坂本龍馬

登録日:2010/04/09(金) 00:03:57
更新日:2024/03/04 Mon 10:28:50
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黒船来航に揺れる幕末の日本に、まるで暗雲を突き破る龍のように現れ、荒馬のように駆け回る風雲児がいた…。


土佐出身の武士、坂本龍馬その人である。


貿易会社『亀山社中(後の海援隊)』の結成、幕府の朝廷に対する政権返上である「大政奉還」、倒幕の実質的なきっかけとなった薩長同盟など、
後の日本の近代化に多大に貢献した人物。

日本史における偉人としても有名であり、ブーツの着用や護身用の拳銃の携帯などの奇抜さなどから現在でも根強い人気を誇る。
よく幕末関係の漫画、アニメ、ゲームにも登場することが多い。

土佐藩の郷士と呼ばれる下級武士の家に生まれた龍馬は、生活は家が商家であることから裕福ではあったが、
身分が低いうえに惰弱な性分もあっていじめられっ子だった。また、最愛の母を亡くしたことでより一層気がふさぎ、何事にも意欲がわかなくなっていた。
それを姉の乙女が教育によって矯正したのは有名な話である。

それが元か剣術の腕はかなりのものになり、小栗流皆伝目録、北辰一刀流長刀*1兵法目録を伝授されている。

土佐藩参政・吉田東洋暗殺事件の直前に脱藩した事で東洋暗殺の濡れ衣を着せられ、越前藩の庇護下に入る。 
越前藩のエージェントとして開国論者の幕臣・勝海舟の弟子となり、神戸海軍操練所の塾頭となって操船術を学んだことによって龍馬の運命は大きく決まる。

後に禁門の変が原因で勝が軍艦奉行を辞めさせられ操練所は閉鎖、塾生は薩摩藩に庇護されることになる。
塾生らの航海術に目をつけた薩摩藩は彼らに出資し、貿易会社『亀山社中』を結成させる。
亀山社中は後に外郭団体的な組織化がされ、『海援隊』となる。

商業的な活躍は勿論、当時、犬猿の仲だった薩長関係の和解を目的とされていた。


そして、薩摩と長州の両藩の藩士、西郷隆盛と桂小五郎(木戸孝允)を説得し、会談を実現させる。
一度は同盟を試みて失敗したものの、1866年(慶応二年)一月二十二日、見事薩長同盟を成立させる。

しかしその翌日、薩長同盟成立を祝っていた宿屋である伏見寺田屋にて伏見奉行所の役人に捕縛目的の襲撃を受ける。
発砲したピストルの弾は一発も当たらなかったが、護衛の長府藩士(長州藩の支藩)・三吉慎蔵と脱出し一命をとりとめる。

寺田屋遭難と呼ばれたこの事件で龍馬は左手に大怪我を負い、事件で異変を知らせたおりょうと共に怪我の療養のための温泉旅行へ行く。
これが日本初の新婚旅行といわれている(異説アリ)。

1867年(慶応三年)6月9日、山内容堂らの参加する四侯会議の関係で、
京都に呼ばれていた後藤象二郎と共に長崎から兵庫に向かう藩船「夕顔丸」に乗船していた龍馬は、後の明治政府の政治綱領の原本となる「船中八策」を書き上げる。
その中の八項目の一つに、朝廷への幕府の統治権返上「大政奉還」があり、それに影響された後藤によって促進され、後に実現することになる。
※ただし、龍馬直筆による船中八策は現存せず、その名前自体も大正時代以前にはなかった*2ことから、後世の創作という声も大きい。
 内容が共通している「新政府綱領八策」という文書は龍馬直筆のものも残っているのだが、本人が考案したのか、それとも他の人物の案を書き写しただけなのか等について議論されている。


正に激動の幕末において重要な役割を果たし、日本の夜明けを目指した龍馬。
しかし、日本の夜明けを目前に、龍馬は日本史から消えることになる。

船中八策から約五ヶ月後の11月15日、京都近江屋にて、盟友であり陸援隊隊長でもある中岡慎太郎と共に何者かの襲撃に遭い、
刀を取って応戦しようとしたが、刀を抜くことも叶わぬまま何度か斬りつけられて昏倒。
一度は意識を取り戻したものの、二度斬りつけられた額の刀傷が致命傷となり*3、医者を呼ぶよう言った後再び昏倒し、そのまま死亡した。
龍馬33歳の誕生日であった。

その暗殺の詳細についてはしばらく謎として扱われ、龍馬を殺す理由がある藩や人物が多かったこともあって様々な説が唱えられたが、
近年の研究で元京都見廻組に所属していた今井信郎(いまい のぶお)という人物が龍馬暗殺を自白しており、
彼以外にも元見廻組隊士の一人が自白していることから、実行犯については京都見廻組という説が現在は有力視されている。
しかし、彼らの背後にいた黒幕については、今もなお謎に包まれている。現在では、京都見廻組に龍馬の暗殺を指令したのは会津藩主兼京都守護職・松平容保であったという説が根強いが、あくまでも推測である(大河ドラマ「龍馬伝」ではこの説を採用)。


  • 余談
◆ミュージシャン、俳優の武田鉄矢は有名な「龍馬かぶれ」

大学入試時に高知大学を受験したり(結局大学は落ちたが)、バンド名を「海援隊」にしたり、
彼が演じた金八先生のフルネームの「坂本金八」の元ネタが坂本龍馬で、金八先生の娘が「乙女」だったり、
自らSPドラマと映画で龍馬役を演じたり、漫画『お~い!龍馬』の原作を担当したり大河ドラマの『龍馬伝』で勝海舟を演じたり、
はてはフジテレビの小河ドラマ「龍馬がくる」で、タイムスリップしてきた龍馬本人に出会う「坂本龍馬役」の武田鉄矢(本人名義)として出演したり。
とまあ様々なエピソードがある。


◆龍馬の彼女とその後

最終的には「おりょう(楢崎龍)」で確定しているが、北辰一刀流を学んでいた頃道場主の娘で長刀道の先輩「千葉さな子(佐奈、佐那)」と仲良くなり、まんざらでもなさそうな感じの手紙を残している。
さな子のその後は「独りで余生を過ごし、晩年出来た友人に龍馬の思い出を語りこの世を去った」(ゆえに墓に「坂本龍馬室」と刻まれた)とされるが、近年「実は友人に会う前に結婚していた」という可能性が出てきている。
また「おりょう」の後半生もぱっとせず、乙女と喧嘩して坂本家にいられなくなったり(実際は乙女との仲はむしろ良好で、兄の権平ならびにその妻と対立して追い出されたという話もある)、「西村ツル」と改名して再婚するもやはり龍馬のことが忘れられず、その悲しみを紛らわすため酒に逃げるなど、互いに生活が荒み離婚したりとついてない話が目立っている。そうした中で、かつての龍馬の師・勝海舟や同志の西郷隆盛がおりょうにいくばくかの生活費を援助した。おりょうは晩年自身の後半生を「みんな嫌な奴ばっかりだったけど、勝さんと西郷さんは心から優しくしてくださった」と回顧している。


◆写真が現存する

外国に興味津々だった龍馬は様々な外国の技術に親しんでおり、当時日本にはなかったカメラも試したのか、坂本龍馬らしき人が写った写真が現存している。
ちなみに、当時の写真はネガフィルムが存在せず、「写真の写真を撮る」という方法でしか増やすことができなかったため、複写回数を経るごとに細部がぼやけてくる。
龍馬の写真はアホ毛がどのくらいくっきり写っているかで、最初に撮られた写真にどれだけ近いかが推し量れるという。


◆陸奥守吉行

龍馬の佩刀として知られるこの刀、『竜馬がゆく』では脱藩時に劇的な展開で手に入れているが、実際は亀山社中結成後兄に頼んで薩摩藩経由で入手した刀だったらしい。
死後は行方不明になっていたが、2015年に「諸事情で作りは変わったがこれが龍馬の吉行だ」と坂本家所蔵の刀で確定した。
RPGなどでは最強クラスの刀として扱われるが、しょせん田舎武士の家宝程度のものであり、当時は全国レベルで名のある刀匠ではなかった。


◆シスコン?

姉の坂本乙女に性格矯正されたのは前述したが、そのためか、龍馬は大変な姉想いだったと言われており、龍馬から乙女に宛てた手紙が現存している。手紙の内容自体は著作権の切れた作家(夏目漱石や太宰治など)の小説や詩を収集した「青空文庫」というサイトで読むことができる。姉魂と書く人種だったかは不明。
ちなみにその乙女さん、かなりの男勝りで身体も大きく、美人ではなかったそうな。彼女が娘とともに撮った写真が現存しているため、そのご尊顔を伺うことができる。


◆龍馬は桂浜の海を見たか

高知県桂浜には有名な巨大龍馬像があり龍馬ゆかりの地という見方がされがちだが、龍馬の足取りから考えるとそれ程縁のある地だとは言えない。
そもそもこの像は昭和初頭の龍馬ブームに建てられたものであり、戦意高揚の意味が強いとされる。


◆一般的イメージとの乖離

ドラマや漫画では、煮え切らない交渉相手に対して大声で啖呵を切るシーンが定番で、龍馬を描写する際の一つのテンプレとなっている。
しかし実際の龍馬は、あくまで淡々と冷静に相手を説得するタイプだったようだ。
まあ、そういう人物でなければ現実世界では交渉役は勤まるまい。
また進取性に富んだイメージがあるが、徳川家を存続させようとしていたことなどからわかるように、いわゆる「幕末志士」の中では比較的保守的だったと言われることも多い。

土佐藩の志士と思われがちであるが、実際には暗殺容疑者と勘違いされた後に越前藩に保護されて以降は越前藩のエージェントとして活動しており、勝海舟や薩摩藩との連絡役を任されていた。
由利公正や横井小楠(元々熊本藩士だが、仲間同士での諍いで誤って仲間を殺してしまった際にお尋ね者となり、福井に潜伏していたところを松平春嶽に拾われ、家臣となっていた)等と協力して動いている他、神戸海軍操練所の塾頭になったのもパトロンの越前藩を説得して大金の援助を引き出しているという理由が大きい。
また、先述の暗殺容疑を晴らされたのも、前越前藩主の松平春嶽の弁護が大きかったので、外様ながらもかなり信頼されていた事が窺える。
徳川家の存続も越前藩の戦略だったので、越前藩のエージェントである龍馬がその方向で軟着陸させようとするのも当然と言うえば当然である。
尤も、晩年には後藤象二郎と手を組んだり、板垣退助や谷干城(この両名は元々龍馬ら郷士とは親交が深く、特に谷は龍馬を自分の師匠と仰いでおり、晩年まで龍馬の暗殺犯を探し続けた)のような土佐藩の新進将校と親交を結んでいるので土佐藩との関係はかなり改善されている。


創作では薩長同盟や亀山社中の設立が大きく取り上げられるが、歴史的な影響でいえば最も大きいのは、ほぼ日本で初めて議会制の導入を提唱したことだとされる。
(上述のように、船中八策が史実かどうかには疑問が大きいが)

ついでに言えば、よくフィクションの龍馬が口にする「ぜよ」という語尾は高知県西部の方言(幡多弁)であり、
現在の高知市(高知県中部)民では使う人はほぼいない上、高知県中部出身の龍馬が本当に日常的に使っていたかもかなり疑問である。


◆龍馬の剣術の腕前は?

フィクションではほぼ確実に剣の達人、北辰一刀流免許皆伝ということが強調されるが、
龍馬が持っていた北辰一刀流の免許は、長刀術のものしか残っていない。
これは、同流派の中では最も易しいものであり、このことから、剣の達人説には異論が唱えられていた。
しかし、平成27年10月、明治43年に龍馬の実家が坂本龍馬記念館に遺品を寄贈した際の目録が発見された。
その中に、長刀の皆伝書と一緒に、「北辰一刀流兵法皆伝」の文字があったのである。
実物が発見されたわけではないが、龍馬が皆伝を受けていた可能性は俄然高まったと言える。


◆現在の研究における龍馬

幕末明治の研究者のうち龍馬を研究したいという人は大変多い。
しかし龍馬は比較的最近の時代の人間であるため史料が多く残っていること、短命だったこと、研究者が非常に多いことなどから極めて詳細に分析されており、
ほぼ1日毎の足取りも正確に判明している。そのため余程新しい知見か革新的な史料が見つからない限り、
これ以上研究しても成果にはほとんど期待できないとされている。


◆好物

龍馬の好物はシャモの肉をかつおだしのスープで煮た軍鶏鍋で、暗殺される直前にもシャモの肉を買いに行かせていた。


多くの龍馬ファンからの追記、修正をお待ちしております。

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最終更新:2024年03月04日 10:28

*1 「薙刀」の事

*2 それ以前は様々な名前で紹介されていた

*3 龍馬自身もこれが致命傷になると半ば自覚していたという。龍馬の最後の言葉は「おれは脳をやられた。もういかん」だったと伝わっている