文責:きょうよ

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(1)オイコス(家)の経済

・人々が<経済>を独自の領域として認識するためには、認識する側の視点を確定し認識パターンを提供する何らかの範型が必要です。
→経済がオイコノミア(オイコス[家]+ノモス[用い方,法])から来ているように、この範型を最初に提供したのは<家>でした。

・前時代の<家>は、血縁親族だけでなく従属者も含む経済的独立性の高い共同体です。
→古代のギリシア人は、発展しつつあった都市経済に、この範型を適用して、経済問題を論じた最初の文献を生み出しました。例:アリストテレス「政治学」「ニコマコス倫理学」、「オイコノミヤ」、クセノフォンの著作

・都市経済が崩壊しても、エコノミーという言葉は用いられるようになり、近代の経済学の名称ポリティカル・エコノミーというのも、政治帯である国家に適用されたエコノミーという意味なのです。

(2)市場という範型

・しかし、近代の経済思想の発展を主導し、経済学を生み出したのは、市場といういま一つの範型です。
→市場経済ははじめは社会の一部を覆っていたに過ぎないが、交換、価値、貨幣、取引、収支といった明確な指標をもち、また、開放的かつ発展的な性質を持っている。 →もちろん、経済思想史の中に古い範型(家)の影響を見て取ることもできるが、基本をなす原理は市場的交換ですし、評価の基準は交換価値なのです。

(3)国家と貨幣流通

・宗教的あるいは法律的な沸くから解放されて経済現象を取り扱うという考え方は、中世社会には存在しませんでした。
→しかし、16世紀になると市場経済には独自の理論があることが発見され、それがまず現れるのは貨幣流通の領域でした。

・貨幣の鋳造と額面価値の決定権は王侯にあり、横行はその差(シニョリッジ、貨幣発行益)を得ていた。
→悪貨(きんの含有量の少ない貨幣)の鋳造は、貨幣対策不足や王室財政の必要からしばしば行われた。
→悪貨と良貨の併存により、退蔵・溶解・削り取りにより新しい貨幣が作られるなら額面価値が実質価値から離れるだけ。
→しかし、実際に起きたのは、良貨や削り取られた地金の国外流出であり、深刻な貨幣不足。

・トマス・グレシャムの外国為替についての体系的考察は、商人道徳論でも、法律論議でもないリアルな市場機構の認識が生まれていることを示す。
・彼はイギリスの為替レートを守るために、国内と国外に外国債権の感情を設けて為替売買を行うという提案をしています。

(4)物価上昇の発見

・16世紀半ばパリで物価上昇が問題になったとき、マレトロワという役人が、物価上昇は貨幣の呼称体系の混乱による。名目的な上昇にすぎないと主張した。
→政治哲学者のジャン・ボーダンは1568年に、マトロワの選定した商品が物価指標として適当かどうか吟味し、物価騰貴が実在することを示し、その主因は新大陸産金銀の流入であると推定。

・一刻の物価水準およびその騰落をきめるのはその国の貨幣の存在料及びその増減であるという考え方は、簡単に貨幣数量説と呼ばれます。
→貨幣数量説の地理的広がりは、大量の金銀の流入による価格革命にこの時代のヨーロッパが飲み込まれていったことの現れでしょう。

(5)重商主義という名称

・市場経済が中世的拘束から離脱し、商人と行政官たちの実際的思考が開始される。
→それが近代の国家形成と結びつき、重商主義(マーカンティリズム)といわれる経済思想が成立する。

・重商主義の時代は約三世紀(15世紀後半から18世紀半ばまで)を包括するもので、これを一つの呼称と呼ぶことはかなり乱暴で、論者によって意味がことなることも仕方がないこと。
・重商主義という言葉はアダム・スミスが用いた、「商業体制」から来ており、彼によれば重商主義は、富は金銀であるという通俗的な表象に基づいて貿易の差額をプラスにすることによってその増加をはかる誤った制作体型でした。
→他方では、G・シュモラーやE・H・ヘクシャーのように重商主義を積極的に評価する見解もあり、また、ケインズにとっても魅力的であった。

(6)貿易差額論

・イギリス・フランス・オランダは貿易と海運を重視していました。とくに、イギリスにおいては貿易問題は重商主義的文献の最大の論題でした。

・貿易差額論には個別的取引差額論と総合差額論があります。
→総合差額論は東インド会社を擁護する議論
→トマス・マンは貨幣不足を唱えて東インド会社を非難した人達に対抗して、穀物を地中に投げる行為だけからみれば納付も狂人に見えるだろうと切り返した。

・ジョサイア・チャイルドやチャールズ・ダヴィナントにあっては、総合差額論がさらに発展した体型で現れる。
→チャイルドは、貿易差額を明確に表す指標は存在せず、貿易と海運が継続的に発展すること国富発展の指標であるとする。
→ダヴィナントは貨幣は「トレイド(交易、経済活動)」の召使であるにすぎないと主張。
→彼らも国内産業を無視したのではなくチャイルドは法定利子率の引き下げによる投資の促進とコスト・価格の引き下げ、ダヴィナントは安価なインド産キャラコの輸入による労働コストの引き下げによるイギリス毛織物輸出の促進を主張していた。

(7)正貨の自動配分論

・重商主義の研究者を永年悩ませてきた問題に<正貨の自動配分論>の矛盾がある。
→多くの重商主義者たちはこの問題を十分明確に意識していたとは考えられません。
→重商主義者の大部分は、貨幣の絶対的不足を問題にしていたようです。

・正貨の自動配分論を明確に定式化したのは、デイヴィッド・ヒュームです。
→そのニュームにしても、流入した貨幣量に対応した価格の調整が完了するまでの過渡的期間については、利潤の増加によるトレイドの利潤が存在することを認めていました。

・正貨の自動配分論が想定しているのは均質的な世界です。
→もし貿易差額が生産力の格差をあらわしているとして、さらにまた、黒字国が流入した貨幣を資本として投資しその生産力をさらに向上させるメカニズムを備えているとすれば、貿易差額の追求は自己矛盾的なものではありません。
→しかし、競争相手に卓越した生産力を誇るようになっても重商主義的な制作体型を維持しているとすれば、アダムスミスが批判するように輸出承認と生産者を国民の費用で優遇していることになるでしょう。

(8)トレードとコマース

・近代の経済は、何よりトレイド(交易)あるいはコマース(商業)の体型として把握されたのです。
・流通において目に付く多くの商品は奢侈財でしょう。
→ここから往々にして現れるのは、上流社会の贅沢とそれに奉仕する商業と製造業は国家を破滅に導く、という議論。
→ヒュームは、嗜好の洗練と商業の利益によって促される技術(アーツ)と商業活動(インダストリイ)の発展は文明社会の基礎であると主張。ヒュームによれば、産業活動は、かつての野蛮な時代を特徴づけた無為安逸と偏狭な劇場を終わらせ、社会を文明化するものでした。

・ヒュームのインダストリイ論をさらに発展させて、相互の商品交換の拡大によるの行と工業の発展的文化の過程として近代社会を描いたのはジェイムズ・ステュアートでした。

(9)近代的産業労働としてのインダストリイ

・ステュアートにとっては、インダストリィとは第一に自発的な相違のある活動であり、上位者の命令による強制労働とは違っていました。第二にインダストリイは生活を保証するだけでなく、それを超える萌芽的な利潤を含む生産性の高い労働です。
→このようなインダストリイが自生的に展開しうるとまではかんがえていませんでした。 →インダストリイが生産性の高い発展的なろうどうであるからこそ、完全就業と販路確保のために有効需要を保障する必要がでてくるのです。
→ステュアートの経済学が貨幣的体系となったのはそのためです。

・ステュアートの「経済学原理」は現在の経済発展研究者が読んでも教えられることの多い書物。
→ステュアートの近代経済の把握は、商品と貨幣流通の次元にとどまり生産が資本家による労働者の雇用を通じて行われるという資本主義的生産関係の認識がありません。




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最終更新:2013年01月24日 19:09