足利義昭

登録日:2011/06/24(金) 23:42:23
更新日:2024/03/17 Sun 13:34:49
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足利義昭(1537年~97年)は、室町幕府第15代将軍にして最後の将軍。
剣豪将軍として名高い室町幕府第13代将軍足利義輝は兄にあたる。


生涯

将軍職を兄の義輝が継いだことから、義昭は将軍家の慣例に従って出家し、覚慶と名乗っていた。
しかし、1565年に松永久秀の息子・松永久通と三好三人衆に義輝が暗殺される事件が起こり、覚慶も久秀に興福寺に幽閉される憂き目にあう*1

やがて興福寺から義輝の側近であった細川幽斎や和田惟政らの助力により脱出すると、
守護大名の名家六角家の許可の元で甲賀の矢島に御所を置き、各地の官領やかつての有力な守護大名と連絡を取り上洛の機会を伺っていた。

が、当時六角家内は義賢から家督を継いだ義治が重臣を惨殺したことを発端とする離反で荒れており、
義治は官領職を餌に三好三人衆と内通しているという情報もあったため、六角家を出てかつての名家若狭武田家を頼るも、こちらも謀反などで荒れていた。

次に、やはり名家である朝倉家に身を寄せるが、当主の朝倉義景には上洛の意思が見られず、
義昭からの再三の上洛戦要請にも冷淡な態度を崩さなかった。

そこで、その朝倉家の家臣であった明智光秀を通じて、美濃を勢力下に収めた織田家の下に義昭が身を寄せると、
当主の織田信長は自身が掲げる「天下布武」の大義名分として利用できると考え、義昭の擁立を決める。

そして、信長の力添えもあり、1568年に義昭は将軍宣下を受けると共に、上洛を果たして念願の室町幕府第15代将軍に就任。 
義昭は信長を「室町殿御父」と呼び慕い、副将軍の座を与えようとするほど一時は良好な関係を築くが、
親政を目指す義昭とそれに伴うトラブル(特に朝廷、寺社仏閣関係)を対処する信長の間に次第に齟齬が生じていき、
信長が義昭の振る舞いを諫める文書を出したり、権力の制限を加え始めるなど、両者の関係は次第に悪化していく。

ただ、両者の関係が微妙になり始めたこの頃に、定説で言われがちな信長包囲網を義昭が組んだというのは誤りであり、
まだお互いを必要としている事もあって決定的亀裂までには至らず、義昭が完全に信長と敵対するのは元亀4年になってからである。
(その証拠に志賀の陣の和解の際に定説なら味方である延暦寺に義昭は「信長方」と見なされてこれっぽちも信用されていない)

越前朝倉攻めと端に発した「元亀騒乱」は殊のほか信長を苦しめるほどの非常に強大な勢力であり、
各個撃破して小谷城包囲に大量の兵力を割いていた織田・徳川両家の隙を突き武田信玄が三河侵攻を開始。
信玄は徳川の諸城を次々と落としていった。

しかし、小谷城を包囲している織田徳川連合軍とにらみ合いを続けていた朝倉軍が積雪と疲労を理由に撤退。
これにより小谷城攻めの兵が徳川の後詰めにいけるようになってしまった。
なお、この行動に信玄は激怒し、義景を痛烈に批難する文書を送ったとされている。

それでも織田徳川連合軍と武田軍が対峙した三方ヶ原の戦いでは織田徳川連合軍はあえなく惨敗し、
武田軍は信長の領地である尾張まで侵攻するかと思われたが、もともと病気持ちだった信玄の容態が急変し病死。
総大将の死去によって武田軍は撤退し、これを契機に織田の各個撃破が進み、信長包囲網は瓦解した。

そして信長は元亀3年、義昭に対して17ヶ条の意見書を提出した事により漸く信長と決定的に断絶状態になり、
義昭はここに至って漸く2度に渡る挙兵を行ったが、いずれも信長に瞬く間に鎮圧されてしまい、1573年に京都を追放された。
この時点で一般的には室町幕府は滅びたとされる。

ただし義昭は将軍職を返還しておらず、朝廷も義昭を征夷大将軍として任命し続けていた。


その後義昭はまたしても各地を転々とした後毛利家の庇護を受け、鞆に本拠地を定め再度各地の大名に書状を送り再び信長包囲網を作り上げた。
(以降将軍職を返還するまでの間、鞆幕府という亡命政権が成立していたという説もある)

この包囲網に参加したのは一向衆、武田、毛利、上杉などの正に大大名揃いであり、
信長の傘下に降っていた松永久秀や波多野秀治などの大名すらもこれに影響され包囲網に呼応した。

しかし、織田家の国力増加や一向衆を始めとする包囲網勢力の疲弊により戦況は芳しくなく、
木津川口の戦いで大勝した毛利・村上水軍は第二次木津川口の戦いでは鉄甲船を率いる九鬼水軍に大敗。

手取川の戦いで大勝を収めた上杉軍も当主である上杉謙信病没による跡目争いで織田と敵対している余裕がなくなっていった。

信長に反旗を翻した大名も次々と攻略され包囲網は瓦解していき遂には上杉、毛利、長宗我部が織田に反抗を続けるのみとなった。


しかし1582年、本能寺の変が起こり信長は死亡。
これを好機と見た義昭は柴田勝家、毛利輝元、徳川家康と通じて上洛を目論む。

しかし勝家は羽柴秀吉との合戦に敗北。
輝元と家康は秀吉傘下に降った上に、秀吉が太政大臣に任命されたため。上洛が実現されることはなかった。
因みに賤ヶ岳の戦いの際には明らかに勝家方に付いていたのにもかかわらず処罰された形跡はない。
最早「処罰する価値もない」といった所か…

1588年、秀吉が九州討伐を終えると義昭と和解。
15年振りに帰京を果たすと同時に義昭も遂に将軍職を辞し出家。これにより室町幕府は名実共に滅亡した。
足利家は関東公方の分家で里見氏の庇護下にあった足利国朝が宗家の扱いを受け、喜連川藩主家として江戸時代を生き延びる。

その後は山城に1万石の領地を認められ、秀吉の御伽衆として晩年を過ごした。
朝鮮出兵の際には『室町内府公』という称号を得、武将として名護屋まで出陣している。
1597年、大坂にて死去(享年61歳)。



余談だが本能寺の変において明智光秀に謀叛の指示をした黒幕は義昭だとする説も一応ある。
理由としては

  1. 光秀は義昭の家臣であった
  2. 毛利軍と秀吉が和睦し撤退した際(大返し)に義昭は居候の身でありながら追撃を唱えた(密書が秀吉に見られてしまったことを察した?)
  3. いわゆる三日天下の際光秀は新政権の構築を行なっていた(室町幕府の再興?)
  4. 光秀の出した調略の密書に何らかの後ろ楯(義昭もしくは朝廷?)があるような文が見受けられる
  5. 度々信長に反抗する義昭の元を離れ織田家臣になった細川幽斎は調略を断っている
  6. 義昭が毛利家居候中にあったいわゆる鞆幕府は意外と裕福で微々たるものとはいえそれなりに権力があった事
などが挙げられている。

しかし、反論として
1.4で挙げた密書には確かにそう解釈できそうな文があるものの、有名な細川幽斎宛の絶筆の手紙や変直後に出した手紙には義昭の事は一切触れられていない。
 義昭が黒幕ならば大義名分を得るためにも、義昭の名前を一切出していないことは明らかに不自然である。
2.もし、義昭が謀反を計画していれば、庇護している毛利家は当然変が起きるのを把握している筈なのに、秀吉を妨害せず中国大返しを成功させてしまっている。
3.そもそも光秀からするとわざわざ義昭と通ずるということは非常に危険なリスクの割に、メリットはまるでない。
4.本能寺の変自体、上手くいっているようでいて徳川家康を始め信長の一族や秀吉の家族に逃げられており、
 とても綿密に計画した謀反とは思えないほど手際が悪く、
 更に筆まめで有名な義昭お得意の御内書にも本能寺の変以前に光秀やその関係者に送った物が存在しない。

などが挙げられている。



総評

病的なまでに信長に執着し、度重なる不運(むしろ信長側の異常な悪運とも言える)に屈せず死亡に追い込んだ(仮)義昭であるが、
創作物では暗愚な人物として描かれたりする。まあ行動が非常に執念深くかつ完全に私怨じみているから無理もない。
生き永らえたのも、腐っても武家の棟梁なので殺すよりは生かした方が良いという感じである。

ただ彼と関わって信長と敵対することになった者はほぼ全員が結果的にシャレで済まされない事態*2に陥っており、
協力者にことごとく不幸をまき散らした者として見られたりもする。
この点は、そもそも武断派と関係が良くなかったのに家康に対して挙兵し、起こった関ヶ原の戦いで敗北したことにより、
豊臣家が一大名に転落したのみならず、西軍だった毛利家や上杉家が所領を大幅に減らされた一方で、
徳川家が江戸幕府を開くきっかけとなり、最終的に大阪の陣という豊臣家を滅亡させる遠因を作った石田三成に通じるものがある。
以上から、やはり暗愚な人物として描かれることは無理がない。





そろそろ信長を病的に愛するヤンデレ義昭ちゃんが流行ってもいいんじゃないかな!


NHK大河ドラマによく出てきており、監督転向前の伊丹十三(『国盗り物語』)、歌手兼俳優の玉置浩二(『秀吉』)、
大河脚本家の三谷幸喜(『功名が辻』)、元大河主役の和泉元彌(『江~姫たちの戦国~』)、
名バイプレーヤーとして知られる滝藤賢一(『麒麟がくる』)、それから約3年後で癖の強くコント色が強い義昭を演じた古田新太(『どうする家康』)等、2023年まで計15回登場している。
これは征夷大将軍の出番としては徳川幕府の家康・秀忠に次いで3番目に多い。




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最終更新:2024年03月17日 13:34

*1 ただし、久秀は覚慶を殺すつもりはないと誓詞を出しており、幽閉も「外出禁止」程度の軽いものだったとされる。

*2 上述の信長に反抗していた上杉家と毛利家と長宗我部家は信長の死により難を逃れたものの、豊臣家に降った後に関ヶ原の戦いでいづれも西軍に属した結果、上杉家は元々治めていた会津から出羽米沢に、毛利家は元々治めていた安芸から周防・長門に転封され、長宗我部家に至っては改易の末に滅亡している