占守島の戦い

登録日:2012/02/13(月) 03:21:58
更新日:2024/03/28 Thu 19:12:23
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「忘れてはいけない、もう一つの島がある」

占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)とは、
1945年8月18日~21日に千島列島の北端にある占守島で展開されたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である。
日本軍総兵力…23000人
ソ連軍総兵力…8363人

あのヨシフおじさんをして「8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と言わしめた。
ちなみにポツダム宣言後にも関わらず起きた戦闘である



【開戦前の情勢】

当時、アリューシャン列島を西進している米軍を食い止めるため、日本軍は九七式中戦車や九五式軽戦車を主力とした精鋭達が集う守備軍2万5000を置いていた。

一方、既にソ連側ではスターリンがヤルタ協定を締結。何とその密約の中には、
「ルーズベルトが呑んだ参戦の報酬として樺太と北方領土を占領する」
…という約束があったのだ。

そして、スターリンは日本が降伏後無力化した隙を突いて攻勢に出ようと画策。
千島列島の占領は17日にト
米軍すらスターリンの野望は止められず、彼は樺太・千島のみならず北海道をも手にせんと動くこととなる。


8月15日:12時
日本国内に玉音放送が鳴り響いた。
全国民が泣いたであろう中、占守島守備隊の中では安堵ムードが広がっていた。
この極寒の島から出られる、やっと戦いから解放されると……実際に連合軍は戦闘を停止している。しかし、ソ連の赤軍を乗せた船団は刻々と近づいていた…。

【村上大隊の防戦】

8月18日:2時頃
ソ連軍が突如として侵攻を開始。占守島の対岸のロシア領の岬から長距離射程重砲の砲撃が始まると共に、ソ連軍の海軍歩兵大隊が占守島竹田浜から上陸した。

そこには竹田浜を防衛する村上大隊が沿岸に多数配備されていた。彼らは野砲や重砲を以て応戦。
ソ連軍の12センチカノン砲5門を20分で沈黙させ敵船13隻を撃沈。

米軍に艦砲射撃や空爆によりボコボコにされたサイパン島などと同様に「水際防御戦術」に則った戦法だったが、
米軍と違い軍艦や航空機による事前攻撃を行わなかったソ連軍にはかなり効いた。(ソ連は革命後、軍艦をろくに建造できていなかったためでもある)

ソ連側にはまだかなりの船団が残っていたが、司令部が海没していたため、思うように動けず苦戦していた。

敵軍来襲の急報が次々と入り、自発的に武装解除していた日本軍は驚愕。

そんな中、本戦の司令官となった堤不夾貴中将は敵軍の迎撃を決意。武装の解除を中断し、急遽装備を整え始める。

【戦車隊&残存航空部隊到着~出撃ス】

その頃、要所の一つである四嶺山では激戦が展開されていた。次々と上陸するソ連軍に対し村上大隊は600。圧倒的な戦力差に全滅する部隊も続出していた。
そんな中「戦車隊の神様」と謳われた池田末男大佐(死後、少将へ進級)率いる精鋭部隊戦車第十一連隊が南方に集結した。

池田連隊長は出撃前、戦車隊の面々を集めこのような言葉をかけている。

『我々は大詔(玉音放送)を奉じ、家郷に帰る日を胸に終戦業務に務めてきた。しかし、ここに至った。もはや降魔の剣を振るうほかない!』

『諸氏は今、赤穂浪士となり、恥を忍んでも将来に仇を奉ぜんとするか、あるいは白虎隊となり、玉砕もって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか!?』

『赤穂浪士たらんとする者は、一歩前に出よ。白虎隊たらんとする者は、手を挙げよ!』

その場にいた全員が、喚声を上げ即座に手を挙げたという。

大佐は涙ぐみ『ありがとう』と語る…日章旗を掲げた大佐座乗の中戦車を先頭車第十一連隊は出撃した。
そして中・軽戦車合わせて64輌が援軍として時速60キロで駆けつけた。言わずもがなこの中戦車とは97式中戦車チハたん

チハたんを主力とする戦車隊は迫り来る侵略者に向けて猛進・突撃を敢行する。
信じられないことにソ連軍は、日本軍の戦車の脆弱さを友軍から聞いていたため戦車を連れていなかった…
チハたんはソ連相手に無双したのだ。


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戦車第十一連隊は同日午前5時半頃から四嶺山のソ連軍に突撃し撃退、更には四嶺山北斜面のソ連軍も後退させた。

その後、流石にソ連軍も黙っておらず対戦車砲4門や対戦車銃約100挺を使用。激しい抵抗のために戦車隊は被害が増加した。

しかし四嶺山南東の日本軍高射砲の砲撃と援軍・独歩第283大隊が残存戦車を先頭に参戦すると、ソ連軍は竹田浜方面に撤退。
なお、この戦いで戦車第11連隊は27両の戦車が破壊され、
最前線で日章旗を振り回しながら味方を鼓舞し続けた池田連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を出した。

基地に8機のみ残っていた残存航空部隊も敵船団に攻撃を開始。
処分していた魚雷以外の爆弾を持って出撃し、少なくとも上陸船13隻を撃破するなど戦果を上げている。



【戦闘終了、そして…】

日本軍は各要所を奪還しソ連軍を殲滅可能な状況にあった。
しかし北方方面の司令部から戦闘を停止し自衛戦闘に移行するよう命令を受け、18日16時をもって積極戦闘を停止、停戦交渉を開始。

しかし、ソ連軍は停戦をよしとしなかったため実際には戦闘は終わっていなかった。

そりゃあ当たり前だろう。
停戦交渉の軍使を射殺したあげく一番偉い司令官呼んで来いと言ってくる奴と交渉するって方が無理がある。
更に、当のスターリンは大本営からマッカーサーを通じての停戦呼びかけをシカトしている。
最後は3度目の軍使がやっと届き、停戦のみならず武装解除をするようにとのソ連側の要求を飲む形で戦闘は終了した。
だが、故郷に帰れる筈の日本軍守備隊は、その後ソ連軍により不法にシベリアへ連行され、奴隷労働に従事させられて多くが命を落としている。

ちなみに、満州での抑留を含め推定で被害者は200万人以上、死者は40万人以上という説もある。



【余談】

戦時下の侵略軍の例に漏れず、ソ連軍による侵略地に対する略奪は激しく、特に女性に対する暴力的行為が一番酷かった(満州など)。

占守島にも若い女子工員が400人ほどいたが、そのことを懸念した占守島司令部隊が島に残った多数の船により北海道へ全員避難させていた。
実際、戦闘後占守島のソ連兵は血眼になって女性を探していたから危なかったのである。



更に、他の北方領土を制圧していったのはいいものの北海道にはアメリカ軍が既に進駐していたため、
その後に北海道を手に入れようとするスターリンの野望は見事に粉砕された。


この戦いにおいて日本軍は結局降伏した。そして千島列島も、サンフランシスコ講和条約で日本が領有権を放棄したため、ソ連の領土となってしまった。
しかし、戦闘としては十分な勝利を収めたといっていい。
この戦いで犠牲になった守備隊の方々が我々に残したもの。それは決してスターリンへの怒りや戦略的勝利だけではない。

我々は学ばなければならない。終戦後にも祖国を守るための漢達の壮絶な戦いが続いていた事実、
そして彼らが困難にめげず国を守ろうとして勇敢に戦ったことを。

+ 池田末男大佐について
池田末男は陸軍憲兵少佐であった父の元に生まれ、兄の一人も軍人となり最終的には中将にまでなった。
騎兵連隊の中隊長を務めた後は教育畑を転々し教官や校長代理を歴任したため多くの教え子がおり、その中には司馬遼太郎もいた。
そんな彼の講評は端的明快で後述のような人格者でもあったことから彼を慕うものは多かったという。
教官時代にはある時生徒たちの戦車訓練を「本日の指揮ぶりは柄のとれた肥柄杓*1」と評価した。
これに生徒たちは首をかしげるが池田をよく知る教官からは「手のつけようもなしという意味だよ」と教えられた。
校長代理時は校内に張られている火気厳禁の張り紙を見て「軍では一度禁じたものを更に厳しく戒める事があってはいけない。火気禁で十分」として以後火器禁に替えられた。

連隊長赴任時も荷物は行李*2一つしかなく、入浴・洗濯など身の回りのことは当番兵には任せず寒空であっても自分で済ませていた。
それを当番兵が恐縮すると「お前たちは私ではなく、国に仕えているのだ」と窘めた。
食事もお付きの料理人に対しては「酒さえあればいい」と特に注文を付けることはなく贅沢とは無縁だった。
学徒兵に対しても長らく教育畑の人間だったこともあってか「在学中の者まで動員せねばならぬほど戦火を拡大した軍の上層部は間違っている。」
「ご両親が苦労して大学に入れて、その得た知識を国のために活かすのが使命で、その知識を命に代えてしまうのは残念でならない。」と口にしていた。
そのため出撃の際、ある学徒兵は戦列から外して連絡係に回した、戦後この元学徒兵は池田の遺族のもとを訪ねたという。

しかし「戦車隊の神様」の異名をもちながら活躍の場を与えられなかったのは思う所があったようで、停戦処置を終えたら自決も考えていた。
そんな池田の心中を察していたソ連の侵攻には部下が思わず「連隊長殿おめでとうございます。」と口にしたものもいたという。
最期は自身が指揮官であることを敵に悟られないように軍服を脱ぎワイシャツに鉢巻姿で出撃、神様の名に恥じない運用教範の実演のような見事な隊形だったと言われている。
戦後車体番号が消えるほど焼け焦げた戦車中から壁にもたれかかり立ったまま絶命した池田の遺体が発見された。*3
他の戦死者たちも損壊した愛車の元で白兵戦・車内で操縦桿や砲身を握りしめながら絶命など苛烈を極めており収容を行った者たちからは
「死して尚国を護ろうとする鬼気人を襲い、凄絶の二字で表現する他にない」と称したほど。

出撃時彼の言葉に対しその場にいた全員が、喚声を上げ即座に手を挙げたことは教え子や部下たちからの信頼絶大だったことに他ならない。
司馬も池田には大いに薫陶を受けており、「自分が池田大佐ならどうするだろう」という自問を長年続けたが生涯その答えが出ることはなかった。
そして今も池田が率いた戦車第十一連隊の『士魂*4の精神は、陸上自衛隊北部方面隊第11旅団第11戦車隊が「士魂戦車大隊」として受け継いでいる。

●この戦いを題材とした作品
  • 小林よしのり『ゴーマニズム宣言EXTRAの挑戦的平和論 下巻』(2005年):後半でこの戦いを漫画化している。
  • 浅田次郎『終わらざる夏』(2010年):クライマックスでこの戦いが描かれる。
  • DMM.com/KADOKAWA GAMES『艦隊これくしょん -艦これ-』(2017年):2017年春イベント『出撃!北東方面 第五艦隊』第4海域『迎撃!士魂の護り』のモチーフ。
  • TEAM NACS 第16回公演『PARAMUSHIR~信じ続けた士魂の旗を掲げて』(2018年):この戦いに巻き込まれた無名兵士たちを描いた舞台。題となった「PARAMUSHIR」は占守島と同じく日本軍が駐留した隣の島「幌筵島」のこと。


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最終更新:2024年03月28日 19:12

*1 汲み取り式トイレの排せつ物を汲み取る際に使用した柄の長い柄杓を肥柄杓と呼んでいた

*2 竹や柳、籐などを編んでつくられた葛籠のことで今ならスーツケース1個だけを持参して赴任してくるようなもの

*3 あまりにも遺体の損壊が激しく当初池田とは分からなかったほどだった

*4 十の下に一を組み込めば『士』となりそこから武士の魂という意味をとって『士魂』となった