丹羽長秀

登録日:2010/12/29(水) 09:40:54
更新日:2023/06/15 Thu 21:27:53
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丹羽(にわ)長秀(ながひで)

1535~1585

戦国時代、及び安土桃山時代の織田家家臣である。
丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の愛知県名古屋市西区周辺)に生まれる。

内政、外交、軍事とあらゆる分野において優れた手腕を発揮した事から、生活に無くてはならない兵糧になぞらえ、「米五郎左」と称された一方で、
軍事では織田四天王の一角を担い、「鬼五郎左」と呼ばれた。

織田信長の美濃攻略の頃より次第に頭角を著し、柴田勝家に並ぶ2番家老を務め、安土城の普請奉行を執行うなど織田家に欠かせない存在となり、
京都御馬揃えでは一番での入場を果たした。

しかし、その功績の一方で軍事的な面では、浅井攻めの後は目立った功績もなく援軍や遊撃軍止まりで織田家において、独自の軍団を指揮する事は無かった。
所領においても同じ宿老の柴田勝家が越前49万石だったのに対し、
長秀は若狭1国(8万5000石)のみと勝家はおろか秀吉(播磨、但馬、40万石)や光秀(丹波一国、34万石)よりも少なかった。
本能寺の変時には織田信孝と四国征伐を行う直前であり、大阪に駐屯していたが、兵の混乱を治める事が出来ず、
羽柴秀吉の来着を待つ事しか出来ず、織田後継者争いにおいてはいち早く秀吉側に付いている。
この頃から秀吉に対して主人と家来ともいえる関係に変わるなど立場が変化している。
その後、清州会議では秀吉方に付いたのが功を奏したのか、自分の所領の約2倍近い近江国の2郡(15万石)を加増されている。
賊ヶ岳の合戦以後、旧領若狭に加え、加賀など計123万石の大大名となったが、その2年後、死去。
胃癌とされているが、一説には主家を蔑ろにした秀吉に腫瘍を送りつけるため、切腹したともされる。

没後も丹羽家は残り、徳川幕府下で二本松藩の藩主として維新まで生き残り続けた。
同格だった幹部仲間でも豊臣・柴田・明智は直系が滅び*1、滝川一益・佐久間信盛の末裔は幕臣に格下げとなっているので実は勝ち組だったのかも知れない。


【逸話】

前述の通り織田信長からは絶大な信頼を受けており、「長秀は友であり、兄弟である」とまで言わしめた。その証拠に長秀自身は信長の兄の娘を、その間に生まれた長秀の子長重は信長の娘を妻としている。

惟住(これずみ)と言う名字を持っており、これは明智光秀の「惟向(これとう)」と共に九州に多い姓であった事から、九州征伐時に起用を検討していた可能性がある。
しかし、それ以降一切の官位を受けていない。これは度重なる薦めに対して長秀が「俺はただの五郎左で結構」と固辞し続けた為、という説がある。

豊臣秀吉の名乗った名字の一つである『羽柴』は、丹羽氏の『羽』と柴田氏の『柴』を一字ずつ貰ったものだとされる。
『羽柴秀吉』を名乗った時には、丹羽長秀と柴田勝家が織田家の有力な家臣とされていたため、名字の元ネタとして有力な説の一つとされるが、
家格で言えば勝家の方が上であったため、もしもこの二人から一字ずつ貰うのならば長秀由来(のはず)の『羽』が先には来ない*2のでは、という反論もある*3


【丹羽長秀を取扱った作品】

  • 小説・ライトノベル
境界線上のホライゾン(→丹羽・長秀)
織田信奈の野望

  • 漫画
戦國ストレイズ
信長の忍び

  • ゲーム
信長の野望シリーズ
太閤立志伝シリーズ
戦極姫シリーズ
戦国大戦
戦国ランス(「……地獄に落ちるといい」)


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最終更新:2023年06月15日 21:27

*1 まあ細川忠興の長男の家系には明智光秀の娘の血が流れちゃいるが

*2 =勝家に失礼

*3 これについては、最初から「はしば」の読みの姓を付けるつもりで、漢字を充てる段階で長秀・勝家両氏の姓から一字取った…つまり、姓を決める順序が特殊だったためだとする考察も。