97式中戦車

登録日:2009/06/25(木) 02:42:09
更新日:2024/03/22 Fri 19:39:03
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読み:キュウシチシキチュウセンシャ


日本帝国陸軍が誇る偉大なやわらか戦車である。

リベット止めされた車体と短い57ミリ砲、はちまき状の無線アンテナが特徴。

チハたん可愛いよチハたん。

チハタンばんじゃーい
   ___
   丶=☆=/
  n( ・ω・)n
  ヽエニエ/ニア
  ||::|l「亠―o
__|⊥::⊥|L工 ̄
Lミ/_/__」ミ丘百(==¬
(◎~O~~O~◎)三)-)三)
ヽ◎◎◎◎ノ三ノ-ノ三ノ

これまでの89式中戦車に変わる歩兵支援戦車として、皇紀2597年(西暦1937年)の年度末に採用された。
だが、ドイツ軍が戦車戦を開拓したおかげで、本来の目的外の対戦車戦を強いられ、実質的に主力戦車となった。
日本軍としてもこれは予想外の出来事だった。
後に自走砲の車台としても重宝され、96式15糎榴弾砲や10年式12糎高角砲まで無理矢理載せてしまった。

前線の戦車兵からは「九七」「九七式」と呼ばれることが多く、時には単に「中戦車」と呼ばれることもあった。

現代では字数制限や打ち込みの手間を軽減するためなどといった都合から、開発時の秘匿名称であり、開発関係者向けの呼称でもあった「チハ」または「チハ車」の名称で呼ばれる*1


軌跡


日米開戦前

初戦は皇紀2599年(西暦1939年)5月のノモンハン事件である。
戦車第3連隊が装備していた4両の97式中戦車の内、1両が45mm対戦車砲19-K(初速760m/s)で撃破され、同連隊長の吉丸清武大佐が戦死した。
後日鹵獲砲で行われた射撃試験でも、砲塔の25mm装甲板が射距離1,500m・命中角80°の条件で貫徹されており、やわらか戦車であることが露呈した
(ただし初速730m/sの試製97式47粍砲に供された場合は、射距離1,000mでも打痕湾曲を残す程度に留まり、効力ナシという判定を受けている)。
それでも初速700m/sの37mm徹甲弾抗堪という要求性能は満たしていて、
装甲厚25mmの下部側板(命中角90°)は射距離150mで94式37mm砲に撃たれても凹痕が残る程度で済んだ。
もっとも支那事変(日中戦争)で押収した独製37mm対戦車砲Pak35/36(初速745m/s)に対しては、倍の射距離300mでも撃ち抜かれてしまったが……
とはいえ米製37mm対戦車砲M3(初速884m/s)でも有効射程は350yd(約320m)以内とされていたので、1930年代後半の当時としては及第点である。

日中戦争では無敵で、車両といったらI号戦車やCV33しかない国府軍相手に大活躍した。

太平洋戦争

太平洋戦争が始まると、さすがのチハたんでも無敵とはいえなくなった。
M3スチュアート軽戦車やM3リー/グラント中戦車が現れたためである。

彼らの前にはチハタンは『ジャップの戦車はブリキだぜ!HAHAHA!軽戦車よりLightだぜ!』なやわらか戦車でしかなかった。
当然ながらこの時になって急に日本戦車兵らから上層部へ文句が出まくり、
戦車否定・歩兵至上主義者で部内で有名であった時の総理大臣である東條英機を慌てさせた。

「総理!前線でチハタンが軽戦車にも勝てませんと報告が!」
「馬鹿なこというな!チハタンは無敵なのだぞ!現に支那戦線では無敵なのだぞ、チミィ」
「これを見てもまだそれいいます?」(M3軽戦車の写真見て)
「ガ━━(;゚Д゚)━━ン!!ヤンキーどもはこんな、こんな凄いのを軽戦車と言い張るというのか!?」

……だったらやる前に調べろよ。

因みに日本が開戦した時には東條英機を首魁とする日本陸軍主流派がアホのように信仰していたドイツも、
イワンおじさんの誇るT-34中戦車やKV-12重戦車に手を焼き、大慌てで対抗策を講じる事態となった。
アメリカの機甲戦力を自軍基準で考えていた東條は軽戦車にさえチハタンがフルボッコされている現実に顔面蒼白になり、
持論を捨てて戦車戦力の拡大を進めるが……日本の努力をよそにドイツと連合軍はどんどん戦車を恐竜的進化させ、
日本軍が血反吐を吐いて完成させた『四式中戦車』や繋ぎとして開発した『三式中戦車』も辛うじて対抗できたに過ぎなかった。

流石に『自軍の中戦車が軽戦車にフルボッコされる』事実に重い腰を上げた日本軍は、
ノモンハン事件時から開発されていた高初速の47ミリ砲を搭載した新砲塔チハたんを製造した。
これでM3軽戦車には何とか対抗できるようになったものの焼け石に水。
その頃にはアメリカ軍は更に強力なシャーマンを投入し、終戦の年にはあのティーガーIより優れたM26パーシングが現れていた。
後継戦車が生産されても、日本海軍の急激な衰退で輸送手段を失った日本は本土決戦に使うのを名目に本土で死蔵させたので、
チハタンは『現れないであろう後継』を待ち焦がれながら戦い続けた。だが、その絶望にもチハたんは諦めなかった。

グアム島のチハタン無双(1944年8月2日午後)

グアム北部で追撃戦を行っている米陸軍第307歩兵連隊が日本軍の待ち伏せしていると思われる地点を掃射したところ、
戦車第9連隊に所属していた1台のチハが飛び出してきた。
猛烈な弾幕で跨乗していた3人はすぐに倒されたが、チハは攻撃を跳ね返して疾走を始める。
機銃が据えられた教会に突っ込んだり、野戦病院や連隊本部が置かれた後方まで侵入、
チハの通った後はめちゃめちゃにされ、死傷者や破壊された物資が転がっていてわかったという。
あわててバズーカを呼んだりしたが間に合わず、チハを止められる者はいなかった。

更に隣の第3海兵師団の戦区に侵入したチハたんは第9海兵連隊の前線を食い破り、第3海兵連隊後方の飛行場地区にまで潜り込んだ。
第3海兵連隊の第1大隊本部付近を爆走していくのが目撃されている。
弾丸が尽きたのか、砲塔ハッチから乗り出した戦車兵がピストルを乱射していたという。

最後は湿地にはまり込んで動けなくなって、ようやく駆け付けたシャーマン戦車によって破壊された。

しかし残骸の中に日本兵の姿はなく、乗員は既に脱出してジャングルの中へと消えていたのであった。

占守島の戦い(1945年8月18日~21日)

また、終戦のどさくさ紛れに侵攻してきたソ連赤軍相手に士魂部隊のチハタンは大活躍し、
あのヨシフおじさんをして「8月19日はソビエト人民の悲しみの日である」と言わしめた。
ただし戦車第11連隊の損害も多く、九五式軽戦車を含む64両中21両を喪失し、同連隊長の池田末男大佐も戦死している。

ちなみに、ソ連赤軍にはノモンハン事件時のBT-5快速戦車より更に強力なT-34-85中戦車やIS-2重戦車などがあったが、
「満州の同志が言っていたが、ヤボンの戦車はゲルマンやパスタ野郎共のファシスト軍の戦車よりも圧倒的に弱いぞ」
「それじゃ可哀想だからうちらの戦車は置いていくか~」

彼らはチハタンが歩兵相手だと無敵であることを知らなかったようだ。

第二次世界大戦後

中国の八路軍(人民解放軍)に滷獲されたチハタンは戦後の国共内戦でも大活躍し、功臣号と名付けられた。

一方、日本国内に残ったチハタンは砲搭の代わりにドーザープレートを装着してブルドーザーに生まれ変わった。

生まれ変わったチハタンは戦争で荒れ果てた国土を直す復興作業に従事して消えていった。

中には港のクレーン車や、はたまた警察の装甲車になったチハタンもいて、終戦から20年後まで現役だった個体もいるそうな。


日本陸軍の内部事情

チハタンが登場から終戦までの10年近く頑張り続ける羽目になった要因は様々であった。
一つは日本軍の実質的な主力は国情の限界もあり、豆タンクと、九五式軽戦車である事。
つまりチハタンすらも機甲部隊にいないというのも、日本軍では当たり前だったのだ。
もう一つは、開戦前の陸軍主流派の首魁でもあった東條英機らが戦車を『金かかるんだよ( ゚Д゚)ヴォケ!!』として嫌い、
戦車整備を軽視していたという内情があり、これは巷にも有名。戦後日本で普及した思想である『陸軍悪玉論』の根拠の一つとして知られている。
だが、もう一つ当時の日本の切実な事情があったのは意外と知られていない。
当時の日本のモータリゼーションの遅れと、輸送船を含めた国内インフラが超絶的に貧弱なために、
『欧米列強と同等の戦車を作ったとしても、本土から戦線へ運べない!』という切実な問題が重くのしかかっており、
チハタンは登場当時の日本軍にとっては『高価で重く、性能が高い』戦車だったのだ。
しかも、戦車戦はそもそもドイツ軍が1939年の開戦以降に実証した分野であり、それを知った日本軍は教義を変更し、新型戦車には反映された。
なお、競作の『安くて軽いチニ』が採用されなかったのは日中戦争で予算が増えたからである。
しかし東條英機らの予想を覆す様相を呈した太平洋戦争でチハタンは『陸軍が弱い日本のシンボル』として連合軍に嘲笑されてしまい、
大戦での頼みの綱であるドイツ軍でさえ抗しきれずにパンターやティーガーIIなどの強力な戦車の開発に走った事を知った陸軍上層部は
「本土決戦にしか使えなくてもいいから強力な戦車作らないとあかん!!」と四式中戦車や五式中戦車を開発させるが、時すでに遅しであった。
チハ系そのものは三式中戦車にまで発展していたが、哀れにも機会を逸した。

とは言えチハタンの防御力に関しては開発時点で戦車隊側は不安を現しており、教育総監部も賛同していた事も事実である。
彼等の主張は
  • 速度を向上させても、戦場では往々にして地雷やトラップ等で足止めを食らうので主要部の重装甲化は必須
  • 幾らコスト重視と言ってもすぐにやられてしまう戦車は貴重な予算と戦車兵の生命を一番無駄にするのでは?
の二点が中心であり、その危惧は不幸にも的中してしまった。

ただし、揚陸戦というシステムにおいては日本陸軍は先進的であったことは留意する必要が有る。
「艦尾から戦車搭載の揚陸艇、最上甲板から短距離発艦が可能な航空機を発進させ、航空機の警戒・援護の下で戦車と歩兵を同時に上陸させて即座に相互支援体勢を取る」と言う強襲揚陸艦の思想は現代でも通用するアイデアである。
この強襲揚陸艦のアイデアは第一次世界大戦のガリポリの戦い(ダーダネルス海峡突破作戦)で出た「従来の揚陸歩兵は重火器を持たず機関銃や山砲を有する敵歩兵の火力に押し負ける」と言う課題を「戦車」と言う回答で解決したものであるが、戦車を大型化すると揚陸艦や揚陸艇も其れに応じたものに設計・製造・配備までやり直さなければならないと言う問題を生じてしまう。
揚陸艦を持たないドイツやソ連と比べて、揚陸艦を持つ日本やイギリスでは戦車の大型化の敷居が高いのである。


戦後、チハタンを棺桶となるまで酷使させた陸軍はGHQから支給された戦車(チャーフィーやシャーマン等、当時はアメリカにとって既に型落ち機ではあったが)との落差に愕然とし、国民から罵倒された。
内務官僚らなどは『歩兵突撃馬鹿のせいで戦車兵が無駄死にした』と侮蔑し、米軍も陸上自衛隊が陸軍の伝統を継ぐ事を認めなかった。
だが、彼ら日本軍の当事者からすれば、『だって戦前は軽戦車で十分だったし、まさか戦車がこんなに強く、大きく発達するとは思わなかったんだもんヽ(`Д´)ノウワァァァン!!』であった。実際、総理大臣となった後の東條は機甲行政を整え、優勢時には無敵を誇ったティーガーIの輸入を目論むなどの努力を払った。
陸軍自体も大戦末期にはシャーマン(75mm砲型)やT-34-76に比肩しうる四式中戦車を完成させてはいた(五式中戦車は量産断念)。
もっとも戦車砲の調達が間々ならず野砲転用の砲身を検討する始末で、実質的な主力は繋ぎとして開発したはずの三式中戦車だった。
だが、大戦前の判断ミスの代償は大きく、チハタンを引退させられる後継は戦線に現れずじまいだった。
戦後に『日本陸軍は戦車と機甲師団を軽視して滅亡した』と白眼視されるレッテルを貼られたのはこの戦車発達に関する判断ミスが大きい。
彼らは出来る範囲で努力を払ったのだが、『ヨーロッパを蹂躙したドイツ軍と同盟を結んでいたのに戦車の力を侮り、チハタンをいじめた』
という事実の前には、後世の人間には自己弁護にしか映らないだろう。

言っておくが、チハタンは登場当時の1937年当時の時点では間違いなく世界水準であった。
悲しむべくはいざ実戦にチハタンが投入された時、既に想定された戦場は無く、戦車同士の機動戦も生起するのが当たり前の時代になっていた事、
「『革新にして最強の座をつかんだ兵器』が登場してから戦争が終らない内に『時代遅れ』」になったほどに技術が加速度的に進化する大戦の時勢に生まれ出た事自体だろう…。

派生型

◆新砲塔チハ

対戦車戦闘を重視して、97式中戦車の主砲を従来の短砲身57mm砲から長砲身47mm砲へ換装したもの。
換装にともない、砲塔が大型化している。もともとは次世代の新型戦車のために開発した、新型47mm砲及び新型砲塔の出来を確かめるために、まだ完成していない新型戦車の代わりにチハタンの車体に搭載したものであり、量産する予定はなかった*2
しかし、半年後に勃発することなる太平洋戦争の序盤で発生した、アメリカ・イギリス軍戦車との戦闘をきっかけに急遽量産が決定し、その後の国軍主力戦車の立場を担うことになる。

現場の兵士からの呼び名は「九七」や「九七改」または「チハ車改」だったとされる。単に「中戦車」と呼ばれることも多かった。

◆十二糎砲戦車(短十二糎自走砲)

新砲塔チハの主砲を120mm砲へ換装したもの。搭載された120mm砲は短十二糎砲と呼ばれ、輸送船の自衛用などに使用されていたもので、新砲塔チハに搭載するにあたって改造が施されていた。
この兵器は海軍内にある陸戦隊が所有していた戦車であり、終戦の段階で佐世保などに10数輛存在していることや、十二糎砲戦車の名の通り、120mm砲を搭載した戦車という扱いであり、戦車部隊に所属していたことが分かっている。しかし、その運用方法はどのようなものであったかわかっていない。
十二糎砲戦車というのは海軍内の呼称であり、現代では短十二糎自走砲と呼ばれることが多い。

現在では惑星「BF1942」や惑星「war thunder」で防御をかなぐり捨ててにっくきシャーマン達に立ち向かう愛称「キングチーハー」として、
戦場でその120mm砲轟かしているとかないとか…。

◆十二糎砲戦車(長十二糎自走砲)

十年式十二糎高角砲(陸軍の高射砲に相当)を改造してチハ車台に搭載した自走砲。
上記の短十二糎自走砲と同様に詳細は不明で、陣地転換しつつ直接照準射撃を実施する予定だったという。
車台に比して過大な砲を車載していたため最大速度は25km/hに留まるばかりか、車内に弾薬を搭載する余裕も無かった。
完成したのは試作車の1両のみで、量産改修は間に合っていない。

◆試製一〇〇式砲戦車 ホイ

短砲身75mm砲を装備した試作砲塔を搭載した砲戦車*3。別名「一式砲戦車」。
もともとチハタンの後継中戦車の車体を使う予定であったが、まだ完成していないので代わりにチハタンの車体を試験の名目で使っている。なお、新砲塔チハと異なり、一部からその実用性に疑問の声が上がっており、量産されることはなかった。

◆増加装甲型

チハタンの車体や砲塔に装甲板や履帯を装着し、防御力の強化を目論んだもので、現地で改造したパターンや正規に取り付けたパターンもあるがその数は少ない。
なぜ少ないかといえば、当時の戦車は戦車自体の重量が増せば増すほど、操作が難しくなるからである。通常は空気圧や油圧によるアシスト機器を取り入れることで補っているが、日本はこのアシスト装置の開発が遅れており、終戦の段階で試作止まりだった。

試製一式七糎半自走砲 ホニI

プラモデルの影響から「一式砲戦車」と呼ばれることが多い。
性能はいいけど、重すぎる九○式野砲の扱いに困っていた砲兵隊が開発した自走砲。
砲塔と車体の一部を取り除いたチハタンに改造した九○式野砲を搭載し、前だけ装甲板を設けている。
前方以外は吹きさらし同然で、戦場を飛び交う砲弾の破片や銃弾に弱く、撃破されなくても砲の操作員だけ死んでいく可能性が高かったが、積極的に前に出る必要がなかったため問題ないとされた。
もともとは対戦車戦闘用の兵器でなかったが、兵器不足を補うため後に対戦車兵器としてもちいられている。
当初は突撃砲や砲戦車として使用されることも考えられており、そのようになった場合は前だけでなく天板や後部にも装甲板が追加される予定だった。

◆一式十糎自走砲 ホニII

機動砲兵用に開発された自走砲その2。
チハタンの車台に九一式十糎榴弾砲をオープントップ構造で搭載した自走砲。
仰角が牽引砲時代の45°から25°へ制限されたため、最大射程が10.8kmから9kmに低下している。
一式徹甲弾や三式穿甲榴弾で対戦車戦闘も一応可能だが、あくまでも本業は間接照準射撃による火力支援である。
もっとも戦況の悪化から本車も否応なく対戦車戦闘に駆り出される羽目となったが。

◆三式砲戦車 ホニIII

試製一式七糎半自走砲を砲戦車化したもので、搭載砲は変わらないが、代わりに七角形の固定砲塔を搭載されている。
前だけでなく天板や後部にも装甲板が追加されたため、砲弾の破片や銃弾に強くなっており、対戦車戦闘を考慮して砲が動かせる範囲が広がっている。
一式七糎半自走砲は敵戦車を狙う際には照準器を外に出すため、天板に開口部が必要であり、防御性に問題があったが、簡易ながらも直接照準器が追加されたため、いちいち外にでなくとも照準が可能になっている。

◆四式十五糎自走砲 ホロ

チハタンの車台に三八式十五糎榴弾砲を砲架ごとオープントップ構造で搭載した対戦車自走砲。
三八式十五糎榴弾砲は日露戦争時に発注された骨董品で、野戦重砲としては大成出来なかった代物だった。
しかしドイツから成形炸薬弾(穿甲榴弾)の技術を導入されると対戦車戦闘へ活用されることになり、最大の欠点だった機動力不足を自走化で解決している。
直接照準器を備えていて、M26重戦車A41重巡航戦車IS-2の正面装甲も貫通し得る三式穿甲榴弾(150~180mm)が運用可能。

◆試製十五糎自走砲 ホヘ

チハタンの車台に九六式十五糎榴弾砲を砲架ごとオープントップ構造で搭載した自走砲。
四式十五糎自走砲 ホロと異なり試作車の完成に至ったのかも定かでは無く、部隊配備も実戦経験も無い。
仮に完成してもトップヘビーであることは明白であり、円滑的な陣地転換のみ可能な移動式砲台として運用するしかないと思われる。

後継車輌

試製中戦車 チホ

チハタンの後継その1。少なくとも2種類以上の試作品が存在する。
チハタンのアンチ勢が発案した戦車。平たく言えばチハタンから「ムダ」をカットして軽量化して作りやすくした。
スケールダウン版と思いきや、ある意味新砲塔チハの元になった戦車でもあり、対戦車戦闘を考慮して長砲身47mm戦車砲を搭載したり、
砲塔後部にあった機関銃を砲塔正面付近に移したりと後継車輌らしくチハタンよりも進んだ点もある。
また、チハタンで深刻視されていた操縦性の悪さを軽量化やアシスト機器の装備により改善させ、運転手の育成コストを下げることも目指していた。しかし防御面や移動速度はチハタンから変わっておらず、ソ連との国境紛争であるノモンハン事件をキッカケに開発は中止されている。

一式中戦車 チヘ

チハタンの後継その2。こちらも少なくとも2種類以上の試作品が存在するらしい。
ノモンハン事件の教訓からソ連軍が使用する45mm対戦車砲を防ぐため、チハタンの装甲25mmを35mm(後に50mm)に強化、高速で動き回るソ連軍戦車を追撃可能なように高出力エンジンを搭載した。
ただ、日本では航空機と艦船に予算を多く振り分けていたことや、太平洋戦争の勃発により戦前から計画されていたことがすべて狂い、ボツになっていったことで開発は難航し*4、完成したときにはすでに時代遅れでは済まされないレベルになってしまった。

二式砲戦車 ホイ

一式中戦車 チヘに随伴して火力支援を実施する目的で開発された。
一式中戦車 チヘと同じ車台に、四一式山砲と弾薬の互換性がある九九式七糎半戦車砲を搭載している。
一式中戦車 チヘは油圧サーボを採用する計画だったが、開発に難航したために導入を断念し、本車の車台設計を流用して完成に至った経緯がある。
初期のIV号戦車や英戦車のCS型及びアメリカのアサルトガンと似た運用構想だったが、昭和18年の大改訂で砲戦車の概念が変更されたため、本来の役割を果たす機会は訪れなかった。
三式中戦車 チヌと異なり、機動性能は一式中戦車 チヘとほぼ同等だった。

三式中戦車 チヌ

厳密には後継機ではなく、本来の後継機である四式中戦車が戦争に間に合わないために、その場しのぎに開発された間に合わせの戦車。本来であれば、新たな兵器をゼロから作り、それらを前線に配備できるようになるまでは約1年以上の年月が必要になる*5ところを、この戦車は既存の兵器の部材を組み合わせることで、半年ちょっとという驚異的な速度で、量産段階まで漕ぎ着けている。その代わり、即席戦車がゆえの足周り不具合や搭載砲の操作などの問題も多かった。
しかし、この兵器の役割はあくまでも「一式中戦車やチハタンのサポート役」がメインであり、補助的なものにすぎなかったという側面もあったためにこれらの問題は放棄されている。

フィクションにおけるチハタン

帝国陸軍のアイドルたるチハたんの愛らしさは、フィクションの世界においても健在である。

アニメ

アニメの活躍といえば、やはりガールズ&パンツァーは外せないだろうか。
チハを出演させるために作られた(?)知波単学園の主力戦車として新旧チハ共に登場する。

劇場版から本格参戦するも、冒頭のエキシビションマッチでは同校の突撃癖のせいで一方的に撃破され良いとこなしだったが、対大学選抜チーム戦後半において、突撃を封印した奇襲や同校のハ号車及び旧陸軍の大先輩たる大洗所属のはっきゅんこと89式中戦車with アヒルさんチーム との連携を駆使。

急所を的確に接射することで、本来ならば遥かに格上であるM26重戦車パーシングを撃破するという大金星をあげる。

凄いぞチハタン!

しかしその後は、敵隊長車に対し理想的な突撃を敢行(敵側面から斜面を利用した加速で一気に距離を詰める。しかも高低差により比較的装甲の薄い上部を狙える。)するも、家元の娘である島田愛里寿の駆る戦後第一世代主力戦車たるセンチュリオン相手ではなす術なく、敢え無く全車撃破されてしまった。

センチュリオンには勝てなかったよ…

ゲーム

『World of Tanks』『War Thunder』などの戦車を扱うMMOコンバットゲームに登場している。
残念ながら、直接的戦力としては評価は高くない。歩兵支援用なのに戦車戦やってるんだから、そりゃね。
余談だがWoTでは、中国の鹵獲車両の方が先に実装されたり軽戦車に移籍したりと、なんか凄い扱いを受けている。

『メタルマックス』『メタルサーガ』シリーズでも何度か登場している。
サーガ三作目『旋律の連鎖』で97式中戦車として初登場、最初に入手する戦車の三択
残り二つはスバル360とオート三輪。
サーガ四作目『ニューフロンティア』にもチハとして登場するが、入手の遅さに対して使いどころの無さすぎる性能。
装備欄もアイテム欄も小さすぎるので活用するのも難しい、実質コレクターズアイテム。スナップ撮れればオーライ
本家メタルマックスでは『4』にチハ名義でようやく登場。性能的には特筆するところのない、普通に使えるクルマ。
ネタ性としては最終段階のシャシーが『玉砕チハ』『特攻チハ』『バンザイチハ』と身も蓋も命もない命名になっている。

舞台

●『PARAMUSHIR~信じ続けた士魂の旗を掲げて』(2018年、TEAM NACS)
占守島の戦いを描いた本作では、激戦の最中弾も移動力も尽き戦地に擱座した状態で登場。
メインキャラの顔ぶれが歩兵3人・士官・チハの整備兵な事もあり、どちらかというと即席の陣地代わりとして扱われており、後半では彼らの束の間の休息場にもなっていた。
シリアスでかつ舞台作品のためチハ大活躍!とは行かないが、エピローグでは全てが終わり長き時が過ぎた後も草花に囲まれ存在していた。



「うるせぇ、追記・修正しねぇとチハタンぶつけんぞ!」

「やめて!!チハタン凹んじゃう!!」

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最終更新:2024年03月22日 19:39

*1 一部のマニアからは「チハタン(チハたん)」と呼ばれるが、これはネット黎明期の頃に好きなアニメキャラクターに対し、「○○さん」のさんを訛らせて「××たん」と呼んでいたのが由来である。当時は機関銃や小銃弾で撃破できるというデマが信じられていた時期でもあり、命名された当時は割りと侮蔑的な意味合いもあった。

*2 試験を行った戦車部隊からは好評でチハタンの改良案としてどうかと打診している

*3 中戦車に大口径砲を搭載した支援戦車。発煙弾で敵の行動を妨害したり、既存の中戦車では迅速な対処が出来ない障害の除去を行う。

*4 例えば本車に搭載された統制エンジンは各開発会社の技術者たちが集い、合同で研究開発を行っていく予定であり、海外からも工作機械などを輸入して生産にあたることになっていたのだが、戦争勃発により、各社の独自路線で開発を進めなければならず、信頼性の向上などの理由から開発が遅れる要因となる。

*5 これは戦車の場合、武装のみ、エンジンのみの変更でも同じである