太平洋戦争

登録日 :2009/05/26(火) 20:44:25
更新日 : 2017/08/15 Tue 19:13:26
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太平洋戦争とは、第二次世界大戦のうち、1941年12月8日真珠湾攻撃から1945年8月15日のポツダム宣言までの間存在していた戦線の総称。


連合国
  • アメリカ
  • イギリス
  • オーストラリア
  • 中国
  • オランダ

  • 日本
  • 当時の日本植民地国

あまり知られていないが太平洋戦争は日米戦争ではなく「連合国と日本の戦争」である。
そのため米軍以外にもイギリス軍やオーストラリア軍などと激しい戦いを繰り広げており、特にオーストラリアでは日本海軍が本土に爆撃を行った事もあって未だに対日感情へ悪影響を及ぼしている。

日本側の正式呼称は「大東亜戦争」だったが、現在ではGHQの広めた「太平洋戦争」が一般的である。
ただし「太平洋戦争」という呼称自体は、帝国海軍側から「対英米戦争」とともに提案されている。
ちなみに「大東亜」とは「太平洋(ハワイ等は含まず)、東南アジア含む東アジア」のことであり、こっちの場合1937年の支那事変も含まれる。


戦後70年と戦争経験者もまだ多い。
よってもっとも身近だが、近年出征者の高齢化による風化が問題となっている。
2010年代に入った現在では、出征経験を持つ者のうち、当時の士官学校を経ないで入隊した徴兵での若年兵すら80代後半~90代に達している。
正規教育を受けた士官級以上は高学歴者でも無ければ100歳を有に超えており、ほぼ壊滅状態である。
一般人の立場で、ハッキリと戦前から戦中までの記憶を持つ最後の世代である昭和ヒトケタ初期世代も80代半ばを越えようとしており、
年月の経過による高齢化による死亡で数が減っている。(その以後の世代にあたるヒトケタ後期~焼け跡世代では戦争の記憶の精度が低下し、あやふやである)

発端は遡れば切りがないが(一説には日露戦争からとも)、満州事変以来の急速な日本勢力拡大、日中戦争の最中それに対抗して、
英米仏ソ等の国が中国に対し兵器や物資の援助を行った上、

  • 中国からの即時撤兵の要求
  • 日本に対し輸出の制限

等を敢行。

それに対し、天皇の意思もあり近衛・東條内閣は米との交渉を進めるものの、
  • 体外戦争に勝ってきたせいで好戦的な気質になっていた国民の突き上げ *1
  • 政府の機会主義的運営 *2
  • 軍部の増長 *3
  • ドイツが欧州戦線で連戦連勝した
などの理由で *4 「日独伊三国同盟」を結ぶ *5

ちなみに ドイツは中国に武器を援助していた
しかし欧州戦線などでイタリアが当てにならない事を知っていた総統閣下らはまともな同盟国を求めるようになった。
そこで白羽の矢が立てられたのが、立場のよく似た日本だったのだ。
ナチス首脳陣は当初、利用するだけの存在として表面上はともかく裏では日本を侮蔑していた(そもそもヒトラーの書いた「わが闘争」の原本に、日本人を見下す表現があったりする)が
イタリアが数年で降伏した事もあり、日本への感情を次第に好転させ、最後の二年間は潜水艦で各種最新技術を日本に与えた。
皮肉にもイタリアの脱落が日独を真の盟友としたのだ。

その後、石油や鉱石の確保とアジアからの欧米放逐の為、フランスの対独降伏で権力の空白地となった仏領インドシナへ進軍。
それに対し、アメリカは

  • 石油輸出を全面禁止
  • 在米日本資産全面凍結

でじりじり締め上げていく。


ここで日本は対米開戦の準備をしつつ一縷の望みを賭け、アメリカと最終交渉。

対するアメリカは、中国やイギリスからの嘆願もあり、そもそも日本の打開案が完全に列強の締め出しを意味したため拒絶。

極め付けに 「ハルノート」 を提示。
以下ハルノート

  • アメリカら列強との不可侵条約の締結
  • 対日包囲網の解除
  • インドシナからの即時撤兵
  • 満州国の解体
  • 中華民国の支持
  • 中国権益の放棄
  • 通商条約を再締結するため交渉再開
  • 凍結された海外資産を解凍する
  • 円とドルのレートを安定させる為の通貨基金設立
  • 三国同盟の破棄
  • 以上の遵守(期限の指定はなし)

※満州帝国解体は日本の「中国」権益放棄を誤解してしまったのではないかという学説もある。
また、戦争を欲した外務省が意図的に最後通牒と訳したのではないかという陰謀論も囁かれている。


要約すると、国民の多大な流血と努力で得た権益を無条件で放棄させ、アジアの大国としての地位を剥奪し、 「満州事変以前の状態に帰れ」 という事。

欧米が世界中の植民地化を完了した中で、黄色人種への蔑視とも言えるこの姿勢は、持たざる国日本には到底納得できるものではなかったのだ。
これを受けた日本は、

「これは日本の自殺に等しい」
「戦争か全面屈服を求めている」
「開戦やむなし!」
「米を露助同様の運命に落とせ!」

等の声が挙がり、当時、択捉島単冠湾等に集結していた赤城を筆頭とする日本海軍の誇った航空母艦達に

「ニイタカヤマノボレ1208」

の暗号が下された。


なお、アメリカはこの交渉以前に日本の外務省と海軍の暗号を完全に解読しており、日本はいくつかの妥協案を提示するが完全にアメリカの掌で踊った状態だった。


ちなみに、最終通知と名高いハルノートであるが、これの原案を作った段階では日本の面子や利権にある程度配慮した内容だったが、
英中のロビー活動とルーズベルトにより改変された。

とは言ってもハルノートは、拘束力のない単なるアメリカ側からの提案に過ぎず、交渉をもう少し粘れば違った結果になっていたかもしれない。
後にルーズベルトの前任者であるフーバーは、
『アイツは戦争してアメリカの恒久的覇権をほしがってただけだ。日本の恐ろしさを知らんのだよ……』と嘆いたそうである。

(老朽艦3隻に星条旗を掲揚させた上で日本軍艦に砲撃するよう挑発した 「ラニカイ号事件」 などからも、ルーズベルト大統領はよほど戦争がしたかったようだ。
この事件において攻撃命令を受けていない日本軍艦は静観するに留まり、遂に先制攻撃を仕掛けなかった。) *6

彼らからすれば拘束力ないのに なんでお前らマジギレすんの!?意味分かんない! 状態だったのだ。
実際に日本の死に物狂いさを目の当たりにしたルーズベルトは勝利の暁には日本軍の武装解除をしようと決意。それは見事に成功する。

だが、彼の死後すぐの冷戦の勃発で早々に瓦解し、後任のトルーマンやアイゼンハワーは再武装を行なわせようとあの手この手で行うはめになる。
その結果生まれたのが自衛隊である。本来は自衛隊は国防軍への更なる組織改編を前提にしていたという説もある。
ちなみに、日本の非武装化を推し進めたマッカーサーが戦後に大統領になれなかったのは、
冷戦に手駒として日本が使えないのを怒ったトルーマンやアイゼンハワーらの『お前の席ね~から』といういじめに近いハブを受けていたためである。
お前らは小学生か



ハルノートの原案者であるハリー・ホワイトはコミンテルンのスパイだったとする説がある……まあ一方でコミンテルン陰謀論とかも世にあるのだが。

なお、ルーズベルトは死ぬまで日本と中国の場所を知らなかった。
また「黄色い猿どもを抹殺せねばならない」などと中国代表の面前で発言したと言われている…が、真偽は不明。

一方、中華民国には非常に協力的かつ世論も親近感があった。(だが大陸打通作戦に中華民国が敗北すると、一気に愛想が尽きたとされる)


まぁともかく、ハルノートの要求に『俺は怒ったぞーーッアメリカァ!』とぷっちんした日本は12月8日に真珠湾に奇襲。
見事奇襲に成功した。

これを機に東南アジア、中国に足を伸ばし次々と戦域を拡大させる。

実際は真珠湾より先に陸軍によるマレー半島侵攻が行われていた。
更に言えば12月7日0時10分(現地時間)にウィックス級駆逐艦・ワードから「ワレ、日本潜水艦ヲ撃沈セリ。」という暗号電報が米国海軍司令部に入電していたりする。戦後暫くは未確認事件であったが、後の調査で 真珠湾攻撃が行われるおよそ1時間20分前に米軍艦が公海上において日本の潜水艦を攻撃・撃沈していた事が確認された。 *7

初めは連戦連勝と好調だった。訓練と日中戦争で軍の練度が高かったためである。
しかし先述の通り、日露戦争の勝利の旨みを青年として味わった世代が軍部の中枢についていたため、攻勢限界点を理解せぬままに戦線を拡大しすぎてしまう。
そして開戦前の山本五十六の『せいぜい、保っても一年』という予想より早く破局は訪れた。

初めの破局は1942年の6月。ミッドウェー海戦が生起する。
当時はゼロ戦がちょうど最盛期を迎えており、赤城を筆頭とする空母機動部隊は無敵を自負し、天下無双と誇っていた。
だが、その慢心が悪夢を呼び込み、最新技術であるレーダーとアメリカの工業技術の前に赤城、加賀蒼龍飛龍は次々に屠られた。なんとか飛龍が一矢報いたものの、結局は名将の山口多聞少将と主力空母の半分を失う大惨事となった。

良く『ミッドウェーでベテランパイロットが多数死んだから一気に負けた~』と思っている人がいるが、実際はほぼ過半数が生き残っている。
それよりも多数の航空機を積める大型航空母艦4隻とその艦載機を一挙に失った事が戦況を傾かせた原因である。
戦線における中継拠点として重要な航空母艦が無い以上、パイロットは一切燃料を無駄に出来ず護衛も無く、
敵の制空圏内を長距離航行してから戦闘をこなしてそこからまた帰投する。
という心身共に極度に疲弊する無茶な離れ業を出撃の度に強いられることとなる。
ただでさえ日本機は「航続距離・格闘性能と引き換えに、防御力を軽視した」作りになっていたにも関わらず、である。

そうしたパイロットの心身の消耗は、人材を空費していく要因になった。

言うまでもないが、空母を撃沈されたことは痛恨であり不毛であったとして海軍部は空母の増産を命令。
が、国力が小さすぎたのが原因で実際に就役までした正規空母は少数に終わった。
その中には、未完成のまんま放置された雲龍型空母の後期建造ロットの三隻が挙げられる。
それだけではない。大鳳のように、初陣で即刻沈められた空母もあれば、信濃のように回航中に沈められたのもいる。
ミッドウェーの敗北でアメリカを恐怖させる『天下無双の第一航空艦隊』という鉾を失った日本軍は大混乱に陥った。
ミッドウェー後の日本海軍は機動部隊を再建しようと躍起になる一方、(超大和などの戦艦の建造計画はこの時に放棄された)
想定された本土爆撃に備え、基地航空隊を充実させようとし、迎撃戦闘機の開発を急いだ。
局地戦闘機 雷電などの機種はそのためのものだ。しかし、空母搭乗員を地上基地の人員に転用してしまうなどの失策続きで、
精鋭であったはずの航空隊の練度はみるみるうちに低下していった。 *8

元々「奇襲して釣りだして一撃かましてやれば米国はビビって降参するだろう」という極めて適当かつ楽観的な予測のもと、短期決戦→和平交渉という想定だったこともあって、碌な戦争計画がなく、
(好調時にある参謀が『勝ちすぎてこの先どうすればいいのよ~!』と頭を抱えたほどに白紙であった)
延びきった戦線に貧弱な補給線はすぐ敵に断たれ前にも後ろにも行けなくなる日本軍。結果、各地で各個撃破されていった。

もちろん本国も植民地からの輸送路が次第に絶たれていった。
日本海軍の衰勢が明らかになったのは、二度目の破局である、ミッドウェーから2年後の1944年の史上最大の空母戦『マリアナ沖海戦』。
アメリカ側は海軍乙事件 *9 で手に入れた計画書から全てを見抜いており、日本軍の意図は根底から崩壊した。
(俗説として、この海戦にまつわる話として、このような話が言い伝えられている。
東條英機は海軍がミッドウェーで第一航空艦隊を失った事は知らされておらず、こう海軍高官に言ったとも言われる)


以下は言い伝えられている内容

東條「うぅ~~む。戦況が厳しい。真珠湾の時の空母機動部隊を使ってくれんか」
海軍高官「実は二年前のミッドウェーで赤城から飛龍は全部沈みまして(´Д⊂ モウダメポ」
東條「ガ━━(;゚Д゚)━━ン!!な……ん…だ……と…!?( ゚д゚)」

東條はあまりに理不尽な宣告に喧々諤々かつ顔面蒼白になったと言い伝えられている。
しかし実際にはミッドウェーの敗北は東條にすぐ通達されていたため、俗説の域を出ない。

実際にこの1944年の時期に稼働していた日本海軍空母機動部隊の搭乗員の練度は『大空の王者』を自負していた開戦時に比べて大きく低下しており、
殆どが新規の育成途上の搭乗員であった。度重なる基地航空隊への転用のツケがここで響いた形となった。
この海戦における空母機動部隊司令で、日本海軍の名将と誉れ高い評判の小沢治三郎中将(最後の連合艦隊司令長官)は、
日本製航空機の長い航続距離を使って敵の勢力圏外から攻撃を加える『アウトレンジ戦法』を採用したが、搭乗員の平均練度の低下を考慮に入れなかったのが仇になり、
航空隊はほぼ全滅、潜水艦の攻撃で翔鶴と大鳳というかけがえの無い強力な空母を喪失してしまう結果を招来してしまった。
この敗戦で小沢中将は後世に罵られる『愚将』のレッテルを背負う事になってしまったが、戦後にこう見解を述べている。

「当時の空母航空関係者の間ではもう『アウトレンジ戦法。これしかない』と一致していた。
 当時の追い詰められた状況では練度低下までは気が回らなかった……むやみに搭乗員を死なせたのは私のミスであり、不覚の極みである」

と自身の指揮で498機の航空隊の過半数を大空へ散らしてしまった事への悔恨を戦後も引きずっている旨の見解を述べている。
アウトレンジ戦法自体は極めて理に叶っており、「相手の距離外から一方的に攻撃を加えようとする」ことは、戦略的には何も間違ってはいない。
それに、当時のアメリカは日本軍飛行機の「防弾設備がろくになく、防御力が低い」欠点を見抜いており、
艦からはハリネズミの如き対空砲火による圧倒的な弾幕を張り、迎撃機には「複数機で襲い掛かり、とにかく撃って当てて逃げる」戦法を徹底させていた。
敵もいつまでも無策ではないのである。
仮にベテランパイロットが当時の状況より多く生き残っていたとしても、戦果を得られたかは…微妙なところだろう。


因みに、日本軍はこのマリアナ沖海戦を『一発逆転→講和』のラスト・チャンスと想定しており、文字通りの決戦とするつもりだった。末期に活躍した局地戦闘機 雷電局地戦闘機 紫電などの機種は本来、マリアナ沖海戦の決戦機として運用することを前提に生産、ないしは開発されていた。
特に紫電はこの時の基地航空隊の主力とする事が予定されており、『生産されている』のを前提に部隊編成がされるほどに期待されていた。
大鳳もそもそもは零戦の後継機の烈風を搭載するのを前提に作られた空母であった。しかし、雷電は欠陥で生産が遅れ、紫電はメーカーの生産力不足により配備はこの海戦に間に合わずじまいであった。烈風はそもそもこの時期に試作機が完成したばかりであった。
その結果、零戦52型のままで戦わずを得なくなった日本海軍航空隊は飛躍的に進化したレーダーと次々に更新される敵の新型機による鉄壁の防空網の前に見事打倒されてしまう。マリアナ沖海戦の大敗北で空母機動部隊は戦闘能力を完全喪失し、次のレイテ沖海戦で戦艦部隊も戦闘能力を喪失するなど、
いつも戦争に勝ってきたはずの日本軍にとって、この1944年は悪夢そのものの年以外の何物でもなかった。
一応作戦そのものはうまくいっていたのだが、艦隊司令の栗田健男の謎の反転行動で失敗した。
因みに、零戦の陳腐化が上層部に至るまで認知され、上記の三機種の実用化に躍起になり始めたのもこの時期だが、
マリアナ沖海戦までに間に合わずじまいであった以上はもはや焼け石に水で、せめての情けで紫電改が一矢報いたのが精一杯であった。

このマリアナ沖海戦におけるアメリカ側の物量は伝説的で、日本の空母の殆どを圧倒的に上回る性能(搭載機は100機近い)のエセックス級航空母艦を15隻動員し、
艦載機数も当時の日本海軍空母機動部隊のすべてを合わせた空母9隻、498機を圧倒的に上回る物量の910機を動員していた。
しかも戦闘機だけで500機近くの圧倒的物量。当時最新のエレクトロニクスをふんだんに駆使して指揮されている高練度部隊に打ち勝つのはどだい無理な話だった。
しかしこれには異説もあり、基地航空隊が健在であれば連携して攻撃する手筈で、
その壊滅を知らないまま小沢中将は作戦計画を立ててしまったからだという擁護もある。(鹵獲された計画書ではそれが前提とされていた)

この1944年からのアメリカの圧倒的物量による大攻勢は『鋼鉄の嵐』とさえ形容されるほど凄まじく、日本政府上層部をも大いに震撼させた。
東條英機はサイパン島の陥落そのものよりも、日露戦争以来、連戦連勝を誇ったはずの日本連合艦隊が自らの総軍を遥かに凌ぐ圧倒的物量と東條自身が軽視した一連の技術によって、完膚なきまでに叩きのめされたという事実に愕然となり、その場に立ち尽くしたとの事。
(なお、この際に空母飛行隊の隊長が現場の判断で天山についていたレーダーを取り外していた(動作不良多くて宛にならない!との判断)のだが、
海戦に敗北し、レーダーの有無が勝敗を分けた事を知った後世において、メーカー側に恨み辛みを本で書かれた、瑞鶴飛行隊隊長の心中は如何なものだっただろうか?)

この一連の大攻勢で前線は勿論、空襲により各地が壊滅状態になり沖縄に至っては占領までされてしまう。

植民地から本土への輸送ルートを粉砕されていくにつれて、物資もみるみるうちに減っていった。
成年男子を兵隊に動員した埋め合わせに学徒動員を行い、工場職員を兵隊にした代わりに学生に勤労奉仕させたが、
素人の学生による勤労奉仕などで軍の最新兵器が造れるほど世の中甘くはなく、どの兵器も稼働率が下がっていった。
特に航空機関連で劣化は顕著に表れ、紫電改や疾風に積まれた大馬力エンジン『誉』が軒並み不調になるわ、『まっすぐ飛べない機体』が出来てしまう有様。
烈風がいらない子扱いされたのは、試作機完成がまさにこの時期とぶつかったためである。 規格統一すらしてない状態で戦争したからこうなる。



1945年。頼みの綱であったドイツが降伏。しかしそれでも日本は戦い続けた。7月にはドイツのポツダムにて米英中によるポツダム宣言が出された。

実際は米英ソだが、ソ連は日本との中立条約が生きていたため代わりに中国が出た。

一方、日本はこれを「黙殺」。軍部の主流派は本土決戦を検討。
実際に作戦計画が練られており、成年男子はおろか老年者までも根こそぎ動員し、天皇の聖断が無ければ実行されていた可能性が大であった。
その時のプロパガンダは 一億玉砕! である。恐ろしい話である。
陸軍が新兵器を死蔵したのはまさにそのため……だが、そもそも出そうにも途中で沈められるため出すにも出せないという悲しい事情もあった。

※IF
もし本土決戦が実行されていたら、連合軍の機械化部隊に特攻隊が群がるという、硫黄島や沖縄戦を更に悪化させたような戦場になり、
更にそれを軍人だけでなく老人や女性、子供も行うことになっただろう。
全ての町は焦土と化し森は焼かれ、歴史的文化財も全て失う。日本側は民族の滅亡、あるいは分断。
連合軍側も膨大な死者を出し、慣れぬ地で、ベトナム戦争も真っ青のゲリラ戦に疲弊し、最悪、50万人を超える戦死者によって、未来に多大な悪影響を生し、
戦後に得る覇権を帳消しにされる危険が大であった。トルーマンが戦略を原爆に切り替えたのは、試算されたこの膨大な死者を恐れたためである。



そして、日本軍部への見せしめと本土決戦を避けるため、広島・長崎に原子爆弾が落とされた。
(長崎については、当初は小倉に投下される予定であったが、天候不良など諸々の原因で第二目標とされた長崎に変更された)
この攻撃で広島は広島城という国宝級の文化財(1598年建造のものが当時まで現存していた)を中心市街地であった中島地区ものとも消滅させられている。
戦後世界が文化財保護を叫んでいることを考えると痛烈な皮肉である。

しかし原子爆弾で戦争が終結した、というのは間違いである。原子爆弾が落ちる前に既に日本の敗戦は時間の問題であった。
更にそれでも日本は普通に抵抗しようとしていた、この時の日本はソ連は「条約があるため中立」だと考えていたため。
よってこれは明らかに他敵対国(主にソ連)に対する示威行為であったという見方が強い。(→冷戦)

さらに原爆投下は戦時下という状況を利用した人体実験、新兵器テストの側面も持つ。

東京をはじめとした大都市への無差別爆撃と同じく、米軍による民間人の大虐殺であり、あからさまな戦時法規違反である。
(このあたりは米軍側にも自覚があり、爆撃反対派も居て作戦を拒否した指揮官が解任される事態も生じた。また、日本も小規模だが、無差別都市爆撃をしていた)
本来は呉の軍港に投下する予定だったが、天候不順により変更となった。

なお、盆地である点から京都に投下する案も最後まで残り、三発目は京都であったとする説も根強い。
これは実際には日本の聖地である京都を消滅させてしまうと、反米感情が極限に達して、ソ連に下り、日本が赤化してしまう危険が大であった事や、
軍部内の和平派が粛清され、本土決戦を強行されてしまう恐怖や戦後世界の日本を手駒にしたいトルーマンの鶴の一声で流れたとの事である。

しかし、結果的に二つの大都市を消滅させた事が日本へ決定的に原子力エネルギーへの恐怖を埋めつけてしまい、
戦後にアメリカが優位を誇った原子力技術の日本輸出を阻む最大の壁となってしまうという誤算が生まれた。


更に8月8日にはソ連が条約を破り日本に宣戦布告。
この時に残存していた関東軍は練度・装備共に度重なる抽出や転属で『精強・関東軍』のプロパガンダがされた関東軍特種演習の際より大幅に劣化していた事、
既にソ連軍の質がドイツ軍以上に強化されていた事も相なって次々に粉砕されていった。
しかし実は大陸打通作戦を経験した精鋭師団が温存されており、持久戦に持ち込むために司令部が移転しただけだったが、その前に終戦した事、
ソ連軍が ヒャッハー!汚物は消毒だー! な勢いであちらこちらで虐殺事件を起こした事、
移転する関東軍が民間人を見捨てて日本へ逃げたように見えたため、生き延びた満州の元・開拓植民から戦後、
開拓殖民を見捨て逃げ出した関東軍は畜生以下のクズだ!奴らに名誉なんて、あるものかよ! と未来永劫、罵倒されるハメになった。
戦後の国民は陸軍の復権を認めず、『陸軍は屑の集団』というレッテルを貼って侮蔑し、
敗戦で失った『世界三位の海軍大国』の地位を懐古し、公然と日本海軍の復活を推進した。そうして生まれた海軍擁護論が巷に有名な陸軍悪玉論の根拠の一つとなった。

一説によれば、抑留から帰還した関東軍出身者は帰ってみたら、
守ろうとしたのに自分たちが 開拓植民を見捨てた屑どもめ!よくもおめおめと顔を見せられるな!テメーは消えろ! と白眼視され、誰からも罵倒されるのに愕然としたという。

8月14日、遂に御前会議にて昭和天皇の聖断によりポツダム宣言の受諾を承認。

当初、阿南将軍など無条件降伏に難色を示す等若手幹部を中心に 本土決戦派によりクーデター一歩手前まで行った。成功していれば本土決戦まちがいなしであった が、やはり誰もが「これ以上は国が滅びると考えていたため、最後には降伏を受け入れた。


8月15日正午。
ラジオからの昭和天皇のお言葉により国民は日本の敗戦を知ることとなった。
所謂「玉音放送」である。

人々は皇居に向かって頭を向けてひれ伏した。
一般国民はそれまで天皇の肉声を聞いたことがなく、劣悪な放送品質に加え難解な言葉が多かったため主旨がよくわからなかった人も多いと言う。
しかし放送が日本の敗戦を認める玉音だと分かると、ある者はひっそり安堵し、ある者は涙しある者は呆然とし、またある者は天皇に無念と謝罪とを呟いた。

なお玉音放送の前後に全国各地で終戦に反対する勢力が複数、武装蜂起しているがいずれもすぐに鎮圧もしくは解散している。


こうして、3年以上に渡る長い戦いは幕を閉じたのであった。



【軍人達のその後】

組織を解体させられ、職にあぶれた軍人達は各業界に散り散りになった。
しかし転職先で成功を掴んだ者もいれば、岩本徹三のように、社会の大変化に適応出来なかった者も多数出た。
中には現地に残り戦闘を続けた者もいれば、日本の目的を純粋に果たすため独立軍に紛れ込む人もいた。
だが、陸海軍を問わず、国を守れなかった職業軍人達は国と国民から疎まれた。たとえ、戦中に戦功を上げた士官であっても、
軍事を絶対悪とする風潮が生まれた戦後社会に取っては、単なる社会からの脱落者であると同時に、戦前の価値観を持つ邪魔者でしか無く、
白眼視された挙句に生まれ故郷を追われた者は多数生じた。戦前からの手のひら返しへの恨みからか、生涯、故郷に戻らなかった者も多かった。
比較的軽いケースでの例としては、ゼロ戦の初陣の指揮官であった進藤三郎少佐が知られる。彼は晩年、戦中は畏敬の念を持たれたのが、
終戦になった途端に子供から『戦犯野郎!」と石を投げられ、蔑まれたのに耐えられなかったらしく、『戦ったことは後悔しないが、戦後になった途端にそれまでの戦いを馬鹿みたいに言われるのはバカバカしかった』と述懐していた。
重いケースでは、日本海軍最後の空戦に参加した小町定兵曹長は妻ともども村八分にされ、身一つで上京し、なんとか起業に成功。彼は故郷に戻ることなく、東京で生涯を終えたという。このような事があちらこちらで生じた。
このように、戦時中は英雄視された軍人でさえも、強烈な手のひら返しで迫害されたのだから(幸い、進藤氏は親のツテでマツダに再就職できたが、これは幸運な例である)一般兵は更に悲惨であるのは言うまでもなく、当時の旧軍人らへの迫害の象徴とも言えた。ある意味では悲惨だが、最も不幸なケースでは当人だけでなく、一族郎党までも迫害された者たちがいた。それは開戦時の戦争指導者であった東條の一家であった。東條英機が戦後に自殺未遂を起こして入院した際には、指導を誤ったとは言え、仮にも一国の総理大臣だったのに、家族(不仲であった長男以外の)以外の日本人がお見舞いにすら来ず、新聞が連日、自分を悪漢とさえ罵る豹変ぶりに落胆したという。同時に彼の一族は孫の代に至るまで、町単位での村八分に合い、東條家嫡男の一家は転職さえままならなかったという。
*10

また、運良く出撃を免れた特攻隊の生き残りも悲惨であった。つい1日前まで、『大日本帝国ばんざーい!カコ(・∀・)イイ!!』と送り出した舌の根が乾かない内に、
『この人殺し!戦争キ○ガイ!軍服で学校にくるな!(゚Д゚)ゴルァ!!』という、あり得ないほどに早い手のひら返しを食らうことも多く、
戦中と戦後の落差に激昂し、極道に入るなどの反社会活動に走る元軍人も多かった。当時の人々はそれらを『特攻くずれ』と侮蔑したが、
国を守ろうとした挙句の果てに、祖国社会から切り捨てられたので、哀れであった。
金鵄勲章という、軍功を讃えられた勲章も公の場で付けられなくなるなど、戦後の数年は軍人たちにとって、踏んだりけったりの時期だった。
……が、皮肉にも国から切り捨てられたはずの彼らに再び光が当たる時がやってくるのである。



【軍人の復権】

戦後に日本を占領していたGHQは朝鮮戦争の勃発で在日米軍を抽出する事になり、日本に軍事的空白が生じた。
アメリカ政府は機会を窺うように、ソ連の波を抑えるための防波堤として日本の復興促進と再軍備を予定を早めて実行した。これが俗にいう逆コースである。
吹き荒れた労働相談の多くはGHQ指令により弾圧されていき、右派世論を復活させるために公職追放を解除し始めた。
そして国務省とトルーマン、次いでアイゼンハワーは日本の再軍備をせっつき始めた。

当時の状況は以下の通り。

マッカーサー「日本の再軍備!?ルーズベルトの言うとおりに戦前の軍備を葬ったのに、今更なんで!?(´゚д゚`)エー」

アイゼンハワー「るせぇ!アカの野郎共が危険だから、日本を防波堤にするのをトルーマンが決定した!俺も引き継ぐぜ(゚Д゚)ゴルァ!!」

マッカーサー「わけがわからないよ(´;ω;`)ウッ…再軍備の土壌残すなといったのお前らやろ」

アイゼンハワー「黙れボケ!とっととやりやがれ!(゚Д゚)ゴルァ!!」

……と、マッカーサーはかつての部下に怒鳴られ、嫌々ながらも検討し始めた。
しかし、当時は既に非武装の思想が浸透しつつあった日本に再軍備させる余地はほとんど無く、GHQは対応に困窮した。
日本側では、吉田茂は経済復興を至上目標に挙げており、軍備再建は国民を弾圧した旧軍(特に陸軍)の影響が絶えた時代に行うのが妥当だと考えていた。
陸軍悪玉論が普及した事で生じる世論の反発を恐れた、日米の思惑はここで一致を見た。ただし、 *11
この他の理由として、終戦時の数百万人もの軍人が職にあぶれ、軍人の多くが戦後の軍事=悪の世論に弾圧された結果、極道の活動が活発化、引いては、かつてのように反政府活動を目論むまでに至った軍の元幹部らの存在を危惧し、『警察では対応不可な事態への対応』を名目に、かつての軍人の技能が活かせる再就職先を用意してやる事で、元軍人のの反乱を抑える狙いがあった。しかしながら、思想上の問題もあり、全ての軍人に再入隊が許されたわけでは無かった)

経緯としては、警察予備隊という名目で第一段階に進め、第二段階の保安隊に再編した段階で、旧内務官僚による組織の稚拙な運用に業を煮やしたGHQの指令 *12 で、戦中に実務経験がある旧軍人を呼び戻す事が本格化したものの、戦中の軍の横暴で悲惨な目にあったためか、大の軍隊嫌いだった吉田茂は自らも弾圧した旧陸軍閥の復権を恐れ、「大佐だった連中入れると、国家に反乱されるからヤダ!」と、大佐レベルの軍人の入隊を異常に恐れた。そのため、折り合いがつかず、大佐レベルの軍人の復権は遅延し、中佐までが復権した数年後のことだった。本来、旧軍人の入隊を拒んでいたはずの彼が渋々ながらも入隊を認めたのは、明治維新の時と違い、もはや職業軍人無しに軍事組織を再建できる時代では無くなっていた故の誤算であった。結果、保安隊が改組された三自衛隊は彼も公的に認めるところの戦後日本における『日本軍』だった。実際に彼は国会で野党に追求された際に、こう答弁している。 自衛隊は戦力なき軍隊であります!! と。
そのため、なんだかんだ言っても、自衛隊が日本軍の後身たる軍隊であるというのは、当時の時点でも公然の秘密であったようだ。これにより復帰の大義名分を得た軍人の多くが自衛隊へ再就職した。設立時には、民間で相応の地位を持っていた者も、敢えてそれをかなぐり捨て、職業軍人に戻る者も多数に登った。
*13
ただし、旧軍人でも純粋培養の陸軍幼年学校卒業経験者は再就職出来なかったりしているので、職業軍人でも、語学力がある兵学校卒及び陸士経験者か、教養がある現場叩き上げのエースパイロットなどしか自衛隊には再就職出来なかったので、(幼年学校卒経験者が創設に関わっていたものの)軍隊経験があっても、自衛隊への再入隊は狭き門であった。

こうして、再就職出来た軍人達はそれぞれの進路を進んだ。自らが音頭を取って再建した『海軍』たる海上自衛隊に再就職した軍人達は日本海軍の伝統を受け継ぎ、海軍復活を公言した。航空自衛隊は米空軍式の教育を受け、新たな伝統を作った。文化面で束縛を受けたのは、陸軍の後継たる陸上自衛隊であった。
かつての陸軍の文化をそのまま継承することはタブー視されており、ラッパ、敬礼の礼式に至るまで旧陸軍のものは封印された。海上自衛隊で表立って海軍復活を公言できる海軍軍人達を尻目に、国民から疎まれつつも文化の継承を極秘裏に進め、表向きは継承を否定しつつも実際は多くの文化を継承させていった。
結果、自衛隊の要職に元職業軍人の経歴を持つ者が就けるようになると、戦後しばらく陸軍出身者が占める事に成功した。
軍事的には復権に成功したが、民間レベルでは満州引き上げなどの恨みが残っているために、現在もなお『全て陸軍が悪いんだ!関東軍は悪の枢軸!』として侮蔑されている感が否めない。また、21世紀の現在では、国民の世代交代で多少は帝国陸軍への嫌悪感が多少は薄れたため、
陸自が陸軍の伝統を継いだ側面も大っぴらにアピールできるようになったという。




【陸軍悪玉論】


戦後の日本国民の間で一般的な風調であり、認識である。
その根は戦前の時点で存在しており、日露戦争で大量の若者を徴兵した挙句に旅順包囲戦などでおびただしい死傷者を出した事などもあって、『日本海軍は連戦連勝なのに、『日本陸軍は負けばっか』と認識されていた。
それが太平洋戦争開戦時の首相が陸軍大将の東條英機だった事、東條が国民の統制に特高警察だけでなく、陸軍所属の憲兵までも使った事で国民の恨みを買っていた *14
陸軍は既に太平洋戦争時には日中戦争以来の戦乱で疲弊し、軍の規律のタガが緩みきっていたために現地司令官が独断で捕虜を処刑してしまう例が続出した。

更に『国家統制』の名目で自国民さえ弾圧した陸軍は戦前の時点のこの認識を加速させてしまい、
自国民弾圧のツケを戦後に一気に支払うことになった戦後社会では『残虐非道の輩』と烙印を押された。
無論、陸軍軍人達は回顧録などで復権を目論んだが、既に海軍軍人達が政治に至るまで戦後社会の有力者となった現状では時既に遅しであった。
戦後マスコミの有力者達の多くは日本海軍びいきであったため、
TV番組や映画の多くに登場する日本陸軍軍人は『精神論しか押し付けない田舎者の無学者』と描かれる。
(実際は職業軍人は陸軍であっても旧制中学相当の学力を持つインテリだったが、正面軍備偏重の教育を行っていたために思考の柔軟性が欠けていた)
対する海軍軍人は『エリート・温厚・現実的』として描かれる場合が多かった。

また、戦時中の慰問の際の芸能人の扱いの差も反感を助長した。
例えば『青い山脈』や『東京ラプソディ』で知られた歌手の藤山一郎は海軍への慰問の際に『陸軍と違って丁重に扱ってくれた』と戦後に回想している。
陸軍は芸能人を雑に扱ったとのこと。この差が戦後に明暗を分けることになる。
世渡りも陸軍軍人より一枚上手であったために、組織的にGHQに取り入った結果、処刑を免れた元将官も多かった。
(例えば、戦後に総理大臣となった中曽根康弘氏は戦時中は海軍主計中尉~少佐であった。
また、いわゆるA級戦犯として処刑された軍人は6人とも陸軍であり、しかも海軍の人物はA級戦犯28人中わずか3人である)

また、海上保安庁・海上自衛隊と言った戦後の海防の位置づけな国家組織の基礎となった人員は元帝国海軍の佐官~尉官級の将校らである。
彼らが戦後10年以内に元鞘に収まった事が戦後の国家首脳からの高評価を妙実に表している。
(彼らと異なり、陸軍軍人が元鞘に収まって、陸自の中枢に位置するようになったのは、空自・海自よりも遥かに年月を必要とした)

現在でも日本海軍の壊滅を『悲劇』、陸軍の消滅を『自業自得』と表現する理由は、終戦時の関東軍の開拓団への蛮行、
戦中の国民への憲兵の横暴などが主原因で、陸軍への悪感情が戦前より悪化したのが、
敗戦で決定的になったまま、戦後に固定観念化して生じた悲劇であるといえる。
*15


【現在の傾向】

20世紀末になって、当時の機密情報が開示された影響で、実は陸軍のほうが電子技術や航空兵器分野で開明的で、機材更新も定期的に行っていたりして努力を払っていた事が明らかになった現在では、陸軍を見直す動きが出始めている。海軍の方が電子分野を軽視していた事実や、防空戦体制では陸軍のほうが出来るだけの努力を払っていた事もあり、海軍の技術音痴を責める論調も出始めた。
陸軍でも、航空部隊は英語を使用しても問題視されなかった(かの飛行64戦隊を描いた加藤隼戦闘隊では、英語を普通に言っていた)事、軍隊は英語を使わないと戦争遂行出来ないので、東條英機でさえも、当時の過激化したナショナリズムに押されたマスゴミ英語教育廃止しろ!! と詰め寄られた際にドン引きし、『英語教育は戦争遂行に不可欠である!』と返した事実が判明した事で、90年代以前に比べれば、映像作品で『帝国陸軍軍人は横暴』と書かれるケースが減少に転じた。現在では陸軍悪玉論も見直しが進んだため、以前に比べれば帝国陸軍に当たる風の吹き回しはマシになったと言えるだろう。
ただし、陸軍悪玉論は戦争体験談という形で当事者から子孫へ言い伝えられているため、陸軍の名誉回復はまだまだ遠いと言える。






【被害】
正確な数字ははっきりしていない。

日本人
  • 広島原爆により約14万人
  • 長崎原爆により約7万人
  • 東京大空襲により約8万人
  • 沖縄戦により約14万人

その他含め、総数約330万人が犠牲になった。
そのうち、約100万人は民間人。


世界では推定4400万人以上が犠牲となったと言われている。


余談だが、戦後70年経ち、今ではかつて日本とアメリカが戦争をしていたという事実を知らない若者も少なからず出てきているという。
風化は少しずつ、だが確実に訪れている……。


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*1 山本五十六、古賀峯一などはその風潮に呆れて居たという

*2 それまで国家を牽引してきた明治維新の功労者である元老が世を去ったことで政府が軍部への指導力を喪失した

*3 日露戦争までの体外戦争経験がない、日露戦争当時は士官候補生ないしは士官学校生であった世代が要職についた時代だった故に首相である東條英機ですら、日露戦争の従軍経験がなかった。対照的に海軍の山本五十六は日本海海戦に少尉候補生として従軍経験があった。この差が軍部の良識派と主流派の温度差となっていた

*4 当時、外務省の松岡洋右、内田康哉ら高官は殆どベルリン五輪や、映画『意志の勝利』に代表されるドイツのプロパガンダに酔いしれており、国際連盟の常任理事国という地位すらかなぐり捨ててまでドイツに接近していこうとした。また共産主義者らは更にソ連と結ぼうとしたとの事

*5 しかし実体は国同士が離れすぎたために、殆ど意味を成さない同盟であった。後世の人々の間では、太平洋戦争開戦時にはドイツの攻勢に陰りが見え始めていた事から『死の接吻』と揶揄する声すらある。しかし結果的に国が焦土となったため、当事者の松岡洋右は泣くほど後悔したとの事

*6 米国アナポリス海軍研究所『ラニカイ号の巡洋航海"戦争への挑発"』

*7 米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類75(1945年6月7日)みすず書房『現代史資料35巻』

*8 このパイロットの練度低下こそが日本海軍の後期の負け戦の原因である

*9 山本五十六の後任であった古賀峯一大将が嵐で遭難、殉職した事件。ここで日本軍の作戦計画書が全て鹵獲された

*10 また、南方などでは日本軍の現地部隊が抵抗を続け、公式の戦闘停止後も『残党狩り』が行われていたという話も残されている。横井庄一氏などの残留日本兵はその生き残りともされる

*11 吉田茂としては、旧軍の人材を排除しての軍備再建が目標だったが、軍事的ブレーンの陸軍中将に諭され、ようやく諦めた

*12 組織が回っていない!と米軍が呆れ返るほどの惨状で、米軍が『士官学校出の軍人が必要だわ』と痛感した事、海上保安庁に朝鮮戦争で敵前逃亡に等しい判断で帰国した船が生じた事態を咎められた事を鑑みて、命を捨てられる軍人の存在の重要性を再認識した戦後の国家首脳も、国防組織の必要性を悟った

*13 因みに士官級は下士官以下と違い、旧軍の階級がそのまま自衛隊での待遇に結びつき、いきなり幹部になった元将校が多かった。特に陸海軍航空部隊の士官学校卒のエースパイロット達は多少の再教育だけで、すぐに佐官になれるほどだったという

*14 東條自身は戦後直後に未来永劫、国民の恨みを買うことを予期していたらしく、『憲兵を使いすぎた』と後悔したそうな

*15 特に戦後の映像作品で悪役にされるのは陸軍軍人であり、特に関東軍は開拓民を見捨てて逃げた糞以下の下衆と描かれてしまう場合が多数であった。実際は武装解除後に攻めこまれたため、軍事行動を封殺されていただけだった。そのため、後に中央の統制が取れなくなった組織を指す言葉として『関東軍化』という言葉が産まれてしまう