ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス

登録日:2012/09/04(火) 00:07:44
更新日:2023/08/02 Wed 20:17:56
所要時間:約 7 分で読めます






余は若年であるがゆえに市民間の争いや家庭の不和など一切知らぬ。


いかなる憎悪も抱かずいかなる侮辱も受けたこともなく従って復讐欲もない


皇帝ネロ
皇帝就任演説より抜粋


紀元54年、地中海一帯を領土とした巨大国家、ローマ帝国に新たな皇帝が即位した。

彼の名は、Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus(ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス)
栄えあるローマ帝国の第五代皇帝である。

この時ネロは、弱冠16歳。
普通に責任ある役職につくとされる年齢ですら30歳からとされていたローマにおいて、これは異例中の異例の即位であった。

しかし、「寛容(クレメンティア)」のスローガンを掲げ就任した若き皇帝の誕生は、一般大衆からは歓迎を持って迎えられた。
人々は彼の治世に、大いに期待を寄せていたのだ。

だが後世、彼はある呼び名にて呼ばれる人物となってしまった。

「暴君ネロ」と。


■ネロの誕生

ネロが生まれたのは紀元37年。
父親のグナエウスはカエサルの右腕と知られたアントニウスと、初代皇帝アウグストゥスの妹の小オクタヴィアの孫にあたる。
母ユリア・アグリッピナ(小アグリッピナ)は四代目皇帝クラウディウスの弟ゲルマニクスの娘で、弟三代皇帝カリグラは兄にあたる*1
ただ、アグリッピナは兄と近親相姦関係にあったとされるため、カリグラの息子とする説もある。

生後すぐに父親を亡くし、母親のアグリッピナがカリグラにより謀反の疑いをかけられ流刑にされた為、幼少期は叔母に預けられ育てられた。
カリグラ帝の死後、流刑地からローマへと帰還したアグリッピナは、四代皇帝でかつ叔父にあたるクラウディウス帝と再婚。
この時、クラウディウス帝には前妻の息子、ブリタニクスがおり、当然、彼が次期皇帝候補の筆頭であった。
だが、出世欲が深かったアグリッピナは、なんとか息子を皇帝としたかった。
そこで、クラウディウス帝の娘であったオクタウィア(ブリタニクスの姉)とネロを結婚させ、
夫の好きなキノコ料理に毒を仕込み、それを吐き出すのを介抱するフリをして更に医師に毒を盛らせ、彼を亡き者としたのである*2

こうして、皇帝の急死により、ブリタニクスより年長であったネロは、継子の身でありながらまんまと皇帝に「仕立て上げられた」のである。


■皇帝就任後

暴君と呼ばれるネロだが、その素顔は芸術をこよなく愛する詩人だった。
皇帝となった彼は、「ローマを芸術の都にする」事を夢としていた。
だが、アグリッピナは彼にそれを許さなかった。
この時、アグリッピナは手入れを怠らず美しいままの自らの身体をも使って(肉体関係を結んで)ネロを傀儡としており、かなりの権力を持っていたのだ。
その権力を象徴するのが、皇帝就任を記念して作られる通貨である。
この金貨には皇帝の顔が刻まれるのが通例だが、ネロの代のものは、なんと、ネロとアグリッピナが向き合った姿が刻まれているのである。




ローマの歴史上でも、こんな金貨は後にも先にもこれだけである。

だが、子はやがて親離れするもの。
ネロは妻であるオクタウィアをほったらかし、アクテというギリシャ人の解放奴隷の女性と情交するようになる。
しかしこれにアグリッピナは激怒。
クラウディウス帝の実子たるブリタニクスを後押しするようになり、「正当な後継者は彼よ!」と、ネロを皇帝の座から引きずり下ろそうとする。
なんとも身勝手な母親に、ついにはネロも愛想を尽かしてしまった。


■最初の殺人

ネロとブリタニクスが共に食事をしたある日、ブリタニクスが突然苦しみを訴えた。

だが、ブリタニクスはもともと「てんかん」の持病を持っていたので、発作によって苦しみ出すのはいつもの事であり、
その場にいた人々は皆、気にも止めなかった。

だが、ブリタニクスはそのまま死亡してしまう。

実はネロは、毒味役の目を欺くために熱い飲み物を用意させ、それを冷ますためにとブリタニクスに用意させた水に毒を入れていたのだ。

公的には「てんかんによる発作」が死因とされたが、アグリッピナは間違い無く原因に気づいていただろう。
なにせ、自分もやったのだから。


■母殺し、妻殺し

ブリタニクスの死もあってアグリッピナの権力は失墜し、それまでのような専横はできなくなってしまった。
もちろん、アグリッピナは権力を回復すべく、オクタヴィアに同情する素振りを見せたりゲルマニア軍団に資財を擲る等、民衆の支持を集めようとし、
ネロと更なる近親相姦を重ねるなどもした。

だが、それはネロにはただの重荷にしかならなかったようで、友人の妻であった美女、ポッパエア・サビーナと関係を持ちたかった事もあり、
アグリッピナはもはやただの邪魔者だった。

そしてついに、アグリッピナの乗る遊覧船を沈没させ、暗殺を謀る。
……が、なんとアグリッピナは、自力で泳いで岸に辿り着い生還してしまった。

暗殺の失敗を知ったネロは、もうなりふり構わずに部下の一隊を引き連れ、寝室で休むアグリッピナの元へと向かい、殺害を命ずる。

アグリッピナは死期を悟って「刺すのなら、ネロの宿ったここを刺せ!」と叫び、兵隊の槍は、アグリッピナの腹部を、それだけでなく全身を刺し貫いた。

アグリッピナ殺害後、ネロは子供が出来ない事を理由にオクタヴィアと離婚し、不倫の罪をでっちあげて彼女を流刑に処した。

そして手紙で、オクタウィアに自殺をも命じたと言う。
だが、オクタウィアがこれに従わないと、部下に命じ、オクタウィアを殺害させた。
この際、ネロは死体検分を嫌がったという。

また、第二妻のポッパエアも、妊娠中にネロの怒りを買って腹部を蹴られ、胎児ごと命を落とした…という説もあるが、実は毒殺されたとか死んでおらずネロの墓に参ったという話まである。


■暴君の狂乱

その後ネロは「ローマを快楽の都にする」と、しょっちゅうリサイタルや宴会を開いたりしていた。
これらは市民には好評だったようで、ネロはローマ中の美女を呼び寄せて乱交パーティ紛いの宴まで開き、時には男奴隷と結婚し(ネロは花嫁役)、新婚初夜に後ろからアッー!されて悦んだり、美少年を去勢して結婚式をするなど、倒錯的な行為に及ぶこともあったという。
まあ倒錯的な性癖ネタはネロに以外の皇帝にも伝わっているので大目に見ておこう。ここまでぶっ飛んではいないんじゃね、という感じはあるが。
ちなみに、その美少年は好きだった女性にそっくりな彼女の弟で、彼(彼女)はネロが死ぬまで彼に仕えたが、ネロの死後、王の命で大衆の面前で全裸にされそうになり、自殺したという。

■治世の名君

とは言え、ネロの統治に関しては優れた部分が多かったことも事実である。

紀元60年にブリタニア(現在のイングランドとウェールズ)でケルト系のイケニ族女王ブーディカが主導する大反乱が勃発。
反乱は鎮圧されたが、ブリタニア人、植民していたローマ人やガロ・ローマ人(ローマ市民権を得たケルト系)双方に万単位の死者が出る大惨事となった。
ネロは反乱原因を徹底調査し、ブリタニア人への圧政と女王容認の習慣軽視が原因であると分析。
ブリタニア統治に当たっていた総督や将軍を更迭すると同時に、後任の総督に融和政策とブリタニア人の人権と文化伝統の尊重を厳命。
結果として、ローマ帝国末期になるまでブリタニア人の反乱は起こらず、統治の基礎を築いた功績は大きい。

東方においては、アルメニア王国の王位継承を巡ってローマ最大のライバル・パルティア王国と戦争になっていたが、紀元63年に名将コルブロの活躍もあり平和条約締結に成功。
パルティア王ヴォロガゼス1世は自身を王位に推薦してくれた王弟ティリダティスをアルメニア王位に就けようとしていたが、「パルティアの王弟をローマ皇帝がアルメニア王に戴冠させる」という条件で和睦。
ネロはローマを訪れたティリダテスを「対等に近い弟分」として礼遇し、パルティア、アルメニア両国の名誉を尊重した上で戴冠式に臨み、その後半世紀近く平和条約が保たれることになった。

紀元66年に起こったユダヤの大反乱では元執政官ウェスパシアヌスと財務官ティトゥスの親子を総大将として派遣して反乱平定を命ずる……も平定した時にはネロは死んでいたが。
このユダヤの反乱も格別の悪政の結果と言う訳ではない。
ローマ帝国はイスラエル王国崩壊以降、この地方を支配した各国の中ではアケネメス朝と並んで寛大な国であり、国家とその第一人者である皇帝に一定の敬意を払い(皇帝の肖像の刻まれたローマ公式の硬貨を流通させる、治安維持に当たる兵士に協力する)、収入の1割を税金として納めさえすれば信教の自由は保障していた。
しかし、多神教の中でも特別寛容で外国人や元奴隷でも仲間に入れてしまうローマ人と「イスラエル王国の崩壊はソロモン王が異教徒(エジプト・フェニキア)と政略結婚を含む同盟を結んだ天罰」として極端な一神教崇拝に走っていたユダヤ人過激派とは価値観が全く合わず、ギリシャ・マケドニア系とも度々衝突を起こし、サマリア人(イスラエル北王国人とアッシリア人の混血)とも不和、更にはユダヤ人内の派閥争いも激しかった。
先々代のカリグラや先代のクラウディウスも必死になって調停していたが爆発は時間の問題でもあった。

経済面でも功績を残している。
当時の硬貨の品位は初代皇帝アウグストゥスが定めたものであったが、経済圏の拡大に通貨の流通量が追い付かなくなりつつあった。
ネロは金貨銀貨の品位を少し落とす代わりに流通量を増やしたのだが、丁度ローマの経済圏の広がりにマッチしたので、五賢帝時代終了以降まで貨幣の信用を保ち続けていた。

意外な事に剣闘士競技の穏健化を進めた一面もある。
剣闘士競技はエトルリア由来のプロレス文化が廃れた後はローマ市民の最大の娯楽だったのだが、
帝政期に入って対外戦争が減り、ネロの属州政策の穏健化も有って剣闘士候補が高騰したので、
「極力死者を出さずに技量と演出力で客を盛り上げる」試合形式に替えていった。
アウグストゥス時代からその傾向は有ったのだが、剣闘士競技での死者を「不運な事故」レベルにまで減らしたのはネロの治世下である。


■ローマ大火

紀元64年、ローマは大火災に見舞われる。
大競技場から上がった火の手はローマを焼き尽くし、多数の死傷者を出したが、ネロは素早くその復興に着手。
ネロは王朝の財の殆どを使って火災からの復興に尽力し、ローマ市民に讃えられた。
実際、このネロの対応は後世の歴史家にも高く評価されている。

だが、この大火の後に建設が始まった贅を尽くした宮殿(ドムス・アウレア)の予定地が、大火により焼け落ちた土地とぴったりと重なっていたことから、
市民の間に「皇帝が火を放った」という噂が広まってしまう。*3
もしも事実無根の噂なら、助けてもらっておいてなんとも身勝手な市民もいたものである。
なおこの噂の出どころとしてネロと仲が最悪だった元老院が広めたという説がある。

このドムス・アウレリアは巨大な池を中心とした公園と、コンクリートを始めとした最新の建築技術を投入した宮殿を隣接させて建設するという壮大な物。
ネロの主導していた「防災都市」計画の為にも防災技術に熟達した建築技術者の後援や養成は必須であったし、
被災者に職を与える、災害時の雑用水と避難場所を確保する等、都市計画の面では有意義な計画であったともいえる。
ただし、安普請の集合住宅を建てて巨額の家賃収入を得ていた元老院議員達にとっては皇帝の激しい叱責を受けた*4上に、
都市区画整理で土地は収容される、皇帝お気に入りの建築業者による防災集合住宅の建設を強いられる等踏んだり蹴ったりの状況であった。

■キリスト教徒虐殺

33年にキリストが十字架にかけられて以来、使徒達はユダヤ人を中心に布教を行っていた。
それはもちろんローマにも及んでいたが、元々多神教であったローマ人達は彼等を疎んじていた。
というか国家の伝統宗教をないがしろにし、罪者扱いだったキリストを旗頭に布教してるのだから当たり前の話だが。
噂に悩んでいたネロは、事態を収拾するため、大火災の責任をキリスト教徒に押し付ける。
しかし、そのやり方があまりにも残酷だったので市民がキリスト教徒を不憫に思ったとか。
そもそも、自分のスケープゴーストにする為に無実の者達に罪を被せて、殺しているので例え当時のキリスト教徒の立場がどうであれ、やっている事は腐れ外道と罵られても仕方ない所業である。
(実際、キリスト教徒が犯人という説もあったりするが真相は不明だぞ)


■最期

だが、その苛烈さに市民はネロを厭い始め、人望を失ったネロは暗殺に怯える日々を送る。

ガリアでの反乱を皮切りに部下にも元老院にも見離されたネロは次第に追い詰められ、死を覚悟した。
「早駈けに走る軍馬の音、我が胸を打つ」と、ホメロスの詩を口ずさみ、ナイフを喉に突き立てた。

その後ネロを追ってきた騎兵が、自刃した彼に危害を加えることを(人道的な意味で)躊躇し、
丁重に扱うべく、その身体に外套を掛けると、ネロはカッと目を見開いてその騎兵を見つめ、

「遅かったな。だが大儀である」

と呟いた後に絶命。
騎兵はその死にざまに恐怖したとされるが、流石にこれはスエトニウス*5の創作ではないかと言われている。


■評価

『暴君』とされているネロだが、その実市民や周辺諸国には好かれていたようで、死を惜しむ声は多かったという。
また、ネロの『寛容』を是とする治世はローマの歴史の中でも有数のものとされており、評価が高い。

なお、若い頃のネロは優秀な裁判官であり、その有能さは、本来担当できない事件も持ち込まれるくらいだったとか。
一般的に『暴君』とされるネロだが、その略歴を見ると『暴君』のイメージは誇張された結果……なのかもしれない。

そもそも『暴君ネロ』というイメージは、
  • 歴史家タキトゥス
  • スエトニウス
  • 帝政末期のキリスト教系文化人
だいたいこいつらの記述の影響。
であるが、ネロがした事を考えれば当然と言えば当然であり、また、キリスト教関連の振る舞いを除けば『暴君』ではないかと言えばそうでもない。
暴君と呼ばれる面もあるのも事実であり、分かりやすく言うと『いい皇帝だけど、たまに暴走する』または『暴君だけどいいところもある』という感じだったと思われる。
当時のローマの中では卑しいと言われる行為が多く、またネロの奔放すぎる政策や生き方は元老院から激しく疎まれており、そういう意味では既存の道徳観を破壊する暴君とも言える。

とはいえ人格面がかなり無茶苦茶なのは決して間違いでは無い。
貞淑な妻でありローマ市民にも人気のあったクラウディア・オクタウィアの処刑したり、親友から妻を奪うために離縁させた上に僻地へ左遷するなどしている。
特にクラウディアの一件はローマ市民の間ではかなり悪評が立ったと今へ伝わる。
また上記でも乗せられてるように愛人は数多く享楽三昧・淫行三昧は枚挙に暇がない。
母親から受け継いだのか自身を敵視していると思った相手(あくまでネロの予想でしかない)を特に確証も無く殺害したり、些細なミスをした兵士を容赦なく処刑したりしている。
特に自分の感情や衝動を抑えきれない話が多く、近しい人間からすればネロは恐ろしい皇帝であったことは事実だろう。

一方で皇帝としてのネロの行動としては強引な政策を行いはするものの、ローマ市民を第一に考えた上での物が多く、決して『暴君』と言われる皇帝ではなかった*6
属州民の人権尊重や戦禍で荒廃したブリタニアや中東の復興政策等、属州政策の穏健化を進めた点も事実であり、五賢帝時代の繁栄の基礎を築いた功績も小さいものでは無い。
特に中東政策に関してはライバルのパルティア王ヴォロガゼス1世が「平和の恩人」「慰霊を行い続ける」と絶賛する程のもの。
ネロの死後もパルティア王国との平和条約は持続され、それまで争いの絶えなかった中東地域に50年近く平和と繁栄をもたらした。
尤も、此等の政策は長期的な国の安定に関しては大きな成果をもたらしたものであるが、属州からの搾取や不動産経営で莫大な富を得ていた元老院議員を始めとする既存特権階級の権益を犯す物であり、彼等との衝突の原因となってしまった。

ちなみに自分で五輪に出場し幾つも優勝している(当然出来レースである)。*7
五輪の凱旋パレードをした時、市民は「そんなのいいからパン食わせろ」と言ってたらしい。
暴君とまでは言わないが何やってんだって感じではある。

ネロの皇帝としての強みは市民からの高い支持であり、同時に仲が最悪であった元老院への対抗手段でもあったが、
それもローマの大火が起こった際にキリスト教にその罪を擦り付け、苛烈な罰を与えたことから市民からの支持を失う事となり没落してしまうこととなった。

また芸術家肌の文人皇帝と思われがちだが、実際には割と反乱や暴動に自身が赴き鎮圧していると武闘派な面もある。


■ネロを扱った作品

パートナーサーヴァントの一人として登場。
通称赤セイバー。詳細はリンク先を参照。

  • 我が名はネロ(安彦良和)


追記・修正お願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 歴史
  • 世界史
  • ネロ
  • 皇帝
  • 666
  • 暴君
  • 長いフルネーム
  • Fateサーヴァントネタ元項目
  • ローマ帝国
  • ハバネロ
  • ハバネロ ←ではない
  • ローマ
  • バイ
  • 賛否両論
  • バビロンの大淫婦
  • タイガーネロ
  • ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
  • 五代目

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2023年08月02日 20:17

*1 逆じゃね、と思う方もおられるだろうが帝位の継承はカリグラ→クラウディウスの順。これはカリグラが大叔父であった二代皇帝ティベリウスから後継者指名を勝ち取ったことと、クラウディウスが身体的ハンデから一族からも軽んじられていたのが、カリグラが暗殺されたことで皇帝に擁立されたため

*2 クラウディウス帝含めた当時のローマ人には満腹でも食うために吐く習慣があり、公的にはそれによる窒息死とされた

*3 ネロ本人に関しては出火当時、休暇を取ってローマから50km離れた生まれ故郷のアンティウム市で過ごしていたのでアリバイは有る。

*4 アウグストゥスからネロまでの歴代皇帝が安普請建築の防災性に警鐘を発し続けたのを楽観視した末の大惨事なのである意味当然

*5 ネロの死に様について書かれている『皇帝伝』の作者

*6 自分のリサイタルの間は市民を閉じ込めるような真似してるけど

*7 因みに二代皇帝ティベリウスも夫婦喧嘩の末に家出していた時代に五輪の馬車競技で優勝したので、前例は有る