味のペンネーム*2であり、本名はサロット・サルという。
……もっとも彼は、死ぬまで自分がサロット・サルであることを認めなかった

少年時代のポル・ポトは「大人しく真面目な少年」だったと評されている。
大人になっても温厚かつ優しい人柄で、彼に会った人は皆が「あんな人が虐殺をするなんて」と不思議がっていた。

サロット家は王室とも繋がりのある名家で、そこに生まれた彼は当然のように名門小学校、名門中学校とエリートコースを歩む。
しかし、名門高校の試験に滑ってしまい、ランクの落ちる建築系専門学校に進学。
そのまま普通の人生を歩むかに思えたが、コネで国費留学の枠にネジ込んでもらい、再びエリートコースに舞い戻った。

留学先のフランスで彼を迎えたのは、フランス人からの冷たい視線であった。
当時、フランスはインドシナ戦争で煮え湯を飲まされており、東南アジア人全体に対して嫌悪感を抱いていたのである。
この戦争でカンボジアはフランス側についたのだが、白人にアジア人の区別などできるわけもなく、サル青年はいわれなき悪意にさらされて友人もできず、鬱屈した日々を送ることになる。

そんな彼に手を差し伸べたのが、フランス共産党であった。
党員となったサル青年は、そこで過激派の先輩らと交流を重ねながらその思想に感化されていく。

帰国後はフランス語教師として働き、結婚もして平凡な人生を謳歌していたように見えたという。
が、この時には既に同志と共に地下活動をし、「クメール人民革命党」内での発言力を強めていた。
やがて中国共産党とも仲良くなり始めるが、ポル・ポトが政権を握ってからは折り合いが悪くなり手を切った。

しかし、ノロドム・シアヌークによる抗仏運動とフランスからの植民地解放を期に共産党への弾圧が始まり、共産党筆頭書記で武闘派左翼組織「クメール・ルージュ」の旗を掲げていたポル・ポトは秘密警察に追われてプノンペンを脱出。
長い長いジャングルでの潜伏生活が始まる。

ジャングルの秘密基地で仲間と共に練り上げた「革命」「理想国家再建」の計画がその後の彼の行く末を決めた。
国民の動かし方も、物資の流通も、国家運営の何たるかも知らないまま、そんな自分の頭の中だけで何度も何度もシミュレーションした計画が失敗する可能性など絶対に無いと本気で信じて。

そして、かつては自分たちを弾圧し、右派のクーデター*3で政権を追われたシアヌークとも中国や北朝鮮の仲介によって統一戦線を結成。
ベトナム戦争に乗じてロン・ノル政権を打倒した彼はついにカンボジアの頂点に立った。

無数の爆弾が降り注ぎ、50万人もが亡くなる大惨事を経験した人々はもう内戦などコリゴリだった。
だから、これを平定してくれた彼が作る新しい政治に胸を踴らせていたのだ。

そう、この時までは……。

■ポル・ポト政権

クメール・ルージュが何なのかはよく知らないけど、きっと我々の生活を良くしてくれるだろう……と期待していた人々の前に現れたのは、何故か武器を持った12、3歳の少年たちだった。
ポル・ポトは「大人は信用出来ない」と子供ばかり兵士にしていたのだ。
(後述するように、ポル・ポトは自分に反抗してくる可能性を持った国民を徹底して恐れ排除していたため、それゆえに年少者は自分の支配下に置きやすいと考え、好んで起用したのかもしれない)

暴挙はそれだけではなかった。
「国民全員すぐに都会から立ち退け」と言って都市部を無人化、国民全員を過疎地での農作業に従事させ始めた。
「都会にこそ共産党の敵がいる」と何の根拠もなく頭から決めつけ、その上で
  1. 集団で農作業して農作物収穫
  2. 海外に輸出して外貨を得る
  3. その資金で工業施設を作って社会主義国を完成させる
という、素人レベルの国家作りを無理矢理実現しようとしていたのである。

ジャングルで練りに練った国家再建計画の失敗など疑いもしない彼だったが、それはあまりに急激であり、かつ粗雑であった。
農村にバラバラに配置され家族からも引き離された人々も大勢おり、移動も真夏の炎天下で力の無い老人や子供はおろか妊婦まで例外無く歩かされ、道中での出産すらあったという。
まさしく地獄絵図であった。

だが、それもまだ準備段階での話。
「民主カンプチア」を設立したポル・ポトは首相に就任、「原始共産主義」という最も古く、かつ最も極端な社会主義国家の成立を目指して動き出した。
原始共産主義を簡単に言うなら「あらゆる生産手段を共有し、皆で平等に分け合う」というものだが、ポル・ポトはこれをどこまでも徹底した。
ちなみにこの原始共産主義、実は本当に実践していた国(社会)がかつて存在したかどうかも分かっていない。つまり、仮説に過ぎないものだった。

カンボジアの長となった彼は、通貨・市場・私有財産を全て撤廃。
休日もなくし、宗教恋愛も禁止し、国民にはひたすら農作業のみをするように命じた。
前述の「農作物を輸出して外貨を得る」という計画だが、その具体的な方法も特に無く、「軍事的情熱を農作業に移行する」「国民全員で農作業」という、ただの根性論とも言えるような、思想を基にした人海戦術に基づき「農産物の生産を3倍にする」というスローガンを掲げていたのだ。

農産部に移住させられた人々は農作業やダム・運河の建設に従事させられ、何万人もの人々が栄養失調、過労、病気、時には処刑によって命を奪われた。

……そこまでさせていながら、農産物の収穫量は予定を遥かに下回った。
計画性はともかく、人間は休憩や食事や娯楽がろくに与えられなければ体も心も正常でいられるはずがないので当然だが、なんとこれらは予定通りに国外に輸出され、それによってたくさんの餓死者が出たのだった
「飢餓輸出」というやつである。
しかも、これらの失敗は弾圧を恐れた人々によりポル・ポトには伏せられ、良い報告ばかりが届けられていた。

そうして調子に乗ったポル・ポトは資本主義思想の根絶を徹底すべく「一家団欒」や「親が子を叱ること」すら禁止
食事は大きな食堂で皆で食べ、子供の教育は「指導部」の人々の仕事となった。

ポル・ポトは「皆でなにもかも共有する」この世界こそが本当に国民を幸せにできると信じていたのである。


我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである
したがって伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない
たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ
今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ

──ポル・ポトが児童に向けた司令文書の一節


■虐殺・粛清

もちろん、ポル・ポトは旧ロン・ノル政権下の人々の粛清も忘れてはいなかった。
役人や軍人を片端から集めてはとにかく射殺。ロン・ノル政権下で活躍した踊り子や歌手すらも粛清対象とし殺害した。
中には「知ってる歌を全て歌え」と命じられ「歌い殺された」歌手もいた。

ついでに政権獲得のため手を結び、名目上の元首の地位に据えたシアヌークもしばらくして王宮に幽閉。
処刑される可能性もあったのだが、中国の圧力でそうはならなかった。*4

また、「この国っておかしいんじゃないの?」と察する可能性のあったインテリ層、つまり医師・教師・技術者などを拉致して処刑した。
連れ去られた人々が帰ってこないことに気付いた人々は、無学文盲を装おうとしたが、「文章を読もうとした」「メガネをかけている」など、知識がありそうに見える人物なら片っ端から収容所に送り、殺害していった。

医師や薬剤師が処刑されて困るのは当然、国民である。
そこでポル・ポトがあてがったのは少年医師だった。
せいぜい5〜6ヶ月くらいの教育しか受けていない、素人に産毛が生えたレベルの子供を医師として人々を治療させたのだ。
中には字すら読めない者もいたという。
虐殺された人々はもちろん、劣悪極まりない医療によって殺された者もたくさんいたわけである。

また、この粛清によって教育機関も機能しなくなり、識字率が大幅に低下。
現在でも文字の読めない国民が大勢いる。

ポル・ポトを語る上で欠かせないのが虐殺施設「S21」である(現在は大量虐殺犯罪記念館となっている)。
彼はこの場所に何もしていない人々を集め罪をでっちあげ、定期的に拷問・処刑を行っていた。
人々は拷問され、嘘の供述書を書かされ、「CIAのスパイ」「ベトナムのスパイ」などとやってもいない罪をでっちあげられ、罪が決まった時点ですぐに処刑された。

ポル・ポトは「共産主義の敵・資本主義者は永続的に産まれる→だから虐殺する→共産主義の純度が高まる」という思想に則り、この虐殺は正当なものだと本気で思っていた。

常時何千人もの処刑予定者でごった返していたこの施設は衛生環境も最悪。
おまけに医療スタッフは例の少年医師が3人のみで、病死する者もたくさんいた。
ここではまさしく、ポル・ポトの気の向くままに子供・母親赤ん坊に至るまで虐殺されていたのだった。

そして何度も書くが、彼は国民の悲鳴で顕示欲や悦に浸っていたのではなく、むしろ本当に国民が幸せになれると本気で信じていた。
まあ共産主義政党ではもはや恒例行事と言ってもいい派閥抗争も起きており、同じ共産主義者でもパリ帰りで固められ、ベトナム戦争参加者らは軒並み失脚したとか。粛清を逃れた彼らは当然古巣のベトナムへと亡命し…(後述)

ちなみに、この頃のカンボジアは、情報が一切閉ざされた、全くの 謎 の 国 となっていたので、この惨状は他国に全く伝わらなかった
脱出に成功した者が告発を行なっても、あまりにも狂気じみた話しかしないため、与太話程度に扱われて、むしろ誰にも信じて貰えなかった

プノンペンに大使館を駐在させる国も一応あったが、中国、北朝鮮、キューバにラオスといった共産系国家が殆どであった上に外交官は専用の場所から出ることを禁じられ、国で唯一の商店で買い物をしていたために地区の外で何が起こっているかを知らなかった。

結果論なのかもしれないが、つまり、この極めて非現実・非科学的な農業立国政策は、原始共産主義を突き通すにおいて理に適っていたわけではなかったのである。

■地獄の終焉

当然国はガタガタになる……のだが、ポル・ポトらは隣国ベトナムへ度重なる挑発行為を行う。
しかし当時のベトナムはアメリカを追い出して「最高に『ハイ!』ってやつだアアアアア」状態。
「我こそは東南アジアにおける共産主義の指導者(なのでカンボジアとかラオスは黙って従え)」という意識の高いベトナムが黙ってそれを見過ごすわけがない。
反乱を疑われた元地方幹部やポル・ポトと仲たがいした共産主義者などがベトナム国内へ難民として流入していたため、彼らを支援し、ポル・ポト打倒を掲げるカンボジア救国民族統一戦線を結成させる。
そして1978年末に救国戦線とベトナムがカンボジアへ全面戦争を仕掛けると、


半月でプノンペンは陥落した。


少年兵ばかりだったから当然の結果だが、ポル・ポトはそれでも絶対に大人の軍人を信用しなかった。

ベトナム軍がプノンペンに入った時、フェンスで囲まれた市内はさながらゴーストタウンであったという。
彼らが文字通り死臭を嗅ぎ付けS21を発見するのは翌日の話となる。


ちなみに、ベトナム軍の侵攻が遅れていた場合、5万人の兵が残った600万人の国民(うち80%が15歳以下)を殺す計画が実行されていた。
その場合、残るのはポル・ポト派の軍兵と協力者を併せた10万人のみという。
虐殺・栄養失調・過労・病気などで死者数は実に150万人以上
内戦の3倍の数の犠牲を出すことを、ポル・ポトはたったの4年で達成してしまったことになる。

政権を追われたポル・ポトは、西側からの援助やルビー採掘で食いつなぎながら、再びタイ国境地帯のジャングルでゲリラ活動を開始。
しかしソ連崩壊による国際情勢の変化やベトナムの改革路線転換を期にカンボジアでも融和ムードが高まってゆく。
組織が弱体化する中で幹部の造反により裁かれ監禁、1998年、公式には病死した。
(遺体の爪が変色していたとされ、毒殺あるいは服毒自殺とする見解がある)

その後ベトナムは10年ほどカンボジアを占領し続けたが、これが原因で国際政治で孤立。外交・内政双方に浅からぬダメージを受ける。*5
また、ベトナムが占領したからすぐ平和になったというわけでもなく、ポル・ポト派や他の反ベトナム勢力*6の抵抗やカンボジア国民の反ベトナム感情から占領後もカンボジアの内紛状態は続く。
何せ歴史的に見れば13世紀からベトナムはカンボジアへの侵略を繰り返しており、ベトナムもベトナムで上述したような意識の高さからカンボジアの政治をがっつり握っていたんだから、反発が起きるのも当然といえば当然である。

この動乱は、後ろ盾であったソ連のペレストロイカに呼応し、ベトナムも改革政策「ドイモイ」を始めたことによってようやく収束へと向かう。
89年にはカンボジアからベトナム軍が撤収、91年にはパリで政権とそれぞれの反ベトナム勢力が武装解除と選挙実施を決めた和平協定に合意した。

ところが協定に基づき行われた93年の選挙で、クメール・ルージュのみ参加を拒絶し武装闘争を再開。選挙に際し国連が派遣した選挙監視員の殺害も彼らの仕業とされる。
結局、クメール・ルージュが抵抗を終えるのはポル・ポトが死んだ後のことだった。

ポル・ポトはさらにもう一つ悪質な置き土産を残してもいた。地雷である。
彼は地雷を「完璧な兵士」と称して愛好し、国境付近に無計画に大量生産してバラ撒いていたのだ。
通常、地雷を埋設するなら、用済みになった時のために場所や数を記録しておくものだが、やることなすこと行き当たりばったりなこの政権にそんな計画性などあるわけもなく適当にばらまいてそれでおしまいである。
結果、内戦が収まった後もそこらじゅう地雷原だらけで、地雷で手足あるいは命を失う者が後を絶たず、カンボジアには「地雷原(物理的な意味で)」という不名誉なイメージが付きまとう。
日本も協力して地雷除去作業を続けてはいるものの、その撤去は未だに完了していない。

■爪痕

日本を含む海外からの支援により、かつての惨状からは復興が進んでいる。
特に首都プノンペンは高層ビルが立ち並び、観光基盤も出来るなど充実の予兆を感じられるようにはなった。

しかし貧富の格差は未だに激しく、農村部ではインフラ整備や都市計画もままならず、未だに泥水を啜りゴミを漁るなど疫病や餓死による被害も根強い。
特に深刻なのは教育基盤であり、ポル・ポト政権により
  • 専門家の不足
  • 教育基盤(学校)の量・質どちらも不足
  • そもそも労働を行える世代の不足
など深刻な実態が浮き彫りになっている。
相変わらず現地の地力はぐらついているのが現状である。

また、ポル・ポトから離反し救国戦線に参加し、1985年から首相の座にあったフン・セン政権は97年にクーデターを起こし連立政党を排除するなどありとあらゆる手段を使い、独裁&長期化。
息子で陸軍幹部のフン・マネットを後継者に指名している他、国家元首が任務遂行不能時に代理を務める役職である上院議長に就任しており、政治的にも健全とは言い難い。

■最後に

彼は「長いカンボジアの歴史の中で、初めて最底辺の人間が頂点に立った」と口にしたが、これは大嘘である。
彼の実家が農家であったことは確かだが、土地をいくつも持つ豪農で、ポル・ポトは自ら農具を握った経験も無かった。
そんな彼が仲間と共に描いた理想国家建設計画はたった4年で仕上がる予定だったという。
その行動の全ては祖国が共産主義の下、本当に幸福な国家になると信じてのものだった。
彼は国民からの略奪で快楽に耽る色魔でも、苦しむ様をあざ笑って楽しむサディストでもなかった。
ただ、あのジャングルで練った理想国家建設計画を目指した理想に燃える共産主義者だったのだ。
彼の遺体は廃タイヤ(ゴミ)と共に荼毘に伏(焼却処分)され、狂った理想は灰となった。

それでも彼が原始共産主義を通したかったならば、まず国民に食事と安らぎと生きる権利を与えるべきだったろう。




例え絵空事と思われようと、後世に語り継ぐ意志で追記・修正お願いします。

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  • 原始共産主義
  • ※実在の人物です
  • サイコパス
最終更新:2025年03月26日 23:16

*1 「腐った林檎は他の林檎にも悪影響だから早く取り除け」とは大昔からヨーロッパ系の説話で使われた言葉でありポル・ポトの造語ではない。もちろん原意は「腐った林檎を早く除け」であり「腐った林檎が1つでもあれば箱を全て捨てろ」などではない。

*2 レーニンしかりスターリンしかり不破哲三しかり、共産主義者はペンネームを用いる傾向が強い。

*3 シアヌークは中国からの支援の引き換えとしてベトコンを含む北ベトナムを支援しており、これにアメリカがキレたのが原因。

*4 彼の子供や孫はその対象外であったし、当のシアヌークはいつ殺されるか知れない恐怖を延々と味わわされたようだが。

*5 そもそもアメリカ他西側だけでなく、親ソ連路線で中国やASEANとも仲が悪かった。

*6 ポル・ポトらと袂を分かったシアヌーク派や西側寄りのソン・サン派など。