円谷英二

登録日:2011/06/28 Tue 07:43:04
更新日:2024/04/05 Fri 11:49:08
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円谷(つぶらや)英二(えいじ)(本名:円谷英一)は日本の特撮監督である。「ゴジラシリーズ」を始め、様々な特撮映画に関わり、「ウルトラマン」の生みの親であり、
映画界に多大な功績を残した「特撮の神様」である。
なお、本名の読みは「つむらやえいいち」である。*1


【生涯】

1901年7月10日、福島県の現在は須賀川市に生まれた。
母を生まれてすぐ亡くし、父親は婿養子のため離縁され、祖母に育てられる。

幼い頃から手先が器用で絵が上手く、手作りで簡易的なアニメも作っていた。
飛行機が好きで、自分で飛行機模型を作り、パイロットが夢だった。

何とか飛行学校に入るが、学校唯一の飛行機が事故に遭い教員も亡くなったため学校は閉校、玩具会社に勤めながら電機学校に通う。
この頃は様々な発明の特許で収入を得ており、その中の一つ「自動スピード写真ボックス」は今日も証明写真として街中で活躍している。
その後縁が出来、映画界へ入ることになった。

その後兵役についたり、戻ったら関東大震災で撮影所が京都に移る等忙しい日々を過ごす。
この頃から特殊な撮影をするようになり、周りに理解されなかったがカメラマンとしての成果も出すようになる。
これが後の特撮技術に繋がる。

1930年には結婚し、1932年に日活に移籍した。
1933年に「キングコング」が公開されると、フィルムを購入し、1コマずつ研究していった。

その後日活を退社、東宝の前身である会社に入社した。
会社が東宝になると特殊技術課を設立してもらい、課長になる(部下は無し)。

その後は様々な作品に関わりながらスタッフを補充し、1943年には「ハワイ・マレー沖海戦」の特撮を担当。
この作品は高い評価を得、戦後は記録フィルムと勘違いされGHQに押収されそうになったというエピソードもある。
*2

戦後は争議や公職追放のため東宝を退職、各社の特撮を担当した。
また、この頃円谷プロの前身となる研究所を立ち上げている。

その後東宝へ復帰、戦争映画を手がけながら、1954年には「ゴジラ」を手がけ、大ヒットとなった。
「ゴジラ」の大ヒットにより、以後東宝特撮を担当していく。

1963年には円谷プロを立ち上げ、以後東宝作品を担当しつつ、円谷プロ社長として「ウルトラQ」や「ウルトラマン」等の作品を世に送り出す。
その後体調を崩し1970年1月に狭心症により永眠した。享年68。
亡くなった直後の1971年4月に『帰ってきたウルトラマン』が放送開始。
この作品は生前の円谷英二が企画に参加しており、初代ウルトラマンが30年後に地球に帰還することから命名したものであった。
実際に登場したのは初代とは別のウルトラマン*3であったが、円谷の意思を尊重し、タイトルは変更されずに放映された。



【仕事について】

一般的には「ゴジラ」の特撮と「ウルトラマン」で有名だが、
実際には戦中の時点で様々な特殊技術で脚光を浴びていた監督だった。

スクリーン・プロセスやブルーバック合成、ミニチュアの積極的使用等は円谷氏が日本に初めて導入し、
スクリーン・プロセスや合成に使うオプチカルプリンターは自分で作るほどだった。

また、常に最新の技術や素材を導入し、
アメリカの最新の機材を独断で購入したり、スタッフが探した新素材を喜んで採用していた。

また、仕事は厳しくも普段は優しい人物であり、寝たふりをしながらスタッフを観察をする等お茶目な面もあった。

監督として東宝特撮を手がけた頃は、特にミニチュアと編集に凝っていて、ミニチュアは自作もしていた。
また、暇があれば編集室にこもり、果てはスタジオに編集用の小屋を作りスタッフを監督しながら編集もしていた。
多少のミスは編集でなんとかしてしまう(それどころか演出に組み込んでしまう)、特撮の神様であると同時に編集の神様でもあった。*4

また、戦中も含めれば、東宝、東映、大映、松竹、日活、新東宝と大手の映画会社全ての作品に参加していた。そのためか交友関係も非常に広い。

弟子や部下の面倒見も良く、常に宴会はおごりだった他、
半ば決別して松竹へ移った弟子の川上景司氏を20年後にまた雇ったりしている。

その他、「ウルトラマン」を製作してた頃はウルトラマンより、
弟子のうしおそうじが製作してたライバル番組の「マグマ大使」の心配ばかりしていたというエピソードもある。
その面倒見の良さから弟子達からは「オヤジ」と呼ばれており父親のように慕われていた。

作品には妥協せず、「ウルトラマン」は円谷氏がOKしないと納品出来ず、スケジュールを圧迫し打ち切りになったのは有名である。
予算面でも妥協を許さず、良いものを作るためには金を掛け、グッズの売り上げなどで後から回収して行こうとする傾向があった。
このため、円谷プロの万年赤字体質を引き起こした一方で、「ウルトラマン」は子供向け番組ながら、技術が未成熟な当時としてはかなりクオリティの高い特撮となっている。
近年の新世代ヒーローズが2クール放送になったのも赤字体質が関係している。

また、子供を大事にしマンネリを嫌ったためゴジラにシェーをさせてみたりと色々なことをしていた。

グロテスクな表現も嫌ったため、流血は少なく、ガイラが人を食べるシーンも上手く隠されていた。
演出上、怪獣の流血を表現する必要がある場合、大抵は血の色を緑色にすることでショッキングな印象を和らげる工夫がなされている。
このことが子供も楽しく見られる、明るく楽しい東宝映画のイメージとも繋がっている。


【交友関係】

本多猪四郎
最も多く組んだ黄金コンビである。円谷氏は色を合わせるためによく本多氏の撮影現場を見に行ったらしい。

◆伊福部昭
かの有名なゴジラのテーマを作曲した音楽家。
フリー時代にお互い名も知らずによく飲み合い、「ゴジラ」のスタッフの顔合わせで初めて名前を知ったらしい。
おかげで気を使わず仕事が出来たとか。

◆黒澤明
世界のクロサワ。東宝全盛期における二大巨頭であった。
一緒に仕事をすることは無かったが、お互いに認め合うライバル関係で、試写は必ず観ていたとのこと。
ちなみに本多監督ともとても仲が良かった。

主な弟子達
◆うしおそうじ
後の「マグマ大使」、「スペクトルマン」の製作者。
戦中は部署は違えど一番弟子に近い存在だった。一緒の仕事は少ないが晩年まで仲が良かった。
うしお氏は手塚治虫や三船敏郎とも友人というある意味凄い人物である。

◆有川貞昌
後の2代目特技監督。フリーの時期に弟子入りした。
円谷組ではチーフカメラマンとして活躍、円谷氏と同じく飛行機が操縦出来たため、一緒にセスナ機を飛ばしていたらしい。

中野昭慶
後の3代目特技監督。助監督として活躍し、円谷氏亡き後の東宝特撮を支えた。

川北紘一
4代目特技監督。1962年に円谷組に入り、作画合成を中心に担当した。
平成シリーズではその時の経験が活かされてるとのことである。

◆高野宏一
ウルトラシリーズの特技監督で活躍した。
東宝よりは研究所からの流れの人で、ゴジラへの参加は「ゴジラの逆襲」のみ。

その他スタッフ、交友のあった人々

◆川上景司
戦中のスタッフで松竹に引き抜かれたが、後に円谷組に復帰した。
「ギララ」で特撮の監修を勤めた。

◆渡辺明
「ゴジラ」等で美術スタッフとして参加し、独立後は「ガッパ」の特技監督になった。

◆村瀬継蔵
バラン」や「ドゴラ」に参加、その後「ガメラ」の造形に参加し、
後に東映作品や円谷作品の怪人や怪獣の造形を担当するツエニーを設立した。

◆矢島信男
松竹時代に円谷氏と公私共に付き合いがあった。東映特撮に欠かせない人物となる。

このように、有名な昭和の特撮関係者の多くが円谷氏の関係者である。また円谷氏の死後、孫の一人(長男円谷一の三男)故円谷浩は『宇宙刑事シャイダー』の主役として有名になっている。


【余談】

「ゴジラ」が製作される前に、クジラが港を襲う映画と、タコが船を襲う映画の企画を作っていた。

子供にサインを求められると自分の名前を基にしたスキーボーヤというイラストを、大人には「子供に夢を」と書いていた。

爆発時の「キノコ雲」は、夕飯の味噌汁からヒントを得た。

氏が最後に監督した作品は「日本海大海戦」で、怪獣映画は「キングコングの逆襲」である。
晩年の「オール怪獣大進撃」、「南海の大怪獣」で監修とクレジットされたが、これは長年の功績を労ってのものである。

妻の勧めでキリスト教に入信しており、円谷一族は全員カトリックである。

誕生日は、現在まで様々な文献に言われ、1901年(明治34年)7月5日説や7月7日説があったが、
円谷家の子孫(英二の叔父円谷一郎の孫)である円谷誠が家系図を調べているうちに、円谷英二(家系図では円谷英一) の項目が誕生日7月10日であることを確認し、
念のため市役所の戸籍も調べたが、7月10日に間違いがなかったという。
ただし、英二の三人の子息(一、皐、粲)は「親父は、『誕生日は7月7日だ』と言っていた」と各種インタビューで証言している。
これは実際に生まれたのが7日で、戸籍の上では月10日生まれとなっている可能性もあり、
当時は現在と違って、実際の誕生日と戸籍上の誕生日が違う人が、少なからずいたためである。


【生涯】の欄でも解説したが、氏が若き日に発明したのが今で言う「スピード写真」の撮影ボックス。お世話になった人も多いのではないだろうか。
映画を撮れない時はこの特許料と販売で食いつないでいた、と日記に記されている。
後にウルトラマンオーブの第1話ではそのオマージュ(半分はスーパーマンオマージュ)として登場している。

2015年7月7日のGoogle Doodle(なんらかの記念日にGoogleにアクセスするとロゴに仕込んであるアレ)は円谷英二の誕生日を記念したものだった。
当初は円谷怪獣(っぽいもの)が町を破壊するムービーの予定だったが、ウルトラマンXの撮影を見学したことでスタッフが感銘を受け、実装されたDoodleは特撮現場を体験するミニゲームで遊べるようになっている。


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最終更新:2024年04月05日 11:49

*1 兄弟のように育った叔父の円谷一郎への敬意からペンネームを「二」にしたという。

*2 誤解は解けたはずなのだが、パールハーバー(映画)にて、 作戦会議の構図が「ハワイ・マレー沖海戦」の撮影風景の写真と酷似していた ため、「まだ微妙に誤解が解けていないのではないか」という声があるとか無いとか……

*3 後にウルトラマンジャックの名が与えられた

*4 やりくりが上手すぎて回を重ねるごとに予算を減らされ続けるという弊害もあったそうだが