大谷吉継(戦国武将)

登録日 :2009/11/29(日) 10:35:39
更新日 : 2017/04/29 Sat 23:39:00
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太閤が100万の軍を与えて見たい、そう言った男の最大の活躍の場は史上最も無謀な戦だった。





この項目では戦国時代の人物である大谷吉継について記述します。他のメディアにおける大谷吉継については、別項目でお願いします。

大谷(おおたに)吉継(よしつぐ)(1559頃?~1600)は戦国時代の武将、大名である。幼名紀ノ介(桂松、平馬とも)、別名吉隆。

前半生は不明であり、近江出身説、美濃出身説、果ては大友家臣の息子、豊臣秀吉の息子といった説もある。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の長浜時代以降に名前が散見され、石田三成や藤堂高虎等同様、この頃に仕官したので有ろう。


内政も武勇もこなす丹羽長秀2号のような存在だったが、尾張派は根っからの武闘派な為、内政に回されがちであった。
勿論、尾張派との仲も良好である。近江・尾張の軋轢に結構苦労されていた様である。

そして30代の彼を襲った悲劇こそ、奇病である。現在は「ハンセン氏病」と呼ばれている不治の病に罹ったのである。
(書物には癩とのみ書かれており、梅毒等、他の病気であった可能性もある)
その為、彼は若い内から隠居に近い生活を余儀なくされてしまう。
秀吉も激しく失望し、「紀ノ介に、100万の軍を与えて指揮させたかった」とまで言わしめた。

更には京洛では「吉継1000人切り」という説まで流れた。
1000人の生き血を啜れば、病が治るという俗説を信じた吉継が辻斬りを繰り返したというもので、当時の人々の癩病に対する差別意識の表れである。


そんな失意の彼の知己とも言えるのが石田三成である。彼は吉継の事を気にかけ、何度と無く訪ねていたようである。


しかし1600年、事態は大きく転換する。
徳川家康の上杉征伐に参加すべく若狭より南下した吉継は三成の佐和山城に立ち寄る。そこで三成の挙兵計画を打ち明けられた。

必死の説得にも応じない三成に、吉継は決意する。



三成を、


助けよう。


以後、彼は勝てない戦と分かりつつも三成に助言を加え、関ヶ原本戦では内応の可能性高い小早川隊の隣に布陣、食い止める決意を示した。
合戦当日。大谷隊は東軍・藤堂高虎隊と激突。眼も満足に見えない吉継だったが、輿にのり、声も枯れよと下知。一丸となった大谷隊に藤堂隊、押されっ放し。

昼過ぎ、小早川隊、進軍開始。その矛先、 西軍・大谷隊 。数、一万数千。
吉継、すぐさま待機させていた数百の部隊に応戦させ、そのまま小早川隊を山腹へ押し戻す。「裏切り者を許すな」との凄まじい下知に震え上がる小早川隊。

しかし、この時吉継の想像を越える事態が生じる。脇坂隊以下4隊、寝返り。
ここに及んで、吉継は死を決意する。馬回りに残った者の名を聞き、側近・湯浅五助に命じて首を落とさせた。


死後、その墓は武勇を称えた藤堂高虎によって建てられた。

関ヶ原山中に静かに佇む墓は、下界の喧騒から隔絶し、一人の友義に生きた武将の菩提を弔っている。




辞世


契り有らば


六つの巷に


待てしばし


遅れ先立つ


ことは有りとも






彼を扱った作品

〇小説
司馬遼太郎「関ヶ原」

〇漫画
深谷陽「大関ヶ原」

〇ゲーム
信長の野望
太閤立志伝
采配のゆくえ
決戦
戦国無双
戦国BASARA
100万人の戦国無双



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