本多正信

登録日:2013/07/11(木) 21:00:00
更新日:2024/02/05 Mon 05:07:20
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「弥八郎、ただいま戻りて候」

本多正信(ほんだ・まさのぶ)は戦国時代の武将である。
1538~1616

相模国玉縄藩(現在の神奈川県鎌倉市付近)藩主。
はじめは鷹匠として、徳川家康に仕えていたが、1563年、大事件が発生する。

三河一向一揆である。当時、三河国の武将はそのほとんどが一向宗に帰依しており、徳川家は一揆方と徳川方に分裂し内乱状態となってしまう。本多正信は一向一揆側につき、家康と敵対することになる。

この一揆は結局、家康方が優位に立ったところで和議がなり、多くの離反した家臣も徳川氏に再び忠義を誓っている。
しかし、正信はこの時帰参をよしとせず、大和国大名・松永久秀に仕えている。知恵者同士結構気が合ったのではないだろうか。
久秀には重用されていたというが、そこも退転。以後の消息はしばらく不明である。諸国を流浪していたとも、加賀に転じ本願寺軍として戦っていたとも言われている。

正確な帰参時期については明らかになっていないが、本能寺の変の前には正式に帰参していたという。
徳川家にいるんだかいないんだかよくわからない。
この時、旧知の大久保忠世に便宜を図って貰ったという。

本能寺の変に際しては家康と共に堺におり、神君伊賀越えに同行したと言われている。

が、名簿の中にその名前は無いとか。

やっぱりいるんだかいないんだか(ry

その後、家康が甲斐・信濃を併合すると奉行に任じられ、多くの武田家臣団の取り込みに成功している。時に正信45歳。
その後は家康の参謀として様々な謀略を主導。家康には「友」とまで言われたという。

家康の隠居後には二代将軍秀忠の補佐役として活躍する一方で、本多忠勝や榊原康政、大久保忠隣ら武断派と対立。大久保長安事件をはじめとする様々な謀略で武断派を失脚させていった。

家康がこの世を去ると家督を子の正純に譲り、その2ヶ月後、家康の後を追うようにこの世を去っている。

ちなみに彼の死後不祥事や跡継ぎ不足により「大名としての正信系本多家」は絶えてしまうが、加賀藩に仕えた次男政重の子孫等により「正信の血」は存続した。

【逸話】

家康が近習たちに怒鳴り散らしている場面に遭遇した正信。
怒り心頭の家康から事情を聞くや、眉を吊り上げて「なにやってんだお前ら!」と大激怒。家康ポカーン。
毒気を抜かれて家康が落ち着いたのを確認すると「殿はお前らが憎いんじゃなくていい家臣になってほしいから怒った」と言い含め、
「これに懲りずに一層励めよ」と恐縮しきりの近習たちを励まし、家康の怒りを解くだけでなく角が立たないようにその場を収めたという。

武断派からはとてつもなく嫌われている。
H多さん(鬼)「同じ一族だけどぶっちゃけ嫌い」
H多さん(トンボ)「あいつは腰抜け」「同じ苗字だけど他人だから」
S原さん「腸腐ってんじゃないの」

石田三成の子供(出家して命乞い中)をどうするか迷っていた家康に
本「許してもいいと思います。親父(三成)は殿に大手柄を与えたんですよ。」
徳「どゆこと?」
本「三成が西日本の連中全部まとめて戦争して(負けて)くれたおかげで殿が天下統一出来たんですからw」
徳「たーしーかーにー。」→赦免


実は加増を断っている。最終的な領地は2万2000石。将軍の補佐役にしてはあまりに少ないが、「欲を出すとバカを見る。今の地位で満足することが長く幸せでいる秘訣」と断り続けたという。
なお長男はその言いつけを破って宇都宮15万5000石になったが…あっ…(察し)
※気になった人は宇都宮釣天井事件を調べてみよう!

【親類】
  • 本多正重
正信の弟で、槍一本で戦国の世を渡り歩いた勇士。一度帰参したが出奔して各地を渡り歩きまた帰参している。
しかし三河武士を体現したかのように非常に偏屈で、家康から拗ね者とか言われている。誰も彼もが官位を称する中で生涯無官を貫いたところからもうかがえる。
槍一本で戦国の世を渡り歩くぐらいの力量はあるのだが、家康からは「お前の弟、大名にしてやりたいけどあの性格じゃなあ」とぼやかれている。
秀忠につけられてからは意外と拗ねなかったようで最終的に1万石の大名になっているが、息子には8000石しか継がせておらず大身旗本となっている。

  • 本多正純
正信の嫡男で、武士としての心がけを絶やさず主君に仕える気骨ある能吏。官職は上野介。
家康の取次役として父と共に権勢を振るった。
一方で知恵は回らず直言もするためたびたびやらかしてしまっており、家康死後に秀忠に仕えるといきなり要職に就いた上に色々言うものだから幕府での評判は非常に悪かった。
そして最終的には…

  • 本多政重
正信の次男で、義理堅く気骨のある勇士。叔父とは一字違いの同読名で、間違えられることもある。
最初は他家の養子として徳川家に仕えていたが、秀忠の乳母の実子である同僚といさかいになり殺してしまったため出奔する。
その後は偽名で他家を渡り歩くが、その際宇喜多秀家に2万石もの大禄で召し抱えられ関ヶ原に参陣し、戦後は前田家に3万石で仕えるも秀家が捕らえられたと知り秀家に義理を果たすため去った。
しかし秀家は流罪となりあてどもなくなったところを、上杉景勝の腹心である直江兼続に娘を差し出され養嫡子として上杉家に招かれた。
パイプ役として大きな貢献を果たして上杉家は家康からの信頼を回復。役目を終えたと判断した政重は上杉家を後にした。
そんな政重と自分が重なったか、藤堂高虎が再就職を執り成し再び前田家に3万石で仕えることになり、その際人件費で苦しむ上杉家から嫁と直江家臣らも連れていくこととなった。
その後は前田家に落ち着き、政重の家系は加賀前田家の中で最大の石高を持つ家老として廃藩置県まで続き、現在まで正信から続く血筋を伝えている。


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最終更新:2024年02月05日 05:07