ベルリンの壁崩壊

登録日 :2012/10/02(火) 21:13:25
更新日 : 2017/05/10 Wed 16:46:30
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◆概要
1989年11月9日に当時のドイツ民主共和国(以下東ドイツor東独)政府が、東独国民に対して突如旅行の規制を大幅に緩和すると発表したことにより、
東ドイツの中にあった西ベルリンを囲うように設置されていた「ベルリンの壁」が事実上意味をなさなくって崩壊した革命のこと。

この時既に、ソ連のアザハg…もとい、ミハイル・ゴルバチョフ書記長による「ペレストロイカ」政策や、
ソ連の事実上の衛星国家となっていた東ヨーロッパ諸国への関与を極力控えることを宣言した「ベオグラード宣言」により、東西両陣営は完全に雪解け状態であった。

だが、ベルリンの壁だけは東西冷戦という枠を飛び越えて、欧州全体の安定がまかり間違った場合、 「第三次世界大戦」 に繋がる可能性が否定できなかった為、
様々な意味で崩壊はほぼ不可能として東西両陣営ともある意味棚上げにしていた。
崩壊した時は世界中から驚きの声が上がったという。


◆改革までの流れ
東独は社会主義陣営の中で比較的経済状態が良く「社会主義の優等生」という触れ込みであった。

…だが、実際には1970年代後半に起きた「オイルショック」による物価の高騰により計画経済の限界が露呈。
更に官僚の汚職やドイツ社会主義統一党による一党独裁体制による弊害が次第に目立ち始め、
当時党の書記長であったエーリッヒ・ホーネッカーに対する不満が募りつつあった。

ゴルバチョフによるペレストロイカにより東欧共産国家が次々と民主化に突き進み、東独国民の間でも民主化への機運が高まっていくが、
ホーネッカーは秘密警察を使って徹底的に反体制派を封じ込めた。
よりにもよってソ連のペレストロイカの進捗具合を掲載していたソビエトの雑誌すら発禁処分にしたために、足元の統一党からも改革派を中心に反感を買う。

そんな中、一党独裁体制を放棄した隣国のハンガリー政府が、中立国であるオーストリアとの国境沿いに設置された鉄条網を撤去。
これを聞いた東独の人々は、夏休み中の休暇という触れ込みでビザを取得し、合法的にハンガリーへ入国、オーストリア経由で西ドイツのボンへ逃げ出す(ピクニック事件)。

東独政府はハンガリーへの渡航制限を実行するも、
ビロード革命 によって複数政党制による民主主義国家へ移行することになったチェコスロバキアや、
一足早く自由選挙による政府となっていたポーランドとの自由な越境協定が生きていた為、東独の人々は今度はこちらへ殺到。

にっちもさっちもいかなくなった東独はついに国境を 全て封鎖

この時点でホーネッカーへの風当たりは強まる一方であったが、彼自身は事態の深刻さに気付いていなかったようである。
そして、ホーネッカーは東ドイツ建国40周年の記念式典に出席するゴルバチョフから「現在の東独政府を支持する」という発言を貰う事に期待し、
書記長の座に留まり続けたのだ。


◆改革へ
だが、ホーネッカーの期待は脆くも崩れ去る。

東独建国40周年式典でのゴルバチョフの式辞はこんなものだった。
ゴルビー:「遅れてくる者は人生に罰せられる」

ゴルバチョフは公式の場である記念式典において暗にホーネッカーを批判したのだ。
さらにゴルバチョフの答弁中に参加者から「ゴルビー!ゴルビー!」というシュプレヒコールまで起きる始末となり、こうしてホーネッカーの権威は地に堕ちた。

この直後からライプツィヒ等で 月曜デモ と呼ばれる反体制派によるデモが発生。

徐々に大規模化し、ホーネッカーは武力鎮圧を検討するもライプチヒの管弦楽団の団長に反対され頓挫。

東独に駐留するソ連軍も、ゴルビーの指示で静観する事を伝達された為、逆にデモは激しさを増していく。

ホーネッカーは部下から反旗を翻されて書記長を解任され、失意の中で歴史の表舞台から去った。

こうした大混乱の中、政権についたエゴン・クレンツであったが、
当人自身がホーネッカーの忠実な部下である為に党や国民から最初から見放される不人気ぶりで、国内の混乱は増す一方となった。

この為、クレンツは世論に押される形で党と政府の分離や民主化等を約束したがもはや混乱の収拾は不能となり、東独は事実上政府機能が崩壊。
そして……



◆ベルリンの壁、崩壊



1989年11月9日



クレンツは国民に対する渡航制限緩和を統一党中央委員会に提出し、委員会はこれを承認。

施行は翌日11月10日、「 然るべき国境通過点 (つまり国境ゲートや空港、港等である)からの出国を認める」というのがその内容であった。
要するにあくまでも旅行時の制限緩和で、ホーネッカー時代にガチガチにし過ぎた国境封鎖を、ひとまずは元に戻そうというのが本来の趣旨である。
その決定は混乱を収めるため、早急に、遅滞なく発効されるものと決められた。まあ元に戻すだけだしね。

しかしここでマスコミ史上、最も酷いミスが発生する。
東ドイツ国内及び国際的会見のスポークスマンを勤めたのはギュンター・シャボウスキーという男だったが、
ゴタゴタの中で急ぎ取り決めたこともあって、発表する内容を中途半端にしか聞いておらず、どういう決議かも理解していなかったのである。

東ドイツ国民は ベルリンの壁を含む 全ての国境通過点から、出国が認められる

会見に臨んだ各国記者及び会見中継をテレビで見ていた諸外国並びに東西ドイツ国民、そして恐らくは当の東ドイツ首脳部も絶句したに違いない。
何しろこの発表のとおりになれば、東ドイツは即座に崩壊し、多くのドイツ国民が夢に見ながらも涙ながらに諦めた、東西ドイツの統一が目に見えているからである。
続けて質問はこの画期的な決議の施行日時に移った。


イタリアの民間放送の記者:「いつから発効ですか??」

(本来の旅行緩和は)明日10日からなのだが、シャボウスキーはこのことも聞いていなかった。
返答に困るシャボウスキー。

シャボウスキー: (あれ?でも資料に書いてあるぞ?なになに)

この決議は早急に、遅滞なく発効するものとする。



シャボウスキー: 「私の情報が正しければ『遅滞なく』(つまりは直ちに)ということです(キリッ」

こう言ってしまったのだ。
要するに、『今すぐにでもベルリンの壁を乗り越えていいよ』と、東ドイツ政府のスポークスマンたる男が、堂々と明言してしまったのだ。
この為、東西ベルリン市民がベルリンの壁周辺に集まり始めたのである。 

一方、東独の国境警備隊は報道を聞いていなかった他、上官からの指示もなかった為にベルリンの壁に殺到した市民には何の対処もできない。

西ベルリン側でも西ベルリン市長が 「壁に近寄りすぎるな」 と市民に呼びかける等カオスな状況となった。

ポーランドに外遊中だった西ドイツのコール首相が事態把握の為西ベルリンに向かった他、
英のサッチャー首相や米の父ブッシュ大統領、仏のミッテラン大統領も側近に叩き起こされたり、予定していた公務を取りやめる事態となっていった。

一方の東ベルリンでは、市民の 「開けろ! 開けろ!」 というコールが地響きのように鳴り響き、
仮に武力衝突を起こしても多勢に無勢状態であった為、諦めた現場職員はついに国境ゲートを開放。
ここにベルリンの壁は崩れ去ることとなった。

夜が明け、その辺の工事現場からもってきた重機等で市民が壁をぶっ壊す光景。
これが1989年を象徴する動画となった。
壁の崩壊と同時に、東西ドイツ国境線も解放。
えらく時代遅れなトラバントに乗った東独国民を西独国民が歓喜の中出迎えた。
(因みに、東独国民が西ドイツで最初に買ったもので一番多かったのは バナナ だったとか)




◆そして冷戦の終わりへ…
この『ベルリン問題』がひとまず解決した為、アメリカとソ連はマルタ島で会談を開き、 「冷戦終結宣言」 を父ブッシュとゴルバチョフの間で取り交わされた。

そもそもベルリンの壁というのは、物理的な「壁」以上に極めて強固な「見えない壁」も存在していた。


西ベルリン>>>>越えられない何か>>>>ベルリンの壁>>>>東ベルリン


壁を睨んで日々神経をすり減らしていた西独や西側諸国の外交官や政治家達は、
壁が呆気なく崩壊したことに対し 「建設以来の外交努力とはなんだったのか…」 とまさしくシリアスな笑い状態になったという。


◆ドイツ、統一


東西両陣営が思っているよりも早く、東西ドイツの統一という作業が実行・実施。
東独に参加していた11県を4州に再編して西独こと『ドイツ 連邦 共和国 』に吸収合併することで合意。


翌1990年10月1日、東西ド は統一された。


なお、東西格差でドイツの経済がしばらく混乱することになったが、現在では徐々に改善されつつある。

ちなみに、ベルリンの壁の破片はお土産屋で580円で売られている。


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