ポル・ポト

登録日:2012/02/10 Fri 23:47:18
更新日:2024/03/21 Thu 07:27:06
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腐った林檎は、箱ごと捨てなければならない
*1


1975年、アメリカ合衆国の傀儡だったロン・ノル政権を打ち倒しカンボジア共産党が建てられた。これを率いていた人物こそがポル・ポトである。

それまでの内戦に疲弊していたカンボジア国民達はやっと平和で穏やかな日々が来ると信じていた。

しかしそれは更なる地獄、いや、生き延びた一人によると「地獄の方がマシ」とすら言わしめた程の凄惨な日々の始まりだった。


■ポル・ポトの人物像

1925年もしくは1928年生まれ。
ポル・ポトとは、「Political Potentiality(政治の可能性)」という意味のペンネーム*2であり、本名はサロット・サル
もっとも彼は、死ぬまで自分がサロット・サルであることを認めなかった。

少年時代のポル・ポトは「大人しく真面目な少年」だったと評されている。
大人になっても温厚かつ優しい人柄で、彼に会った人は皆が「あんな人が虐殺をするなんて」と不思議がっていた。

サロット家は王室とも繋がりのある名家であり、そこに生まれた彼は当然のように名門小学校、名門中学校とエリートコースを歩む。
しかし、名門高校の試験に滑ってしまい、ランクの落ちる建築系専門学校に進学。
そのまま普通の人生を歩むかに思えたが、コネで国費留学の枠にネジ込んでもらい、再びエリートコースに舞い戻った。

しかし、留学先のフランスで彼を迎えたのは、フランス人の冷たい視線であった。
当時、フランスはインドシナ戦争で煮え湯を飲まされており、東南アジア人全体に対して嫌悪感を抱いていたのである。
この戦争でカンボジアはフランス側に立っていたのだが、白人にアジア人の区別などつくわけもなく、
サル青年はいわれなき悪意にさらされて友人もできず、鬱屈した日々を送ることになる。

そんな彼に手を差し伸べたのが、フランス共産党であった。
党員となったサル青年は、そこで過激派の先輩らと交流を重ねながらその思想に感化されていく。

帰国後はフランス語教師として働き、結婚もして平凡な人生を謳歌しているように見えたという。
が、この時から既に同士と共に地下活動をし、「クメール人民革命党」内での発言力を強めていく。
また、この辺りから中国共産党と仲良くなり始めるが、ポル・ポトが政権を握ってからは折り合いが悪くなり手を切った。

しかし、ノロドム・シアヌークによる抗仏運動とフランスからの植民地解放を期に共産党への弾圧が始まり、
共産党筆頭書記で武闘派左翼組織「クメール・ルージュ」の旗を掲げていたポル・ポトは秘密警察に追われてプノンペンを脱出。
長い長いジャングルでの潜伏生活が始まった。

ジャングルの秘密基地で仲間達と共に練り上げた「革命の計画」「理想国家再建」の計画が後の彼の行く末を決めた。
国民の動かし方も、物資の流通も、国家運営の何たるかも知らないで、何度も何度もシミュレーションしたそれら計画が絶対に失敗する訳が無いと本気で信じて…

そして、かつては自分たちを弾圧し、右派のクーデター*3で政権を追われたシアヌークとも中国や北朝鮮の仲介によって統一戦線を結成。
ベトナム戦争に乗じてロン・ノル政権を打倒した彼はついにカンボジア政権の頂点に立った。

無数の爆弾が降り注ぎ、50万人もの人々が亡くなる大惨事を経験した人々はもう内戦などコリゴリだった。
だから、これを平定してくれた彼が作る新しい政治に胸を踴らせていたのだ。

そう、この時までは…


■ポル・ポト政権

「クメール・ルージュ」はよく知らないけど、自分達の生活を良くしてくれるだろう…と期待していた彼らの前に現れたのは、
何故か武器を持った12、3歳の少年兵士達だった。
ポル・ポトは「大人は信用出来ない」と少年達ばかりを兵士にしていたのだ。
(後述するように、ポル・ポトは自分に反抗してくる可能性を持った国民を徹底して恐れ排除していたため、それゆえに年少者は自分の支配下に置きやすいと考え、好んで起用したのかもしれない)

更に「都会からは国民全員すぐに立ち退け」としてなんと都市部を無人にし、国民全員を農村での農作業に従事させ始めたのだ。
「都会にこそ共産党の敵がいる」と何の根拠もなく頭から決めつけ、
更に「集団で農作業して農作物収穫→海外に輸出して外貨を得る→その資金で工業施設を作って社会主義国を完成させる」と言う、自分の頭だけで描いた素人レベルの国家作りを無理矢理実現しようとしていたのである。

ジャングルで練りに練った国家再建計画の失敗など疑いもしない彼だったが、それはあまりに急激であり、かつ粗雑であった。
農村にバラバラに配置され家族からも引き離された人々も大勢おり、
移動も真夏の太陽の下で力の無い老人や子供、妊婦まで例外無く歩かされ道中での出産すらあったという。
まさしく地獄絵図であった。

だが、これはまだ準備段階での事である。
そして「民主カンプチア」を設立した彼は首相に就任。彼が目指した国家は「原始共産主義」と言う最も古く、かつ最も極端な社会主義国家であった。
それは簡単に言えば「あらゆる生産手段を共有し、皆で平等に分け与える」と言うものだが、ポル・ポトはどこまでもこれを徹底した。
ちなみに、この原始共産主義社会だが、実は本当にあったかどうかも分かっていない。つまり、仮説に過ぎない存在だった。

カンボジアの長となった彼は、通貨、市場、私有財産を全て撤廃し、休日もなくし、宗教恋愛も禁止し、国民にはひたすら農作業のみをするように命じた。
前述の「農作物を輸出して外貨を得る」という計画だが、
その具体的な方法などもある訳では無く「軍事的情熱を農作業に移行する」「国民全員で農作業」と言うただの根性論とも言えるような思想を基にした人海戦術で、農産物の生産を三倍にすると言うスローガンを掲げていたのだ。

農産部に移住させられた人々は農作業やダム、運河の建設に従事させられ、何万人もの人々が栄養失調、過労、病気、時には処刑によって命を奪われた。

……そこまでしておいて農産物の収穫量は予定を遥かに下回った。
まあ計画性はともかく、人間は休憩や食事や娯楽がろくに与えられなければ体力もメンタルも持つはずがないので当然だが、なんとこれらは予定通りに国外に輸出され、またたくさんの餓死者が出たのだった
飢餓輸出、というやつである。
しかも、これらの失敗は弾圧を恐れた人々によりポル・ポトには伏せられ、良い報告ばかりが届けられていた。

そうして調子にのった彼はより資本主義思想を撤廃すべく「家族が家庭で食事する事」や「親が子を叱る事」すら禁止。
食事は大きな食堂で皆で食べ、子供の教育は「指導部」の人々の仕事となった。

ポル・ポトは「皆でなにもかも共有する」この世界こそが本当に国民を幸せに出来ると信じていたのである。


我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである
したがって伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない
たとえ親であっても、社会の毒と思えば微笑んで殺せ
今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる
泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ
笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ

ポル・ポトが児童に向けた司令文書の一節


■虐殺、粛清

更にポル・ポトは旧ロン・ノル政権下の人々の粛清も忘れてはいなかった。役人や軍人を片端から集めてはとにかく射殺。
さらにロン・ノル政権下で活躍した踊り子や歌手すらも粛清対象とし殺害した。
中には「知ってる歌を全て歌え」と命じられ「歌い殺された」歌手もいた。

ついでに政権獲得の為に手を結び、名目上の元首の地位に据えたシアヌークもしばらくして王宮に幽閉。
処刑される可能性もあったのだが、中国の圧力でそうはならなかった。
尤も彼の子供や孫はその対象外であったし、当のシアヌークはいつ殺されるか、という恐怖を延々と味わう目にあったようだが……

また、「この国っておかしいんじゃないの?」ということに気付く可能性のあったインテリ階級の人々*4を拉致して処刑した。
連れ去られた人々が帰ってこないことに気付いた人々は、無学文盲を装おうとしたが、
「文章を読もうとした人物」や、「メガネをかけている人物」など知識のありそうな人物は片っ端から収容所に送り、殺害していった。

国民が困った事は医師や薬剤師が逮捕、処刑された事だった。
そこでポル・ポトがあてがったのは「信頼出来る」少年医師達だった。
せいぜい5〜6ヶ月くらいの教育しか受けていない、素人に産毛が生えたレベルの子供を医師として人々を治療させたのだ。中には字も読めない者もいたと言う。
虐殺された人々はもちろん、劣悪極まりない医療レベルゆえ病死した者もたくさんいた訳である。

更に知識層の大半が逮捕、処刑された事により教育機関が機能しなくなり、教える側がいなくなったことで識字率が大幅に低下。
現在でも文字の読めない国民が大勢いる。

そして、ポル・ポトを語る上で欠かせないのが虐殺施設「S21」である。
彼はこの場所に何もしていない人々を集め罪をでっちあげ、定期的に拷問・処刑を行っていた。
人々は拷問されの供述書を書かされ、「CIAスパイ」「ベトナムのスパイ」などとやってもいない罪をでっちあげられ、罪が決まった時点ですぐに処刑された。

ポル・ポトは「共産主義の敵、資本主義者は永続的に産まれる→だから虐殺する→共産主義の純度が高まる」と言う思想に則り、
この虐殺は「必要な事」なのだと本気で思っていたのだ。

また常時何千人もいたこの施設は衛生環境も最悪、更に医師は例の少年医師三人のみと、病死する人々もたくさんいた。
ここではまさしく、ポル・ポトの気の向くままに子供、母親赤ん坊に至るまで虐殺されていたと言う。

そして何度も書くが、彼は国民の悲鳴で顕示欲や悦に浸っていた訳ではなく、寧ろこれで本当に国民が幸せになれると本気で信じていた。
まあ共産主義政党ではもはや恒例行事と言ってもいい派閥抗争も起きており、同じ共産主義者でもパリ帰りで固められ、ベトナム戦争参加者らは軒並み失脚したとか。粛清を逃れた彼らは当然古巣のベトナムへと亡命し…(後述)

ちなみに、この頃のカンボジアは、情報が一切閉ざされた、全くの 謎 の 国 となっていたので、この惨状は他国に全く伝わらなかった。
脱出に成功した者が告発を行なっても、あまりにも狂気じみた話しかない為、与太話程度に扱われて、むしろ誰にも信じて貰えなかった

プノンペンに大使館を駐在させる国も一応あったが、中国や北朝鮮、キューバやラオスと言った共産国家が殆どであった上に外交官は専用の場所から出ることを禁じられ、国で唯一の商店で買い物をしていたために地区の外で何が起こっているかを知らなかった。

結果論なのかもしれないが、つまり、この極めて非現実・非科学的な農業立国政策は、原始共産主義を突き通すに当たって別に理に適っていない訳でも何でも無かったのである。


■地獄の終焉

当然国はガタガタになる……のだが、ポル・ポトらは隣国ベトナムへ度重なる挑発行為を行う。
が、当時のベトナムはアメリカを追い出して「最高に『ハイ!』ってやつだアアアアア」状態。
「我こそは東南アジアにおける共産主義の指導者(なのでカンボジアとかラオスは黙って従え)」という意識の高いベトナムが黙って挑発を見過ごすわけがない。
反乱を疑われた元地方幹部やポル・ポトと政策が対立した共産主義者などがベトナム内へ難民として流入していたので、彼らを中心にポル・ポト打倒を掲げる「カンボジア救国民族統一戦線」を結成させる。
そして1978年末に救国戦線とベトナムがカンボジアへ全面戦争を仕掛けると、

半月でプノンペンは陥落した。

少年兵士ばかりだったから当然の結果だがポル・ポトはそれでも絶対に大人の軍人を信用しなかった。

ベトナム軍がプノンペンに入った時、フェンスで囲まれた市内はさながらゴーストタウンであったと言う。
彼らが文字通り死臭を嗅ぎ付けS21を発見するのは翌日の話となる(現在は大量虐殺犯罪記念館となっている)。


ちなみに、ベトナム軍の侵攻が少しでも遅れてたら5万人の兵が残った600万人の国民(うち80%が15歳以下)を殺す計画が実行されていた。
残るのはポルポト派の軍兵と協力者を併せた10万人のみという。
虐殺、栄養失調、過労、病気などで死者数は実に150万人以上。
内戦の三倍の数の死者をたった四年でポル・ポトは達成してしまった。

政権を追われたポル・ポトは、西側からの援助やルビー採掘で再びタイ国境地帯のジャングルでゲリラ活動をしていた。
しかしソ連崩壊による国際情勢の変化やベトナムの改革路線転換を期にカンボジアでも融和ムードが高まってゆく。
組織が弱体化する中で幹部の造反により裁かれ監禁、1998年、公式には病死した。
(遺体の爪が変色していたとされ、毒殺あるいは服毒自殺とする見解がある)


その後ベトナムは10年ほど占領し続けたが、これが原因で国際政治で孤立。
まあアメリカやその他西側はもちろん、親ソ連路線で中国やASEANとも元から仲が悪かったし。
ベトナムは外交・内政双方に浅からぬダメージを受ける。
またベトナム占領で平和になった…という訳でもなく、ポル・ポト派や他の反ベトナム勢力*5の抵抗やカンボジア国民の反ベトナム感情から占領後もカンボジアの内紛状態は続く。
なんせ歴史的には13世紀からベトナムはカンボジアへの侵略を繰り返しており、ベトナムもベトナムで上述したような意識の高さからカンボジアの政治をがっつり握っていたんだから、反発が起きるのも当然といえば当然である。

前述したように、この動乱は、後ろ盾であったソ連でのペレストロイカに呼応し、ベトナムも改革政策「ドイモイ」を始めた事でようやく収束へと向かう。
89年にはカンボジアからベトナム軍が撤収、91年にはパリで政権とそれぞれの反ベトナム勢力は武装解除と選挙実施を決めた和平協定に合意した。
ところが協定に基づき行われた93年の選挙で、クメール・ルージュのみ参加を拒絶し武装闘争を再開。選挙に際し国連が派遣した選挙監視員の殺害も彼らの犯行とされる。
結局クメール・ルージュが抵抗を終えるのはポル・ポトが死んだ後の事だった。

ポル・ポトは地雷「完璧な兵士」と称して愛好し、国境付近に無計画に大量生産してバラ撒いていた。
通常地雷を埋設するときは、用済みになった時のために場所や数を記録しておくものだが、やることなすこと行き当たりばったりなこの政権にそんな計画性などあるわけもなく適当にばらまいてそれでおしまいである。
結果、内戦が収まった後もそこらじゅう地雷原だらけで、地雷で手足、あるいは命を失う人が後を絶たず、カンボジアには「地雷の国」という不名誉なイメージが付きまとう。
日本も協力して地雷除去作業を続けてはいるものの、その撤去は未だに完了していない。

■爪痕

日本含む海外からの支援により、かつての惨状からは復興が進んでいる。
特に首都プノンペンは高層ビルが立ち並び、観光基盤も出来るなど充実の予兆を感じられる様にはなった。

しかし貧富の格差は未だに激しく、農村部ではインフラ整備や都市計画もままならず、未だに泥水を啜りゴミを漁るなど疫病や餓死による被害も根強い。
特に深刻なのは教育基盤であり、ポル・ポト政権により専門家の不足・教育基盤と言える学校の(量と質どちらも)不足・そもそも労働を行える世代の不足など深刻な実態が浮き彫りになっている。
相変わらず現地の地力はぐらついているのが現状である。

また、ポル・ポトから離反し救国戦線に参加し、1985年から首相の座にあったフン・セン政権は97年にクーデターを起こし連立政党を排除するなどありとあらゆる手段を使い、独裁&長期化。
息子で陸軍幹部のフン・マネットを後継者に指名しており、政治的にも健全とは言い難い。


■最後に

彼は「長いカンボジアの歴史の中で、初めて最底辺の人間が頂点に立った」と口にしたが、これは大嘘である。
彼の実家が農家であったことは確かだが、土地をいくつも持つ豪農で、ポル・ポトは自ら農具を握った事も無かった。
そんな彼が仲間と共に描いた理想国家建設計画はたった四年で仕上げる予定であったと言う。
その行動の全ては祖国が共産主義の下、本当に幸福な国家になると信じての事だった。
彼は国民からの略奪で快楽に更ける色魔でも、苦しむ様を見て楽しむサディストでもなかった。
ただ、あのジャングルで練った理想国家建設計画を目指した理想に燃える共産主義者だったのだ。
彼の遺体は廃タイヤと共に荼毘に伏され*6、狂った理想は灰となった。

それでも彼が原始共産主義を通したかったならば、まず"国民に食事と安らぎと生きる権利を与えるべきだった''だろう。




例え絵空事と思われようと、後世に語り継ぐ意志で追記・修正お願いします。

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最終更新:2024年03月21日 07:27

*1 腐った林檎は他の林檎にも悪影響だから早く取り除け、とは大昔からヨーロッパ系の説話で使われた言葉でありポル・ポトの造語ではない。インテリのポル・ポトが好みそうなフレーズではあるが。もちろん原意では「腐った林檎を早く除け」であり「腐った林檎が1つでもあれば箱を全て捨てろ」などではない。

*2 レーニンしかりスターリンしかり不破哲三しかり、共産主義者はペンネームを用いる傾向が強い。

*3 シアヌークは中国からの支援の引き換えとしてベトコンを含む北ベトナムを支援しており、これにアメリカがキレたのが原因

*4 医師、教師、技術者など

*5 ポル・ポトらと袂を分かったシアヌーク派や西側寄りのソン・サン派

*6 要するにゴミと一緒に焼却処分されたわけである