小早川秀秋

登録日:2009/12/01 Tue 18:51:28
更新日:2024/03/22 Fri 13:03:04
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小早川秀秋とは、日本戦国武将の1人。
関ヶ原の戦い』の勝敗を決定づけたと言われることから、徳川家康関係の作品を始め多くの創作にも登場する。

●目次


【史実】

◆概要

1582-1602

豊臣秀吉の義理の甥(秀吉の正室おねの兄・木下家定の五男)。近江国の長浜にて生を受ける。
関ヶ原の戦いにおいて傍観する西軍の将の中で最初に裏切り、その後の裏切りの連鎖を引き起こした。

名前の推移:木下辰之助→木下秀俊→羽柴秀俊→小早川秀俊→小早川秀秋→小早川秀詮
※最終的な名乗りは「小早川秀詮」であるが、改名したのが関ヶ原の後で、名乗った期間がかなり短いため、一般的には「秀秋」の表記が使われる。

◆人物

学問を学ぶ姿勢はあまりなく、優柔不断で悪政を敷いたとも、幼少期は利口であったとも言われる。短気であったことはほぼ確定らしい。
政治については、優秀な家臣団が小早川家にいたのも要因かもしれないが、秀吉の死後、朝鮮遠征で疲弊した領国を立て直すべく年貢を免除したり、
関ヶ原の戦いの後、領地として与えられた岡山の寺社復興や農地整備などを精力的に行い、(当時としての)近代化を推し進めていたりと、
若くして亡くなったこともあって目立っていないが、実際には悪政を敷くどころか割と良い藩主であったのでは?とも言われる。

これに関しては早世した上に小早川家も断絶しているため、後世になって「裏切者」としての悪いイメージで語られるようになっても、
抗議したり、汚名を返上する史料を出す子孫がいない、まさしく「死人に口なし」の状況も影響していると思われる。

とはいえ関ヶ原戦から死没までわずか二年一カ月であり、これでは善政も悪政もやりようがないというか、政策方針を固めることはできても、その成果が出るまでの行政手腕はとても発揮できなかったとも思われる。
また21歳で亡くなっていることから見ても、「朝鮮出兵後の領国内の租税免除」などは本人(十代後半の少年)の発案というよりやはり家臣団の手筈と考えた方が自然。
有能無能以前に、発揮した能力を評価できるだけの寿命がなかった歴史人物である。その意味では「最も大きく成し遂げた事案」に着目されるのもしょうがないところはある。


◆来歴

実子のいなかった豊臣秀吉の養子となり(この時の名前は「羽柴秀俊」)、急に裕福になるが、
秀頼が生まれたことで跡継ぎとしての立場が無くなり、冷遇を受けていたところで黒田如水の助力を貰い、小早川家の小早川隆景の養子となる。
歪んだ性格は、このように幼少期に散々持ち上げられたり突き落とされたりしたためとも言われる。

この後、いわゆる『豊臣秀次事件』に連座して領地を没収されるが、養父の隆景が隠居したためその跡を継いでいる。

朝鮮出兵(15才)の際には敵兵に囲まれた加藤軍に救援に行き活躍するも、
その報告を受けた秀吉には「守備任せたのになに突撃してんの馬鹿なの?死ぬの?」と説教を食らった挙句、大幅減封及び転封。
ちなみに転封前の領地は石田三成に奪われている。→三成はこれを辞退したが、秀秋旧領は豊臣家直轄地となり、その代官に任命されている。
加藤軍を救援した際の秀秋はリアル無双したそうな。
この処置は以前から秀秋を疎ましく思っていた秀吉が、彼を追い落とすために謀ったという説もあるが、想像の域を出ない。

秀吉の死後、徳川家康の根回しで減封は取り消され、いい具合に家康に釣られる。
家康には以前にも、前述の減封を三成の讒言のせいだと思い込み、伏見城で怒りのままに斬り捨てようとしたところを制止された上、
彼のとりなしで事なきを得ており、この件で秀秋にとって家康は頭の上がらない恩人となったと言っても過言ではないだろう。
ただし、領地はともかく家臣については、これ以前の減封で多くの者が秀秋の下から去ってしまっている。

伏見城の戦いにおいては、19歳にして筑前(福岡県)から1万5千人もの兵を動員して畿内にやってくるという何気にすごいことをやりつつ*1
東軍鳥居元忠に援軍を申し入れるも、
「援軍とか聞いてない。どうせそう見せかけて裏切るんでしょ?よくあるんだよねそういうの」
と拒否され、西軍に付かざるを得なくなり(これは島津義弘も同様)不本意にも武功を上げてしまう。
秀秋がこの際の行動を悔いてノイローゼになり各地をうろうろしているうちに関ヶ原の戦いが起こる。
なおこの時、西軍の命令を聞かずに各地を彷徨っていたためこの時期から西軍からは味方だと思われてなかったのでは?という説もある。


関ヶ原の戦い

そもそも会津討伐に参加するため畿内に入ったところ、成り行きで西軍になったため割とすんなり東軍の山岡道阿弥(景友)による内通に応じ、
『寛永諸家系図伝』岡野系図によれば足軽十人による部隊で甲賀忍者スパイした三成の情報を板部岡江雪斎(岡野融成)へ流していたが、
『あいつ絶対裏切るだろ…』と思っていた三成と大谷吉継から「勝ったら関白にしてやる」などと釘を刺される。
もっとも三成に秀秋を関白にする権限なんてないので(推薦ぐらいはできるだろうが)、ただのその場しのぎの口約束か本当にその気があったとしても関白になれるかは不確定だと思われる。
そのためかそうでないのかは分からないが1万5000もの兵(西軍で2番目の兵数)を率いる秀秋は西軍有利にもかかわらず傍観。
家康がキレたところでようやく寝返り大谷隊に攻めかかるが事態を予測していた大谷隊から予備の600人の部隊が出てくるとびっくりして押し返される。
しかし、連鎖的に寝返った脇坂隊、赤座隊らの助力もありこれを撃破、これを機に3万を率いる家康本隊も加勢し東軍の勝利となった。
これに関しては、近年「開戦直後に即座に東軍に寝返り、西軍に襲い掛かった」という説も出てきている。
その後、自分と同じく裏切った四将らと共に井伊直政の指揮の下、三成の居城である佐和山城を攻撃している。

余談だが、敗戦後落ち延びていたものの捕縛され、重罪人として晒されていた石田三成に何を思ったのか会いに行っている。
三成がそんな目に遭っている最大の要因とも言っても過言ではない秀秋がそんなことをすればトラブルになることは火を見るより明らかであり、
同行していた細川忠興に止められたが、三成の視界に入ってしまう。
三成は秀秋を見るなり彼を罵倒し、
「お前が裏切るつもりだったことを見抜けなかったのは自分の落ち度だが、約束を破って人を裏切るなど武士の風上にも置けない。
この世の末までお前のやったことを語り継ぎ、笑ってやろう」とさえ言われるも、秀秋は何も言い返せなかったという。


関ヶ原の戦い後

戦後は岡山55万石に加増され内政に力を注ぐが、家臣の出奔や不審死が相次ぎ、そして自らも21才の若さで急死している。
死因に関しては複数の説があり、病死の他に、無礼を働いた小姓を斬ろうとして返り討ちに遭った
村の視察中に怒った農民に股間を潰されて死んだ、果ては大谷吉継の祟りで狂い死んだなどの説があるが、
病死以外はなんとも情けない死因ばかりであり、これらに関しては『因果応報』的な意味合いの強い俗説とも言われている。

ちなみに、秀秋は晩年家老を手討ちにするなどの奇行が目立っていたが、
三成に言われたことを気にして精神的に参り、三成や吉継などの幻影を見るほど精神薄弱状態だったらしい。

秀秋の急死の後、小早川家は跡継ぎがいなくなったため無嗣断絶として取り潰された。
秀秋や小早川家のこの末路に関しては、石田三成や大谷吉継の怨霊の仕業とまことしやかに囁かれたとかなんとか。
もっとも秀秋に続いて裏切った武将である脇坂安治と朽木元網はかなり長生きしているが。

ただ、秀秋が若くして亡くなったことに関しては秀秋が重度のアル中だったことに端を発するというのが現在の説である。
詳しくは余談にて。

そして毛利家の一門であるはずの小早川家だが、秀吉一門に再乗っ取りされたことなどもあってかすぐ再興されることはなく、
そのまま廃藩置県…つまり明治維新を迎えた。改元とか将軍の代替わりとかのレベルを通り越して時代が変わるまで放置されている。
関ヶ原後は毛利本家も大減封でそれどころではなかったとはいえ、いくらなんでも放置されすぎでは…

なお秀秋の人間関係は、当初自分を跡取りにしようとした叔父(秀吉)に「秀頼!秀頼!秀頼!」と要らない子扱いされ、
養父(隆景)には「あいつが毛利家を継いだら毛利は滅びるぞ!」と懸念されたことで養子となり、
自分と似たような立ち位置である豊臣秀次が秀吉によって粛清されたことで明日は我が身と脅えさせられ
全く戦の経験がないのに朝鮮出兵では15歳にして総大将にされ、家臣は「あの当主にはお仕えできません」と出奔し、
家康の味方をするためやって来たのにほぼ無理やり西軍として伏見城を攻めに参加することになったり
西軍の同僚からは「あいつは東軍だから注意しろよ」と最初から敵扱いされたりと、
ある程度は自分のアル中ぶりが原因としても相当ハードだったらしい。

……と、いうのが今までの俗説、通説であった。
そのため、時代劇など関ケ原を舞台として作品では散々な扱いをされることも少なくなかった。
だが、近年、関ケ原そのものに新説がでてきたことで秀秋の評価も変わっており、今後の研究での秀秋の評価がどうなっていくのかが楽しみである。



◆余談

  • アルコール中毒
秀秋が秀吉の後継者と目されていた秀秋は12歳にして未成年飲酒、連日酒宴漬けの生活になり、梯子を外されて小早川家の養子となってからも酒を飲むことをやめられなかった。
このため、親である高台院などからも大量の借金を抱えるようになった上、関ヶ原前後の18、9歳の頃には肝硬変と見られる症状が出て黄疸も出ていたとの話もある。
肝硬変は一度起こってしまえば治らない不治の病で、透析や肝移植などもできないこの時代で発症すれば長生きなどできない。
しかも、秀秋は生活を改善することもなかったらしく、その場合、当然のことだが病状は加速度的に悪化していき命の削れていく。
このことから関ヶ原後まもなく死んだのは一説にはアルコール中毒による肝硬変と考えられている。
また、そこまで酒浸りだったのであれば正気を保つのも難しいため、後世に語られる発狂している話や三成の怨霊なども、もしかしたらアルコール中毒が原因であったかもしれない。

当主が若くして心身ともにこんな状態で後継ぎもいないという状況だったのであれば先代からの優秀な家臣たちが小早川家から離れていくのも当然の道理と言えよう*2

彼がアル中になることなく、もう少し長く生きていたら後世での評価も違ったのだろうか。

  • 近年の新説
関ヶ原の戦いではギリギリまで裏切るかどうか迷い、家康に鉄砲で脅されてようやく裏切ったと言われ、優柔不断なイメージで語られていた秀秋だが、
最も古い資料である合戦二日後の書状では「東軍が敵陣に攻めかかると同時に秀秋が裏切った」とされており、「鉄砲で脅された」は実に100年後の軍記からしか確認できず、
関ヶ原前後の動きなどが研究されるにつれ、「最初から東軍でどっちつかずの態度など取っていない」とか、「開戦時に一気に大谷軍に突っ込んでいった」とか、
「開戦のきっかけが秀秋が松尾山に布陣したことで三成たちが出陣したところからだった」などという説があり、東軍への寝返りの理由も、叔母だが母のように慕う北政所の立場を慮ってのものとする説も。

それに彼の人生を振り返ってみれば、彼が三成のために何かしてやる義理は全くないどころか積極的に敵に回ってもおかしくない上、
関白の座も、本人どころか一族郎党皆殺しにされた秀次事件のことを考えると、それほど興味はなかったのではないかとも言われる。
そもそも松尾山から西軍を追い払って布陣した時点で東軍だと認識されてもおかしくない。

基本的に合戦中に裏切るのは例え内応していたとしても許されることではないにもかかわらず*3加増されているのも、
少なくとも合戦が始まる前には東軍だったという説を後押ししている。

どの説でも秀秋の活躍によって西軍を総崩れにしており、今までとは違った秀秋の姿が見え始めているのかもしれない。

  • 養父との関係
義父となった小早川隆景との関係などについては、隆景は秀秋が名島に来る時にはかなり気を使った手紙を書いており*4
秀秋が養子となった時に開かれた宴はそれはもう盛大な宴だったらしい。
その様に自分を歓迎してくれた隆景を秀秋は大層慕った様で、堅田元慶が隆景の馬印をもっていたので譲ってもらったり、
等身大隆景の木像を作ってもらったり、自身が朝鮮出兵に行っている間に隆景が死ぬとそのを悼む和歌を詠んだという話があり、親子仲は大変よかった様だ。

上記の通説説明文での「あいつが毛利家を継いだら毛利は滅びるぞ!」というのも、
本当は隆景が秀秋を自分の子供にしたかったからそう言った可能性も……さすがにないか?
まあ単に毛利本家に豊臣一門が入ることを危惧したのだと思われる*5
自分もそうやって小早川家を毛利家にしたしね。

能で演じたのが女役ばかりだったらしい。

  • 陣羽織
彼の物とされる陣羽織が残っているが、そのデザインはド派手な色した羽織りの背中に命を刈り奪る形をした鎌×2が描かれているというもの。
戦国の世のオシャレ度合いを物語る名品として名高い。


【創作】

単純に「気弱な人物」とする物もあれば、あえて「苦悩する優秀な人物」として描く物もあるなど様々。
基本的には「年若いヘタレ」扱いが多く、短気で苛烈な面は控えめなことが多いだろうか。
その短気だった面や陣羽織のド派手なデザインからDQNっぽく描かれることもごく稀にある。

  • 合戦アドベンチャー「采配のゆくえ」
長い間裏切り者として散々な評価を受けまくっている彼だが合戦アドベンチャー「采配のゆくえ」ではなぜか萌えキャラと化した。あと顔芸
新たな小早川秀秋像も形成されつつある…のかもしれない。

  • 横山光輝作の漫画「徳川家康」
歴史小説徳川家康(山岡荘八)を原作とした横山光輝作の漫画「徳川家康」では関ケ原で東軍、西軍両方からの誘いを受け、両者のやり方に呆れながら酒を飲んでいた。
また、家康から大砲を撃たれるものの、他の作品のように慌てたりする様子もなく冷静に裏切りを決めている。
なお、飲酒時に体調不良の様子も描かれており、その描写は史実の秀秋の死因と考えられている肝疾患のようなものとなっている。

戦国はっちゃけアクションゲームの「戦国BASARA3」では、小太りで美食家で鍋とおたまで戦うウザキャラという、
これまた(いろんな意味で)従来のキャラ性をぶち壊したキャラとして登場。
二つの鎌……もといをくっ付けたような前立の兜を被り、大きな鍋を背負ったその姿はさながら人間カブトムシ
伏見城には超巨大な鍋が設置してあり、合戦中でも作戦は兵士と天海まかせで自分は鍋を食う。何しに来たんだお前

キャラとルートによっては裏切らせず最後まで西軍に残らせられるが、メリットが無いから結局プレイヤーから裏切らせる悲しい扱いをされる。

「宴」ではプレイアブルキャラに昇格し、まあまあ扱いやすい上にUMAより速く走れたりする良キャラ。
しかも天海様は自分で使う分には機動力以外最強。小早川家が天下取れちゃうのでは?
え?主家?まだ義祖父様生きてるからなんとでもなるでしょ。

  • ゲーム「戦国無双」
2から登場。
やはり普通なら西軍から東軍に裏切るが、叔母のねねには頭が上がらず、鉄砲よりも半蔵よりも島左近よりもねねを恐れ、ねねが東西両軍を諫めるために関ヶ原に乱入した時は東軍でも西軍でもなく「ねね軍」として参加した。

  • 小説「我が名は秀秋」
秀秋主役の歴史小説。
この小説では若くして優秀な人物として描かれているが、優秀すぎるが故、
人の機微に疎い面やまだ若いこともあってある意味で感情的になりやすいと若すぎた天才児という感じの人物として描かれている。

  • 戦国人物伝シリーズ
コミック版日本歴史の戦国人物伝シリーズでは関ケ原がでる回で登場している。
基本、通説のような扱いだが大谷吉継の回でははっきりしない態度に裏切りを疑われて首先に刃を向けられ冷や汗をかいたりもしたが三成に動くよう要請され彼が去った後に自分を捨てた豊臣への恨みを軽蔑と憎悪に満ちた顔で呟いていると豊臣への恨みから裏切っている。
一方、遂に自身が主役になった回では……。

  • ゲーム「信長の野望」
本能寺の変が起こる年に誕生し、元服はそこから更に15年待たなければならないので登場はかなり遅い。
昔は関ヶ原の戦いがあるシナリオでも彼が物語のメインになることは無かったが「創造」以降の作品では西軍でゲームを開始して西軍が有利だと裏切らずに共に東軍を攻撃してくれる。
また、ゲームなので連合軍でも三成の武将としての格であっても武将の位置を調整できるので、それで秀秋を最前線に置くという芸当もできる。
ただ流石に現時点での新作の大志ではできない。
ステータスは全体的に非常に低く、裏切りのエピソードから義理も低いので弱いくせにすぐ裏切る非常に使えない武将のイメージが強い。
顔グラが某ジャニーズの某メンバーに似ているともっぱらの評判。肖像画の困り眉も再現されており、秀逸な出来。

戦国乙女「小早川ヒデアキ」名義で登場。石田三成、真田幸村、黒田官兵衛そのほかメジャー武将を差し置いての参戦に多くのファンが驚いた。
毛利モトナリの部下であり、彼女から拝領した妖刀「隆景」を鎌に差し替えて使用している。
泣き虫でヘタレで臆病者であるが、運ばかりはずば抜けて高い。
Legend Battleでは意図的に最弱性能にされているが、隆景を解放することで他の乙女並みの強さを得る。

極めて優柔不断で忘れっぽく、関ヶ原でどちらに加勢するかを花占いで決めようとしたほどのボンクラ。
あまりの無能ぶりに、作中No.1の我慢強さを誇る家康が「これ以上待たされたら鉄砲を打ちかけてやる」と爆弾発言するほど憤慨していた。

登場人物のほとんどがであるので当然、秀秋も猫(たまにやら猿もいるが)。
関ケ原の戦いでは高いという理由で松尾山に動いて(猫だから)、家康から江戸名物にゃんぎょうやきをもらって全部食べたが忘れたのか日向ぼっこし続け、曇ってきたので日向があたっている光成のところに突撃(という名の日向への移動)し、光成を蹴散らし、日向ぼっこした。
と関ケ原の戦いとかどうでもよくただ日向ぼっこしていただけで両軍を翻弄しナレーターから「小早川の勝ち」という他作品では見られないであろう。
ある意味、小早川秀秋大勝利という珍しい展開を迎えている。

普段は数奇のセンスにうるさい気だるげな若殿、しかしキレたらヤバいヤンキーじみた特攻隊長として描かれる。
直接のシーンこそないが朝鮮の役で大暴れした逸話にも言及されるなど、作中でもそのキレっぷりは知れ渡っているようだ。
関ヶ原では「家老二人が言うことを聞かぬのよ」などと白々しく言ってのけつつ、家ぐるみで堂々と日和見を決め込む。
しかし織部の身体を張った説得で趨勢を悟ってからの決断は早く、一瞬のうちに臨戦態勢に入って家臣たちを恐れさせた。

本作の舞台は関ヶ原で西軍が勝利して豊臣の天下となった時代であり、秀秋は「豊臣の勝利に貢献した功労者」ということになっている。
しかし何故か投獄されており、脱出後に報復のためにムサシの持つ「ガン鬼の銃」を奪うが、銃の中に潜む鬼に意識を乗っ取られてしまい、そのままアヤカシの首領ヤシャに回収されて以後消息不明。
なかなかのハンサムボーイに描かれているうえに印象的な出番もあるが、彼が中心となった一連の回は作画崩壊に定評のある本作の中でもワースト級に酷いことも印象的。

2014年の「軍師官兵衛」、2016年の「真田丸」にて、どちらも浅利陽介氏が演じて話題となった。
演技力もさることながら、氏の顔が肖像画とソックリ*6ということで、今後も秀秋が出るなら氏が演じるのでは?と言われているとかいないとか。
2023年の「どうする家康」では嘉島陸氏が演じた。気弱さや優柔不断さをまるで見せず、関ヶ原前に家臣の前で「西軍につく」と宣言した直後に「ただし、どちらにも転べるようにしておけ」と釘を刺すというなど、これまでの秀秋のイメージを大きく覆す冷徹な性格で話題となった。
関ヶ原本番でも西軍として出撃こそするものの、「戦力は三成だが家康は戦上手」と冷静に戦局を見定めるように動かず、その後家康本陣の前進に呼応する形で裏切りを敢行した。
事前準備の周到さや鉄砲で脅されることも無く冷静な判断で裏切った姿に視聴者からは「こんな狡猾な秀秋見たことない」「知力90ぐらいありそう」等と称された。
陣幕の鎌の絵が奇跡的な位置で頭に重なりツインテール秀秋というネタも爆誕した。





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最終更新:2024年03月22日 13:03

*1 なお筑前は太閤検知の上では30〜33万石ぐらいだが江戸時代の検知では約52万石の豊かな国であることは留意。しかし一万石=250人の法則に従えばそれでも最大に近い動員であり、秀秋の統率力とやる気の大きさが知れる

*2 ただ、小説「我が名は秀秋」の作者である矢野隆先生など、この手の評価に否定的な文筆家や研究家、マニアなどもいる。実際、この時代、若くしてぽっくり逝くなんてよくあり、酒の度数も当時はそこまで高くなかったという意見がある。矢野先生は願望ありなところはあるが

*3 秀秋に続いて裏切り大谷吉継を攻撃した諸将は戦後はあまりいい扱いを受けてない

*4 あんまりにも気を使いまくっていたので秀吉に注意されたとのこと

*5 当時、当主である輝元は子供がおらず、従弟の秀元が後継者扱いになっていた。なお、輝元には1595年にドラ息子……もとい秀就と言う後継者が生まれている

*6 ちなみにとても気弱そうな少年といった雰囲気を出している秀秋の肖像画であるがこれは若くして亡くなった秀秋を想い、ねねが自分の手元にいた頃の秀秋をイメージして描かれたらしい。つまり、肖像画の秀秋は13~10歳ぐらいの子供の模様。また、ねねが秀吉の菩提を弔うために建立した高台寺に秀吉の肖像画と一緒に飾られた。