ヒヒイロカネ

ヒヒイロカネは、太古日本で様々な用途で使われていたとされる、伝説の金属または合金。緋緋色金、日緋色金とも表記し、火廣金(ヒヒロカネ)、ヒヒイロガネ、ヒヒイロノカネとも呼称し、青生生魂(アポイタカラ)はヒヒイロカネを指すといわれる。現代の様々なフィクションにも登場する。

概要


現在知られているどの金属とも異なり、一体どのような金属だったのかわかっていない。古史古伝の一つである『竹内文書』に記されているが、『竹内文書』自体が狩野亨吉により偽書とされており、ヒヒイロカネの実在以前にヒヒイロカネの伝承自体が実在したかどうかも疑われている。

竹内文書と酒井勝軍


『竹内文書』によれば、神武天皇以後の御世ではかなり希少な金属になっており、祭祀用の鈴や剣、装身具、富山の皇祖皇太神宮本殿の屋根などに用いられたが、時代とともに資源が枯渇したのか、精錬技術が失われていったのか、雄略天皇の時代に日の神十六菊形紋の鏡を二枚作ったのを最後にヒヒイロカネは精錬されなくなったとされている。

酒井勝軍による調査で、草薙の剣ほかヒヒイロカネ製の装飾品を竹内巨麿邸にて発見し、酒井が主宰した月刊誌『神秘之日本』に発表している。その時、酒井が竹内邸で発見したヒヒイロカネ製の装飾品のかなりが「錆びて」おり、酒井が加工することで本来の輝きを取り戻したとされ(八幡書店刊『竹内文献資料集成』に写真が掲載されている)、ヒヒイロカネとはいえ本当に永久不変ではなく、保存状態が悪いと錆びてしまうらしいが、なぜ酒井がヒヒイロカネの加工技術を知っていたかは酒井の家族ですら知らない。なお、世界最高の切れ味を誇るといわれる日本刀の加工技術も、ヒヒイロカネの加工技術が一部使われていると酒井らは考えていた。

ヒヒイロカネ製の装飾品などの神宝は、1935年(昭和10年)12月28日に、秦真次により東京市・靖国神社の遊就館松田常太館長に託されていたが、第二次天津教弾圧事件により、1936年(昭和11年)4月30日、竹内巨麿による神宝を水戸地方裁判所に移す旨の受託書により押収され、その後、東京大空襲で失われた。

古代ギリシャに伝わるオリハルコンとヒヒイロカネは同一の物質であり、ともに「生きた金属=オーラを発する」と酒井は述べている。酒井自身が「これこそがヒヒイロカネである」と仲間に語った物質こそ、岩手県で産出する餅鉄であるが、これは鉄の含有率の高い単なる磁鉄鉱であり、酒井が後に語ったこととして、餅鉄を特殊な技術で純鉄に加工した後、更なる加工を施してヒヒイロカネに仕上げるという。

具体的な伝承


ヒヒイロカネは現在ではその原料も加工技術も失われたが、太古日本(神武天皇の御世以前=ウガヤ王朝期)では現在の鉄や銅と同様のごく普通の金属として使用されていたとされる。特に合金としてよく出来たものは神具の材料として使われたという。三種の神器もヒヒイロカネで作られているとされる。

その比重は金よりも軽量であるが、合金としてのヒヒイロカネは金剛石(ダイヤモンド)よりも硬く、永久不変で絶対に錆びない性質をもつという。また常温での驚異的な熱伝導性を持ち、ヒヒイロカネで造られた茶釜で湯を沸かすには、木の葉数枚の燃料で十分であったとも伝えられている(エネルギー保存の法則を考えれば熱伝導率では説明できない)。
太陽のように赤い金属とも、輝く金属とも言われる。
触ると冷たい。
表面が揺らめいて見える。
磁気を拒絶する。
最終更新:2013年03月08日 18:13