イタリア社会共和国

登録日:2014/11/26 (水) 15:12:46
更新日:2024/02/04 Sun 09:40:37
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概要


イタリア社会共和国とは、1943年9月から1945年4月までローマ以北のイタリアに存在した国家。

北部・中部イタリアを支配する国家として2年近く体制を維持。
第2のイタリア・ファシズム政権として一定の存在感を放った。

しかしその実態はナチス・ドイツの衛星国。
国家運営には、親衛隊やドイツ国防軍の強い影響を受けた。

あの独裁者ムッソリーニの末期の姿を象徴する国家でもある。


国家建設まで


クーデター


イタリアやだ!やだ!やぁー!ねーホントムリムリムリ!

第二次世界大戦で枢軸国として参加したイタリア王国は絶体絶命に陥った。

何故なら連合国軍のシチリア島上陸で本国占領の危機に晒されていたのだ。
もうイタリアにこの局面を打開する力は殆ど存在しないに等しかった。

完全占領という最悪の事態に対抗しなければならない。
国家の危機に、軍内部の休戦派・ファシスト党穏健派・敗戦による王政廃止を恐れる王党派が反ムッソリーニで結び付いた。

この期に及んで、ベニート・ムッソリーニは完全な徹底抗戦を唱えていた。

1943年7月25日、国王と共謀した反対派勢力の政治的クーデターで首相職を解任。
そして、グラン・サッソ(イタリア中部のアブルッツォ州にある)のホテルに幽閉された。

イタリアは休戦への道を着実に歩んでいた。

首相ピエトロ・バドリオ元帥は連合国との間で休戦交渉を進めていた。
そのうえで、ナチス・ドイツとも戦争継続を約束しようという手段に出た。

しかしそんな話が上手くいくはずもない。
連合国ともナチスとも取り合おうなんて無理な話であり、交渉は完全に難航状態に陥る。

そのこともあってか、9月8日には連合軍のドワイト・D・アイゼンハワー大将が了承無くイタリアの無条件降伏を宣言した。

これにより前線の軍部隊は唐突に戦いの終わりを知らされる格好になった。
ここにイタリア王国の枢軸国としての戦いは終わりを告げた。

だが、イタリアと同盟を組んでいたドイツのヒトラーがこのまま黙っているはずが無い。


ヒトラー「イタリアが負けたぁ?…知ってたよ」


総統はかねてから計画していたイタリア北中部への進駐を発動。

大部分のイタリア陸軍は講和に関して何も知らされておらず、この進軍に抵抗どころか対応も出来ない。
ドイツ軍はイタリアと、南仏・バルカンのイタリア占領地域へ進駐する。

国王と政権の閣僚達はローマを捨てて連合軍の占領地域に避難した。


RSI政府


イタリア地方に進駐を開始したドイツ軍。

バドリオ政権が寝返った以上、統治政策も考える必要が出てきたのだった。
なので、同じファシストを奉じる勢力を作る必要性があり、ナチスはそれを実行した。


やはりそうなると、ムッソリーニの存在が欲しい。


ヒトラーの思惑の下、ドイツ軍のオットー・スコルツェニー率いる特殊部隊は行動を開始する。

9月12日のグラン・サッソ襲撃でムッソリーニを無事に救出。
9月15日に東プロイセンのラステンブルクでヒトラーと会談し「国家社会主義に基づいた共和制国家」の樹立に同意した。

なおムッソリーニは当初この計画には乗り気ではなかった。

失脚前にソ連との単独講和交渉が失敗したことや政権を追われたことなどによる精神的ストレス。
そして、胃潰瘍による体調不良に悩んでおり、ムッソリーニは意気消沈していた。

なのでこのまま政界からの引退を望んでいた。

しかし、ムッソリーニの利用価値を見込んでいたヒトラー。
ヒトラーは、ドイツの支援を受けた政権の首班への就任を説得したという。

9月18日に共和ファシスト党を創立。
9月23日、ついにムッソリーニを国家元首とするイタリア社会共和国(RSI)が建国された。

この国家は、ムッソリーニが元首と外務大臣を兼務。
この形式は結果的に、ムッソリーニの独裁体制を復活させた。

このことで、ヒトラーのミラノやトリノ、ジェノヴァなどと言った北イタリアの大都市を有効に活用したいという考えは一応成功する。

ドイツや日本をはじめとした枢軸国側はもちろん新政権を承認。
ちなみに日本は大使館をヴェネツィアに置いていたという事実もある。

イギリスやアメリカを初めとする連合国はこの国家を認めなかった。
ちなみに連合国は、この政府が建国初期にガルダ湖湖畔の町サロに政府をおいたことから『サロ共和国』という蔑称を使っていた。

このサロは小都市であり、綺麗な街とは言え、まともな政権が首都にするような場所ではなかった。
もちろん現在のサロでは、ムッソリーニの政権があった事実が抹消されているかの如く跡形も消えているらしい…


ムッソリーニとファシスト党の強硬派によって築かれた新国家。
彼らは王国政府の休戦を「不名誉な裏切り」と非難。そして「名誉ある継戦」を主張する。

イタリアはローマ以北のイタリア社会共和国とローマ以南のイタリア王国に別れての内戦状態に突入した。


イタリア社会共和国


ナチスの衛星国


独立国として組織されたイタリア社会共和国。

しかし、無様にも敗北を喫したムッソリーニの国家が、従来の通り国家運営がされる訳もなかった。
つまり、実質的にはドイツの影響下に置かれた傀儡政権だったのである。

まず旧オーストリア領であった南チロル地域の一部を既に併合されていたオーストリア本国同様に編入。

そして、工業地帯で生産された銃器や輸送車両、残っていた備蓄物資はもちろんのこと、さらには農作物までがドイツ本国用の配給物として持ち出された。
それどころか軍事には関係のないはずの美術品までも接収されるなど、もはや訳の分からない始末だった。

これでは半ば占領地のような扱いも当然だった。

また通常ドイツの占領下で設置されていた親衛隊の親衛隊及び警察指導者もこの国家に設置。
カール・ヴォルフ親衛隊大将がその任に当たった。

国として必要な根幹部分も未整備。
このことはイタリア社会共和国がドイツによる占領統治状態であることを意味していた。

ドイツはムッソリーニの挫折したファシスト体制の復興を、自国の利益になるようにしか考えなかった。

ナチスおなじみのユダヤ人弾圧政策も開始されることになった。
元々ムッソリーニは、ユダヤ人の友人がおりユダヤ人弾圧に嫌悪感を示しており、ユダヤ人弾圧はしていなかったのだが、迫害を強行せざるを得なくなった。

またヒトラーはムッソリーニに自身の罷免に賛同したファシスト党幹部への粛清を強制。

最終的にムッソリーニはクーデターに参加した閣僚や将軍らを全て処刑した。
娘婿でもあるガレアッツォ・チャーノ外相ですらもクーデターに参加したために…



こんな中でも、ムッソリーニ自身も建前上は独裁者として必死に振舞った。

しかしムッソリーニは自覚していたのだ。
自らの実情が操り人形…「ロンバルディア・ナチス」の指導者に過ぎない事に…


経済政策


税収確保も糞もないグダグダな状態だったが、経済政策は一応あった。

RSI政府は君主制の撤廃に続き、100人以上の社員を持つ会社すべてを国営化する路線を進めた。

経済政策は、社会党時代の友人でマルクス主義理論家のニコラ・ボムバッチが作成した経済理論に基いて行われた。
これは「経済の社会化」と呼ばれているとかなんとか。

RSI政府は労働組合とストライキを禁止としていた。
しかし、労働者階級に一層の人民主義を訴えた。

ムッソリーニは資本主義国を不幸にしていると演説した。
その中で彼は北イタリアの民衆が望むならばと、一つ宣言したことがある。

それは、王党派との協力で歪んだファシスト体制を本来の形(=修正マルクス主義の発展)へと戻すという約束である。
演説の中でムッソリーニは自らが幼少期から青年期に至るまで培って来たマルクスへの心酔を捨てないと断言した。

なお、1940年に企業の完全国営化を推進する予定でいたが、戦争に関する理由からこれを延期していたとも述べた。

また、ムッソリーニはヒトラーとの個人的友情を背景にドイツからの支援を引き出していた。
…国内の資産を一方的に持っていかれる関係に、友情があるかどうかは知らないが…



だが、この政策は円滑に成功することは無かった。

イタリアの労働者集団のうち、残っていた社会主義者や共産主義者の多数は、この経済の社会化を欺瞞とみなす。
そして、1944年3月1日には大規模ストライキを起こすまでになってしまった。


軍事面・戦争


亡命政権の国外での樹立を拒否し、国内で最後まで抵抗を組織する事が議決されたとはいえ、苦しすぎる状況。

RSI軍は義勇兵と正規兵・民兵が入り混じる状況下。連合軍に一泡吹かせられるわけがない…
…と思いきや、実際にイタリア社会共和国軍は各地で戦果を挙げ、連合軍を予想以上に苦しめた。

イタリア社会共和国軍の各部隊は、元々パルチザン掃討を期待されてドイツ軍から創設を段階的に許可されていた。
その戦果は、パルチザン相当以上の働きを行い、当初予想されていたものを遥かに凌ぐものだった。

1944年12月26日の第1師団『モンテ・ローザ』と第3師団『サン・マルコ』の成果は結構有名。

この師団は、冬の嵐作戦で米第92歩兵師団「バッファロー」への攻撃を割り当てられた。
両師団の攻撃は成功に終わり、米第92歩兵師団は損害を受けて敗北する羽目に。

1945年2月に再び米第92歩兵師団はRSI軍と今度は攻め手として戦う。
しかし、ここでも第1師団「イタリア」に敗北して前進に失敗した。

ドイツ軍内に創設されたイタリア人義勇兵団「第一イタリア」も極めて良好な結果を見せる。

彼らは、アンツィオの連合軍包囲網を破ってドイツ軍が脱出する時間を稼ぐ大活躍も見せた。

親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーはこのことを賞賛。
同部隊を武装SS所属の擲弾兵旅団に格上げしたほどだった。

海軍の方も少ない戦力(保有戦力は海兵部隊と魚雷艇・ポケット潜水艦などの小型艦艇のみ)で奮戦。

連合国の通行ルートを次々と襲撃し、少なくない被害を与えた。
連合側の輸送艦を沈めたりと、この活躍は枢軸軍のサポートに一役買った。


結果的に、RSI兵は終戦直前まで粘りを見せつけた。
圧倒的に劣勢な状況をものともせず、必死の戦いを見せたことは評価されても良いだろう。


国家崩壊


1945年4月にイタリアの戦いは最終面に入る。

このころには、各地でパルチザンが蜂起していた。
同盟国であるナチス・ドイツも、もはや連合国に勝てるはずもなく追い込まれていた。

イタリア社会共和国は、ほぼ崩壊状態にあったと言える。

1945年4月25日。
RSI政府は事実上の政権崩壊に追い込まれた。

ヴォルフ親衛隊大将とイタリア戦線の主戦力であるC軍集団のハインリヒ・フォン・フィーティングホフ大将は連合軍への降伏を決定。

この降伏を決めたのは、当時イタリアで戦っていたドイツ軍の独断である。
ついでに言うと、RSI政府はこの決定を最初っから知ってはいなかった。

スイス国境に近いコモを目指して逃走していた、元首ムッソリーニも4月27日に拘束。

彼は法的裏付けを持たない(最初から法の裁きを受けさせる気ゼロ)略式裁判を経てパルチザンに射殺された。
死亡後もしばらくの間パルチザンの手によって屠殺用のフックにかけられて遺体が晒し者になり石を投げられるなど、見るに堪えない状態と化すのはご存じの通り。

RSI軍は4月29日まで抵抗を続けた後、グラツィアーニ元帥の署名で降伏に同意した。

イタリアの第二次大戦は、ここにて終結を迎えた…


その後


敗戦後のイタリアでは国民解放委員会が臨時政府として国家運営を行う。

当然ではあるが、この政府は反ファシズムの姿勢である。
臨時政府は、ファシストの浄化政策(公職追放など)を行い、イタリアからファシストの匂いを消すことに努力した。

王位惜しさにムッソリーニの独裁を後押しした形になった王家も国民の信頼を失っていった。

1946年には王政存続か王政廃止かの国民投票が実施。
結果王政は廃止、共和政へ移行することとなる。









追記・修正はイタリア北部を占領してからお願いします。

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