太平洋戦争

登録日:2009/05/26 Tue 20:44:25
更新日:2024/04/22 Mon 07:20:08
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【概要】

太平洋戦争とは、第二次世界大戦のうち、1941年12月8日真珠湾攻撃から1945年8月15日の日本の降伏までの約4年間続いていた戦争の総称である。

参戦国


  • 大日本帝国
  • タイ王国
  • ヴィシーフランス
  • 自由インド仮政府
  • ビルマ国
  • 南京国民政府

あまり知られていないが太平洋戦争は日米戦争ではなく「アメリカやイギリスなどの連合国と日本やタイなどの枢軸国の戦争」である。
そのため米軍以外にもイギリス軍やオーストラリア軍、さらには中国の国民党軍などと激しい戦いを繰り広げており、特にオーストラリアでは日本海軍が本土に爆撃を行った事もあって未だに対日感情へ悪影響を及ぼしている。

日本側の正式呼称は「大東亜戦争」だったが、現在ではGHQの広めた「太平洋戦争」が一般的である。
ただし「太平洋戦争」という呼称自体は、帝国海軍側から「対英米戦争」とともに提案されている。
ちなみに「大東亜」とは「太平洋(ハワイ等は含まず)、東南アジア含む東アジア」のことであり、こっちの場合1937年の支那事変(日中戦争)も含まれる。また東南アジアのタイ王国も日本と同盟を組んで参戦している。


戦後70年と戦争経験者もまだ多い。
よってもっとも身近だが、近年出征者の高齢化による風化が問題となっている。
2010年代に入った現在では、出征経験を持つ者のうち、当時の士官学校を経ないで入隊した徴兵での若年兵すら80代後半~90代に達している。
正規教育を受けた士官級以上は高学歴者でも無ければ100歳を有に超えており、ほぼ壊滅状態である。
一般人の立場で、ハッキリと戦前から戦中までの記憶を持つ最後の世代である昭和ヒトケタ初期世代も80代半ばを越えようとしており、
年月の経過による高齢化による死亡で数が減っている。(その以後の世代にあたるヒトケタ後期~焼け跡世代では戦争の記憶の精度が低下し、あやふやである)


【開戦の経緯】

発端は遡れば切りがないが(一説には黒船による日本の開国からとも)、満州事変以来の急速な日本と中国の対立とそれに伴う日中戦争の勃発と戦線の拡大、またその最中日本に対抗して、アメリカ等の国が中国に対し兵器や物資の援助を行った上、軍事力を強化する日本に対して米英中蘭などの国が
  • 中国からの即時撤兵の要求
  • 日本に対し輸出の制限
等を決行。

それに対し、昭和天皇の意思もあり近衛・東條内閣はアメリカとの交渉を進めるものの、
  • 対外戦争に勝ってきたせいで好戦的な気質になっていた国民の突き上げ*1
  • 政府の軍国主義的な運営*2
  • 国民の政治不信と軍や官僚による革新運動への期待感*3
  • 軍部の増長*4*5
  • 友好国のドイツが欧州戦線で連戦連勝した
などの理由で*6「日独伊三国同盟」を結ぶ*7

ちなみにドイツは中国に武器を援助しており、軍事顧問団まで派遣していた
しかし欧州戦線などでイタリアが当てにならない事を知っていた総統閣下らはまともな同盟国を求めるようになった。
そこで白羽の矢が立てられたのが、立場のよく似た日本だったのだ。
ナチス首脳陣は当初、利用するだけの存在として表面上はともかく裏では日本を侮蔑していた(そもそもヒトラーの書いた「わが闘争」の原本に、日本人を見下す表現があったりする)が、
ドイツ政界の「成り上がり」であったナチは旧来の官僚や政治家が親中的であった事への反発や
イタリアが数年で降伏した事もあり、日本への感情を次第に好転させ、最後の二年間は潜水艦で各種最新技術を日本に与えた。
皮肉にもイタリアの脱落が日独を真の盟友としたのだ。まあ戦況悪化で碌に到達出来ず、むしろイタリア潜水艦の方が来日回数が多いのは内緒だ

その後、石油や鉱石の確保とアジアからの欧米放逐の為、フランスの対独降伏で権力の空白地となった仏領インドシナへ進軍。
それに対し、アメリカは
  • 石油輸出を全面禁止
  • 在米日本資産全面凍結
でじりじり締め上げていく。


ここで日本は対米開戦の準備をしつつ一縷の望みを賭け、アメリカと最終交渉。

対するアメリカは、中国やイギリスからの嘆願もあり、そもそも日本の打開案が完全に列強の締め出しを意味したため拒絶。

極め付けに「ハルノート」を提示。ただし日本側がハルノートを受け取った時、日本海軍機動部隊はすでに真珠湾へむけ出撃していた。よく言われる「ハルノートが日本を追い込んだ」との言説は完全に誤り。連合艦隊が択捉島単冠湾を出撃したのは日本時間の11月26日。ハルノートをアメリカから提示されたのは日本時間の11月27日。


ハルノートのおおまかな骨子は、
  • アメリカら列強との不可侵条約の締結
  • 対日包囲網の解除
  • インドシナからの即時撤兵
  • 満州国の解体
  • 中華民国(蒋介石の国民党政権)の支持
  • 中国権益の放棄
  • 通商条約を再締結するため交渉再開
  • 凍結された海外資産を解凍する
  • 円とドルのレートを安定させる為の通貨基金設立
  • 三国同盟の破棄
  • 以上の遵守(期限の指定はなし)

※満州帝国解体は日本の「中国」権益放棄を誤解してしまったのではないかという学説もある。
また、戦争を欲した外務省が意図的に最後通牒と訳したのではないかという陰謀論も囁かれている。


要約すると、国民の多大な流血と努力で得た権益を無条件で放棄させ、アジアの大国としての地位を剥奪し、「満州事変以前の状態に帰れ」という事だと当時の軍部は受け取った。
しかし、満州事変はそもそも関東軍の独断であり日本の国家意思ではなかった。その上日本がこれまでの戦争で獲得した南洋諸島、南樺太、朝鮮、台湾、澎湖諸島の放棄は要求されていない。
実際は「泥沼の中国戦線から手をひき連合国としてナチスと戦え」程度の要求だったのだが…。


欧米が世界中の植民地化を完了した現状を前に、「持たざる国」であった日本からしたら「事実上唯一の植民地」剥奪は到底納得できるものではなく、政治家や軍人には国民や軍内部の反発を抑え込む術は無かったのだ。ともいわれる。
しかし、待ってほしい。
日本はドイツとちがって第一次世界大戦の立派な戦勝国であり、戦後はドイツの植民地だった南洋諸島や山東権益を獲得している。
その上国際連盟の常任理事国であり(自分からぬけたが)、英仏と共に国際秩序を指導する押しも押されもせぬ大国であった。
そもそも「侵略国」に対する「経済制裁」を国際連盟の機能に盛り込んだのは当の日本である。
はっきりいって「持たざる国」とは程遠いだろう。


アメリカ「だが待ってほしい、ウチの植民地はフィリピンくらいだしあそこも1944年に独立させる予定*8だ。中南米?あの辺はどこも独立国だ」

……ともかくこれを受けた日本は、

「これは日本の自殺に等しい」
「戦争か全面屈服を求めている」
「開戦やむなし!」
「米を露助同様の運命に落とせ!」

等の声が挙がり、11月26日に択捉島単冠湾等から出撃しハワイへの隠密行軍を続けていた赤城を筆頭とする日本海軍の誇った航空母艦達に

「ニイタカヤマノボレ1208」

の暗号が下された。12月2日17時30分のことである。


なお、アメリカはこの交渉以前に日本の外務省と海軍の暗号を完全に解読しており、日本はいくつかの妥協案を提示するが完全にアメリカの掌で踊った状態だった。


ちなみに、最終通知と名高いハルノートであるが、これの原案を作った段階では日本の面子や利権にある程度配慮した内容だったが、英中のロビー活動とルーズベルトにより改変された。

とは言ってもハルノートは、拘束力のない単なるアメリカ側からの提案に過ぎず、交渉をもう少し粘れば違った結果になっていたかもしれない。
後にルーズベルトの前任者であるフーバーは、
『アイツは戦争してアメリカの恒久的覇権をほしがってただけだ。日本の恐ろしさを知らんのだよ……』と嘆いたそうである。

(老朽艦3隻に星条旗を掲揚させた上で日本軍艦に砲撃するよう挑発した「ラニカイ号事件」などからも、ルーズベルト大統領はよほど戦争がしたかったようだ。
この事件において攻撃命令を受けていない日本軍艦は静観するに留まり、遂に先制攻撃を仕掛けなかった)*9

彼らからすれば拘束力ないのになんでお前らマジギレすんの!?意味分かんない!状態だったのだ。
実際に日本の死に物狂いさを目の当たりにしたルーズベルトは勝利の暁には日本の非武装化をしようと決意。それは見事に成功する。

だが、彼の死後すぐの冷戦の勃発で早々に瓦解し、後任のトルーマンやアイゼンハワーは再武装を行なわせようとあの手この手で行うはめになる。
その結果生まれたのが自衛隊である。本来は自衛隊は国防軍への更なる組織改編を前提にしていたという説もある。
ちなみに、日本の非武装化を推し進めたマッカーサーが戦後に大統領になれなかったのは、
冷戦に手駒として日本が使えないのを怒ったトルーマンやアイゼンハワーらの『お前の席ねーから!』といういじめに近いハブを受けていたためである。
お前らは小学生か



ハルノートの原案者であるハリー・ホワイトはコミンテルンのスパイだったとする説がある……まあ一方でコミンテルン陰謀論とかも世にあるのだが。ちなみに原案は日本に好意的な内容であった。

なお、ルーズベルトは死ぬまで日本と中国の場所を知らなかった。
また「黄色い猿どもを抹殺せねばならない」などと中国代表の面前で発言したと言われている…が、真偽は不明。

一方、中華民国には非常に協力的かつ世論も親近感があった。(だが大陸打通作戦に中華民国が敗北すると、一気に愛想が尽きたとされる)


まぁともかく、ハルノートの要求に『俺は怒ったぞーーッアメリカァ!』とぷっちんした日本は12月8日に真珠湾に奇襲。
見事奇襲に成功した。

これを機に東南アジア、ミクロネシアに足を伸ばし次々と戦域を拡大させる。

実際は真珠湾より先に陸軍によるマレー半島上陸が行われていた。
更に言えば12月7日0時10分(現地時間)にウィックス級駆逐艦・ワードから「ワレ、日本潜水艦ヲ撃沈セリ」という暗号電報が米国海軍司令部に入電していたりする。
戦後暫くは未確認事件であったが、後の調査で真珠湾攻撃が行われるおよそ1時間20分前に米軍艦が公海上において日本の潜水艦を攻撃・撃沈していた事が確認された。*10
と言っても当時の潜水艦は潜水も「できる」艦でしかなく、潜航をする時点で これから他所の船を沈めるための準備をしている のとイコールであり
公海上であろうが他国の軍艦に察知されても浮上やなんらかの信号を出さずにいた時点で 撃沈されても文句が言えない
(特にソ連やドイツの潜水艦が苛烈な争いをしてる最中の上でもあるし。)
よってこの件もアメリカが隠していたとかいうわけもなく、仮にこの事実が当初から大々的になっていても
日本の潜水艦の 先制攻撃 を米艦が 正当防衛 で沈めた、ということにしかならないので
日本もアメリカも特に触れる必要性を感じなかっただけだったりする。

初めは連戦連勝と好調だった。訓練と日中戦争で軍の練度が高かったためである。
しかし先述の通り、日露戦争の勝利の旨みを青年として味わった世代が軍部の中枢についていたため、攻勢限界点を理解せぬままに戦線を拡大しすぎてしまう。
そして開戦前の山本五十六の『せいぜい、保っても一年』という予想より早く破局は訪れた。


【そして劣勢へ】

初めの破局は1942年の6月。ミッドウェー海戦が生起する。
当時はゼロ戦がちょうど最盛期を迎えており、赤城を筆頭とする空母機動部隊は無敵を自負し、天下無双と誇っていた。
だが、その慢心が悪夢を呼び込み、最新技術であるレーダーとアメリカの工業技術の前に赤城、加賀蒼龍飛龍は次々に屠られた。なんとか飛龍が一矢報いたものの、結局は名将の山口多聞少将と主力空母の半分を失う大惨事となった。

良く『ミッドウェーでベテランパイロットが多数死んだから一気に負けた~』と思っている人がいるが、実際はほぼ過半数が生き残っている。
それよりも多数の航空機を積める大型航空母艦4隻とその艦載機を一挙に失った事が戦況を傾かせた原因である。
戦線における中継拠点として重要な航空母艦が無い以上、パイロットは一切燃料を無駄にできず護衛もなく、
敵の制空圏内を長距離航行してから戦闘をこなしてそこからまた帰投する。
という心身共に極度に疲弊する無茶な離れ業を出撃の度に強いられることとなる。
ただでさえ日本機は「航続距離・格闘性能と引き換えに、防御力を軽視した」作りになっていたにも関わらず、である。

そうしたパイロットの心身の消耗は、人材を空費していく要因になった。

アメリカ軍はといえば、国力差に物を言わせてパイロットの救助に力を入れていた。
そして戦訓を持ち帰り、その戦訓をもとに天候が安定した内地の五大湖でパイロットを徹底訓練。
戦えば戦うほどパイロットが戦死して練度が落ちていく日本と逆に、時間が経てば経つほど高練度な部隊ができあがっていく状況であった。

言うまでもないが、空母を撃沈されたことは痛恨であり不毛であったとして海軍部は空母の増産を命令。
が、国力が小さすぎたのが原因で実際に就役までした正規空母は少数に終わった。
その中には、未完成のまんま放置された雲龍型空母の後期建造ロットの三隻が挙げられる。
それだけではない。大鳳のように、初陣で即刻沈められた空母もあれば、信濃のように回航中に沈められたのもいる。
ミッドウェーの敗北でアメリカを恐怖させる『天下無双の第一航空艦隊』という鉾を失った日本軍は大混乱に陥った。
ミッドウェー後の日本海軍は機動部隊を再建しようと躍起になる一方、(超大和などの戦艦の建造計画はこの時に放棄された)
想定された本土爆撃に備え、基地航空隊を充実させようとし、迎撃戦闘機の開発を急いだ。
局地戦闘機 雷電などの機種はそのためのものだ。しかし、空母搭乗員を地上基地の人員に転用してしまうなどの失策続きで、
精鋭であったはずの航空隊の練度はみるみるうちに低下していった。*11

元々「奇襲して釣りだして一撃かましてやれば米国はビビって降参するだろう」という極めて適当かつ楽観的な予測のもと、短期決戦→和平交渉という想定だったこともあって、碌な戦争計画がなく、
(好調時にある参謀が『勝ちすぎてこの先どうすればいいのよ~!』と頭を抱えたほどに白紙であった)
延びきった戦線に貧弱な補給線はすぐ敵に断たれ前にも後ろにも行けなくなる日本軍。結果、各地で各個撃破されていった。

もちろん本国も植民地からの輸送路が次第に絶たれていった。
日本海軍の衰勢が明らかになったのは、二度目の破局である、ミッドウェーから2年後の1944年の史上最大の空母戦『マリアナ沖海戦』。
アメリカ側は海軍乙事件*12で手に入れた計画書から全てを見抜いており、日本軍の意図は根底から崩壊した。
しかも日本軍はこの時に
「捕虜になるのは日本軍人の恥!!しかしゲリラに捕まったのは捕虜になったということなのか?」
と言う、戦略の根底が覆る事態と比べてどうでもいいことばかりを議論していた

(俗説として、この海戦にまつわる話として、このような話が言い伝えられている。
東條英機は海軍がミッドウェーで第一航空艦隊を失った事は知らされておらず、こう海軍高官に言ったとも言われる)


以下は言い伝えられている内容

東條「うぅ~~む。戦況が厳しい。真珠湾の時の空母機動部隊を使ってくれんか」
海軍高官「実は二年前のミッドウェーで赤城から飛龍は全部沈みまして(´Д⊂ モウダメポ」
東條「ガ━━(;゚Д゚)━━ン!!な……ん…だ……と…!?( ゚д゚)」

東條はあまりに理不尽な宣告に喧々諤々かつ顔面蒼白になったと言い伝えられている。
実際にはミッドウェーの敗北は東條にすぐ通達されていたため、俗説の域を出ない。

実際にこの1944年の時期に稼働していた日本海軍空母機動部隊の搭乗員の練度は『大空の王者』を自負していた開戦時に比べて大きく低下しており、ほとんどが新規の育成途上の搭乗員であった。
度重なる基地航空隊への転用のツケがここで響いた形となった。
この海戦における空母機動部隊司令で、日本海軍の名将と誉れ高い評判の小沢治三郎中将(最後の連合艦隊司令長官)は、
日本製航空機の長い航続距離を使って敵の勢力圏外から攻撃を加える『アウトレンジ戦法』を採用したが、搭乗員の平均練度の低下を考慮に入れなかったのが仇になり、
航空隊はほぼ全滅、潜水艦の攻撃で翔鶴大鳳というかけがえの無い強力な空母を喪失してしまう結果を招来してしまった。
この敗戦で小沢中将は後世に罵られる『愚将』のレッテルを背負う事になってしまったが、戦後にこう見解を述べている。

「当時の空母航空関係者の間ではもう『アウトレンジ戦法。これしかない』と一致していた。
 当時の追い詰められた状況では練度低下までは気が回らなかった……むやみに搭乗員を死なせたのは私のミスであり、不覚の極みである」

と自身の指揮で498機の航空隊の過半数を大空へ散らしてしまった事への悔恨を戦後も引きずっている旨の見解を述べている。
アウトレンジ戦法自体は極めて理に叶っており、「相手の距離外から一方的に攻撃を加えようとする」ことは、戦略的には何も間違ってはいない。
それに、当時のアメリカは日本軍飛行機の「防弾設備がろくになく、防御力が低い」欠点を見抜いており、
艦からはハリネズミの如き対空砲火による圧倒的な弾幕を張り、迎撃機には「複数機で襲い掛かり、とにかく撃って当てて逃げる」戦法を徹底させていた。
敵もいつまでも無策ではないのである。
仮にベテランパイロットが当時の状況より多く生き残っていたとしても、戦果を得られたかは…微妙なところだろう。


ちなみに、日本軍はこのマリアナ沖海戦を『一発逆転→講和』のラスト・チャンスと想定しており、文字通りの決戦とするつもりだった。
末期に活躍した局地戦闘機 雷電局地戦闘機 紫電などの機種は本来、マリアナ沖海戦の決戦機として運用することを前提に生産、ないしは開発されていた。
特に紫電はこの時の基地航空隊の主力とする事が予定されており、『生産されている』のを前提に部隊編成がされるほどに期待されていた。
大鳳もそもそもは零戦の後継機の烈風を搭載するのを前提に作られた空母であった。
しかし、雷電は欠陥で生産が遅れ、紫電はメーカーの生産力不足により配備は間に合わず、烈風はそもそもこの時期に試作機が完成したばかりであった。

その結果、零戦52型のままで戦わずを得なくなった日本海軍航空隊は、飛躍的に進化したレーダーと次々に更新される敵の新型機による鉄壁の防空網の前に、見事打倒されてしまう。

マリアナ沖海戦の大敗北で空母機動部隊は戦闘能力を完全喪失し、次のレイテ沖海戦で戦艦部隊も戦闘能力を喪失するなど、
いつも戦争に勝ってきたはずの日本軍にとって、この1944年は悪夢そのものの年以外の何物でもなかった。

一応作戦そのものはうまくいっていたのだが、艦隊司令の栗田健男の謎の反転行動で失敗した。
ちなみに、零戦の陳腐化が上層部に至るまで認知され、上記の三機種の実用化に躍起になり始めたのもこの時期だが、
マリアナ沖海戦までに間に合わずじまいであった以上はもはや焼け石に水で、せめての情けで紫電改が一矢報いたのが精一杯であった。

このマリアナ沖海戦におけるアメリカ側の物量は伝説的で、日本の空母のほとんどを圧倒的に上回る性能(搭載機は100機近い)のエセックス級航空母艦を15隻動員し、
艦載機数も当時の日本海軍空母機動部隊のすべてを合わせた空母9隻、498機を圧倒的に上回る物量の910機を動員していた。
しかも戦闘機だけで500機近くの圧倒的物量。当時最新のエレクトロニクスをふんだんに駆使して指揮されている高練度部隊に打ち勝つのはどだい無理な話だった。
しかしこれには異説もあり、基地航空隊が健在であれば連携して攻撃する手筈で、
その壊滅を知らないまま小沢中将は作戦計画を立ててしまったからだという擁護もある。(鹵獲された計画書ではそれが前提とされていた)

この1944年からのアメリカの圧倒的物量による大攻勢は『鋼鉄の嵐』とさえ形容されるほど凄まじく、日本政府上層部をも大いに震撼させた。
東條英機はサイパン島の陥落そのものよりも、日露戦争以来、連戦連勝を誇ったはずの日本連合艦隊が自らの総軍を遥かに凌ぐ圧倒的物量と東條自身が軽視した一連の技術によって、完膚なきまでに叩きのめされたという事実に愕然となり、その場に立ち尽くしたとの事。
(なお、この際に空母飛行隊の隊長が現場の判断で天山についていたレーダーを取り外していた(動作不良多くて宛にならない!との判断)のだが、
海戦に敗北し、レーダーの有無が勝敗を分けた事を知った後世において、メーカー側に恨み辛みを本で書かれた、瑞鶴飛行隊隊長の心中は如何なものだっただろうか?)

この一連の大攻勢で前線は勿論、空襲により各地が壊滅状態になり沖縄に至っては占領までされてしまう。

植民地から本土への輸送ルートを粉砕されていくにつれて、物資もみるみるうちに減っていった。
成年男子を兵隊に動員した埋め合わせに学徒動員を行い、工場職員を兵隊にした代わりに学生に勤労奉仕させたが、
素人の学生による勤労奉仕などで軍の最新兵器が造れるほど世の中甘くはなく、どの兵器も稼働率が下がっていった。
特に航空機関連で劣化は顕著に表れ、紫電改や疾風に積まれた大馬力エンジン『誉』が軒並み不調になるわ、『まっすぐ飛べない機体』が出来てしまう有様。

烈風がいらない子扱いされたのは、試作機完成がまさにこの時期とぶつかったためである。規格統一すらしてない状態で戦争したからこうなる。


【終戦】

1945年。頼みの綱であったドイツが降伏。しかしそれでも日本は戦い続けた。7月にはドイツのポツダムにて米英中によるポツダム宣言が出された。

実際は米英ソだが、ソ連は日本との中立条約が生きていたため代わりに中国が出た。

一方、日本はこれを「黙殺」。軍部の主流派は本土決戦を検討。
実際に作戦計画が練られており、成年男子はおろか老年者までも根こそぎ動員し、天皇の聖断が無ければ実行されていた可能性が大であった。
その時のプロパガンダは一億玉砕!である。恐ろしい話である。
陸軍が新兵器を死蔵したのはまさにそのため……だが、そもそも出そうにも途中で沈められるため出すにも出せないという悲しい事情もあった。

※IF
もし本土決戦が実行されていたら、連合軍の機械化部隊に特攻隊が群がるという、硫黄島や沖縄戦を更に悪化させたような戦場になり、
更にそれを軍人だけでなく老人や女性、子供も行うことになっただろう。
全ての町は焦土と化し森は焼かれ、歴史的文化財も全て失う。日本側は民族の滅亡、あるいは分断。
連合軍側も膨大な死者を出し、慣れぬ地で、ベトナム戦争も真っ青のゲリラ戦に疲弊し、最悪、50万人を超える戦死者によって、未来に多大な悪影響を生し、
戦後に得る覇権を帳消しにされる危険が大であった。
トルーマンが戦略を原爆に切り替えたのは、試算されたこの膨大な死者を恐れたためである。



そして、日本軍部への見せしめと本土決戦を避けるため、広島・長崎に原子爆弾が落とされた。
(長崎については、当初は小倉に投下される予定であったが、天候不良など諸々の原因で第二目標とされた長崎に変更された)
この攻撃で広島は広島城という国宝級の文化財(1598年建造のものが当時まで現存していた)を中心市街地であった中島地区ものとも消滅させられている。
戦後世界が文化財保護を叫んでいることを考えると痛烈な皮肉である。

しかし原子爆弾で戦争が終結した、というのは間違いである。原子爆弾が落ちる前に既に日本の敗戦は時間の問題であった。
更にそれでも日本は普通に抵抗しようとしていた、この時の日本はソ連は「条約があるため中立」だと考えていたため。
よってこれは明らかに他敵対国(主にソ連)に対する示威行為であったという見方が強い。(→冷戦)

さらに原爆投下は戦時下という状況を利用した人体実験、新兵器テストの側面も持つ。
東京をはじめとした大都市への無差別爆撃と同じく、米軍による民間人の大虐殺であり、あからさまな戦時法規違反である。
(このあたりは米軍側にも自覚があり、爆撃反対派もいて作戦を拒否した指揮官が解任される事態も生じた。また、日本も小規模だが、無差別都市爆撃をしていた)
本来は呉の軍港に投下する予定だったが、天候不順により変更となった。

なお、盆地である点から京都に投下する案も最後まで残り、三発目は京都であったとする説も根強い。
これは実際には日本の聖地である京都を消滅させてしまうと、反米感情が極限に達して、ソ連に接近し、日本が赤化してしまう危険が大であった事や、
軍部内の和平派が粛清され、本土決戦を強行されてしまう恐怖や戦後世界の日本を手駒にしたいトルーマンの鶴の一声で流れたとの事である。

しかし、結果的に二つの大都市を消滅させた事が日本へ決定的に原子力エネルギーへの恐怖を埋めつけてしまい、
戦後にアメリカが優位を誇った原子力技術の日本輸出を阻む最大の壁となってしまうという誤算が生まれた。


更に8月8日には突如ソ連が条約を破り日本に宣戦布告。
この時に残存していた関東軍は練度・装備共に度重なる抽出や転属で『精強・関東軍』のプロパガンダがされた関東軍特種演習の際より大幅に劣化していた事、
既にソ連軍の質がドイツ軍以上に強化されていた事も相なって次々に粉砕されていった。
しかし実は大陸打通作戦を経験した精鋭師団が温存されており、持久戦に持ち込むために司令部が移転しただけだったが、その前に終戦した事、
ソ連軍がヒャッハー!汚物は消毒だー!な勢いであちらこちらで虐殺事件を起こした事、
移転する関東軍が民間人を見捨てて日本へ逃げたように見えたため、生き延びた満州の元・開拓植民から戦後、
開拓殖民を見捨て逃げ出した関東軍は畜生以下のクズだ!奴らに名誉なんて、あるものかよ!と未来永劫、罵倒されるハメになった。
戦後の国民は陸軍の復権を認めず、『陸軍は屑の集団』というレッテルを貼って侮蔑し、
敗戦で失った『世界三位の海軍大国』の地位を懐古し、公然と日本海軍の復活を推進した。そうして生まれた海軍擁護論が巷に有名な陸軍悪玉論の根拠の一つとなった。

一説によれば、抑留から帰還した関東軍出身者は帰ってみたら、
守ろうとしたのに自分たちが開拓植民を見捨てた屑どもめ!よくもおめおめと顔を見せられるな!テメーは消えろ!と白眼視され、誰からも罵倒されるのに愕然としたという。

8月14日、遂に御前会議にて昭和天皇の聖断によりポツダム宣言の受諾を承認。

当初、阿南将軍など無条件降伏に難色を示す等若手幹部を中心に本土決戦派によりクーデター一歩手前まで行った。成功していれば本土決戦まちがいなしであったが、やはり誰もが「これ以上は国が滅びる」と考えていたため、最後には降伏を受け入れた。


8月15日正午。
ラジオからの昭和天皇のお言葉により国民は日本の敗戦を知ることとなった。
いわゆる「玉音放送」である。

人々は皇居に向かって頭を向けてひれ伏した。
一般国民はそれまで天皇の肉声を聞いたことがなく、劣悪な放送品質に加え難解な言葉が多かったため主旨がよくわからなかった人も多いと言う。
しかし放送が日本の敗戦を認める玉音だと分かると、ある者はひっそり安堵し、ある者は涙しある者は呆然とし、またある者は天皇に無念と謝罪とを呟いた。
ただし新聞社が正午の玉音放送を聞いてから慌てて飛び出してその姿を撮影したわけでは ない
大手マスコミには朝の時点で玉音放送のことを告知して12時に合わせて発表するように告知しており
翌朝の新聞で掲載された「皇居にひれ伏す民衆たち」の写真は全てとは言わないが大半は 事前にセッティングしたヤラセ である。

なお玉音放送の前後に全国各地で終戦に反対する勢力が複数、武装蜂起しているがいずれもすぐに鎮圧もしくは解散している。


こうして、3年以上に渡る長い戦いは幕を閉じたのであった。


なお、玉音放送の後、火事場泥棒との戦いが起きている。

また、日本が降伏文書に調印したのは8月15日ではなく9月2日なので、世界では「太平洋戦争の終結」は9月2日か3日が主流である。
開戦の発端ハルノートと同じく、「玉音放送」には諸外国との法的効力はないからだ。


【戦後】

戦後日本は、連合国軍最高司令部、通称GHQの統制下に1952年までおかれることになる。
戦争犯罪者の処罰、中国や朝鮮半島、東南アジア諸国からの日本人の引き揚げ、憲法の改正などが次々行われた。
総司令官マッカーサーは国民から人気もあり、報道管制など現代的視点での毀誉褒貶はあるにせよ、占領統治は比較的スムーズに行われた。

GHQの覚悟していた徹底抗戦を主張する過激派軍人やゲリラなどはまるで現れなかった。
これを天皇の聖断や玉音放送の効果と見たGHQは昭和天皇への戦争犯罪追及を止め、閣僚・軍人への戦争犯罪追及にとどめた。

終戦直後、外地からの人の引き揚げや天候不順による大規模な飢餓が発生。
GHQは食糧援助を行ったが東京地方裁判所の裁判官である山口良忠が餓死する事件が報じられるなど、戦争の爪痕はなお国民生活を苛んだ。


【軍人達のその後】

組織を解体させられ、職にあぶれた軍人達は各業界に散り散りになった。
しかし転職先で成功を掴んだ者もいれば、岩本徹三のように、社会の大変化に適応出来なかった者も多数出た。
中には現地に残り戦闘を続けた者もいれば、日本の目的を純粋に果たすため独立軍に紛れ込む人もいた。

だが、陸海軍を問わず、国を守れなかった職業軍人達は国と国民から疎まれた。たとえ、戦中に戦功を上げた士官であっても、
軍事を絶対悪とする風潮が生まれた戦後社会に取っては、単なる社会からの脱落者であると同時に、戦前の価値観を持つ邪魔者でしか無く、
白眼視された挙句に生まれ故郷を追われた者は多数生じた。戦前からの手のひら返しへの恨みからか、生涯、故郷に戻らなかった者も多かった。

比較的軽いケースでの例としては、ゼロ戦の初陣の指揮官であった進藤三郎少佐が知られる。彼は晩年、戦中は畏敬の念を持たれたのが、
終戦になった途端に子供から『戦犯野郎!」と石を投げられ、蔑まれたのに耐えられなかったらしく、『戦ったことは後悔しないが、戦後になった途端にそれまでの戦いを馬鹿みたいに言われるのはバカバカしかった』と述懐していた。
重いケースでは、日本海軍最後の空戦に参加した小町定兵曹長は妻ともども村八分にされ、身一つで上京し、なんとか起業に成功。彼は故郷に戻ることなく、東京で生涯を終えたという。このような事があちらこちらで生じた。

このように、戦時中は英雄視された軍人でさえも、強烈な手のひら返しで迫害されたのだから(幸い、進藤氏は親のツテでマツダに再就職できたが、これは幸運な例である)一般兵は更に悲惨であるのは言うまでもなく、当時の旧軍人らへの迫害の象徴とも言えた。

ある意味では悲惨だが、最も不幸なケースでは当人だけでなく、一族郎党までも迫害された者たちがいた。それは開戦時の戦争指導者であった東條の一家であった。
東條英機が戦後に自殺未遂を起こして入院した際には、指導を誤ったとは言え、仮にも一国の総理大臣だったのに、家族(不仲であった長男以外の)以外の日本人がお見舞いにすら来ず、新聞が連日、自分を悪漢とさえ罵る豹変ぶりに落胆したという。
同時に彼の一族は孫の代に至るまで、町単位での村八分に合い、東條家嫡男の一家は転職さえままならなかったという。

また、南方などでは日本軍の現地部隊が抵抗を続け、公式の戦闘停止後も『残党狩り』が行われていたという話も残されている。横井庄一氏などの残留日本兵はその生き残りともされる。

また、運良く出撃を免れた特攻隊の生き残りも悲惨であった。つい1日前まで、『大日本帝国ばんざーい!カコ(・∀・)イイ!!』と送り出した舌の根が乾かない内に、
『この人殺し!戦争キ○ガイ!軍服で学校にくるな!(゚Д゚)ゴルァ!!』という、あり得ないほどに早い手のひら返しを食らうことも多く、
戦中と戦後の落差に激昂し、極道に入るなどの反社会活動に走る元軍人も多かった。当時の人々はそれらを『特攻くずれ』と侮蔑したが、
国を守ろうとした挙句の果てに、祖国社会から切り捨てられたので、哀れであった。
金鵄勲章という、軍功を讃えられた勲章も公の場で付けられなくなるなど、戦後の数年は軍人たちにとって、踏んだりけったりの時期だった。

無論、国防や軍事の在り方は今日の世論を以てしても未だに賛否両論で泥沼化している位なのだから、
当時の彼らにも単純な善悪では測れない複雑なジレンマや大人の事情があったのは容易に想像できる。
とにかく、戦争という行為に応じた結果完全敗北してしまった以上、当時の日本とその軍人は名実ともに連合国のまな板の上のコイになるしか選択肢は残されていなかったのである…。

……が、皮肉にも国から切り捨てられたはずの彼らに再び光が当たる時がやってくるのである。



【軍人の復権】

戦後に日本を占領していたGHQは朝鮮戦争の勃発で在日米軍を抽出する事になり、日本に軍事的空白が生じた。
アメリカ政府は機会を窺うように、ソ連の波を抑えるための防波堤として日本の復興促進と再軍備を予定を早めて実行した。これが俗にいう逆コースである。
吹き荒れた労働争議の多くはGHQ指令により弾圧されていき、右派世論を復活させるために公職追放を解除し始めた。
そして国務省とトルーマン、次いでアイゼンハワーは日本の再軍備をせっつき始めた。

当時の状況は以下の通り。

マッカーサー「日本の再軍備!?ルーズベルトの言うとおりに戦前の軍備を葬ったのに、今更なんで!?(´゚д゚`)エー」

アイゼンハワー「るせぇア!アカの野郎共が危険だから、日本を防波堤にするのをトルーマンが決定した!俺も引き継ぐぞ(゚Д゚)ゴルァ!!」

マッカーサー「わけがわからないよ(´;ω;`)ウッ…再軍備の土壌残すなといったのお前らやろ」

アイゼンハワー「黙れボケェ!とっととやりやがれ!(゚Д゚)ゴルァ!!」

……と、マッカーサーはかつての部下に怒鳴られ、嫌々ながらも検討し始めた。
しかし、当時は既に非武装の思想が浸透しつつあった日本に再軍備させる余地はほとんど無く、GHQは対応に困窮した。
日本側では、吉田茂は経済復興を至上目標に挙げており、軍備再建は国民を弾圧した旧軍(特に陸軍)の影響が絶えた時代に行うのが妥当だと考えていた。
陸軍悪玉論が普及した事で生じる世論の反発を恐れた、日米の思惑はここで一致を見た。*13

この他の理由として、終戦時の数百万人もの軍人が職にあぶれ、軍人の多くが戦後の軍事=悪の世論に弾圧された結果、極道の活動が活発化。
引いては、かつてのように反政府活動を目論むまでに至った軍の元幹部らの存在を危惧し、『警察では対応不可な事態への対応』を名目に、かつての軍人の技能が活かせる再就職先を用意してやる事で、元軍人の反乱を抑える狙いがあった。
しかしながら、思想上の問題もあり、全ての軍人に再入隊が許されたわけでは無かった)

経緯としては、警察予備隊という名目で第一段階に進め、第二段階の保安隊に再編した段階で、
旧内務官僚による組織の稚拙な運用に業を煮やしたGHQの指令*14で、戦中に実務経験がある旧軍人を呼び戻す事が本格化したものの、
吉田茂が大の軍隊嫌いだった(戦中の軍の横暴で悲惨な目にあった)ため旧陸軍閥の復権を恐れ、「大佐だった連中入れると、国家に反乱されるからヤダ!」と、大佐レベルの軍人の入隊を異常に恐れた。
そのため折り合いがつかず、大佐レベルの軍人の復権は、中佐までが復権した数年後まで遅延した。
本来、旧軍人の入隊を拒んでいたはずの彼が渋々ながらも入隊を認めたのは、明治維新の時と違い、もはや職業軍人無しに軍事組織を再建できる時代では無くなっていた故の誤算であった。
結果、保安隊が改組された三自衛隊は彼も公的に認めるところの戦後日本における『日本軍』だった。実際に彼は国会で野党に追求された際に、こう答弁している。自衛隊は戦力なき軍隊であります!!と。

そのため、なんだかんだ言っても、自衛隊が日本軍の後身たる軍隊であるというのは、当時の時点でも公然の秘密であったようだ。
これにより復帰の大義名分を得た軍人の多くが自衛隊へ再就職した。設立時には、民間で相応の地位を持っていた者も、敢えてそれをかなぐり捨て、職業軍人に戻る者も多数に登った*15

ただし、旧軍人でも純粋培養の陸軍幼年学校卒業経験者は再就職できなかったりしているので、
職業軍人でも、語学力がある兵学校卒及び陸士経験者か、教養がある現場叩き上げのエースパイロットなどしか自衛隊には再就職出来なかったので、(幼年学校卒経験者が創設に関わっていたものの)軍隊経験があっても、自衛隊への再入隊は狭き門であった。

こうして、再就職できた軍人たちはそれぞれの進路を進んだ。
自らが音頭を取って再建した『海軍』たる海上自衛隊に再就職した軍人達は日本海軍の伝統を受け継ぎ、海軍復活を公言した。
航空自衛隊は米空軍式の教育を受け、新たな伝統を作った。
文化面で束縛を受けたのは、陸軍の後継たる陸上自衛隊であった。

かつての陸軍の文化をそのまま継承することはタブー視されており、ラッパ、敬礼の礼式に至るまで旧陸軍のものは封印された。
海上自衛隊で表立って海軍復活を公言できる海軍軍人達を尻目に、国民から疎まれつつも文化の継承を極秘裏に進め、表向きは継承を否定しつつも実際は多くの文化を継承させていった。
結果、自衛隊の要職に元職業軍人の経歴を持つ者が就けるようになると、戦後しばらく陸軍出身者が占める事に成功した。

軍事的には復権に成功したが、民間レベルでは満州引き上げなどの恨みが残っているために、現在もなお『全て陸軍が悪いんだ!関東軍は悪の枢軸!』として侮蔑されている感が否めない。
また、21世紀の現在では、国民の世代交代で多少は帝国陸軍への嫌悪感が多少は薄れたため、
陸自が陸軍の伝統を継いだ側面も大っぴらにアピールできるようになったという。


【陸軍悪玉論】

戦後の日本国民の間で一般的な風調であり、認識である。
その根は戦前の時点で存在しており、日露戦争で大量の若者を徴兵した挙句に旅順包囲戦などでおびただしい死傷者を出した事などもあって、『日本海軍は連戦連勝なのに、『日本陸軍は負けばっか』と認識されていた。
それが太平洋戦争開戦時の首相が陸軍大将の東條英機だったこと、
東條が国民の統制に特高警察だけでなく、陸軍所属の憲兵までも使ったことなどで、国民の恨みを買っていた*16
陸軍は既に太平洋戦争時には日中戦争以来の戦乱で疲弊し、軍の規律のタガが緩みきっていたために現地司令官が独断で捕虜を処刑してしまう例が続出した。

更に『国家統制』の名目で自国民さえ弾圧した陸軍は戦前の時点のこの認識を加速させてしまい、
戦後社会では自国民弾圧のツケが回り、『残虐非道の輩』と烙印を押された。
無論、陸軍軍人達は回顧録などで復権を目論んだが、既に海軍軍人達が政治に至るまで戦後社会の有力者となった現状では時既に遅しであった。

戦後マスコミの有力者達の多くは日本海軍びいきであったため、
TV番組や映画の多くに登場する日本陸軍軍人は『精神論しか押し付けない田舎者の無学者』と描かれる。
(実際は職業軍人は陸軍であっても旧制中学相当の学力を持つインテリだったが、正面軍備偏重の教育を行っていたために思考の柔軟性が欠けていた)
対する海軍軍人は『エリート・温厚・現実的』として描かれる場合が多かった。

また、戦時中の慰問の際の芸能人の扱いの差も反感を助長した。
例えば『青い山脈』や『東京ラプソディ』で知られた歌手の藤山一郎は海軍への慰問の際に『陸軍と違って丁重に扱ってくれた』と戦後に回想している。
陸軍は芸能人を雑に扱ったとのこと。この差が戦後に明暗を分けることになる。
世渡りも陸軍軍人より一枚上手であったために、組織的にGHQに取り入った結果、処刑を免れた元将官も多かった。
(例えば、戦後に総理大臣となった中曽根康弘氏は戦時中は海軍主計中尉~少佐であった。
また、いわゆるA級戦犯として処刑された軍人は6人とも陸軍であり、しかも海軍の人物はA級戦犯28人中わずか3人である)

また、海上保安庁・海上自衛隊と言った戦後の海防の位置づけな国家組織の基礎となった人員は元帝国海軍の佐官~尉官級の将校らである。
彼らが戦後10年以内に元鞘に収まった事が戦後の国家首脳からの高評価を妙実に表している。
(彼らと異なり、陸軍軍人が元鞘に収まって、陸自の中枢に位置するようになったのは、空自・海自よりも遥かに年月を必要とした)

現在でも日本海軍の壊滅を『悲劇』、陸軍の消滅を『自業自得』と表現する理由は、終戦時の関東軍の開拓団への蛮行、
戦中の国民への憲兵の横暴などが主原因で、陸軍への悪感情が戦前より悪化したのが、
敗戦で決定的になったまま、戦後に固定観念化して生じた悲劇であるといえる。
*17


【現在の傾向】

20世紀末から、当時の機密情報が開示された影響で、
実は陸軍のほうが電子技術や航空兵器分野で開明的で、機材更新も定期的に行っていたりして努力を払っていた事が明らかになったため、陸軍を見直す動きが出始めている。
海軍の方が電子分野を軽視していた事実や、防空戦体制では陸軍のほうが出来るだけの努力を払っていた事もあり、海軍の技術音痴を責める論調も出始めた。

陸軍でも、航空部隊は英語を使用しても問題視されなかった(かの飛行64戦隊を描いた加藤隼戦闘隊では、英語を普通に言っていた)事、
軍隊は英語を使わないと戦争遂行できないので、東條英機でさえも、当時の過激化ナショナリズムに染まったマスゴミ英語教育廃止しろ!!と詰め寄られた際にドン引きし、『英語教育は戦争遂行に不可欠である!』と返した事実が判明した事で、
90年代以前に比べれば、映像作品で『帝国陸軍軍人は横暴』と書かれるケースが減少に転じた。
現在では陸軍悪玉論も見直しが進んだため、以前に比べれば帝国陸軍に当たる風の吹き回しはマシになったと言えるだろう。
ただし、陸軍悪玉論は戦争体験談という形で当事者から子孫へ言い伝えられているため、陸軍の名誉回復はまだまだ遠いと言える。



【被害】

正確な数字は現在もはっきりしていない。

日本人
  • 広島原爆により約14万人
  • 長崎原爆により約7万人
  • 東京大空襲により約8万人
  • 沖縄戦により約14万人

その他含め、総数約330万人が犠牲になった。
そのうち、約100万人は民間人。


世界では推定4400万人以上が犠牲となったと言われている。


余談だが、戦後75年以上経ち、今では「かつて日本とアメリカは戦争をしていた」という事実さえ知らない若者も少なからず出てきているという。

風化は少しずつ、だが確実に訪れている。これを止めるか、それとも進ませるか。それは、今を生きる自分たちにかかっているのかもしれない。自分たちは風化の流れに試されているのだ。


追記・修正は、この戦争で犠牲になった人々の冥福を祈りながらお願いします。

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最終更新:2024年04月22日 07:20

*1 山本五十六、古賀峯一などはその風潮に呆れていたという

*2 それまで国家を牽引してきた明治維新の功労者である元老が世を去ったことで、大日本帝国憲法体制の権力分散が「政界の軍や官僚のコントロール不全」という形に変質した

*3 シーメンス事件や第一次世界大戦による世界的厭戦ムードなどで大正デモクラシー期には評判が悪かった軍であったが、この頃になると大陸利権の守り手や改革の旗手として国民から支持を得ていた

*4 1930年代は陸軍内部で幾度となくクーデター計画や陰謀が画策され、政治家らはそれを抑止しきれぬまま36年には2・26事件が発生する

*5 日露戦争当時は士官候補生・学校生で対外戦争経験の乏しい世代が要職についた時代だった。こと陸軍は派閥抗争の結果、開戦時に首相である東條英機ですら、日露戦争の従軍経験がなかった

*6 当時、外務省の松岡洋右、内田康哉ら高官はほとんどベルリン五輪や、映画『意志の勝利』に代表されるドイツのプロパガンダに酔いしれており、国際連盟の常任理事国という地位すらかなぐり捨ててまでドイツに接近していこうとした。また共産主義者らはさらにソ連と結ぼうとしたとの事

*7 しかし実体は国同士が離れすぎたために、ほとんど意味を成さない同盟であった。後世の人々の間では、太平洋戦争開戦時にはドイツの攻勢に陰りが見え始めていた事から『死の接吻』と揶揄する声すらある。しかし結果的に国が焦土となったため、当事者の松岡洋右は泣くほど後悔したとの事

*8 実際は戦争による日本の占領で2年先送りとなった

*9 米国アナポリス海軍研究所『ラニカイ号の巡洋航海"戦争への挑発"』

*10 米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類75(1945年6月7日)みすず書房『現代史資料35巻』

*11 このパイロットの練度低下こそが日本海軍の後期の負け戦の原因である

*12 山本五十六の後任であった古賀峯一大将が嵐で遭難、殉職した事件。ここで現地ゲリラに日本軍の作戦計画書を奪われ、更にそれが米軍に渡って翻訳され、日本軍の行動が全部筒抜けと化した。

*13 吉田茂としては、旧軍の人材を排除しての軍備再建が目標だったが、軍事的ブレーンの陸軍中将に諭され、ようやく諦めた

*14 組織が回っていない!と米軍が呆れ返るほどの惨状で、米軍が『士官学校出の軍人が必要だわ』と痛感した事、海上保安庁に朝鮮戦争で敵前逃亡に等しい判断で帰国した船が生じた事態を咎められた事を鑑みて、命を捨てられる軍人の存在の重要性を再認識した戦後の国家首脳も、国防組織の必要性を悟った

*15 因みに士官級は下士官以下と違い、旧軍の階級がそのまま自衛隊での待遇に結びつき、いきなり幹部になった元将校が多かった。特に陸海軍航空部隊の士官学校卒のエースパイロット達は多少の再教育だけで、すぐに佐官になれるほどだったという

*16 東條自身は戦後直後に未来永劫、国民の恨みを買うことを予期していたらしく、『憲兵を使いすぎた』と後悔したそうな

*17 特に戦後の映像作品で悪役にされるのは陸軍軍人であり、特に関東軍は開拓民を見捨てて逃げた糞以下の下衆と描かれてしまう場合が多数であった。実際は武装解除後に攻めこまれたため、軍事行動を封殺されていただけだった。そのため、後に中央の統制が取れなくなった組織を指す言葉として『関東軍化』という言葉が産まれてしまう