イタリア軍

登録日:2010/10/24(日) 21:06:30
更新日:2023/10/06 Fri 12:54:32
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俺が命を懸けるのは…惚れた女を守るときだけだ!


イタリア軍とは
1…イタリア共和国の国軍。

2…1の前身国家であるイタリア王国の国軍。
地味に世界で最初に空軍を設立した。

両者とも、地中海・アドリア海が国境の殆どであるため海主陸従の性格が強い。
インターネット上ではよく弱いとかヘタレとか言われている軍隊。
そのヘタレ振りを物語る様々なエピソードがあり、話題性には事欠かない。
それを基にした漫画まで作られた。



ヘタレ例)
  • エチオピアに侵攻したが撃退された。最終的には毒ガスまで使ってようやく勝った
  • 砂漠の真ん中でパスタ食ってた
  • 勝手にギリシャを攻めたが(ry 独ソ戦を控えていたドイツの足を引張った
  • 勝手に北アフリカを攻めてドイツの足を(ry
  • ボロ負けしているフランスに30個師団ほどで攻め込んだが、数kmも進撃できず2個師団に追い返された
  • 戦闘糧食にワインとデザートが入っている
  • 捕虜の食事が豪華。一般兵卒クラスが他捕虜収容所の将校クラス。←将校クラスに出した場合は、最後の晩餐と勘違いされる
  • ぶっちゃけ、強いのは11人チームまで。それでも、美女がいるとナンパを優先する

etc

また、兵全体の士気も低く、装備も貧弱。





イタリア軍は枢軸国側のお荷物だったわけである。



というのは賛否両論である。
上で挙げた例には明らかな嘘であったり、誇張されているものも多い。





【エチオピア】
当時のアフリカの中では珍しく独立を維持しており、「アフリカの虎」と恐れられていた国であった。
装備は殆どが弓や槍だったといわれているが、実はフランスが裏で支援しており、海外製などの武器を大量に保有。
その兵力もイタリア遠征軍に比べると膨大な数であった。
第一次侵攻の苦戦はこれが主な原因。

なお、ガス攻撃をしたのはムッソリーニ政権下の第二次侵攻時。
この時のイタリア軍は快進撃を重ねており、ガス攻撃が無くとも楽勝だっただろう。



【砂漠でパスタ】
北アフリカで主に食されていたのはビスケットと牛肉の缶詰だった。
むろん後方でならパスタ等もあっただろうが、補給体制が整っておらず、前線では一日の水にすら困る有様だったのである。(これは独・英両軍も同様)

領土的野心もあっただろうが北アフリカ侵攻は、ドイツ側からの要請もあったので勝手にやった訳ではない。



【ヘタリア軍】

それになんだかんだで(後半は)イタリア軍も奮戦している。

北アフリカでは精鋭として名高いアリエテ戦車師団、そしてとりわけ有名なのがフォルゴーレ空挺師団である。
同師団は第二次エル・アラメイン会戦で、ロンメル不在の中、
兵力比1:13、戦車比1:70、歩兵用の対戦車装備は火炎瓶や地雷だけ
という絶望的状況で戦車に対して肉薄攻撃を敢行するなど奮戦し、大きな損害を受けつつも英軍の攻勢を2度に渡り撃退。
チャーチルに「彼らは獅子の如く戦った」と賞賛される戦いぶりをみせた。

ロシア遠征(独ソ戦)ではイタリア・ロシア派遣軍(CSIR)を投入し、初期では少なくない戦果を挙げている。
ブラウ作戦時にはサヴォイア騎兵連隊が騎兵突撃を敢行、600名で2000名のソ連軍を撃破し兵器を多数鹵獲するなど戦果を挙げた。
これは欧州で最後の大規模な騎兵突撃だと言われている。
なお同連隊は現在も存在しており、馬ではなくチェンタウロ戦闘偵察車に乗っている。各チェンタウロにはこのとき戦死した馬たちの名前が付けられている。
そのほかにもニコラエフカの戦いで、貧弱な装備でありながら地の利を活かした戦い、
3個師団のみでソ連軍の猛攻を撃退し続けたアルピーニ師団(山岳兵師団)などの活躍もある。
中でも山を縦横無尽に駆け巡ったスキー兵大隊「モンテ・チェルビーノ」は「ディアボロ・ビアンコ(白い悪魔)」とソ連兵に恐れられた。
まぁ、対ソ連だと空飛ぶリアルチートに注目が集まって他の戦火がかすんでしまうだけなのだのだろう。

だが彼らの勇戦振りも大局を変えるには至らず、連合軍がイタリアに上陸し本土決戦となる。

またパトリオ将軍がクーデターを起こしムッソリーニ首相を失脚させる。
その結果、イタリアは南部と北部に分裂。軍の大半はドイツがムッソリーニを救出して作った北部のイタリア社会共和国(RSI、サロ共和国)に参加。
雑然とした装備ながら強固に抵抗し続け、その戦い振りはドイツ軍にも評価された。

だがしかし


だ が し か し



イタリア軍は弱かった

弱 か っ た

確かに上記の通り誇張やわざと曲解された話もあるが・・・。
興味があれば「コンパス作戦」で検索してみよう。

その理由を取り上げていこう。


【貧弱な国力】
一応有力な海軍を整え、舗装された幹線道を持ち、7大列強の一員に名を連ねていたイタリア王国。
だが当時における7大列強とはそんじょそこらの国家とは違う高い工業レベルを維持しているかどうかであり、7大列強の中での工業レベルの格差は別である
んで、肝心のその国力は開戦前から列強のなかではワーストクラスにお寒いものだった。

たとえば産業の血と言われる、鉄鋼の生産量では当時の日本以下である。貧乏貧乏と言われてた日本・ドイツ以下でぶっちぎりの列強最下位。

戦車・軍艦等の兵器の生産量は鉄鋼の生産量に概ね比例するため、そのお寒い状況がよくわかるだろ。

おまけに石油や石炭、鉄鉱石といった戦略資源は国内や当時の植民地では産出せず、大半はイギリスやアメリカからの輸入頼みである。

【杜撰な戦争計画】
資源の乏しさは兵器兵士の質や作戦で補うのが世の常である。
事実、ドイツは電撃戦に一騎当千の装甲部隊、日本は猛訓練を重ねた航空戦術で緒戦を圧倒している。

しかし、イタリアには両方とも無かった。準備時間すら無かった。

まず元々の国力の低さのために旧式化した兵器の更新は進まない。
加えてスペイン内戦でフランコ将軍率いる反乱軍にジャンジャン支援した結果、弾薬の備蓄は皆無だし兵士達はボロボロ。
そんな状況にもかかわらず、ドイツの快進撃に遅れまいと焦ったムッソリーニは軍部の大反対を押しきって開戦。
動員も完了しないまま戦争するはめになった。
その結果が、冒頭の仏軍相手に大惨敗である。
頼みの戦艦は開戦当初は大半が未完成か大改造の真っ最中で、戦争後半になると石油不足で出港すら出来ない。

しかも開戦の動機が「経済政策の行き詰まりでムッソリーニが失脚寸前だったから」というもの。
だったらまずフランコへの支援を自重しろよ…

また、ムッソリーニに軍が振り回され唯でさえ苦しい国力を分散することに…


【低い士気】
都市国家時代が長いイタリアでは愛郷心はあっても愛国心が弱かった。
また、士官は貴族意識が強く兵士と繋がりが弱い。
その上、上記の状況である。
ムッソリーニの個人的戦争と認識されてしまえばやる気も起きない。

このため戦わずに降伏する部隊もあり、大量の捕虜をだした。

もっとも、後にドイツの名将、ロンメル元帥が乗り出すとかなり改善された。


【どうてもいいことには全力】
アフリカ戦線で捕虜となり、ケニアにあるイギリスの捕虜収容所に送られた3人のイタリア兵。
収容所から見えるケニア山を眺めているうちにどうしても登ってみたくなり
半年がかりで食糧や装備をちょろまかして収容所を脱走。みごと標高5000メール弱のレナナ峰への史上初登頂を達成した。
その後、登頂に成功して満足した3人は自ら捕虜収容所に戻って独房送りに。
どうしてその能力を戦闘に活用しなかったのか……。


全体としてみてイタリアが弱かったのは事実であろう。だがこのようにイタリア軍はよく言われているほどのへタレであるかどうかは解釈次第であろう。
(前半はともかく)彼らの勇戦振りは評価されて然るべきであろう。




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最終更新:2023年10月06日 12:54