本多正信

登録日 :2013/07/11(木) 21:00:00
更新日 : 2017/01/31 Tue 17:47:40
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「弥八郎、ただいま戻りて候」

本多正信(ほんだ・まさのぶ)は戦国時代の武将である。
1538~1616

はじめは鷹匠として、徳川家康に仕えていたが、1563年、大事件が発生する。

三河一向一揆である。当時、三河国の武将はそのほとんどが一向宗に帰依しており、徳川家は一揆方と徳川方に分裂し内乱状態となってしまう。本多正信は一向一揆側につき、家康と敵対することになる。

この一揆は結局、家康方が優位に立ったところで和議がなり、多くの離反した家臣も徳川氏に再び忠義を誓っている。
しかし、正信はこの時帰参をよしとせず、大和国大名・松永久秀に仕えている。知恵者同士結構気が合ったのではないだろうか。
久秀には重用されていたというが、そこも退転。以後の消息はしばらく不明である。諸国を流浪していたとも、加賀に転じ本願寺軍として戦っていたとも言われている。

正確な帰参時期については明らかになっていないが、本能寺の変の前には正式に帰参していたという。
徳川家にいるんだかいないんだかよくわからない。
この時、旧知の大久保忠世に便宜を図って貰ったという。

本能寺の変に際しては家康と共に堺におり、神君伊賀越えに同行したと言われている。

が、名簿の中にその名前は無いとか。

やっぱりいるんだかいないんだか(ry

その後、家康が甲斐・信濃を併合すると奉行に任じられ、多くの武田家臣団の取り込みに成功している。時に正信45歳。
その後は家康の参謀として様々な謀略を主導。家康には「友」とまで言われたという。

家康の隠居後には二代将軍秀忠の補佐役として活躍する一方で、本多忠勝や榊原康政、大久保忠隣ら武断派と対立。大久保長安事件をはじめとする様々な謀略で武断派を失脚させていった。

家康がこの世を去ると家督を子の正純に譲り、その2ヶ月後、家康の後を追うようにこの世を去っている。


【逸話】

武断派からはとてつもなく嫌われている。
H多さん(鬼)「同じ一族だけどぶっちゃけ嫌い」
H多さん(トンボ)「あいつは腰抜け」「同じ苗字だけど他人だから」
S原さん「腸腐ってんじゃないの」

石田三成の子供(出家して命乞い中)をどうするか迷っていた家康に
本「許してもいいと思います。親父(三成)は殿に大手柄を与えたんですよ。」
徳「どゆこと?」
本「三成が西日本の連中全部まとめて戦争して(負けて)くれたおかげで殿が天下統一出来たんですからw」
徳「たーしーかーにー。」→赦免

実は加増を断っている。最終的な領地は2万2000石。将軍の補佐役にしてはあまりに少ないが、「欲を出すとバカを見る。今の地位で満足することが長く幸せでいる秘訣」と断り続けたという。
なお息子はその言いつけを破って宇都宮15万5000石になったが…あっ…(察し)
※気になった人は宇都宮釣天井事件を調べてみよう!

これらの謀略の多さから多くの作品では腹黒い悪役や黒幕になることが多い。


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