最上義光(戦国武将)

登録日:2012/01/29(日) 11:50:37
更新日:2024/04/06 Sat 20:48:53
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ここでは、史実の最上義光について記述します。



最上(もがみ) 義光(よしあき)日本の戦国大名。
(1546~1614)

室町幕府羽州探題・最上義守の嫡男として誕生。
幼少期の頃の変わった逸話はあまりないが、力持ちであったようで最上家に代々伝わる指揮棒(かなり重いらしい)を持つ事ができた。

成長すると折り合いの悪くなった父・義守を隠居に追い込み、晴れて独り立ちする。
が、義守は土着豪族衆「最上八楯」そして、隣国の伊達輝宗と手を組み、義光は追い詰められる(天正最上の乱)。

しかし、彼の守り役であった僧侶が寺社勢力を挙げ義光に協力を表明したため、義光に味方する者も現れ寡兵ながらとりあえず連合軍を退ける事に成功。

婚姻を餌に最上八楯の一人・延沢満延を味方につける等敵を籠絡していき、義光有利の内に内乱は終結。
内乱の原因である父との不和は自分ではなく弟・中野義時を当主に据えようとしたからだとされ、後に弟を謀殺した。

…と思われていたがこの中野義時という人物、実在しない可能性が高い。
不和の原因も最近の研究では伊達家に対する方針の違い(穏健路線か強硬か)だったとされ、内乱で義守が伊達に救援を求めた事もその説に信憑性を持たせている。

その後は父とも和解し、順調に領国経営を行っていくが、中央では数多くの政変の末に豊臣秀吉が天下を掌握。
彼の小田原征伐には父の葬儀で甥・伊達政宗並みの大遅刻をやらかしながらも参陣し、最初から低身低頭だったためかお咎めはなかった。
そして、秀吉の甥であり、彼の後継者として扱われていた豊臣秀次に愛娘の駒姫を嫁がせる(後述の通り、渋々だったが…)等、中央への外交戦略もばっちりだった。


…が、…駄目っ…!

かねてより抱えていた上杉家との庄内平野の領土問題を秀吉の裁定に任せた所、秀吉は自身が信頼を寄せていた上杉に有利な形で決着を着けてしまう。

前述した輿入れに至っては、後の豊臣秀頼が生まれたこと等で秀吉と折り合いが悪くなったと思われる秀次が、突然謀反の疑いを掛けられるという事態が発生。
切腹を申し付けられた秀次が自刃した後、秀吉は彼の係累をも根絶する意図で妻妾たちの処刑を決定し、輿入れしたばかりの駒姫も処刑されてしまった(秀次事件)。
輿入れしたばかりで秀次とロクな面識がなかった事もあり、父親である義光はもちろん、多くの人々から助命を嘆願されたが、
後一歩及ばず*1、駒姫は15歳の短い生涯を終えることになってしまった。
その亡骸も、遺族達の「引き取らせてほしい」という願いもむなしく、畜生塚に無造作に投げ捨てられる始末。
ちなみに駒姫は「東国一の美少女」とまで言われ、大層美しかったらしい。
が、皮肉にもその美しさが秀次の目に留まってしまい、最終的に上述のような事態を招いてしまったのだから、まさに「美しさは自らのためにならない」典型例となってしまった。

義光夫婦は愛娘のあまりにも理不尽な最期に暫く食事も喉を通らない程悲しみに暮れ、生みの母・大崎夫人はこの二週間後、娘の後を追うようにこの世を去る。自殺だった可能性が高いとされる。
この婚姻自体が秀次の叔父である秀吉の威光をもって無理やりに取り決められたものであったため、愛娘を豊臣家の都合で弄ばれ殺された義光の豊臣家への不信は頂点に達し、
後の関ヶ原の戦いにも影響を及ぼす事になる。
畿内で地震が起こった時、義光は秀吉ではなく真っ先に家康の下に駆けつけたそうな。
まあ、これはさすがに、秀吉が悪いとしか言いようがない。恨まれても仕方がなく、義光でなくてもこんなことをされれば誰でも恨み骨髄になるだろう。


1598年、太閤・秀吉が死に翌年に五大老の前田利家がこの世を去ると、五大老筆頭・徳川家康の不穏な動きが活発化。
豊臣家の危機を察した大老・上杉景勝と奉行筆頭・石田三成は戦備を始め、それに大義名分を得た家康は会津(上杉)征伐を開始する。

上杉の隣国である最上・伊達の両家にも上杉征伐の要請が届き、元々上杉・豊臣を敵視していた最上は承諾。
いよいよ長年の上杉との因縁に決着かと思いきや、三成挙兵により徳川軍は西進してしまう。
(関ヶ原の戦い)

さらに同盟国のはずの伊達家がさっさと上杉と講和を結んだ挙げ句、最上の援軍に駆けつけようとした南部家の領地で一揆を煽動。
最大の敵は味方だった。

上杉家と隣接していて領土を分断している最上領が狙われるのは必定。
義光も一旦は上杉と講和したものの、事前の内部工作が発覚したため失敗。
援軍も望めずに総勢5000の兵で直江兼続率いる25000もの上杉の大軍に立ち向かう羽目に(慶長出羽合戦)。

絶体絶命の危機に立たされながらも、義光を始め最上軍の諸将は奮闘。
銃撃戦で上杉兵に多大な被害を出し、配下の将兵達も徹底籠城を貫き通した(長谷堂城の戦い)。


そして抵抗すること数日。
関ヶ原における西軍の敗走が伝えられると、上杉兵は撤退を余儀無くされる。
圧倒的不利な戦いだったが、義光は確かに勝利を手にしたのである。

一方で退却する上杉の追撃には失敗するのだが、これが彼の後世の評価の明暗を分ける事に。


晩年は領内経営に全力を注ぎ、庄内平野の治水に北楯利長や新関久正と共に陣頭に立ち尽力。
徳川秀忠との謁見後、山形城で病死(享年69歳)。尚、家臣四名が後を追って亡くなっている。


☆人物像
  • 非常に部下想いで領民想いでもあったため裏切る部下は殆どおらず、一揆も全くといっていい程起きなかったという。

  • シスコン…もとい妹想いで、妹の義姫には特に弱かった。
    どれ位かと言うと、甥の政宗と戦になった時、義姫に停戦を頼まれてホイホイ停戦する始末。
    妹に頼まれて停戦する大名は多分義光だけ。
    ちなみにこの停戦以降、伊達家とは二度と戦わなかった(向こうからは謀略をされているが…)。。
    ただし、この時の義姫の頼み方は『戦場のど真ん中に三ヶ月間近く居座り続ける』という尋常ではない手法。停戦するのも無理は無い…のかもしれない。

  • 長年名前が「よしみつ」だと思われていたが、伊達家に嫁いだ妹との文通のおかげで「よしあき」だと判明。
    (妹が読み易いよう平仮名をふったそう。いいおにいちゃんだね!)

  • 好物はで、愛称は「鮭様」。
    一説には、鮭が欲しくて庄内平野を上杉と争ったとまで言われる程好きだった。

  • 妹や娘に気をかける家族想いの一面とは裏腹に、嫡男・義康とは仲が悪かった。
    義康は文武に優れた人物だったが、義光は彼を廃嫡してしまい、後の最上家は衰退の一途を辿る事に。
    ただし、これは家臣の讒言によるもので、義康は長谷堂の戦いでも身を挺して父を救うなど、本来は仲良し親子であった。

    義康の遺品に義光の武運を祈る物や「どうしたら父上と仲直りできるだろうか」と悩んでいた事を記した物などが有った事で
    義光は過ちを悟り大変後悔し、讒言した家臣を一族まとめて粛清するよう厳命した。

  • 後方では冷静に指揮を執れるが、前線に出ると熱くなるのか最前線に行ってしまう。
    指揮棒を振るって敵を討ち首を取って帰ってきたところ、家臣に説教されてしゅんとなることもあったとか。

  • その智略、勇猛っぷり、人情さから智仁勇の三徳を兼ね備えた優れた人物と評される。


☆不遇っぷり
平成の時代、大河ドラマ戦国時代のゲームの普及により、戦国武将が再評価を受けるようになった。


が、彼はそれに乗り遅れてしまった。

と、言うより完璧に逆風である。

大河では敵である兼続や政宗に、漫画では前田慶次に焦点が当てられ、相対的に悪役や雑魚のようなイメージが定着。

『独眼竜政宗』では故・原田芳雄氏が好演し、非常に魅力的な人物であった…が、あまりに悪役に描かれすぎて義光のお膝元である山形県から大量のクレームが来たらしい。
『天地人』では直江兼続が主役にもかかわらずまさかの登場なし。なんてことだ…。

前述した長谷堂城の戦いでも、メインになるのは義光の防衛戦ではなく兼続と慶次の撤退戦ばかり…何故だ。

傍観していた上に最上が勝った途端に上杉領へのハイエナを開始していた政宗が、叔父と母を救うために出兵し上杉と激突した事に…どうしてこうなった。
媒体によっては漁夫の利を取るより二人を助けることを優先したということになることも。いやいや。

信長の野望では謀将の位置付けで、毎回暗殺やら謀殺やら物騒な能力を持っている。
これは弟を謀殺したかららしいが、前述の通り真偽不明。
知力が最も高く統率・政治も高水準、一方で武力は低めといういかにも智将といった能力値を設定されていたが、
近年の作品では逸話が反映されて武力も上昇傾向にあり、結果としてすべての能力が高水準でまとまった東北トップクラスの武将となっている。
ただ、大名は強力でも国力は高くないので、AIが担当しているとあっさりと滅亡してしまうことも少なくないのだが。

特筆すべきは義理2。

簡単に説明すると各武将には義理というステータスがあり、低いほど裏切り易い。
尚、最高が上杉謙信などの100で最低が松永久秀らの1。
親父追放や同盟破棄に定評のある武田晴信(信玄)は10くらい。
主人に反逆した宇喜多直家と津軽為信は4。
そんな中、特に何も裏切ってない最上義光は2。
義光は2。
大事な事なので2回以上言いました。
なお、他の義理2の武将は戦国初期の英雄の一人尼子経久や親殺しをやらかしたキリシタン大名大友宗麟*2である。やっぱり納得いかねぇ。

ともあれ信長の野望では脳筋揃い…もとい戦闘に片寄った伊達家や南部家に対し、智謀に長けた家臣団を擁し本人の能力も(義理を除けば)一流である。
上杉の動き次第では中々綱渡りなプレイになるが、興味があれば一度選んでみてもいいだろう。
他の大名家でプレイしていて義光を配下に加えた場合も高い能力値と優秀な特技により頼りになるが、
義理が低すぎるため常に寝返りや謀反の可能性が付きまとう。飴を与え続けることを忘れずに。

ちなみに義守はかなり低水準の能力で、シナリオによっては全国ワーストクラスの大名になってしまっている。
とっとと隠居するなり討死してもらうなりして家督を譲らってもらおう。



更に以下義光の子供達に関するコピペ



長女…政略結婚ののち急逝
次女…惚れられた関白に強奪され婚姻もしないうちに関白の謀反の容疑の連座で斬首
長男…暗殺される
次男…家を継いで3年足らずで急死
三男…次男により暗殺される
孫…次男の息子。家督を継ぐもアホの子でバカ殿まっしぐら。57万石改易の後に1万石の小大名に
四男…一番有能だが4男だったため家督争いに出遅れ結局お家騒動のペナルティで追放(後に水戸藩家老)
五男…長男暗殺の容疑で追放されたのちペナルティを食らい自殺
六男…家督争いを傍観する。ペナルティを食らい自殺


やめて!最上家のライフはもう0よ!

この後更に義光は死後に弾圧された時期が存在する。
最上家が内紛からの騒動により改易された後、いくつもの藩に分かれたため増税や労役といった負担が民衆にかかるようになった。
すると義光の治世を懐かしみ賛美するようになったのだが、当時の大名はこれをよく思わず資料や往時を偲ばせるものの焼却や破壊を行った。
更に近代に入り山形県に実業家の服部敬雄こと服部天皇が降臨、再び義光を奉る文化を悉く葬ろうとした。

しかし義光を想う人々の心まで葬り去ることは出来ず、こうした困難を乗り越えようやく一体となって義光を推せるようになった。
義光の再評価は、まだ始まったばかりと言えるだろう。
ライフが0になっても、まだ終わってはいないのだ。


追記・修正は正しく。

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最終更新:2024年04月06日 20:48

*1 あまりの嘆願に秀吉も折れ、助命するように命じるも、その命令が届く直前に処刑されたという話も伝わるが、創作の疑いもある。

*2 信仰の関係上殆どの武将との相性が悪く、実質義理1以下