野試合SSその1

最終更新:

dangerousss3

- view
管理者のみ編集可

野試合SSその1

 穢れた魂が堕ちる先、永劫の責め苦を亡者に課す地の獄に、雨竜院雨雫(うりゅういんしずく)はいた。細く白い肢体は醜く変色して膨れ上がり、ここが死を許されぬ地獄でなければ誰もが腐乱死体と思うだろう有り様。
 忌まわしい兄の魂にここへと引きずり込まれたことも、嘗て雨弓への再会を情に流され放棄した自分も、もはや恨んではいない。いや、彼女はほぼ全ての思考をずいぶん前にやめていたのだ。意識は暗い暗い泥の底、「無」に還ったのとそう変わらぬ状態にあった。

(雨弓君……会いたいな……)

 今はただその一念だけが、雨雫の意識が更に深きへと沈むのを食い止めていた。
 その地獄は突然、淡い黄色の光に包まれることになる。

†††††

 雨に包まれた街の一角に、その「廃ビル」は佇んでいた。
 野試合の会場であるそれは言葉のイメージにそぐわず立派なもので、広い敷地内には小さな緑地やレストランホールも備えられている。
「見た目は豪華ですけど、美術館や旅館なんかと違って元から誰のものでも無いので、思う存分暴れて壊しちゃってください!」とは試合をプロデュースした佐倉光素(こうそ)の弁。

「ただいまより雨竜院雨弓(あゆみ)聖槍院九鈴(せいそういんくりん)の試合を開始します」

 上空のヘリからのアナウンスが雨音の中に響き渡った。

(外にはいねえか……)

 敷地の正面入り口から少し入ったところで雨竜院雨弓はそう呟いた。偉丈夫そのものという巨躯を黒いローブで包み、得物でもある赤い武傘(ぶさん)「九頭龍」を差している。その位置から屋内を除く試合場全域を()()()()彼は、眼前の高層ビルへと歩を進めた。
 屋根の下に入るが、傘を閉じることは無い。無論、この中に敵が待つことが明白だからだ。この日のために整備された自動ドアが音も無く開き、雨弓を中へ迎え入れた次の瞬間、彼の眼前には歓迎の第二陣が待ち構えていた。
 雨弓の立つ位置を放射状に囲うよう、エントランスホールの至る所に設置された数十のボウガン。それぞれを固定していたトングの全てが一斉に掴んでいた弦を離し、そして矢が放たれる。

「ハッ……」

 同時に迫る数十条の矢を前に何でも無いという顔をする雨弓。彼の視線は前方の矢の群れへと向けられているが、実際の注意の対象は頭上にあった。

 コウモリの如くに天井からぶら下がり、彼を見下ろすのは両手にトングの赤い袴姿の女――聖槍院九鈴。トングで掴んだ物を何があっても固定する能力『タフグリップ』を持つ魔人である。矢を固定していたトングの『タフグリップ』を全て同時に解除し、発射に合わせて頭上からの不意打ちを仕掛けんとした彼女だが、自身の存在がバレていることにもこの時点で気づいていた。

(殺気が漏れてた? それとも……)

 雨弓は九鈴の思考を遮るがごとく、彼女を見上げて跳び、九頭龍を回転させながら突く。対空の雨月(あめつき)――逆雨(さかさめ)
 雨弓を貫くはずだった矢の群れは閉じかけたドアガラスを粉砕し、その向こうへと消えていった。

「ふんっ!!」

 九鈴もトングで掴んでいた天井を離し、落下しながらトングを繰り出す。カウンター攻撃では無い。2人の得物が交差する瞬間、九鈴は高速回転する九頭龍をトングで横から叩く。その反動で落下の方向が逸れ、九頭龍の牙は九鈴の前髪を数本切り落とすだけで空を切った。
 あの体勢で正面からぶつかっては不利との、九鈴の状況判断による回避である。

 硬質の床に両者はほぼ同時に着地する。お互いに睨み合うが、雨弓は獣が牙を剥いたように嗤い、対して九鈴は僅かに眉間に皺を寄せ、殺気を迸らせていた。

(流石雨弓さん……雨雫の技より疾くて鋭い……けど)

(私、ちゃんと戦えてる……あの頃とは違う。ちゃんと、戦うべきだから戦ってる……)

 狂気に呑まれて暴を撒き散らすのでは無い。理性ある戦士として、高潔な清掃員として、今の九鈴はあることが出来た。

(童貞こじらせたこの人を筆下ろししてあげるために……私は勝つ!)

 戦う理由は、どこかおかしかったが。

(SEXはともかく、楽しませてもらうぜ……九鈴)

 2人の闘志に呼応するかの如く外の雨脚は激しさを増し、破壊された入り口からは勢いよく風雨が入り込んできていた。

†††††

「お互い傘とトングという日用品を武器とし、何やら因縁があるらしい2人。
 ファーストコンタクトはどちらもノーダメージでしたが、緊張感ある幕開けでしたねー。どう見ますきららちゃん?」

「2人共カラテは相当なものだね! あたしも戦いたいくらい!
 でも、今の感じだと接近戦ならあのお兄さんが有利かな?」

 スタジオにて、中継されてきた映像を見ながら司会の佐倉光素と解説の埴井きららがそのように述べる。

「あの()は、リンダと戦ったときみたいに剣を掴んで投げればいいんじゃないオカマッ」

「馬鹿ね、私とあの傘使いじゃ同じ突き技でもまるで別物よ」

 ゲスト解説員の席に座る「3つ子の女騎士・ゾルデリア」の2人が意見を述べる。異世界からやってきたという設定で大ブレイク中の彼女らは光素やきらら、今戦っている2人とも縁があり、こうして番組に呼ばれているのだ。

「あら~みんなカラテがどうとか言ってるけど、大事なことを見落としていない?
 あの子、童貞なんでしょ? もったいないわねえ、顔はいいのにオカマッ!」

 そう言うのはゾルデリア三姉妹の長女(という設定)・カイエン。女騎士のはずだが、その身体からはなぜだか老人臭が漂っていた。

「なるほど、あの女は『ZTM』を容易く破る性技の持ち主。童貞じゃ相手にならないわ」

「そうね。処女の姫将軍や探偵がオークやチャラ男に勝てないように、童貞はビッチに勝てないオカマッ!」

 そう言ってうんうんと頷く女騎士3人組。きららは「大人って汚い」と心中で呟き、想い人・真野八方の姿を思い浮かべていた。

†††††

 ビルの入り口付近では先程の空中戦以降衝突も無く、両者一定の間合いを保ったまま睨み合いが続いていた。

「ヘクシュッ! 誰か噂でもしてんのかね……まあいいや、行くぜ」

 全国に童貞だと発信されているなど露知らない雨弓がそう言うと、その身体は周囲の大気に溶けるように消えてゆく。九鈴は落ちている矢を掴んで投擲するも、何事も無く彼の像をすり抜けて向こう側の壁に突き刺さった。

(『睫毛の虹』……)

 大気中の水分を利用して光の屈折を操り、幻影を見せる雨弓の魔人能力である。ドアが吹き飛んだ入り口からは雨風が吹き込み、周囲の大気は能力の使用に十分な水分を含んでいる。
 九鈴はこの能力を知っていた。試合を見たからでは無い。物心つく前からの付き合いがある2人だ。子供の頃から雨雫と共に幾度と無くその能力を見てきており、弱点についても勿論同様に。
 睫毛の虹が生み出せる幻覚は光学的な範疇に留まる。視覚以外を欺くことは出来ないのだ。

(感覚を、研ぎ澄ませ……)

 九鈴は雨弓の気配を捉えようと神経を集中させた。
先程の九鈴がそうだが、不意打ちは露見していれば即自分がカウンターという逆不意打ちを喰う危険を孕んでいる。雨弓の方も、視覚以外で察知される可能性は警戒しているだろう。

(音……床の振動……)

 耳に神経を集中させるのみならず、袴の裾に仕込んだトングの先を床に垂らし、振動を感知しようとする。地中のゴミを探す際用いる手法だが、傘術には「蛟」なる無音移動術があり、滑走にも似た足運びによるそれはリノリウムの床とは相性が良すぎた。

(どこにいる……)

 雨弓の気配を探る九鈴の姿――それはおよそ一切の流派に見たことも聞いたこともない奇怪な構えであった。トングを持った両腕を交差し、それぞれの閉じられた先端を腰にぶら下げたトングが噛み、『タフグリップ』で固定している。その状態で、九鈴は自身の剛力を以ってトングの合金が破断する寸前まで力を溜めていた。

(……!)

 九鈴の鼻孔をくすぐる微かな臭い。雨に降られて家に帰った時に感じる、濡れた衣服の生臭さ。雨竜院家(かれら)の前では言わないが、九鈴はそれが嫌いだった。
 九鈴の右斜め後ろに、雨弓はいる。

「疾ッ!」

 後ろへ跳び、振り返りながらの『タフグリップ』解除――抜遁(ばっとん)。それは雨弓が九鈴へ向けて九頭龍を突き出した直後のことだった。白い首筋に赤い線を引きながら、またしても九頭龍の牙は空振りに終わる。
 最大限の溜めから生まれる超速の斬撃に対し間合いに入られた雨弓は身を引くも、トングの先端は右脇腹から左胸にかけてを斬り裂く。ローブが血に染まるが、雨弓の分厚い筋肉の前では薄皮を斬ったのと大差ない。

(痛えなあ! ……ん!?)

 九鈴の斬撃の狙いはそれ自体によるダメージに留まらず、躱されてもすぐさま次の攻撃に繋げることにあった。閉じていたトングの先端は一瞬で口を開け、ローブの襟を咥える。蟹の鋏脚(きょうきゃく)が如き両手のトングの実態は、無限の咬合力を持った悪魔の顎門(あぎと)に他ならない。

(ハハ、やっべえ……!)

「らああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 正面から見上げる九鈴――九鈴の背中――頭部――天井――向こうの壁――、雨弓の視界に映る景色は凄まじい速さで流れてゆき、そして最後には床が迫ってくる。
 ビル全体を揺らす衝撃と轟音を発し、巨大な槌を打ち付ける「魔人」聖槍院九鈴。
 ホールのガラスの大半が砕け散り、広範囲に広がる亀裂の中心には隕石でも落ちたかのようなクレーター。その中に、2人の姿はあった。

「ぐっ……!」

 投げた側の九鈴だが、道着の右肩から大きく裂けており、鎖骨のあたりから流血していた。

「今のは効いたなあ!!」

 雨弓が言う。受け身を取り、倒立姿勢の彼を九鈴は再び投げようとするが、その前に雨弓がカポエイラめいた体勢で蹴りを放つ。
九鈴はガードするも勢いは殺せず、掴んでいた襟が引きちぎれてビルの外まで吹き飛んでいった。

†††††

「どうして投げた聖槍院選手が負傷を?」

「ふふーん、ちょっと投げる瞬間、九鈴さんの肩のあたりをクローズアップで再生してみて!」

 スタジオで困惑する光素に対し、きららの指示通りに再生が始まる。

 襟をトングで掴まれた雨弓は九鈴が投げに入る瞬間、腕を伸ばしきった状態から九頭龍の柄のカギ状の部分を九鈴の鎖骨に掛けていたのだ。九鈴はそのまま投げた結果自分の技の勢いで鎖骨を骨折し、雨弓の肉体への破壊力も軽減されていた。

「なるほど、突こうとしては間に合わないと判断して……それもあの一瞬で」

「恐ろしく速い手際……きららじゃなきゃ見逃しちゃうね」

「カメラに映ってるんだから誰が見ても同じ……アイタッ! 何すんのリンダ!」

†††††

「すっごいねー、この人達」

 白詰智広はテレビ画面に映し出される戦闘の模様を見ながら、すぐ近くの男に同意を求めた。

「ああ、本当だね」

 智広の視線の先にいる男――赤羽ハルはなんとなしに、それでも無関心というわけでは無い様子で同じく画面を見つめている。戦う2人は共に、ハルと同じく改変前の世界でのトーナメント――キング・オブ・トワイライトの参加者だ。特に聖槍院九鈴は一回戦の対戦相手の1人で、今まさに披露しているトング道には苦戦させられた。三つ巴であったこと、高島平四葉の戦力があまりに規格外であったことに救われ結果的に自分が勝利したが、高島平四葉が現れなければ勝てていたかはわからない。
 以前の世界では弟に手をかけた自分を憎み狂気に走っていた九鈴も、今の世界では家族と幸せに暮らしている、らしい。対して雨弓は恋人を生き返らせることが願いであり、そして改変後の世界においても、その恋人とやらは生き返ってはいないという。

「どうしたのハル君?」

「ああいや、何でもないよ」

 突然じっと顔を見つめられた智広がやや恥ずかしげに問うのでハルは慌てて誤魔化した。

「そろそろシチューの具合を見ないとね」

 台所でコトコトと音を立てる鍋の蓋を取り、アクを掬いながらハルは考える。もしも智広さんが死んだら、と……。彼女が死に瀕していた事実、彼がそれを阻止するため戦った過去からすればろくでもない想像ではあるが、しかし今は健康体な智広も突然に、今度こそ喪ってしまうことだってあり得る。勿論ハルに置き換えても言えるが。
 ――もう「負債」は解消されているけどそれとは別に、智広さんが死んだ世界で俺は生きていけるかな? 後を追って命を断つかな、でもきっと同じところへ行けないだろうな――。
 あまりにも暗い方向へ向かいそうで、ハルは一旦考えるのをやめる。智広は後どれくらいで出来そう? と嬉しそうな顔で訊いた。
 それでも、以前の世界でそうだったようにハルは思う。もしも自分がこの先死ぬことになるなら、智広には――。

†††††

 2人の戦闘はその舞台を屋外に――ビルの壁面に映していた。両者とも壁で、それもはりつくのでは無く地面に水平に立って戦っているのだ。
 九鈴は足で巧みにトングを操り、壁の凹凸を掴んで立っている。雨弓は足の指で同じことをして。指の力もそうだが、全身の恐るべき筋力と体幹の強さがあって成せる業であった。
 しかし戦いは、九鈴が優勢だった。壁面を大地の如く縦横無尽に駆けまわり、雨弓にも有効打を幾度か入れている。『タフグリップ』による固定に加え、「掴み」を骨子とする武術の達人である九鈴に対して雨弓のそれは素人芸と言わざるを得ない。「蛟」も使えず、不利な戦いを強いられることになっていた。

「それでも、なかなか綺麗に投げさせてはもらえませんね……」

「ははは、投げにくいのを投げる、突きにくいのを突くから面白いんじゃあねえの?
 お前に対抗しちまって壁面(ここ)に来たのは失敗だった気もするけどよ」

 苦しい状況にも関わらず、雨弓の言葉は余裕だ。戦いに関して言えば、雨弓は苦境を楽しむ男である。

(それに、お前も来たのは成功なのか……?)

 「路上の柔道はマジヤバイ」の言葉が示す通り、投技は叩きつける強固な大地があって活きるモノである。ガラス窓が規則的に嵌め込まれたこの壁面でその戦法は大きく制限される。無論地上に投げ落とすことは可能だが、パラシュートに使える武傘と雨弓の頑強さを考えればダメージを与えられるかも怪しい。

 スタジオで見ているきららも、九鈴の選択に疑問を覚えていた。確かに現状移動力の差で有利に戦えているが、しかし決め技を放棄してまで手にしたい地の利なのか、と。

(不審に思われてる……かな?
 それにしても、不利なのに楽しそうだな雨弓さん。やっぱり好きなんだなあ、戦うのが)

 稽古や試合ならともかく、九鈴は実戦を楽しいと感じたことは無い。前の世界では、ただただゴミを掃除する――その一念で動いていたが、こうして平和な世界で雨弓のために戦う今は――。

(勝ったら、雨弓さんとエッチ……雨弓さんの(多分)おっきなおちんちん……)

 その先に手に入るものに思いを馳せることで、戦いに歓びを見出そうとしていた。

(でも、その前にちょっとサービスしてあげよう)

 九鈴はそれまでよりも腰を下ろし、足をさっと開く。雨弓は、気配を完璧に殺していたはずの自分の奇襲に完全に気づいていた。何故か。雨弓の「睫毛の虹」の真髄は光の屈折を操ることにあり、雨弓はそれによって通常なら目に届かない角度の対象をも見ることが出来る。幼少の頃、雨弓が自慢気にそうした応用を見せていた。無論それは戦闘においても非常に有用であり、例えば自分が背に何かを隠していても、事前に知ることが出来るのだが、今、雨弓には見えているはずだ。
 ――先程割れたガラスに引っ掛けてしまった袴の穴から、自分の生尻(九鈴は着物の時はノーパン)が覗いているのが。

「九……っ」

 雨弓の顔がサッと赤くなる。尻が見えただけならともかく、先日あんなことになった相手であること、また、覗きめいた形で見えてしまった罪悪感も手伝っていた。

(やっぱり童貞ですね雨弓さん……可愛い反応。
でも、隙あり!!)

 壁面を離し、九鈴は跳んだ。自ら宙に身を投げ出したことに雨弓は些か驚くが、更に次の瞬間、彼は目に見えぬ何かに強大な力で身体の自由を奪われるのを感じた。それを生み出しているのは勿論、今宙にいる九鈴が振るうトング。

風神(エンリル)がハタキを振るうと風は塵芥を率いて彼に従った」

(こいつぁ……空気を)

 周囲の大気に巻き込まれ、立っていた壁面ごと引き剥がされて宙に浮く雨弓の身体。ここで初めて雨弓は九鈴がここへ登ってきた理由に気づいた。膨大な大気と自分が巻き込まれないだけの広い空間、この技にはそれが必要なのだ。

 九鈴は雨弓の身体を持ち上げつつ、足のトングでも同じことを行っていた。大量の空気がトングに掴まれ動かされたことで生じた真空地帯に周囲の大気が急激に流れこみ、ごく狭い範囲で竜巻めいた暴風が吹き荒れる。その回転のエネルギーを、九鈴は合気の理法により、投げの力へと変換していた。
 真の「遁具」(トング)使いが操るは五遁のみにあらず――風遁“真空気投げ”!!

 竜巻はビルの壁を抉り、緑地の木々を根こそぎ吹き飛ばしていく。雨弓の巨体もこの技に巻き込まれては風に舞う木の葉のごとく頼りなげで、為す術無くかき回され、強大な遠心力が彼の意識を奪い、肉体を破壊する。
 今この場において無事なのは技を放った九鈴のみ。彼女自身もビル内で撃てばただでは済まぬであろう、聖槍院流屈指の大技である。

 吹き荒れた風もやみかけ、九鈴は大地へと降り立っていた。暴風でデタラメな方向から打ち付けていた雨も今はしとしとと降り注ぐだけ。

「勝った……」

 大きく深く息を吐く。大技を放った代償は流石に大きかった。しかし見上げた先には、上空数十mで持ち上げられ、今落下せんとする雨弓の身体。彼の頑強さならば恐らくはまだ生きているだろう、が、あの状況からではどうしようも無い。

「場外に落として、終わり」

 再びトングを振り上げた。今のような大技は必要ない。ただ大気を掴んで、そっと投げるだけの……。

(……っ!?)

 上空にあったはずの雨弓の身体が、投げられるだけの身体が、消えた。

「『睫毛の虹』……? 本体は……」

 周囲を見回すも、雨弓の姿は無い。「空気投げ」から脱出した? どこで? どこに潜んでいるのか、エントランスホールの時と同じ構えを取り、雨弓の気配を探ろうとする九鈴に届いたのはガラガラと何かが崩れる音だった。視線を向けた先には、竜巻がビルを抉って出来た瓦礫の山。

「……」

 現れたのは予想通り、血だらけの雨弓。ふらりと力無い立ち姿には幽鬼めいた威圧感があるが、しかしダメージの甚大さは言うまでもない。構えを解き、止めを刺さんと間合いを詰めようした刹那――九鈴の胸に、刃が深々と突き刺さっていた。

†††††

 九鈴の「真空気投げ」を受けた雨弓は九頭龍を全力で回転させた。それによって発生した猛烈な旋風で雨弓の身体を捉えていた風の流れはかき乱され、脱出に成功する。が、脱出と言ってもそれは弾き飛ばされたと表すべきで、ビルに激突し、共に竜巻に全身を削られ、数トンの瓦礫の下敷きという結果になる。
それは、雨弓が一度失った意識を再び取り戻す数十秒の間の、束の間の夢だったのかも知れない。

「雨弓君……」

「雨雫……」

 その世界には、雨弓と雨雫の2人だけだった。無機質なビルの立ち並ぶ街で、そして全体が毒々しいまでの黄色で統一されている。
 地面に座り込んだ雨弓を立って見下ろしたまま、雨雫は言葉を発する。

「雨弓君……私が死んでから8年、どうだった?」

 切れ長の涼しげな瞳に見つめられ、雨弓はあまりに懐かしい感覚に暫し言葉を失うが、やがて口を開く。

「悪くなかったよ。
お前が死んだ時はそりゃ死にたいほど辛かったし、寂しいこともたくさんあったけどな。
畢や金雨はカワイイし、友達もいたし、それに……」

 九鈴との戦いに触れようとして、雨弓は言葉を止める。雨雫の顔を見上げると、優しげに微笑む顔があった。

「よかったよ、雨弓君。私が死んでからも、不幸じゃなかったんだね。よかった……」

 目尻に涙を溜めて、雨雫は言う。

「雨雫……俺は……」

「ありがとう雨弓君。それだけで十分だよ。私がいない世界でもキミは生きられる、それだけで。
 楽しんでくれ、これからの人生も、九鈴と戦うのも……」

「しっ……」

 何かを言おうとした雨弓は、金色の光に包まれ、消えていった。黄色い世界には雨雫1人が残されたが、そこに新たな声が響き渡る。

「済んだかい? 恋人との再会は」

「はい。ありがとうございました」

「いやいや、いいんだ。最近ますます黄色くなってしまったこの世界だが、誰かの役に立つなら」

 雨雫の背後に現れた黄色いローブの男がそう言う。雨雫は前を向いたまま答えた。

「生きていた頃、彼の全てが欲しいと思っていました。
 でもそれじゃいけなかった、そうならなくてよかった、と今は思います」

 最後にまた一筋、涙が頬を伝って雨雫はつぶやく。

「雨弓君、ちゃんと虹は見えているみたいだね」

†††††

「ハッ……ハッ……」

 胸に突き刺さった刃は、気づくと消えていた。肉を刃が突き破る感覚も、激痛も確かに覚えているのにだ。

「今のは、『睫毛の虹』なんです?」

「まあ、そのつもりなんだけどな」

 正確には、雨竜一傘流の「朧月」と呼ばれる技だった。気当たりや視線によるフェイント技で、雨弓はそこに幻影も織り交ぜて用いていたのだが、しかし受けた側が本当に攻撃されたと錯覚し、痛みも感じるなどそれまでにはありえないことだった。雨弓の魔人能力が彼の迸る殺意を具象化し、殺傷力さえ付与する域に至っていた。

 九鈴の背筋を冷や汗が伝う。そして次の瞬間、が赤い杭に貫かれていた。

(また……幻……!?)

 夢か現かを確かめるより先に雨弓へと目を向ける。そこに確かに雨弓は立っていたが、次の瞬間消失していた。

「なっ……う!!」

 九鈴は反射的に横に跳ぶ。少しでも遅ければ終わっていただろう。左腕に大きな風穴が空き、そこから下が宙を舞う。今度は現実、そして雨弓が消えて見えたのも恐らくは。

「いいな……やっぱりお前はいいわ。
 お前と戦ってて、さっきの夢のせいかもだけど、心底思えたよ。戦いはやっぱいい。
雨雫が死んでも、いいんだなって。色々楽しんで」

 九鈴には要領を得ない話を雨弓は語る。
 雨雫が死んで以来、彼女を殺して以来、強敵を相手にしていてもどこか靄がかかったような感覚を常に抱えていた。それが今は無い。

「何だかよくわかりませんが、良かったです。私は戦いが楽しいってまだわからないですけど……。SEXは楽しめます?」

「ああ、いいぜ! しよっか」

「!?」

「ハハハ、まあこれ終わったらな。こっちの方が今は楽しいし」

 数日前の夜とうってかわって軽い調子で雨弓が答えるので、九鈴は自分の方が動揺してしまう。この童貞野郎、と心中で毒づいた。

「そろそろ着けようぜ、決着」

「はい……」

 とうに夜の帳は降りて、闇が世界に満ちる。その中、間合いを取って対峙する両者の得物が淡い赤光を放っていた。
 武傘「九頭龍」とトング「カラス」、共に血に染まってきたことを帯びた燐光が示している。

「あれ、幻術なんですかね?」

「さあ……」

 光素やきらら、ゾルデリアに観客たち、カメラを通じて見ているはずの者達にも見えていた。
 2人の戦士の背後で今まさに雌雄を決さんとする、赤い龍とザリガニの姿が。

 最後の勝負は無言のうちに口火を切られる。

走りだしたのは雨弓からだった。もはや能力で消えることは無い。瓦礫の小片が数多く散らばった地面では「蛟」を用いても無音の移動は不可能。疾く疾く、ただシンプルに、九鈴へと迫っていた。

 全くの同時に放たれる九条の剣閃。無論幻術なのは九鈴も承知だが、以前と違うあまりのリアリティに反応しかける。

(自分を信じろ……九鈴)

 彼女を動かしたのは知性なのか経験なのか、それとも超感覚的な何かなのかはわからない。九鈴は蹴りを放つかのようなフォームで、雨弓に落とされた左腕が握るトングを拾い上げる。
 『タフグリップ』、掴んだ空気を圧縮して、固定。トングの先端が狙うは雨弓の胸。トングを突き立てた瞬間、能力を解除し圧縮した空気を体内で爆発させる。雨弓の真実の刺突は体勢を大きく後ろに倒した九鈴の頭上を掠めていった。

(届け……!!)

 九鈴が放った致命の一撃はしかし、届くことは無い。九鈴の頭のすぐ後ろで爆音。武傘が一度だけ放つことが出来る、突剣を速射砲の如き威力で噴出させる奥の手である。「蛟」の状態でそれを放った波動は雨弓の身体を後退させる。
 渾身の一撃を外されたこと、そして頭のすぐ後ろからの爆裂音が九鈴に致命的な隙を生む。
 ――雨竜一傘流「雨宿り」。傘を模した雨弓の貫手が、九鈴の胸を貫いた。

†††††

「そうですか、雨雫の夢を……」

「ああ」

 決着後運ばれた病院の食堂で、雨弓と九鈴が話している。病院食をマズイマズイと言いながら凄まじい勢いで平らげていく雨弓に九鈴は呆れるが、やはり笑って、楽しくなってしまう。

「ところで、その……『アレ』のことですけど……やっぱり少し待ってもらえませんか?」

「ん……そうだな、実は俺もそんな気がしててさ」

 雨弓の筆おろし(では無いのだが)について、いまさら恥ずかしそうにする九鈴の言葉に雨弓も同意する。戦闘中ハイになっていたのが冷めたからだろう、と2人は思っていたが、本当の原因に気づくことはない。

「雨雫さんもなかなか未練がましくありません? 寝ている2人の意識に『まだ早い』『まだ早い』って」

 2人の様子を少し離れた場所から見ていた光素は視線を横にずらし、そこにいる彼女にしか見えない存在に語りかける。

『そ、それは……ただ純粋にまだ恋人でない2人がすべきじゃないと思っているだけで……いずれそうなること自体はめでたいさ』

 雨雫は顔を赤らめてそう言う。言葉通り、談笑する2人を見つめる視線は優しげだ。

「今度休日にでも、みんなで水族館行こうぜ。なんかスゲーデカいグソクムシがいるんだってよ」

「いいですね! 後、海洋博に戦艦も見に行きましょう」

「せ、戦艦?」

『チャラ男の王の恩恵はキミにもあったぞ、と言えないのは少し申し訳ないけれど』

 世界がこの先どうなるのか、2人の関係がどうなるのか、それは誰にもわからないが、2人の人生のが続く限りは彼らの傍らについていよう。雨雫はそう思って、窓の外へ視線を向ける。雨上がりの空には、弓なりの虹がかかっていた。

ふいても、ふいても湧いてくる、涙のなかでおもふこと。
──あたしはきつと、もらい兒よ──
まつげのはしのうつくしい、虹を見い見いおもふこと。
──けふのお八つは、なにか知ら──                          
(睫毛の虹:金子みすゞ)

Fin.








目安箱バナー