川上憲伸

登録日 :2011/10/01(土) 09:15:29
更新日 : 2017/04/03 Mon 00:48:54
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まだ野球少年でいたい。




川上憲伸とは中日ドラゴンズに所属していた元プロ野球選手。
2009年からはメジャーリーグのアトランタ・ブレーブス所属していたこともある。
2015年からは、現役引退を表明せずに浪人状態と化していたが、2017年に引退。

中日ドラゴンズ(1998~2008)
アトランタ・ブレーブス(2009~2011)※2011年は2Aのミシシッピ・ブレーブス
中日ドラゴンズ(2012~2015)

1975年6月22日生まれ、徳島県出身。
因みに徳島県は彼の他にも北海道日本ハムファイターズの武田久・千葉ロッテマリーンズの里崎智也・横浜ベイスターズの藤田一也の様な名選手を輩出している。

ポジションは投手、背番号は11。
松坂大輔と並び日本人選手随一のカットボーラーと名高い。
ご本人も最初のうちはカットボールはボール一個分変化するのが理想と語る。


経歴


高校生の頃は徳島商業高校野球部では何とエースで四番だった。
甲子園にも出場し、準々決勝まで進出。

その後は名門明治大学第二商学部に進学。
やはりエースで四年生になるとキャプテンとしてチームを引っ張っていく。
読売ジャイアンツの高橋由伸とは大学時代からのライバル。

大学野球リーグの通算成績は

57試合登板、28勝15敗、防御率2.14、311奪三振、ベストナイン3回

というとんでもない実績を持つ。
こんな逸材をプロが放っておく筈もなく、1997年のドラフト会議では中日ドラゴンズから一位で逆指名を受けた。

この時の中日ドラゴンズは星野仙一が監督。
新人王は取れたが、朝倉と同様若手投手が打ち込まれた場合は制裁として降板も許されず投げ続ける羽目に。
1999年の日本シリーズを控えた消化試合のvs横浜戦で、7回14失点を喫し投手の三浦にホームランまで打たれる有り様。
かなりの精神的な苦痛だったにちがいない。


しかし2000年、テレビのメジャーリーグ中継でマリアーノ・リベラの投球を見てカットボールの習得を決意。
武田一浩の助言を受け完成させる。


2002年8月1日東京ドームでの読売ジャイアンツ戦。
日本プロ野球の歴史にも残るような大快挙を川上は成し遂げた……

プロ野球史上70人目の ノーヒットノーラン 達成

巨人との連敗も9でストップし、バッテリーを組んだ谷繁が通算1500試合を達成したこともあってそれまではシーズン成績が負け越していた川上は以降エースとして見られていく

この試合はパワプロ9決定版の「シナリオ」モードにも収録されている。
クリアだけなら最も簡単だが、折角なのでノーヒットノーランを目指そう。


2004年には沢村賞を受賞し、名実共に球界トップクラスの投手となり、以降もチームを牽引。
2006年からは2年連続で日本シリーズ出場を果たした。

2008年オフにFA権を行使してアトランタ・ブレーブスに移籍。

メジャー1年目はロイ・ハラデイやヨハン・サンタナといったメジャーを代表する投手に投げ勝ち、 ドラゴンスレイヤー の称号を受ける。
そこそこの投球を見せていたが勝ち星に恵まれず、シーズン終盤はリリーフに回る。


2年目の2010年もそこそこの投球を見せていたが、前年以上に勝ち星に恵まれず、 球団史上ワーストの開幕9連敗 を記録
オフにはマイナー降格を通告された。
巨人や日ハムといった日本の球団がブレーブスにトレードを申し込んで川上の獲得を狙ったが、本人はこれを拒否してメジャー復帰を目指したのだったが……。

契約最終年となった2011年は中日時代から抱えていた右肩痛がついに爆発。
球速は最速でも140キロがせいぜいという力のなさで、2Aで打ち込まれる→故障者リスト入り→復帰して打ち込まれ(ry…という状態が続き、メジャーでの登板はなしに終わった。

オフには右肩の手術を受けて浪人覚悟で右肩の完治を目指すという。

しかし2012年古巣である中日に復帰が決定した。背番号も11になった。
その復帰初年度は、開幕二戦目から先発として登板し6回無失点という内容で勝利投手となる。
ところがその後、故障をして戦線離脱したため、一年通して十分に働けはしなかった。

2013年は右肩で開幕から出遅れ、故障で一年間働けなかったことやチームの若返りを目指す方針も影響して戦力外通告を受ける。
しかし、一部では来季は復活できるという声もあったり、この年で辞任した高木監督も『下手な若手よりは計算できる』とも評していた。
様々な声が出る中、11月に再契約を結び、通算三度目の中日復帰という扱いになった。
この理由については、かつての川上の全盛期を知る落合博満氏のGM就任が理由だと思われる。

2014年は落合GMや谷重監督の新体制の期待の元、久々の開幕投手に抜擢される。
開幕試合はそこそこの投球内容だったが、結果的に勝ち負けはつかず、腰通が原因で戦線から離脱する。
この年は前年を下回る内容の一年だったが、一応年俸はアップした。

2015年は開幕前から右肩痛を訴え、1軍では投げられる状態ではなかった。
それどころか二軍ですらも投げられるような状態には無く、さらには左膝も怪我をして練習もろくにできず終わる。
9月初めには球団の構想外になっているとの情報が洩れ、案の定川上は二度目の戦力外通告を受けてしまう。

2015年は川上に近い年齢の選手が引退したり戦力外になったりしているという中、川上本人は現役続行を希望。
復帰は絶望的な状態ではあることは本人も半ば自覚しているようだが、引退に恐れを抱いたことやまだ続けられるという気持ちが残っているようだ。
川上が言うには、「引退は怖い。もし、そうと決めれば泣くだろうし、知らぬ間にいつの間にか終わっていればいいなと思うんです」とのこと。
中村紀洋のように浪人状態となり、公園などで練習をしながら様子を見ていくとしている。

頑張れ川上……。

やがて、その思いは叶うことなく2017年についに引退を決断した。
本人曰くリハビリが上手く進まず、プロ野球シーズンが開幕する前にすっきりしようと思って引退に至ったとのこと。
2017のWBCやオープン戦の試合を見て精神的に心が折れたようだ。
今後はプロ野球解説者として活動するが、いずれ中日のユニホームを指導者として袖を通したい気持ちもある模様。


選手としての特徴


ピッチングはご存知カットボールに最速95マイル(約153キロ)のストレート、100キロ前後のスローカーブ、フォーク、シュートを駆使し日本通算で与四球率1.92という抜群の制球力でコーナーに投げ分ける。

メジャー移籍後は右肩の負担を考慮してテイクバックが小さくスリークォーター気味のフォームに変更。
マウンドに合わせ歩幅も小さくし、ツーシーム系の球を投げやすくなったが、腕の振り切りが甘くなり「ボールに力が伝わらなかった」、「制球が甘い」という事態に陥る。

投球割合の30%近くを占めていたカットボールはメジャーでも被打率は1割台と強力な武器となっていたが、投球割合はたったの6%ほどとなった。

2010年の連敗を脱した試合で従来のオーバースローに戻すも、やはり負担が大きく翌年には右肩痛が爆発した。
それ以降は、体各所が悲鳴を上げる事態になる。

打者としても投手とは思えないバッティングを見せ、通算8本塁打を記録。
普通の打者でもHRが飛び出しにくいと言われる本拠地・ナゴヤドームでも本塁打を叩きだしたこともあり、割とパワーも持っている。
メジャーでは代打起用されたことすらある。


余談


チームメイトだった岩瀬とは仲が良く 「憲ちゃん」 と呼ばれており、岩瀬の私服を選んであげたり2人でタクシーに乗った時は岩瀬が川上のマネージャーと勘違いされたことも。
川上も岩瀬のことは 「岩さん」 と呼ぶ仲。

野球の他にもゴルフが趣味で、もし引退する時が来たら今度はゴルファーになってみたいとおっしゃるほどゴルフが好き。
そりゃあ野球ではあれだけ恵まれた体格なんだもの……。

ゲームも好きで野球、ゴルフゲームと彼の本職のものばかりである。



追記修正はカットボールを投げてからお願いします。



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