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2014年課題曲
課題曲 I  最果ての城のゼビア 中西英介(第24回朝日作曲賞)
課題曲 II  行進曲「勇気のトビラ」 高橋宏樹
課題曲 III  「斎太郎節」の主題による幻想 合田佳代子
課題曲 IV  コンサートマーチ「青葉の街で」 小林武夫
課題曲 V  きみは林檎の樹を植える 谷地村博人(第6回全日本吹奏楽連盟作曲コンクール第1位)


+「ゼビア」は「◯◯◯◯」(ネタバレ注意)
「ゼビア」は「フランシスコ・ザビエル」でした。
http://www.sonatine-music.com/library/?main_page=special_farthest
和声の解説は勉強になりますよ

+斎太郎節について

斎太郎節について

斎太郎節(大漁唄い込み)
  参考:『小学館日本大百科全書』、Wikipedia、デジタル大辞泉、うたごえ喫茶のび、Weblio辞書、
     NHK映像マップ みちしる、現代教養文庫「日本の民謡」長田暁ニ編、尺八と横笛吹きの独り言

  • 宮城県松島湾沿岸一円の民謡。
  • カツオ漁の大漁祝い唄や櫓漕ぎ歌として歌われてきたもの。
  • 艪漕ぎタイプの民謡で、ソーラン節が両腕を前に突き出したり、引いたりする時にちょっと間を取るのに対して、斎太郎節はエンヤートットと連続的に艪漕ぎ動作をする。
 同様なタイプの民謡に、ソーラン節、大漁節がある。
+斎太郎節の名前の由来

斎太郎節の名前の由来

 ・『サイドヤラ』とか『サイタラ節』とよばれていたものに『斎太郎節』の文字をあてた。という説。
 ・1777年に伊達藩の通貨鋳造所で職人暴動があり、大勢の鋳物職人が金華山沖の遠島に流罪になった。
  その職人の中に、「斎太郎」という南部生まれの若者がいて、歌がうまく、後に漁師となりこの唄を歌ったことから。という説。


  • 源流は岩手県陸前高田市気仙町周辺の木遣唄『気仙坂』である。
 ・大迫町外川目銭座は盛岡藩の公設銭座の初めで、鋳造作業のなかで「タタラ」を踏んで炉に風を送る作業がある。
  そのときの労作唄「鋳銭坂」が「気仙坂」に変化したものと考えられる。
  古風な落ち着きをもった格調高い唄で、盛岡市太田や雫石町などでは「鋳銭坂」(おいせ坂)と呼ばれ、祝儀の際に唄われている。
  発祥地は花巻市大迫町。
 ・岩手県を中心に、青森、宮城両県で広く唄われている祝い唄。
  気仙坂は、気仙沼から気仙へ抜ける旧道にある坂のことで、曲名は唄い出しの”気仙坂……”から生じたもの。
  男が「御祝い」を唄えば女が「気仙坂」で祝った。
  腕のよい気仙大工を唄うところから、かつて気仙大工が唄っていた木遣り唄の一種が、祝い唄になったようである。
  「銭吹き唄」「斎太郎節」「田の草取り唄」「姉こもさ」などの元唄になる
 ・この唄は、財宝に関係した唄で今では目出度いものとして祝儀の席上に唄われ踊られるようになり、
  一種の皿踊りで片手に小皿2枚ずつ持って踊る。
  曲調は陰旋律で落ち着きを持った良い曲節である。
  昔、職人達は鋳銭(じゅぜん・ちゅうせん)の炉に風を送るため、たたら(踏鞴)を踏む際唄った「銭吹き唄」といった作業唄で
  「銭座節」「たたら踏み唄」「鋳銭坂」「気仙坂」とも呼んだ。
  銭座とは貨幣を作る工場のことで鋳銭場とも呼んだ。
  享保13年(1728年)開設された大迫の外川目銭座は、南部領における公設銭座の始めであったが、
  その後九戸郡・小久慈・石巻等に出来たが明治新政府になり、
  銭座がなくなってから旧南部領の二戸・五戸・九戸・岩手各郡で「麦搗き唄」「籾摺り唄」などに姿を変えて
  唄われている処もある。
  各地に銭座ができたので銭座節でも多少節回しも異なり、今盛岡地方で唄われている気仙坂は旧都南村、飯岡地方の唄で
  県を代表しているようである。
  楽譜を見ると同じ節回しを3回も繰り返しており口説き節のように長いので平凡になりがちで味を出すにはなかなか至難である。
  現代のように電気機械のないフイゴをたたらで踏み気長に作業しながら唄った昔の人の心情が偲ばれる。
  (岩手県民謡同好研究会 佐々木正氏資料より)

  • 「気仙坂」が、重い物を移動する唄として、また神に捧げる祝い唄として、その双方の性格から東北地方一円に広まり、三陸沿岸一円の漁村にも伝えられた。
  • 1925年(大正14)宮城県桃生(ものう)郡東名(とうな)(東松島市)の斎藤清次郎により、のど自慢の会で『斎太郎節』が紹介された。
  • それを聞いた後藤桃水が弟子の八木寿水に節回しを整理させ、自ら歌詞を補作、今日の形に整えた。昭和2年(1927年)頃に、組唄「大漁唄い込み」として発表し、全国的に有名になった。
 ・前唄「ドヤ節」(「御祝」)…祝詞(のりと)風で、東北各地で広く歌われていたもの
 ・中唄「斎太郎節」…カツオ漁の大漁祝い唄や櫓漕ぎ歌として歌われてきたもの
 ・後唄「遠島(とおしま)甚句(じんく)」…松島湾沿岸の漁師たちが酒盛りで歌っていたもの

  ※後藤桃水(ごとうとうすい)1880-1960 明治-昭和時代の民謡研究家。
   明治13年10月25日生まれ。宮城県出身。小梨錦水に尺八をまなぶ。
   明治39年東京神田に追分節道場をひらく。各地で尺八をおしえながら、民謡の歌い手と交流。
   大正初期から東京で追分節大会を開催。大正11年大日本民謡研究会を組織。東北民謡の育ての親といわれる。
   昭和35年8月8日死去。79歳。日大中退。本名は正三郎。
+映像・音源

映像・音源

 ・NHK映像マップ みちしる 大漁唄い込み
   収録/昭和16年
 ・Youtube…歌鈴木正夫。「大漁唄い込み」(斎太郎節)
   小澤直興志編曲、ビクターオーケストラ

  ※鈴木正夫(すずき まさお、1900年(明治33年)1月30日 - 1961年(昭和36年)9月28日)
   宮城県伊具郡丸森町出身の民謡歌手。
   1931年(昭和6年)レコードデビュー。
   娘には歌手の鈴木三重子がいる。初代と二代目がおり、現在活動しているのは息子の秀(二代目)(1937年11月8日‐)。
   NHK紅白歌合戦出場歴(初代)
    第1回 (1951年1月3日、NHK東京放送会館第1スタジオ) 『常磐炭坑節』
    第2回 (1952年1月3日、NHK東京放送会館第1スタジオ) 『新相馬節』
    第4回 (1953年12月31日、日本劇場(日劇)) 『花笠音頭』
    第6回 (1955年12月31日、産経ホール) 『相馬盆唄』
    第7回 (1956年12月31日、東京宝塚劇場) 『常磐炭坑節』
    このうち、第6回と第7回は鈴木の歌のラジオ中継の音声が現存する。
+歌詞

歌詞

いくつかの言葉が存在する。

松島の サーヨー(オ) 瑞巌寺(ずいがんじ)ほどの (ハァコリャコリャorハーソレソレ)
寺もない トエー
アレワエーエー エ(エイ、エン)トソーリャ 大漁だ エー

松島の瑞巌寺(ずいがんじ)ほどの 寺も(は?)ない
前は海 後は山で 小松原(こまつばら)
石の巻 其の名も高い 日和(ひより)山
西東(にしひがし) 松島 遠島(とおしま) 目(月?)の下に
富山(とみやま)は 高さも高い 名所(めいしょ)山
見渡せば 八百(はっぴゃく)八島(やしま) 目(月?)の下に
塩釜様の 御門の前(の?御門前の?) 八重桜
咲き乱れ 浮名(を?も?)たつみ 西の町
汐汲みが 織り来る波に 桶取られ
桶返せ 戻せや沖の 白波よ

















































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