板東英二(タレント・プロ野球選手)

登録日 :2012/07/15(日) 07:51:59
更新日 : 2016/08/26 Fri 01:54:15
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板東英二(よく坂東と間違えやすいから気をつけてね)とは、
タレント、司会者、俳優、野球解説者、 元プロ野球選手 である。
1940年4月5日生まれの徳島県育ち。血液型はO型。

そう、 元プロ野球選手 なのである。

大事な事なので二度言いましたが、もう一度言います。

元プロ野球選手 である。


実はその経歴は意外に凄い。

板東は徳島商のエースとして、1956年と1958年の全国高等学校野球選手権大会(いわゆる夏の甲子園)に出場している。

1958年の大会では、決勝まで駒を進め徳島商の 準優勝 に貢献している。

中でも準々決勝の魚津高戦では18回を投げ、0対0のまま引き分け翌日再試合となったが、
この 引き分け再試合ルールのきっかけを作ったのも板東 であり、この試合が 引き分け再試合ルール適用第1号 である。

板東はこの試合の前の春季四国地区高校野球大会でも対高知商で16回、翌々日の対高松商で25回を投げており、
この事実を重くみた高野連はこの年から 「延長18回を終えて引き分けの場合はその時点で試合を終了し、後日再試合を行う」 ことを決定したという。

板東はその再試合も完投勝利を収め、準決勝も勝ち決勝まで駒を進めるが、惜しくも決勝で柳井高校に敗れている。
しかし、この大会で記録した 83奪三振高校野球の一大会における通算奪三振の最多記録 で、50年以上経った今でも破られていない(2012年7月現在)。
延長ながら、 1試合25奪三振 ということもやってのけている。

日ハム斎藤が2006年に奪三振記録更新に近づいた際は抜かれそうでヒヤヒヤしていた。
もはや板東の生きる糧ともいえる記録であるため、実際そうした時は記録更新阻止のために思念を送っているとかいないとか。


こうして甲子園で華々しい活躍を見せた板東は中日ドラゴンズに入団する。ちなみにこの年、巨人に王さんが入団。
板東と王は個人的にも親しい仲であり、そのため板東は王を「さん付け」や「くん付け」せず、普通に呼び捨てている。
前述の好投からスター性はかなりのもので、プロ入り契約金は王より高く(1800万と言われている)、本人曰く2000万らしい。
(これは本人もよくネタにしている。ちなみに高校時代の王は投手としての活躍が目立っており、打者としても注目されるようになったのは3年時からだった)

しかし、プロ野球選手としてはろくな成績を残せなかった。

初めて監督推薦で出場したオールスターではカールトン半田に対し、態と舐めプで甘い球を投げた所を痛打され、
オールスター史上初のランニングホームランを献上 した。
ベンチに帰ると当時の全セ監督の水原に「板東、もう名古屋へ帰れ。お前を選んだ俺が馬鹿だった」と言われたという。

その後も巨人の記念すべき 2000勝目を献上 してしまうわ、
自分を野次った相手に対して ネットをよじ登って野次を吐いた奴の方向へ唾を吐きかける わと様々な逸話を残した。

しかし、中日で未だ開幕投手の最年少記録を保持(2012年現在)してたり、
中日で初の本格的な中継ぎ投手として投げてたりとこちらもある意味伝説を残している。

通算77勝65敗、防御率2.89。
あれ? 意外と悪くないな…?
つか、良くね?
ちなみに本人曰く、「王と直接対決した時はよく抑えていた」とのこと。「ただ、王はぼく以外の投手からよく打ち、僕は王以外の打者からよく打たれただけ」と付け加えてもいたが。

因みに、70歳を過ぎた現在でも100km/h超のストレートを投げられる。
板東は引退の原因の一つとして肘の悪化を挙げており、引退後も肘がまっすぐ伸びないほどの重傷でありながら、これは中々凄いことである。

選手時代から先のことを気にして副業に手を染めて、実際本業と副業が逆転するような選手生活を送っていた。なにやってんだ、板東。


引退後はタレントや事業、野球解説者として幅広く活躍している。

タレント活動の方のイメージが先行していて元プロ野球選手としての知名度は低いのもあり、
若い世代だと 板東が元プロ野球選手であることすら知らない者も多い。
今この本項を見ている方でも、項目名に(タレント・プロ野球選手)と書いてあって「ハァ?」と思った方も、もしかしたら居るのでは無いだろうか?

その為野球解説の仕事で、もっともらしい解説を板東が行うと、視聴者から、
「板東はタレントに過ぎないのに、何故こんなに偉そうに解説しているのか」 という抗議電話が相次いだらしい。
というか元プロネタはある意味鉄板である。

「ピッチャーやっちゅーねん」

ラジオパーソナリティーとして司会をしていた番組では中日の応援歌を募集し、これに当時大学生だった山本正之がテープを送り、
後の燃えよドラゴンズが生まれたという事は有名である。嵐の英雄なんて知らないよ。
因みに燃えよドラゴンズは板東本人も何度か歌い、CDを出している。

中でもタレントや俳優としては数多くの番組に出演し、板東が司会を努めたマジカルバナナでお馴染み「マジカル頭脳パワー!!」では、
視聴率31.6% を叩き出し、今でもマジカルは板東の代名詞とされている。

事業も行っていて、サウナや牛乳屋の経営、ジュークボックスの販売等色々やったが、どれも失敗して多額の借金を抱えている。

実は 巨人の星 にも選手として出演し、あの 星一徹にも賞賛された 事もある。
さらに、来日し日本野球をバカにしていたアームストロング・オズマに日本野球を知らしめる為、
板東と闘将星野、山中巽にオズマを討ち取らせて、彼の傲慢な心を折る役目を果たした。

ゆで卵が大のお気に入りで「小さい頃貧乏で、ゆで卵がすごくごちそうだったから」だとか。因みに固ゆで派。

有吉弘行からは「野球崩れ」というあだ名をつけられている。
余談だがパワプロのOB選手での数値は大抵140キロ台後半、スタミナ・コントロールともにB、変化球はフォークのみだったりする。
実際に板東はストレートとフォークを中心としたピッチングをしており、見せ球程度にスライダーやカーブを投げていたぐらいであった。
これはあえて投げることで板東は他の変化球も投げてくると意識させるためにやっていた。


またマウンドでもニコニコしており、相手の選手から捕手に「板東にマウンドで笑うのをやめろ」と度々言われていた。
これもまた板東が相手の集中力を無くすためにしていたんだとか。

2013年に個人事務所の申告漏れ(約7500万円)が発覚したことから、『世界・ふしぎ発見!』を始めとするレギュラー番組や冠番組から
次々と降板、しばらくの間芸能活動を自粛した。2014年からは吉本興業に所属しており、少しずつ活動を再開している。


【余談】

「こんばんはー、板東英二でーす」と番組で本人が名乗るときの「板東英二」という発音が「ボンデージ」に似ているとネタにされたことがある。

日本プロ野球において初めて、マスコットキャラ、野球帽、ユニフォームといった球団グッズを考案し、
売り出したのは自分だと度々語っている。というか板東、なにやってんの?

日本プロ野球史上、日本人としては初となる(NPBで最初に打ち立てたのは外国人だったため)、一球勝利という記録を打ち立てている。
因みにこの記録は普段投げないカーブをたまたま投げたらたまたま相手バッターが振ってたまたま当たって生まれたというものである。
プロ野球投手としての魂と魂のぶつかりあいのような全力勝負によって紡がれた記録とは対極にある、ある意味板東らしい記録である。




「追記・編集で頭を鍛えよう『マジカル頭脳パワー』司会の板東英二でーす」

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