鯰絵

登録日:2012/02/17 Fri 17:00:22
更新日:2023/04/15 Sat 18:14:30
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鯰絵(なまずえ)

安政二年(1855年)に起きた大震災「安政江戸地震」を受けて急速に流行した錦絵の題材の一種。

その種類はおおまかに三種に分けられるが、何れも地震を起こすと信じられていた大鯰(地震鯰)をメインに描かれている。


□大鯰(地震鯰)伝承

日本では古くから、地震の前兆として地震を予知したが暴れると言われている。
現代の科学者はこれに鯰が異常な磁場を云々、地震の前の微振動を云々等といろいろな仮説を立てているが、
ぶっちゃけ鯰が暴れることと大鯰とはあまり関係が無い。

大鯰とはもともと民間伝承の一種であり、まだ地震のメカニズムが解明されていない時代(現代においても完全に解明されているとは言い難いが)、
“地震という未知の驚異に対する理由付け”and“の権威付け”のために生み出された伝説の生物の一体である。その伝承については以下の通り。

日本の地中深くには、とても巨大な鯰が住んでおり(地方に因っては日本全土が鯰の上に乗っている、とも)、地震が起きるのはこの鯰が暴れるためである。
この鯰を封じるため、神々は神の一柱で武の神でもあるタケミカヅチに神様製の封印用武装・要石(火難目石)を持たせて使わした。
タケミカヅチと要石の力により大鯰は押さえ付けられているが、大鯰は苦しいのか時々身じろぎし、それが地震となる。

得に、十月(神無月)には八百万の神々が出雲大社に集結するため、タケミカヅチの変わりに恵比寿が封印を代行するが、
恵比寿はタケミカヅチに比べ力が弱いため、十月は地震が多い。

概略して言えばこんな感じ。
つまり地震がこの程度で済んでんのは鹿島大明神(タケミカヅチ)のおかげだからおまいら崇めろよー、といった趣旨の伝承である。

ただ、留意しておきたいのは、これらはあくまでも民間伝承であり、記紀を初めとする神話系の本には載っていないという事。
そもそも、古代~中世代においては地震自体が神様の起こした天罰や警告の一種だと考えられており、所謂大鯰伝承が風靡したのは江戸以降だと言われている。


□鯰絵流行の背景

安政江戸地震で人々の間に地震に対する不安や恐怖が広がったため。






…………と、これだけでは寂しいので少し説明すると、鯰絵が流行したのは偏に出版業者の機を読む力の賜物と言える。

鯰絵は主に「地本問屋」という出版業者から出版されたのだが、この地本問屋はもともと役者の錦絵や草双紙(現代における漫画)を主に出版していた。
ところが安政年度と言えば所謂天保の改革が行われた後の時代である。
天保の改革により江戸市民は質素倹約な生活を強いられ、また役者絵を初めとする錦絵は、

「一つの絵に色んな色使うなんて贅沢過ぎる。禁止な」

と言われていた。

役者絵という「強み」を奪われたところに大地震である。地震後の混乱期に普通の本が売れる筈も無い。

そこで生まれたのが鯰絵。
大鯰という、誰もが知る地震の主を題材とした絵は地震の主を痛め付けるもよし、
「よくも地震を起こしたな。そんな悪い娘はオシオキしちゃうぞ☆デュフフ」的にペロペロするもよし、と、
多くの事に使える鯰絵は売れに売れ、鯰絵ブームが生まれる事になったのである。


□鯰絵の種類

鯰絵は鯰を題材にしたものであるが、その種類は大きく三つに分けられる。

大鯰とタケミカヅチor恵比寿
鯰絵の中でも初期に描かれたもの。
題材としては大鯰と、それを懲らしめるor説教するタケミカヅチ、恵比寿。

[大鯰(地震鯰)]の項で説明したが、タケミカヅチと恵比寿は大鯰を封印しているモノであり大地震を発生させた大鯰に対して天罰を与えている図柄である。
これらの絵には、地震避けのための詩やまじないが同時に描かれており、地震に対するお守りとして買い求める人が多かった…………筈。


大鯰と民衆
鯰絵の中でも初期~中期に描かれたもの。
題材としては大鯰に対して危害を加える民衆。

これに関しては言うまでも無いだろう。
地震により親しい人や家財、職を失った人々が、大鯰に対してその報復、意趣返しをしている絵であり、
恐らく地震後の民衆の心情を最もダイレクトに表現している絵であると言える。
前述のストレス発散に使用されたこと間違い無し!…………多分。
面白いのは大鯰を守ろうとする人間も描かれている事。
大工を初めとした建築業は家屋の再建のため好景気に湧き、瓦版(現代における新聞)は地震以後の世の動きを知るために必要なものだったため、よく売れた。
つまり、地震により得をした業者が民衆と大鯰の仲裁に立っているのだ。


大鯰と貴族
鯰絵の中でも後期に描かれたもの。
題材としては大鯰により危害を加えられている金持ち。

地震からくる混乱も鎮静化し、人々が復興し始めた時分に描かれたもの。先の二種類とは打って変わって、大鯰が善いものとして描かれている。
財産の少ない民衆に対して、財産を溜め込んでいる金持ちは地震による影響も大きく、
家屋も借家ではなく屋敷であるため、「家が潰れたら他に行く」という訳にもいかない。
更に当時金持ちは、災害の際に「施行」と呼ばれる被災者への募金が義務付けられていた。
これらにより金持ちは民衆に比べ多くの財産を失ったため「この地震は大鯰が世直しの為に行ったものである」という解釈が生まれ、
それに因って描かれた鯰絵であった。


□備考
  • 現在までで約250の鯰絵が見つかっている。その中には地震の少し前に起こった「黒船来航」のペリー提督とコラボしたものあったという。
  • 鯰絵は幕府には認可されていなかったが、幕府は黙認していた。
    これは鯰絵の流行と共に、震災の不満の矛先を幕府から大鯰へと反らそうという狙いがあったのではないかと言われている。
  • 復興と共にブームは鎮静化したが、ブームを終わらせたのはやはり幕府であった。
    地本問屋達に対して鯰絵の破棄を命じたためであり、これは違法出版物を黙認することにより、規律のたるみが出来るのを避けるためであった。


現代版鯰絵?
(画像跡)



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最終更新:2023年04月15日 18:14