南アルプス1


<><><><><><><><><><><><><><><><><>

3白峰三山縦走 池山吊り尾根から奈良田へ冬期縦走 1993年12月28日~1月1日   

この冬の年末年始山行でも、あちこちで遭難騒ぎがあった。鳥取の大山で、ある山岳会の女性一人を含む四人のパーティが連日の懸命な捜索にもかかわらず発見されないでいる。また、槍ヶ岳では滑落して一人が重傷、一人が軽症という。穂高に登った単独行者が行方不明…。実はこの情報を私自身がまさに遭難の渦中で携帯していたラジオから聞いたものである。結果からして幸いにも遭難騒ぎの主人公にはならなくて済んだが、本人としては無我夢中の脱出劇であった。あらためて冬山の恐ろしさを痛感したのであった。

南アルプスの冬の挑戦は今回で四度目になる。これまでの三度は、いずれも池山吊り尾根から登り北岳から間の岳を経て塩見岳に至るコースをねらって失敗に終わっていた。最初はそれでも北岳の頂上を踏み、北岳山荘の冬季避難小屋に入ることができて、その後の悪天による停滞(沈殿)がなかったら白峰三山の縦走ならば完走できていたかも知れない。日程の都合でやむなく引き返したのであった。それでも下山した日が低気圧一過の良いお天気で冬山の素晴らしさを心ゆくまで満喫することができた。翌年は、出発前から少々風邪ぎみで体調が良くなかったこともあって、森林限界手前で引き返した。そして去年は順調に二泊して、いよいよ北岳を越えて間の岳を目指そうという所で、装備不備という基本的な事が原因で撤退を余儀無くされてしまった。そろそろアイゼンを履こうとしてザックから取り出したところ、片っ方の金具のネジがなくなっている。これがないと爪先と踵を結ぶことができない。従って靴にはめることができないのだ。片足だけのアイゼン歩行もできなくはないが、縦走はまだ始まったばかりである。あえて危険を冒す事もない。山行は断念せざるを得なかった。北岳を目前にして歯ぎしりした事であった。四度目の今回は白峰三山に目標を絞った。池山吊り尾根から登って農鳥岳を越えて大門沢から奈良田に下りようというものである。夏ならば二泊三日の行程を四泊五日で踏破しようというわけである。

入山は暮の二十八日。朝7時の特急”あずさ“で甲府まで。甲府からタクシーで夜叉神峠へ。8000円也。(途中、山道が凍結しているとかで、スタッドレスを履いている芦安のタクシーに乗換えさせられた。)峠には相変わらず自家用車が数台止まっていた。タクシーの運転手さんの話しでは殆どが鳳凰三山に登るという。御室小室か薬師小屋の関係者か、一目で食料品のボッカと思われる若者が一人、車で峠まで来て出発の準備をしていた。林道のゲートを管理しているおじさんに軽く挨拶して夜叉神トンネルに入る。今は100メートル位ずつに電灯がついていて、以前のようにまったくの暗闇の中を歩くわけではない。それでもヘッドランプが欲しいところだがザックから取り出すのも面倒なこともあって、天井の薄暗い電灯を頼りに歩いて行く。出口が米粒のようだったのが一〇分も我慢していると大きくなって来て救われた気になる。やがてトンネルを抜けるともう一つ短いのが待っている。これを抜けると”野点の碑“は間ぢかで、例年ここで一休みするのを今回は軽快に通り過ぎる。曇り空で、立ちどまると風が冷たい。夜叉神峠を出発して一時間程がたってようやく、鷲住山入り口に到着した。今年は雪の量が心なしか少い。凍てついた痩せ尾根をバランス良く注意して登り、山頂を過ぎた適当な所で昼食とする。かなりの人の通り過ぎた後があり、今年もラッセルに苦しむことはないなと、行く末の山行の楽しき事ばかりを頭に描いたりした。凍結した登山道の下りは最も危険である。アイゼンの跡があるが、ここは我慢のし所、重い荷物を背にしてバランスを欠くことがないよう、十分注意を重ねて野呂川の吊り橋まで降りてきてホッとした。吊り橋を渡って対岸の林道に上がるのも、凍結している足元に気を付けなければならない。ここまで来て汗びっしょり。一仕事を終えた気分である。今日一日の半分の行程が終わった。あとは池山の急登を辛抱するだけだ。

再び長いトンネルをやはりヘッドランプも出さずに、しかしここは完全に真っ暗で出口の一点だけを見詰めながら、そして時々氷結した部分でよろけたりしながらこれを抜け、更にもう一つ短いトンネルをクリアして池山登山口に到着した。今日は人影がまったくない。いつもは何組みかのパーティが足ごしらえしていたり、テントの一つや二つが張ってあったりしているのに…。急登に備えてジャケットを脱ぎ休まず出発である。

急登が一段落してつぎの急登が始まる樹林帯で一人の下山者に会う。ずいぶん早い下山だ。北岳を往復して来たものと思える。右手にテントの中に仰向けになって靴をはいたままの、足だけ外に出して休んでいる人がいた。私の場合、朝交通機関を乗り継いでやってきて北岳を往復するだけならば、荷物が軽くなることもあって楽に池山お池避難小屋まで今日の内に行けるだろう。そして軽装で北岳往復してベースキャンプにもう一泊し翌朝下山。二泊三日の手軽な山行となる。実際、第二回目の山行で重荷を背負いながらも小屋まで辿り着いている。さすがにこの時は体調不良に無理を重ねたせいか、翌日歩行中、目が回りだし気分が悪くなって撤退するはめになってしまった。翌日以後の行程を考えると、その日稼げるだけ稼いでおきたい。しかしその無理が後を引いては何にもならないのだ。

池山の急登は結局、二時間ちょっとで終った。時刻は三時半。いつものお馴染みの尾根直下に幕営。途中、四人パーティを追い越してきた。若い人たちで夜叉神峠に車を置いてきたという。後から登ってきた彼等はまだ明るいからと更に先へ進み、尾根に乗っ越した所でテントを張ったようだった。

次の日は絶好の登山日より。陽射しが暖かく風も無い。こういう好天だと体調もくるうことはない。一時間で着いた池山お池の周りは静かだった。背の高い樹林に囲まれて、お池全体はもちろん雪に覆われ、暖かい陽射しを受けて好ましい雰囲気を見せていた。池を前にして一息いれながら、最初にここを訪れた時のことが今更のように思い出されて一人苦笑するのだった。池を横断中に雪の下の氷が突然割れて、冷たい池の中に落ちはしまいかと本気で心配したのである。取り立てて優れた眺望が得られる台地でもなし、白峰の稜線が目にはいる訳でもないのに何故かここで二三日ゆっくりしていたいような、そんな懐かしい場所である。小屋も閑散としている。去年はシュラーフに潜り込んだ若い人たちで隅々までいっぱいだった。今日はシュラーフが一つ、傍らに大きなザックが一つあるだけだった。北岳を往復すべく既に先行しているのだろう。晴天に恵まれ小屋も確保出来て、この人は幸せだ。明日の三十日になると、この小屋も一杯になるはずだ。南アルプスもそれなりに登山者が多いのだ。この辺まで来ると雪の量は例年変わらなく深い。ただ十分ラッセルされているので歩き良くなっている。かえって夏道より安全にす早く歩けるのではないか。

次第に高度が上がって左手に間の岳、農鳥岳と続く稜線が見えてきた。昨日勝沼辺りの車窓から遠望した白峰の稜線は白い中にもまだうす青い部分があったように思うが、こう目の前に展開する山並みは”白峰“の名前そのものである。苦しい喘ぎの中でも心の高揚を覚えてくる。反対側の東にわずかに展望が広がる場所まできて一休み。ここまで来れば森林限界は間近だ。辻山から薬師、観音、地蔵岳と続く鳳凰三山の稜線が目の前に樹林越しに見えている。

やがて森林限界手前の樹林帯に到着。ここには例年、テントが二つ三っつ張ってあった。私も過去二度ここでキャンプしたのだった。いままではいずれも風が強く、風を直接受ける更に上部よりも好都合だったからである。今日はしかし、幕営の後もなく、ただ、一本の道筋が横切っているだけだった。樹林帯を脱した小高い岩山に腰を下ろして心ゆくまでの昼食。とっておきの缶ビールを開ける。北岳はまだ姿を現わさないが甲斐駒が見える。遠景に八ヶ岳、そして富士山。南アルプスの素晴らしさはいつも富士山と対峙出来ることだ。振り替えれば常に富士山が、それも大きく高く浮かんで見える。山頂の右隅の、測候所が立っている部分が剣ケ峰でわずかに盛り上がり、左側の白山岳と対称してまるで鬼が空高くから睨んでいるかのようである。露払いは勿論、鳳凰山。これまた翼を大きく広げ富士に向かって飛び立たんとしている。こちらが高度を上げれば更にまた高く競り上がる。まさに男性的な力強い構図である。

11時半までゆっくりして、もうしばらく頑張ろうかと立ち上がる。城峰までかけ上ると待望の北岳が大きく全容を現した。ここから仰ぐ北岳は、もはや優しくまろやかな親しみのある山に見える。今年もあなたに会いに来ましたよ、と語りかけたい衝動すら覚えた。砂払いの頭からボーコン沢の頭へと稜線を上下して行く。午後一時半、時刻はまだ早いが、疲労がたまり次第に嫌気がさしてきた。今回は日程を十分にとり余裕をもって歩けるようにしたのだ。あと二時間頑張れば北岳に登頂でき、そうすれば今日のうちに北岳山荘に入れるだろうが、無理をして山行を殊更苦しいものにすることは無い。今日はこれまで、とボーコン沢の頭にテントを張ることにした。そうと決まってテントサイトを探していると三十五、六の若い人が上ってきた。聞けば、今朝四時に夜叉神峠を出発してここまで来たと言う。池山の急登がずいぶんこたえたと言いながら、まだこの先頑張って今日は北岳山荘にはいるのだと笑っていた。ザックは私のより一回り小さく軽そうではあるにしても、たいしたスタミナである。もう既に九時間半も歩いているのだ。今日は素晴らしく好天に恵まれたが、明日から下り坂になり大晦日には崩れるという天気情報で、今日の内に上に上っておきたいからと人なつこく笑いながら歩き去った。この健脚ぶりだと明日は農鳥岳を越して大門沢小屋まで下り、場合によっては奈良田まで降りてしまうのではないか! うまく天候を睨んだスピード登山。これこそ悪天で行動するよりはずっと安全な山行と言えまいか? 実は後で分かるのだが、日程にゆとりを持った私の方があぶない目に遭うことになったのである。

ボーコン沢の頭にテントを張り始める頃から次第に風が強まってきた。しかし、吊り尾根の名だたる強風には吹かれなくて済んで助かった。大樺沢から吹き上げてくる風は強く冷たく厳しい。痩せた尾根上の一角に張ったテントなど簡単に持っていかれてしまう。テントに入ってからも落ち着かなかったが、そのうちウツラウツラ眠ってしまった。今回は新しく買い求めたインナーシュラーフのお陰で、厳しい稜線上にしては暖かくして寝る事ができた。十年来使ってきた冬用羽毛シュラーフはさすがにへたって保温効果が落ちてきており、買い換えるかインナーが欲しいところだった。おもいきって買ってきて良かった。ただその分荷が重くなっている。シュラーフは古くなって羽毛がへたっても重量に変化はないのだ。暖かい夜を過ごす為には昼間、それ相応の重量にあえがなければならない。本来ならば、寒さに強い体を日常の訓練で造って置くべきであろう。ところが私の場合、人一倍寒がりときて、早くから厚手の下着を付けている始末である。薄着で我慢しているとすぐ風邪気味となって声が出なくなってしまう。これではいけないと、実は去年、朝夕に上半身裸になって乾布摩擦を実行したことがある。何をやっても三日ぼうずの私が、これだけは半年続いた。秋半ばから始めて、かれこれ暖かくなり始めの四月頃に、もういいだろうと止めたのであった。当面の冬山の目標がシーズンオフで無くなったことによる。これをやってみて、結構効果はあったようだ。去年は風邪もひかなかったし、南アルプスを初めとして冬山や春山で体調を崩したことは一度も無かった。そんなにも効果抜群の乾布摩擦を今年はそのうちにそのうちにと思いながら、とうとう本番を迎えてしまい寒がりに戻ってしまっていた。こんなことでは冬山をやる資格はない。一流の登山家は遠征前に耐寒訓練をやるという。たとえば富士山の強い風の中でツェルト一枚かぶっただけで一晩じゅう横にもならないで頑張るそうだ。私などとても真似できることではない。ついに耐えかねて気が狂ってしまうかもしれない。それ程厳しい訓練である。一般にはそこまでは無理としても少なくとも乾布摩擦ぐらいの努力はしておくべきだろう。

朝を迎えてボーコン沢の頭は相変わらず風が強かった。テント撤収では、風に持っていかれないように十分に注意した。仮にテントが吹き飛ばされるような事があったら、ツェルトを持参していないので、山行は即中止ということになる。それはとにかく、無事撤収を完了して、いざ出発せんと行く手を見ると何時の間にか二人パーテイの姿があった。若い連中でどうやらクライマーのようだ。バットレスをやるのだろう。八本歯のコルの少し上の部分で登攀用具を準備中の彼等に追いつき、ちょっと声をかけてみた。第4尾根をやるという。夏は既に登っているが冬は未登とのこと。そこで、
「ここの岩は夏でも登れるのですか?」と聞いてみると、
「しっかりした岩なので夏は大勢やってますよ」と言う事だった。縦走できるに充分なザック(私のよりはるかに小さい)を背負って四、五時間で登り切るそうだ。大変なアルバイトと思ったので、
「私の方はただ縦走するだけで体力勝負だけど、クライミングは技術ですね?」と言うと、「いや、やっぱり体力ですヨ」と笑っていた。夏の暖かい時季ならいざ知らず、冬のこんな寒い中で岩登りなど到底私には出来ないナと思いながら、ともあれ健闘を祈って別れた。

いよいよ北岳の登りが始まった。風あたりが強いせいか、所々雪がついてなく、ガレ岩が露出している。アイゼンのツァッケを引っ掛けないよう注意してジグザグの登りを頑張る。やがて縦走路の分岐点に到着した。ここまでの登りでは大した事がなかったが、縦走路に出てみると西からの風が強く冷たい。暫く東側の岩影で休憩したあと、カメラだけを持って山頂を目指す。急な雪壁を慎重に登りきり、十分程で山頂に立った。前回はガスッていて展望は得られ無かったが、今日はまさに三六〇度の景観、それも独り占めである。仙丈ケ岳がそのカールを大きく見せている。間の岳の先に塩見岳。足元のバットレスは覗き見ることが出来ないけれども、若者二人が懸命に岩に取り付いていることだろう。

名残惜しいが先へ急がねばならぬ。下りは気をゆるめることなく慎重に歩を運んで分岐点に戻った。ここから山荘までは西側を巻いて行く。ほぼ夏道が露出していて歩行は比較的楽であった。この時季はそういうことはないが、腐った雪でも付いていると滑落の危険がある。山荘の脇まで下りてきて、さてなつかしの冬季避難小屋を覗いてみる余力も気力もなく、そのままザックを下ろすこともなく先へ進む。ほんのわずか五十メートル縦走路からそれるだけなのに、そして二階に上がって鉄の扉を開けるだけなのに、ただそれだけの動作でも無駄にエネルギーを消耗するような事柄に思えた。気ばかりが先に立って一刻も早く今日の宿泊予定地、農鳥小屋に入りたい一心である。あとから思い返して見ると、時間のゆとりはあったのだから、ここで重荷を解いて暖かいラーメンでも食べて、コーヒーなどをすすっていたら、疲れもどこかへ吹きとんで力強く歩を進めることが出来たに違いないのだ。悲しいかな単独行の心細さ、どうしても一歩先へと気が急いてしまう。そして例え晴天であっても風が強く冷たい中では食べ物を口に運ぶのも容易ではない。せいぜい魔法瓶のなま暖かい紅茶を飲んで甘いお菓子をつまむくらいだ。そんなことでは疲労は更に積み重なって歩行は益々苦しいものになってくる。こうして激しい運動による体力の消耗を長時間続けて、結局食欲を著しく減退させてしまうのだ。折角、日程と一日の行動に余裕を持たせていたのだから、山荘に寄るべきだった。わずか一時間の余裕が悔やまれる。

山に入って食欲がなくなるのは辛いものである。一日の労をねぎらい、たっぷり時間をかけて夕食を取ることこそ楽しかるべき山行の最も大きな要素の一つである。例え貧しい食事でも、かたわらでラジオの音楽が流れ星空を眺めながら腹一杯食べた時こそ無上の幸福を感ずることが出来る。これが明日への活力になって更に充実した山行が保証されるのだ。ところが山登りを始めた頃はなかなか食欲がわいてこなくて困った。その頃の体力が山歩きについていけないほど落ちていたのだろう。それに、単独行での緊張感から解放されなかったことにもよるだろう。とにかく、おにぎり一つ満足においしく食べられるようになるまで時間が必要だった。十年も山登りをやってきた今では普通の山行では食欲をなくするようなことは先ずなくなったが、日数をかけての縦走となると話しは別で、相変らず食欲を気にしなければならない。夏山での縦走なら、重いザックに耐えて何時間も歩き続けなければならない。たくさん汗をかくし、その分水の補給も必要となる。あまり水を飲み過ぎると、これも食欲減退の一因となる。体を極度にいじめ過ぎないようにザックの重量や一日の歩行時間を自分の体力と良く相談して無理のないようにする。小屋があればいろいろ利用すべきで、例えば、夏のシーズンなど沢山の人がおしかける時季は私はテントは持参するが食事を小屋にお願いする。そうすれば重い食料を担ぎあげないですむ。無人小屋であれば、重いテントの代わりに念のためツェルト一枚携行するだけである。

今回、重量の問題もあり、酒は控えた。山で晩酌すると翌朝、食欲が落ちるのだ。これは私自身の健康の問題なのかもしれない。普段の不摂生から内臓が老化してきているのかも分からない。高山での飲酒はその気圧の関係から酔いが早いと聞く。そんなに沢山飲める物ではないとも言う。私の場合は山で飲んでいて別段いつもより早く酔うと感じたことは無い。酔っ払いが自分は酔っていないと言っているような気もしないではないが、泥酔する程の量は担ぎ上げるのも大変で、今までにそんな体験は無い。ただ一度だけ八ヶ岳の行者小屋にベースキャンプを設けた時、紙パックの一升ビンを持っていったことがある。この時はいろいろな物をザックに詰め込み過ぎて、その重さに音を上げたものだった。ここを根城にして硫黄岳から赤岳へ縦走したり、阿弥陀岳に登ったりして二泊三日過ごしたが、行者小屋のあたりで高度は2300メートルから400メートルあり、さすがに全部飲み切れず半分くらい残して下山した。ついでながら、あの紙パックは一度開けるとキャップをきちんと閉めても漏れてしまうことが分かった。帰宅途中電車の中でザックを開けたら周りの物が濡れてしまって、パックは空になっているではないか! ただ不思議なことに酒くさいにおいがしみついていなかったことである。余談はさて置き、いろいろ思い返してみると酒は、またウイスキーなどにしてもある程度以上になるともう飲めない。体が受け付けてくれなくなる。ちまたで酔っ払って吐いたりするような大酒飲みの人でも恐らく途中で、いつもの半分も飲まない内から口へ運べなくなるのではないかと思う。しかも日中、相当の汗をかいた場合、相応の水分を補給しつつ或いは補給した上で飲まないと、後になってずいぶん胸苦しい思いをさせられるものである。酒は勿論暖めて飲むから血の巡りは良くなり、シュラーフに入ってからでも足の先が寒さを感じないで済む。けれども、ほんのわずか量を過ごしただけでも胸苦しさがついてまわり、二、三時間辛抱を余儀無くさせられる。時間がたってようやく胸苦しさがスウーッと引いてゆくのが分かって、やっと助かったと思う次第である。山で酒を飲む時は十分な水分の補給の上で飲む事、これはキモに銘じていた方がいい。

一方、ビールは私の体に向いているようだ。これはむしろ食欲を増進させてくれる。アルコール度が低いこともあり水分の補給にもなるのだろう。昼食のビールは最近では欠かせない。展望を味わい、ポテトチップスなどつまんでビールを流し込めばもう最高に幸せな時間を持てる。ちなみに、カレーライスとビールの組み合わせで力がもりもり沸いてくる。夏の穂高や槍の岩場の縦走では私の欠かせないメニューである。

山は朝が早い。可能なかぎり早く出立できれば、それだけ余裕もって行動出来る。ところが早く起きれば早いだけ食欲は出てこないものだ。幸い好天に恵まれた一日であれば、コーヒー一杯飲んだだけでテントを撤収し、暫く歩いて景色の良いところで炊事するという手もある。昼食も冷たい水と冷えた食料を流し込むのではなく、なるべくなら湯を沸かして暖かいお茶で食事したいものだ。食後驚くほど元気が出る。

さて、間の岳の山頂を踏むまではまだ余裕があった。目の前の高まりは山頂ではない、山頂はまだその先だという予感を何度も感じながら黙々と歩を運んで、ついに待望の頂稜の一角に立った。なかなか大きな山で、山頂の一角に這い上がって尚も広々とした稜線上を暫く行き、その先のちょっとした高まりに簡単な棒切れの立つ山頂があった。数年前の夏以来二度目の山頂であった。山頂の棒切れ越しに仙丈ケ岳が印象的にそのカールを見せていた。日本で第二位の高さを誇る北岳もここから見るとそれほど強いインパクトを与えない。間の岳自体が巨人なのだ。仙塩尾根を目で追うと、三峰岳が稜線上のちょっとした高まりに過ぎなくて期待はずれだった。問題はその先、塩見岳までの稜線である。一見、間隔はそれ程でもないと思えるが、見えない所に重畳とした部分が続いて一筋縄ではいかないはずだ。去年まではこの尾根を目指していた。憧れの尾根である。しかし今回は躊躇せず農鳥岳に向かうつもりだ。また今度は夏に来ればいい。

ところで、山頂に上がると風は一段と強くなった。重いザックも転がしておくと吹きとばされそうだ。周囲の景観を楽しみたい所だが、これでは苦しいだけである。写真を撮ると直ぐに下山を始めた。成るほど、これだけ広い山頂だと視界がきかない時は方向を誤るおそれが出てくる。農鳥小屋に下りるルートが二重山稜の一つで、余り右手に下りてしまうと上りかえすのに大変な事になる。

下りにかかって強風が時々突風になり極めて危険な状態になってきた。風が呼吸しているようで、一瞬の静まりに駆け出さんばかりに進んで行く。かなり前傾姿勢をとっても前に進まず、片足を上げたまま動けない格好となる。まるであやつり人形にでもなったようである。そんなふうに風と格闘していると下から若い人が上がってきた。大門沢小屋から上がってきて、今日は北岳山荘まで行くと言う。私も出発前の机上の計算で、奈良田から入山した場合の日程を考えて見たが、大門沢小屋から農鳥岳を経て更に間の岳を越して北岳山荘に一日で入るのには、並大抵の体力ではかなわないと判断していた。農鳥小屋がせい一杯と考えていた。しかし、この若者は足取りもしっかりと、あとわずかで間の岳山頂であった。連日の好天気で奈良田からの上りは順調だったらしい。ラッセルの労さえなかったら逆回りの方が安全性は高い。北岳山荘からの下山ならば例え悪天でも下れる自信はある。ルートを誤る心配が殆どないからだ。ただしかし、農鳥岳の稜線に上がるまでがラッセルされていなかったとしたら、その時は途中撤退を覚悟しなければならない。一人でラッセルなどとんでもないことで、稜線に上がるまで三日も四日もかかってしまうだろう。そのアルバイトたるや想像を絶するもので一人で頑張れるしろものではない。いつも単独行の私には何回かの苦い経験がある。天女山から権現岳をやった時や、内の萱から木曾駒ヶ岳に縦走した時など自分でトレースする苦しさを身にしみて感じたものだ。まして冬季に奈良田から入山する人は極めて少ない。しかも私の入山日の二十八日は、まだこの日に山へ来れる人は一般に少ないだろう。そんなことを考えて結局、例年どおり夜叉神峠から入ったのだった。これも結果論だが、彼の話しからすると奈良田から入っていれば三泊四日で縦走完了できたわけで、それ程苦しまないで済んだかもしれない。

お兄さんと別れて私はもうすぐ下に見えている小屋に入るだけだと心がはやる。しかし勇んで下って行こうとするが強風でなかなか意のままにならない。時には這いつくばるようにしてやっとのことで小屋に到着した。時刻は二時をちょっと回っていた。下りで思わぬ苦戦をしたが、小屋に来て見ると風は無い。西風が直接当たらない場所であった。ところが、今日は小屋の中にはいってゆっくり寝られると思っていたのは甘かった。とんでもない。小屋は皆、深い雪に埋まり、利用できるものは一つも無い。窓から入りこむのかと家のまわりをぐるぐる回ってみたが、それも不可能だった。農鳥小屋は冬季解放をやめたような記事を今になって読んだような気もしてきた。仕方がない、テントを張るしかない。疲れがどっと出てくるようだ。風も出てきた。風向きが変わったせいだろう。それでも雲はなく太陽が落ちてからも星空で月も出てきた。これで天気は悪くなるのかな?と、むしろ楽観的に考えたりウトウトしながら大晦日の朝を迎えたのであった。
 早朝の四時に隣のちょっと離れたテントから、コッヒエルをガチャガチャさせて炊事する音や張り切った声々が聞こえてきた。このパーティは四、五人づれで、内一人が女性のようである。昨日やっとテントを設営完了して休んでいた16時頃、間の岳方面からやって来たパーティであった。私はその後、テントの外へ出なかったので顔は合わせていない。それより先、テントの中から居ながらにして前方に間の岳を覗き見していた時、斜面を二人パーテイが降りてくるのを認めたが、彼等はどこに行ったものか? あの時間だと農鳥岳を越えて行くのは無理と思うが…。

今日の行動については天気が崩れる予報だったので、無理せず停滞を決めて休むつもりだった。しかし、風は相変わらず強く、テントの中にいても終日落ち着かないのは嫌な気分だったことと、意外に空模様が明るく月も残っており星さえ輝いていることで、出発しようか、否かで私の気持ちは揺れに揺れた。一度はシュラーフをまるめて出発の準備をしようと立ち上がったのに、この悪天では危険が大きいと又シュラーフにくるまって沈殿を決め込んだりした。そして五時を過ぎ連中の声が遠くに消えて行くと、何故か取り残された気分になり、こんな中で一日をムダに過ごすのももったいなく思えてきて、それならいっそのこと挑戦するだけ挑戦してみようと片隅に残る不安を払拭して立ち上がった。なんといっても小屋の中に入れなかったことが大きな理由となっていた。小屋が利用できていたら一日や二日辛抱もできようが、この強風の中、狭いテントで時間をつぶすのは考えただけでも苦痛であった。今回の山行の二泊目のつけ(北岳山荘まで頑張れなかったこと)が回ってきた感じである。

それはとにかく、意を決してザックをまとめテントを撤収した。出発の7時頃になって何時の間にか薄雲が覆い、成るほど先行き天候の崩れを思わせた。しかしまだ、目の前の西農鳥岳ははっきりと姿を見せている。”汝、臆することなかれ!“という気構で勇躍とテントサイトを後にした。ところが、すぐに稜線上に出ると風が思いのほか一段と強い。仰ぎ見る西農鳥岳の稜線は狭く厳しく、果たしてあんな所を歩けるのかと心配になる。少し進んだだけで、もう嫌気がさして止めようかとも思う。優柔不断なはっきりしない気持ちの儘に少しずつ歩を進めて、結局、気が付いたら急勾配の登山道に取り付いてしまっていた。ここまで来たら、もう後戻りはしたくない。気合いが入ってきた。突出した稜上に出るとザックごと風に持っていかれそうで必死である。殆ど地を這うような格好で一歩一歩着実に進んで行く。ピッケルで耐風姿勢を何度とったことだろう。数年前に冬の八ヶ岳を赤岳から北へ縦走した折、根石岳の手前と天狗岳の手前でもの凄い風に遭遇したことがある。風の強さもさる事ながら、その冷たさはキリキリと肌を差す程でスキー帽をかぶった上に冬用ヤッケのフウドをおろしていても、寒風を受けて額が見る見る凍って砕けてしまうような怖い体験であった。その時は持参していたもう一枚のスキー帽を重ねて事無きを得た。手袋も三重に防備した。そして生きた心地がしなかったのは、強風で露出した地面を嘗めて這いずるような必死の行軍にもかかわらず、一瞬バランスを崩して岩塊に叩き付けられてしまった時である。岩にしがみついて吹き飛ばされるのを何とか防ぎようやくの思いで切り抜けたのであるが、その時の膝の傷跡がつい最近まで大きく残っていた。そこはどうやら名だたる風の通り道だったようである。それとまた、東北の鳥海山に登ったときも八高山の手前で酷い目にあったことを思い出す。狭い尾根上に容赦の無い横殴りの風が吹き付けていた。引き返すのも残念なので、思い切ってその中に飛び込んで格闘したのであった。首尾よく通り抜けられたから良かったものの、ことによったら尾根から転げ落ちていたかも知れず、思い返してもゾッとする体験であった。

何時の間にかガスが山を覆ってしまっていた。岩影で一休みしてから更に登って行くと、ルートは右に回り込むようになる。そして急な雪壁のトラバースが待っていた。そこは風のいたずらか、雪庇のようになっていて通過には十分な注意を要した。言うまでもなく、その雪庇の下は断崖である。

トラバースのあとは再び岩稜上の風との闘いが始まった。まさに、3000メートルの岩の稜線を蟻の如く、またイモリの如く這いつくばって必死の行軍である。上部を行くようになると雪は強風で吹き飛ばされてしまっており、夏道のジグザグをそのままなぞって行く。風は西側から吹きつけてくるので、時として左に断崖絶壁を見ると登山道を歩くのが恐くなり、西の斜面を少し下りたハイマツの中を斜登行したりして安全を期した。大きな岩に辿り着くと、それにしっかり掴まって風に耐え荒い呼吸を整えて更に先へ進んで行く。そうした最中でも大変な所に来てしまったと言う重苦しい気持ちが絶えず頭をもたげた。周囲は既に灰色の世界である。抑え切れない不安を感じながら、それでも時間を冷静に計っていた。時間に見合った体力を、余力を計算していた。実は自然との闘いと同時に自分との闘いでもあったのだ。そして、見事それにうち克った。出発してから一時間が過ぎて、狭い岩稜を右に回り込み平らな部分に出たと思ったら、そこが西農鳥岳の頂上だった。あっけなかっただけに嬉しさも格別であった。これで助かったと思った。悪天の中で夏のコースタイムとあまり変わらずに山頂に立てたと言う事で、先ゆきを案じる事もあるまいとホッとしたのであった。希望的観測で風からも解放されるだろうと思った。事実、これより先はさほど風に苦しむことは無かった。吹き飛ばされて転落する危険がほぼなくなったのである。

しかしながら強風下の山頂からは北岳や間の岳、塩見岳などの山々が眺められた割には、これといった印象も得られない内に次の農鳥岳を目指して、ザックも下ろせないままに進んで行かざるを得なかった。昨日の間の岳と同様、何年かぶりの山頂の感慨を味わう余裕はなかった。標識に従って、ほぼ、西側につけられた縦走路を下って行く。これより農鳥岳までは最初、かなり下ったので登りかえしが大変と思えたが、実際にはそれほどでなく、高まりを二つ三つ越えたら山頂であった。縦に細長い山頂で小さな祠があった。祠に向かって手を合わせ山行の無事を感謝し成功を祈った。

さて下山であるが、これまでペンキの指導標が随所に読み取れたのに、この山頂から先はまるきり不案内になってしまった。岩稜通しに降りてみても、どうもルートらしきものが無い。行ったり来たり周辺をぐるぐるまわって見ても手掛かりを発見できなかった。さあ困った。ここまで来てとうとう行き詰まってしまったのである。西側の斜面を少し下りて必死に目をこらしてもルートらしきものは無い。あまり下りてしまうと登り返しに苦労するので、だいたんに下の方まで行って確認することもできない。しかしこちら側のむきだしになった露岩からはペンキ印も読み取れなかった。とすると、岩の稜線上を辿るか東側を巻くしかない。ただし、東側は吹き溜まりとなって、しかもかなりの急斜面である。滑落の危険がある。重苦しい気分に包まれて進退極まったかに見えたが、一旦山頂を稜線ごしに下って小さな鞍部から右に下りてみたら、ルートらしき形状が斜面を削って南に続いている。すがるような気持ちでこれを行くと案に相違してどうも道らしくない。次第に不安が膨れ上がってきた時に、ふと左の稜線上を見上げると何と方向指示標の棒が立っているではないか! 勇躍してこの斜面を駆け上がり周囲を観察すると、果たしてアイゼンの跡も残る縦走路であった。ああ、助かったと思わず万歳をしたのであった。この頃には既に飛雪どころではなく、風雪となって視界を著しく閉ざしており、標識棒を発見できたのは本当に幸運だった。しかし、その幸運にいつまでも浸ってはいられなかった。重大な決断を要するポイントが実はすぐこの先に待っていたのである。

標識点から縦走路ぞいに岩稜を下って行くと鞍部に出た所で指道標識が頭をのぞかせている。先行者が雪に埋もれていたのを掘り出して確認したものと思える。下降点と書かれたその標識はまだ新しく設置されたばかりのようであった。これはこれで間違いは無いのだろうが、どうも大門沢の下降点にしては距離的に早すぎるような気がする。まだずっと先だと思っていただけに急に出現した下降点に戸惑ってしまった。しかも下降すべき東側はまったくのホワイトアウト。足元の雪の色と空間の白の区別が全然できない。じっと待っていると下の方にうっすらと岩塊が現れて直ぐにまた白霧の中に消えていった。どうやらこの下は緩やかな斜面のようだ。指道標は縦走路をそのまま進むように示していない。小河内岳方面への道は昭文社の地図では斜線になっていたのを思い出した。だとすると、やはりこの下降点から降りてあらためて大門沢の下降点を示すヤグラを探せばよい。それにしてもこんな風雪の中で首尾良くルートを見つけられるのか? ここでテントを張って一日様子を見た方が賢明ではないか? あれこれ思案に暮れている中で、ひょっとしたらこの決断が生死を決定するのではないか、今重大な岐路に立っているのかも知れないと内心感じていたのであった。

ビバークするにしても風の強いこの稜線上ではなく、少しでも下った方が無難だろう、というのが実はこの下降点から降りる決断の有力な根拠になった。白一色の中にまだ逡巡する気持ちを引きずりながら、足だけがどんどん突っ込んで行く。まことに危険な行動といわざるを得ない。緩やかな斜面からハイマツの急斜面を駆け下り、ついにガケっ縁に来てようやく視界がきいてきた。右へ右へとこれを避けてゆくと、右側上部から尾根が落ち込んでいるのが見えた。正しくはこれが下山ルートの尾根だったのだが、その時の私の判断は、これは小河内岳から派生している尾根だろうと言う事だった。確認して見ようかとも考えないではなかった。けれども、あの尾根の頭に出るのには途中深い雪にはまりながら登り返さなければならない。相当のアルバイトが必要である。そして何よりもその正しい尾根まで登り返さなかったのは、ここまで迂回して通り過ぎてしまった岩尾根は厳しいガケだったにしても、下山ルートはうまくその岩をヘズリながら続いているのだろうと言う誤った認識があったからである。そこから得られた結論は、私が間違って仮想した(下山の)尾根と正しい(下山の)尾根との間、すなわち谷を下る事であった。大門沢小屋は尾根の末端にあり、谷川のすぐそばに建っている。従って、何時かは必ずその地点に達するはずである。そのように納得すると、もしかして私は大変な間違いをおかしているのではないか、という意識を敢えて振り払いながら谷を駆け下りて行った。あたかも力強く下りて行くことで、その意識が不安に変わるのを押し止めようとするかのようであった。ただし、凍結した岩の斜面の下降は十分に注意を払った。雪の付いた急斜面に来ると、最初から縦に一直線に下るのは恐いので、雪崩に気をつけながら斜めに下って足応えを試した上で、今度は思い切って尻セードで一気に滑り下りた。股の間に雪が溜って適度の制動効果をもたらし、ピッケルでの制動と合わせて決してスピードが出過ぎるようなことはない。それよりも股下の雪がズルズルと動き出して雪崩のように落ち出した時は恐ろしくなり、上からの雪崩の方が気になった。

左手から入り込んでくる谷があると、小屋が近いのではないかと言う期待がかかる。しかし、次々に入ってくる谷は切れ込みが小さくてガッカリするのだった。小屋の前には大きな沢がある筈なので、小さな谷の発見ではどうしようもないのだ。その後、凍結した滝のような箇所に出た。さあ、おいでなすった! 20メートルはあろうか、ここは後ろ向きになってアイゼンとピッケルを氷に叩き付け慎重に一歩一歩下りてゆく。

下るに従って風雪は衰え谷の傾斜も緩やかになり、それにともなって尻セードも利かなくなってきた。アイゼンを外しワカンジキを持ってこなかったことを悔やみながら、深くなった雪に手こずりつつもゆっくりと下りて行く。急傾斜の谷を無事滑り下りてきてホッとしたと同時に、さっきは危機の中にいながら、滑降そのものに夢中になって戯れていたのを思い返して、一人苦笑を禁じ得なかった。

前方に沢の流れる音と共に、白一色の中に黒い筋が目に入ってきた。有り難い。早速ザックを下ろして手で水をすくって飲む。冬期の井戸の水のように暖かかったのは以外であった。何日ぶりの沢水だろう。雪を融した味気無い水ばかりだと清水が飲みたくて、喉の渇きは切実になってくるものだ。かすかな渋味はあったが、これで元気が出てきた。まだ二時前だ。さあ、頑張るぞと立ち上がったのであるが、この先が問題だった。雪がかなり深くなって歩行が捗らない。腰までもぐるようになってくると、ひっくり返ったり、いざって歩いたり、もう散々である。下方を見ると、この沢は百メートル先で逆『く』の字に曲がっており、この分だとそこまで明るい内に到着するのは不可能に思えてきた。それなら今の内にと、沢の真ん中の雪崩の危険の少い場所にテントを張ることにした。深い雪を整地するのには時間がかかったが、とにかく波乱の今日一日はこれにて終った。勝負は明日だ。とことん、この沢を下ってみよう。何とかなるだろう。

テントを設営し終った時に、ふと上を振り向くと二人の若者パーティの姿を認めた。丁度一休みして立ち上がったところだったようだ。私と同じ様に谷を下りてきて、あそこにテントを張るのかなと見ていると、二人はザックを背負って谷の右岸ぞいに下り始めた。今日の内に大門沢小屋に入るつもりらしい。あっという間に姿を消した若さが羨ましかった。私にはそんな余力は残っていない。彼等は、きっと尾根筋の正しい下山ルートを忠実にたどっている間に、谷間を歩いている私を発見して下りてきたのではないかと思う。尾根筋の雪のラッセルに戸惑って滑り下りて来たのではないか? いずれにしても私としては仲間が増えたような嬉しい気持ちになり、明日はなんとかなるような気がした。

先程、尻セードで下降した折り、どうやらテント内に敷く銀マットを落としてきたようだ。しかし、エアマットがあるので何とかなる。ゴアテクスの行動着もさすがに上下ビッショリ濡れてしまっている。ザックも雪まみれになっていた為にテントの中はかなり湿っぽくなってしまった。素早く着替えをして食事をとるが、激しくも厳しい歩行の連続だった為か食欲が無くて困った。なるべく流動物にして無理やり流し込んだ。ラジオで紅白歌合戦を聞く。

元日の朝は快晴だった。真ん前に富士山が浮かび、その山頂の右端から初日の出が昇った。さあ、今日は帰るぞ!

テントに付着した雪が凍りつき、他にも濡れがひどくなっていてザックはかなり重たくなっている。テントを撤収して最初の一歩からズブリと腰までもぐる。辛い辛い行進が始まった。沢床に下りて歩くと容易だが水濡れに気をつけなければならない。飛び石を伝っていったり、行き詰まるとまた雪の中で格闘したり、逆『く』の字の地点まで来るのに一時間もかかってしまった。これは大変なことになった。もし考えた通りの場所に大門沢小屋がなかったら、更に谷を下ってゆかなければならない。こんな状態だと今日一日ではこの谷を突破することは不可能かもしれない。ザックの中は濡れ物が多い。もし自力脱出を諦めるなら、濡れによる体力の消耗を少しでも防ぐ必要がある。その為には日が当たっている間にテントを張って乾かしておくべきだ。またそれに適した場所を探しておかねばならない。

下方を見ると左側から尾根の一端が落ち込んできて、この本沢は右に方向を変えていた。その手前の部分が平坦地になっていて、そこは日が当たっている。だいたい百メートル下方である。あと一時間はかかるだろう。とりあえずそこまで頑張ってからその後の対策を考えることにした。だが、右側の尾根(実はそこに下山ルートがある)もその地点に落ち込んでいて、どうも気掛かりである。道を失っても絶対谷に下りてはならないというのは、いずれは滝に阻まれて万事きゅうするからだ。あの地点に滝があるのではないか? もしそうだとしたら、左右どちらかの尾根に這い上がるしかない。左側の尾根に正しい下山ルートがあると想像していた私は、当然にも左側の尾根に取り付くことを考えていた。そしてそういう事態になることは今日中に下山することを完全に諦める事であった。

その地点が遅々とした歩みながら近づいてくるに従って、右側の尾根に乗った方が危険がより少ない感じを持った。小動物の足跡がここに来て右側の樹林に入り込んでいる。今までの体験で動物の足跡を追って登山道を探し当てたことは度々ある。これを行けば何とかなるのではないか、直観的にそう思った私はそれまで沢の左岸を歩いていたのを、うまく雪のブリッジを伝って右岸に出た。この辺りでは既に沢の流れは大きなものとなっていた。沢が右に曲がり込む手前にも小動物の足跡が林の中に続いている。もう迷うことなく沢から離れ、その後を追った。今朝出発して以来ちょうど2時間が経っていた。

林の中に入って少し登った所で、前方の木陰に何か茶色の人工物を見た気がした。一瞬、ついに錯乱状態に陥ったかと驚いたが、直ぐにそれが小屋の屋根の一部であることを再確認した時、本当に飛び上がって喜んだのであった。心から万歳を叫んだものだ。助かった。本当に助かったのだ。我が家に帰ることが出来るのだ。良く見ると、この尾根上に踏み跡がずっと続いている。ここで初めて下山道である尾根の手前の谷を下ってきた事に気付いたのであった。

小屋は清潔できれいに掃除されていた。ザックをおろして休息する。これをもって私の今回の小冒険は終りを見た。終わってしまえば大した事ではなかったように思える。しかし一歩間違えれば遭難の憂き目があったであろうことも事実である。肉体的な疲労やつのる不安との闘いは苦しいものであった。ただひとつ、日程に余裕があったから、まさにそれが心の余裕につながって大事に至らずに済んだとも言える。冬山の単独行の厳しさをあらためて思い知らされたのであった。

小屋からは明瞭な踏跡を辿って奈良田に到着は15時ちょっと前。最終バスは30分前に出た後だった。去年はバス停前の河原にテントを張り、翌朝一番のバスに乗ったのだが、今回はとにかく我が家に一刻も早く帰りたかった。タクシー12000円也で下部へ。甲府まわりで元日の夜、帰宅。























































最終更新:2014年04月05日 21:54