パブロ・アイマール

登録日:2011/08/09(火) 15:20:16
更新日:2023/08/24 Thu 18:16:48
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パブロ・アイマールはアルゼンチンのサッカー選手にして男の娘である。
00年代初頭から半ばにかけて、スペインのバレンシアやポルトガルのクラブ、ベンフィカ・リスボンで活躍し、日本でも人気のある選手だった。
また、その端正なルックスから、ほとんどアフロみたいな髪型にもかかわらず女性ファンが多い。


【プレースタイル】
もはやアルゼンチンの様式美ともいえる小柄なテクニシャンタイプ。
例に漏れず『マラドーナ2世』と呼ばれる。
柔らかいタッチと緩急を付けたドリブルで、敵との間合いを巧く読みながら鮮やかに抜いていく。
パスの技術も正確で、味方の動きに合わせてベストのタイミングとスピードで足元に届く。
反面、得点力はさほどなく、FW、もしくはトップ下で起用されるが年間通してリーグでは4~7点程度しか得点しない、古典的なチャンスメーカー。
また、フィジカルが弱く守備もほとんど行わないため、扱いにくい選手に分類される。それが原因でバレンシアを出ていくことになった。
守備意識の低さは自分で公言しており、テレビや雑誌のインタビューでも

「守備は僕の仕事じゃない」
と度々話していた。


【キャリア】
小学生の時に、ファン・セバスチャン・ベロン(元阪神のムーアじゃないよ)が所属していたことで知られるエストゥディアンテスのジュニアに入団。
直ぐに頭角を表すと、中学の時に名門リーベルからスカウトされる。
アイマールはリーベルの入団テストを受けて見事に合格するのだが、同じくサッカー選手だった父親が、入団に反対する。
これはサッカー選手だった父が選手として大成しなかった自分の様になってほしくないという思いからだった。
が、アイマールを諦めたくないリーベル側が五ヶ月に渡り父を説得。ようやくアイマールはリーベルに入団する事になる。

そして17歳でリーベルとプロ契約を結ぶと、ここから一気に飛躍していく。エクアドルで開催されたU-17世界選手権にアルゼンチン代表として出場。
同世代のサビオラ、リケルメらと共に3位入賞を果たし、黄金世代と言われ始める。
そしてマレーシアで開催されたワールドユース選手でも優勝。ヨーロッパのビッグクラブがアイマールら黄金世代の選手達を獲得しようと動き出す。
既にアルゼンチン国内での評価を確立させていたため、移籍は時間の問題と言われていた。


【バレンシア移籍】
2001年の冬のマーケットで、当時のクラブ史上最高額となる25億円でリーガエスパニョーラのバレンシアに移籍。背番号21。
当初はFWやサイドで使われ、スペインの水に馴染めず苦戦が続く。
さらに監督の紅豚ことラファエル・ベニテスがカウンタースタイルを取っていたためなかなか出場機会を得られなかった。
しかし、アイマール本人がトップ下でのプレーを直訴し、ベニテスがそれを認めると直ぐに本領を発揮。
おせじにも、戦力的に恵まれていたとは言えないバレンシアを、国内リーグとCLで上位に導く。
独創的でエレガントなプレーで、バレンシアただ一人、異次元のレベルでプレーし違いを生み出す存在となった。
この頃からマラドーナに「俺の後継者はアイマール」と言われ、名実共にスター選手の仲間入りを果たす。
因みに02-03シーズンにおけるCLでの被ファール率は出場した選手の中で断トツの1位。チームはベスト8で破れているにもかかわらずだ。
いかにアイマールが危険な選手かおわかりいただけるだろう。

そして03-04シーズン。
戦前のリーガエスパニョーラは、優勝争いはベッカムを獲得したレアル・マドリーと、
ロナウジーニョを初め大型補強を敢行したバルセロナの一騎討ちと予想されていた。
しかし、バカみたいな前輪駆動チームになり一行に守備が安定しないレアルと、ロナウジーニョが本領発揮するまで時間のかかったバルサを尻目に、
開幕から安定した戦いを続けるバレンシアが優勝を飾る。
アイマールも開幕から好パフォーマンスを見せ、怪我も少なくなかったがチームリーガ制覇に大きく貢献。
余談だが、実は開幕前にバルセロナからオファーが届いており、
実はバルセロナは最初、再建の切り札としてロナウジーニョではなくアイマールを獲得するつもりでいた。

しかし、04-05シーズンから雲行きが怪しくなる。
クラウディオ・ラニエリが監督に就任すると、怪我もあり出場機会が激減。やはりイタリア人監督に希代のファンタジスタは使い勝手の悪い選手として映ったのか。

翌05-06シーズンにキケ・フローレスが監督に就任しても立場は変わらず、
更には新エースのダビド・ビジャが台頭し、既にアイマールの居場所はチームに無かった。

06-07シーズンに当時まだ無名だったダビド・シルバに自身の背番号21を託し、サラゴサに移籍する。
ここで同じくアルゼンチン代表のアンドレス・ダレッサンドロ、ブラジル代表のオリベイラらと魅力的な攻撃的を形成する。
しかし、開幕から一行に噛み合わず、チームは機能しないままボコボコにされる日々。最終的に降格の憂き目に合い、アイマールは移籍を決断する。


【ベンフィカ移籍】
そんなアイマールに救いの手を差し伸べたのが、ポルトガルのレジェンドであるマヌエル・ルイ・コスタだった。
ベンフィカでのラストシーズンを終え引退した後、ルイ・コスタは同チームのSDに就任。
自分の後を継いで、ベンフィカの10を背負ってほしいとアイマールを直接口説き落とす。
これによりアイマールのベンフィカ移籍が実現する。
ベンフィカに移籍してから、アイマールは本来の輝きを取り戻す。
最初は左サイドでの起用が目立ったが、徐々にポジションは中央に寄り、現在はトップ下やセカンドトップで活躍している。
移籍一年目でチームに15年振りのリーグ優勝をもたらし、すっかりサポーターのお気に入りとなった。
そしてその活躍が認められ、アルゼンチン代表にも久しぶりに招集される。
南アフリカW杯が終わった後にアルゼンチン代表に招集された際、メッシは「アイマールは僕の憧れの選手だった。一緒にプレー出来て嬉しい」とコメント。
コレに対してアイマールは「メッシにそう言って貰えるのは嬉しいよ。でも、彼は既に僕を超えた選手になってしまったね」と返した。

13年6月にはベンフィカからの退団を発表。
その後マレーシアリーグのジョホール・ダルル・タクジムFCに入団するも、怪我のためわずか8試合の出場に留まった。
その後しばらく無所属になっていたが、15年1月5日、14年ぶりに古巣リーベルに復帰。
ロサリオ・セントラル戦に75分から途中出場を果たしたが、復帰後に出場したのはこの1試合のみ。
同年7月15日に引退を発表した。


【代表での活躍】
2002年日韓W杯では、アルゼンチンがグループリーグで敗退したこともあり、目立った活躍は無かったが、その後は代表で主力に定着。
リケルメ、サビオラ、ルイス・ゴンサレス、カンビアッソと共にチームの中核となる。
しかし、2006年W杯を前にすると、リケルメの控えというポジションに定着。本大会でも目立った活躍が出来なかった。
そして2007年を最期にしばらく代表からは遠ざかる。南アフリカW杯予選では久しぶりに招集されるが、本大会ではメンバーから落ちた。
その後もたまに招集されたりしていたものの、代表ではクラブシーンの様に活躍することが出来てはいない。
代表には縁がない選手とみられている。


【エピソード】
2004年のプレシーズンに新潟を訪れた際に、度重なる災害にみまわれた新潟の現状に心を痛め、新潟県に対し寄付金を送っている。
なおこの時の、アルビレックス新潟×バレンシアFCの試合には怪我の為出場出来なかったが、その代わりスクリーンに彼からのメッセージが映し出された。

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最終更新:2023年08月24日 18:16