文責:きょうよ

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(1)ペティの近代的科学精神

・貨幣経済の進展がもたらした経験と知識は、重商主義の文献群の基礎です。
→しかし、価格としての経済学は、それに科学者の組織的な探求精神が加わらなければ成立しなかったでしょう。
・「政治経済学が独立した価格として分離した最初の形態」と呼ばれる「政治算術」は、科学者でもあったウィリアム・ペティによって、新しい科学として自覚的にそうしされました。
→ペティは観察と実験をおももんじるベーコン流経験主義の信奉者でしたが、国家、あるいは社会の分析に数量的手法が有効であることを確信した最初の人物です。

(2)列強の国力評価

・「政治算術」という標題の著作は、オランダ、フランス、イギリスという三列強の国力比較論です。
→問題は、国富の絶対的数量ではなく、富と力という観点から経済的に評価して比較を行うことです。
・ペティ「土地は富の母であるように、労働はその父である」
→土地と労働の間の「自然的等価関係」を発見し、あらゆる富を単一の尺度で評価しようとしました。労働価値説の創始者とされる。
→しかし、実際は商品価値を説明するための投下労働価値説とはかなりことなる。

(3)経済の循環と再生産

・科学者の目でもって、経済の運動を考察し、一国民の経済を数量を持って解明するという「政治算術」の精神は、フランソワ・ケネーの手になる「経済表」によって再生します。
→「政治算術」が国富の統計学にとどまったのに対し、「経済表」には、明らかに経済の運動機構が含まれています。

・ケネーは、主権者は自然の規律ある運動秩序に相即した統治を行うべきであると考えました(経済的統治)。
→ケネーの学派が自分たちをフィジオクラートとよんだのは、この<自然の支配>という思想によるものです。

・「経済表」の「政治算術」に対する進歩は次の3つの要素からなっています。
①経済学的な階級把握。
→「人口」を生産的階級(農業者)、不生産的階級(職人)、地主・主権者と区分。 ②経済循環の認識。
→諸階級の収入から支出によって社会の生産物が配分されていく経済の循環運動を示す。
③循環運動の中にある生産的ストックとしての資本認識。
→農業・製造業の資本が補填・蓄積されることが生産の継続と収入の確保の基軸。

・本来の「経済表」を「原表」、「経済表」を総括したものを「経済表の範式」というが、本書では「範式」だけの説明にとどめます。

(4)「経済表」の想定する経済構造

・「範式」で年々生産=再生産とする富は農業労働によって土地から取得された原生産物だけです。
→製造業は加工するだけでなにも生産していないとみなされます。

・生産階級は「国土の耕作によって国民の年々の富を再生させ、農業労働のための支出を前払いし、かつ土地所有者の収入を年々支払い」ます。
・地主階級は、地主、主権者(君主)、十分の一税徴収者(聖職者)からなっています。彼らの得る「収入」は生産階級が再生させた富の中から前払いした支出を回収したあとに残る耕作の「純生産物」を貨幣で支払ったものです。
→この前払いの「回収」には「経営の富」を維持するために用いられる富も含めなければなりません。
・不生産階級というのは「農業以外のサーヴィスや労働に従事するあらゆる市民」からなっている。
→彼らは加工品を他の二つの階級に販売することによって、生活資料と原料を生産階級から購買することができます。

(5)「経済表の範式」

・「範式」では5本の線を用いて再生さんの自然的秩序を説明。
→この線はそれ自体としては先行する生産の結果である生産物の購買・販売をしめすものですが、この流通過程の結果が新しい生産の条件を確保するもの出会うrということがポイントです。

(6)重農学派と経済的自由主義

・経済学者がエコノミストと称するようになったのはこの学派以来のことですが、この学派は経済的自由の唱道者でした。
→国内取引及び対外取引の規制の撤廃とともに、課税対象を「純生産物」だけに限定することを主張。

・ケネーの学説の核心は理論面においても政策面においても、資本(「前払い」)の維持・蓄積にあります。
・資本主義的生産関係においても土地所有と労働者が対立しあい、余剰価値(「収入」)と生産的資本の維持・回収が分離しているという体型は、資本家的生産関係の出発点ともいえる。

・資本は収入(利潤)をもたらすという考えを製造業にも広げ、ケネーからスミスに至る架け橋の位置を占めているのはA・R・J・チェルゴーです。

(7)新しい世界の予言

・アダム・スミスの「国富論」は新しい世界を示した著作です。
・第一に国富論は、重商主義的な規制と独占の体制に最後の引導を渡しました。
・第二に国富論は、諸個人の利己心に基づく経済活動が自由に行われるとき、懸命な国家の手による以上に有効に、国民の一般的富裕が実現されるとときました。
・第三に国富論は、資本蓄積を軸にして資本家・労働者・土地の三階級からなる社会像を描くことによて、資本主義の古典的ヴィジョンを提供しました。

・スミスは、いまだ重商主義的な統制体制から脱しきれないイングランドをも超えて、近代社会の普遍的な理論を求めようとしました。

(8)スミスの社会科学的体系

・スミスが「道徳情操論」で追求したのは、人々がタイ統括自由に振る舞い、誰もが自由の利益を追求しているとみなされるような社会での秩序形成の可能性です。
→スミスによれば、こうした社会での秩序を支えるのは、行為者それぞれの立場に仮に我が身をおいて考えることによって生まれる「同感」です。

・スミスはケネーのように農業での「純生産物」にとらわれることはありません。したがって、受容と同時に概念・対象の一般化が行われます。

(9)分業の生産力的効果

・グラスゴウ大学時代以来スミスが注目してきたことは、文明社会は平等な社会ではないが、底辺にいるものにまで富裕を行き渡らせることができる社会だということです。

・分業により生産力が上がるピンの例
→注意しなければならないのは、第一には、このピン製造所ないの目に見える分業の背景にはさらに広範な見渡しにくい社会的分業が存在しているということです。
→第二には、スミスが分業による生産力増進の理由として、ここの職人の作業への習熟および、ロス・タイムの削減と並べ、機械の発明・導入を上げていることです。

(10)分業と商業社会

・人間の本性に備わった「交換性向」から分業を導き出すスミスの議論は、いまなお「国富論」の読者を困惑させます。
→「交換性向」が本源的なものかどうかは別にして、スミスの基本的な認識は、近代人は互いに相手の利己心を認め合い、交換を成立させることによって生きているのだということです。

(11)資本主義の認識

・資本は「生産的労働を扶養し維持する資財」であるのと同時に、個人によって所有される資産であり、「収入をもたらす資産」です。
→そのような資本は職人自身のものである必要はなく、他の人のものであってもかまいませんが、資本とその利潤が現れたときには、職人はもはやその労働の全生産物を得ることができづ、賃金とよばれる部分を得るにとどまる。

(12)自然価格論

・スミスは、「市場価格」と「自然価格」を区別していました。
→前者は需要と供給で決まるかかくですが、後者は生産者が長期にわたって共有を続けられるような価格で、平穏な状況の下で受給を一致させるような中心価格でしょう。

・「構成価格論」とよばれるこのやり方は、分析的性格のものではあなく、一般的経済状況を反映させる記述的な概念でああったように思えます。
→スミスによれば、賃金・利潤・地代の率を規定するのは、社会の貧富の程度とともに、社会が発展・停滞・衰退のいずれの状態にあるかであり、その基礎にあるのは、人口・土地・資本の絶対量と増減の速度です。

(13)見えざる手

・資本蓄積は労働者の勤労ではなく、「倹約」によっておこるのです。
→資本家は、利己的な動機による「倹約」を行うことによって「生産的労働者を維持するファンド」を増加する。
→所有の安全が保証され将来が見渡せるなら、私的なファンドの方(資本)が公的なファンド以上に社会の雇用を保証するでしょう。そして収入の最大化をはかることによって、社会全体の収入を最大化することになります。

・スミスの限界は、資本主義を理解するための基礎概念と枠組みは提供したが、その運動機構にまでは立ち入らなかったことでしょう。
・スミスの意義は、不生産的な層に代表される過去の世界を否定し、資本主義という見方を与えたことに求められるでしょう。




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最終更新:2013年01月24日 19:18