文責:きょうよ

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(1)自由貿易帝国主義

・重商主義を克服したあとのイギリス古典派経済学は、自由貿易を基本的に支持するものでした。
・ちょうど分業が専門的習熟による労働生産性向上によって社会的富裕をつくりだすように、外国貿易による国際分業貿易によって結合された諸国民の富裕を増進させるはずです。

・スミスは外国貿易を人為的に促進させることには反対で、資本投下の自然的順序は、農業、工業、国内商業、外国貿易であるとされています。

・問題は、経済発展の度合いに段階的な差異のある諸国民が存在する場合です。
→もしある国は工業製品を輸出するが他国は農産物を輸出するという国際分業が成立すれば、農産物輸出国が工業化することは容易なことではありません。

・ナポレオン戦争の集結したあと、イギリスは農業保護策を緩和して自由貿易に方向を転じました。1815年の穀物法改正がその走りで、マンチェスターの綿業資本家であったコブデン、ブライトは労働者にも呼びかけて反穀物法同盟を組織し、1846年に完全撤廃されます。

・イギリスの自由貿易論者を駆り立てたものは理想だけありませんでした。議会では新興国の工業を「ゆりかごのなかで絶息させ」、自由貿易によって全世界をイギリスにたいする「貢納国」とすることが公然と語られていました。

(2)愛国者リスト

・こうしたなかで後進国の産業資本の代弁者となり、保護貿易政策を唱道したのがフリードリッヒ・リストです。
→リストがドイツ全体への視野を持って活動するのは、1819年にフランクフルトの商人達の領邦間関税撤廃の援助したことに始まります。
→しかし、その後、亡命生活に入り1825年にはアメリカにわたることになります。

・リストが構想した関税同盟自体は1834年にプロイセン主導で実現しますが、それは対英穀物輸出を行っているプロイセンのユンカーとイギリス産業と結んだ北ドイツ商人の利害を反映して、自由主義的性格が優ったものでした。

・リストが渡米した頃のアメリカでは北部の産業保護主義と南部の自由通商的利害が対立していました。
→綿作農業主と前期的商人を中心とした南部の利害はイギリスとの自由通商をのぞんでいた。
→北部の産業資本は伸長していく鉄道網によって結び付けられた辺境の独立農民に同盟者を発見していました。

・リストは、「アメリカ体制」を引き継ぐアメリカ国民主義経済学のイデオローグの一人となったのです。

(3)国民経済の理論

・リストは、自由貿易が時とところを超えて妥当するとする学説はコスモポリタンの学説呼びます。

・自由貿易は農業・工業・商業を高度に発展させた先進経済国どうしであれば有益なものになるでしょう。しかし、ようやく工業を農業に並立させたばかりの国が発展をつづけるためには、保護関税が必要であるとリストは考えました。

・リストは経済学の基礎は人類と個人の中間の単位である国民にもとめられるべきだと考えました。
→この有機的な単位としての国民健在という思想は、のちの歴史学派に受け継がれドイツ経済学を特徴付ける考え方になります。

・リストは社会的生産のための労働の結合のもので発揮される精神的および部室的力を国民的な生産力と呼び、「富をつくり出す力は富そのものより無限に需要である」としました。国民的な経済学は生産力の発展こそ基準とすべきなのです。

・今日の用語で言えばリストが考えていたのは農業・工業のバランスド・グロウスであって、アンバランスド・グロウスではないでしょう。
→リストが提唱したのは、資本主義的大農場ではなく発展的な家族農場によって農業近代化が行われるよう土地整理を行うことでした。

(4)アカデミズムの歴史学派

・ドイツ歴史学派は日本の講壇経済学を考える際に無視できない影響を与えた学派です。
→というのも、ドイツモデルの国家体制を受け入れて以来、大学人もまたドイツの学界を範と仰いだからです。

・ドイツ歴史学派は普通1871年の社会政策学会に結集した新歴史学派とそれ以前の旧歴史学派にわけられます。
→旧歴史学派の代表ヴェルヘルム・ロッシャーによると、国民経済は国民性や文化段階をうちに含む経済単位であった、経済法則はその歴史的進化段階を無視して普遍的な妥当性を語ることはできないとしています。

・新歴史学派は基本的に旧歴史学派の経済観を引き継ぎ、社会政策と保護関税を主張しました。

(5)社会政策学会

・社会政策とは階級間の利害関係に国家的な干渉を加えて社会的安定を達成することです。
・ビスマルクは社会政策のなかに労働者と新たに生まれたばかりの国家を結びつける可能性を認め、社会政策論者のうしろだてとなりました。

(6)ウェーバーの近代資本主義論

・マックス・ウェーバーやウェルナー・ゾンバルトは経済理論家というよりは経済社会学者であったといわれますが、経済思想という面では逸することができない人たちです。

・彼らは最新歴史学派とかいわれますが、シュモラーのような官僚的後見主義を拒否して、労働者階級とも連携する市民的政治勢力によってドイツの政治・経済の近代化を構想しました。

・経済学の学問評価の中に特定の価値観を暗黙にすべり込ませることを拒否する価値判断論争は、こうした年長世代からの断絶のための戦いでした。
→ウェーバーもゾンバルトも強烈なナショナリストでしたが、政策論においてはそうした価値観はその帰結とともに明示的に示して市民の主体的な選択を助けるべきだと考えました。

・ゾンバルトは営利と贅沢という人間の物質欲に対する社会的制約が消失したことから資本主義の説明をします。
→それにたいしてウェーバーは、持続的で合理的な経営を特質とする近代資本主義の成立は物質欲では説明できないとして、資本主義の経済合理性の機嫌を宗教的要素によって説く特異な議論をい提出します。

(7)ウェーバーの合理主義論

・ウェーバーが社会経済学という枠組みの中に収容しようとしたのは、メンガーらのオーストラリア学派の経済理論に触れることによって得られた社会的行為理論でした。
→人間は何らかの意味づけを行いながら行為をしますが、社会的行為の理解はこの行為の主観的意味を再構成することによって行われます。
→このような方法は、歴史的な社会現象を純粋な形で取り出して説明するために用いることができますが、経済理論もまた理想化された類型的な行為の連鎖として解釈されます。

(8)ヴェブレンの資本主義文明批判

・アメリカ資本主義の発展は西欧に先行して大量生産、大量消費の段階に到達しようとしていました。

・「有閑階級の理論」でソースタイン・ヴェブレンはウェーバーとは逆に、浪費に注目しました。
→ヴェブレンはかつては名声は武勇を競うことによって得られたが、現在では富を争うことがそれに代わったとして、「見せびらかしの消費」が社会慣習になって行くことを指摘しました。

・そもそも、「見せびらかしの消費」は合理的経済人の仮定からどのようにして導かれるのでしょうか。
→彼によれば、人間はいくつかの本能をもっているが、生産の基礎になるのは「制作本能」です。資本主義的企業は、これを金銭的な「略奪の性向」が支配するところに成り立つ体制です。

・ヴェブレンはアメリカ文明の批判者にとどまりましたが、彼の人間行動論や社会制度論に共鳴した弟子たちは、政府の政策立案にも積極的に関与しました。




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最終更新:2013年01月25日 16:27