岩本徹三

登録日:2010/08/31 (火) 09:57:12
更新日:2023/09/21 Thu 11:19:38
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岩本(いわもと)徹三(てつぞう)
(1916年6月14日 - 1955年5月20日)


日本海軍の戦闘機搭乗員にして「最強の零戦パイロット」と謳われた名操縦士。

渾名:「最強の零戦パイロット」「零戦虎徹(自称)」
生誕地:樺太国境
所属政体:大日本帝国
所属組織:大日本帝国海軍
軍歴 1934-1945
最終階級:海軍中尉
指揮:第二〇四航空隊
部隊:第二〇四航空隊
戦闘/作戦:第二次世界大戦


南樺太で生まれ、北海道、島根県で育つ。
太平洋戦争時の日米パイロットの中、唯一撃墜数200機を超えるエース・パイロットとされる。空中戦では常に最初に敵を発見していたが、視力検査をすると彼の視力は1.0。パイロットとしては別段視力が高いわけではなかった。

ちなみに帝国海軍は1943年以降、個人撃墜数を認めていない。これは功名心から敵を深追いして護衛任務などを蔑ろにし、味方爆撃機や攻撃機に被害が出る恐れがあるからであるが、そのため、上記の岩本氏の200機超(202機)の記録はあくまで自己申告であり、二次大戦中に米軍が喪失した機体(事故など含む)の10%以上を岩本氏が単機で撃墜したというのはあまりに信じがたいとする意見も多い。
また本人は戦果の大半をラバウルの迎撃戦で得たものと主張しているが、岩本氏がラバウルにいたのはラバウル航空隊最後の3カ月。毎日のように迎撃戦があったとしても、一月に50機、出撃のたびに2~3機程度撃墜しなければならない。

大戦中の撃墜戦果については日米共に非常に信用ならないとされている。*1大体の戦果はおよそ3倍ぐらいに膨れ上がって報告されるのが心理的にも普通とされる。また、昭和19年以降になると米軍機の防弾と消化能力が強化され容易には撃墜できなくなっている上、被弾するとダイブして追撃を振り切りそのまま帰還してしまうため撃墜したのか逃げられたのか判別が不可能だった。
どれだけ信用ならないのか、例として、岩本氏も参戦している昭和19年1月17日のラバウル邀撃戦、日米およそ100機対100機のラバウル最後の大規模空中戦における日米それぞれの戦闘記録を戦後照合した結果…

  • 日本側の記録 撃墜60機 不確実17機以上
被撃墜0 被弾4機
  • 米軍側の記録 撃墜20機 不確実12機
被撃墜4機 未帰還8機 被弾機不明

双方で119機撃墜のはずだが、実際には日米の対戦は12対0であったことが判明している。
日本側は12機撃墜を77機とカウントし、米軍は0を32機とカウントしているのだ。この日、岩本飛曹長の撃墜数は5。ベテラン搭乗員でも撃墜をしっかりと確認出来ないと言うのが現実であった。
12対0ならこの空戦成績は実態として圧勝と言えるが、如何に報告されていた撃墜数が当てにならないかよく分かる例であろう。

現在は岩本氏が主張する202機について、共同撃墜などの分を計算し直し公認ベースにすると80機前後であると推測されている。
無論これも一つの推測に過ぎず、軍歴から見ても岩本徹三が日本屈指のエースパイロットであったことは事実である。*2

中国戦線では、初陣にもかかわらず4機の戦果をあげ、中国戦線での撃墜数は14機。本土に帰るまでのトップスコアであった。

真珠湾攻撃の際、機動部隊の上空哨戒を行なっている。

三号爆弾(クラスター爆弾の様なもの)の運用に優れており、多くの敵機を撃墜している。

敵機の索敵方法について教えを請われると「敵機は目でみるんじゃありゃんせん、感じるもんです」と言い放った。
また、戦場の経験から敵編隊群の進攻方向を想定し、プロペラが太陽の光を反射する輝きを察知する彼の索敵方法を教える。

どこをどう考察してもニュータイプな方々の「ピキーン」だよね?

いわゆる
「みえる!」
「そこか!!」「当たりはしない」
「逃げ回れば死にはしない!!」

某ピキーンな電波受信可能な御方々の台詞を、素で言える御仁。


また、当時の海軍エースパイロット屈指の「男前」でもある。丸刈りが当たり前の海軍で頑なに長髪を守り抜いた。
彼に匹敵するのは「ラバウルのリヒトホーフェン」こと笹井中尉ぐらいではないかと言われている。

使い魔というよりは「ゼロの使い手」か。

上で記されているように技量は卓越で格闘戦(ドッグファイト)も得意であったようであるが、そんな岩本氏の戦法に「送り狼戦法」と呼ばれるものがある。(※この呼称は米軍人によって付けられたようである)

この戦法は攻撃を終了し帰投する敵機に襲い掛かり撃墜するものであり、敵をより多く撃墜する上では非常に効果的と言える。
(良く言えば敵陣営の被害拡大によって敵の戦意を削ぐ、悪く言えば自分の撃墜スコアを稼ぐのに効果的と言える)
しかし敵が攻撃を終えた後と言うことは自陣に何らかの被害が出た後ということになる、つまり、「送り狼」は自陣(味方機、基地、飛行場)の被害をとめる防空の任務を放棄しているという事に他ならないのだ。
また帰投するパイロットは一通りの戦闘や攻撃任務を終えた者にせよ、被弾し即戦線離脱した者にせよ、帰投中は戦場から離れられる安堵感と機体のダメージコントロールに意識が向くことから周囲への警戒が緩くなっており、こんな状態の敵を襲うのは卑怯だとする人もいる。
このような理由から、この戦法についてはかなり賛否が分かれる。


岩本氏は尉官(最終階級中尉)であったため戦後公職追放により公職につけず、日本開拓公社に入社して妻子を置いて単身北海道へ行くも心臓を患ったため妻子の元へ帰ってきた。
その後、1952年「サンフランシスコ平和条約」の発効により公職追放が解除されると、紡績会社に就職。しかし、その翌年盲腸を腸炎と誤診され、数度の手術を行なうも敗血症を併発したことで1955年、38歳という若さでこの世を去った。

終戦後の氏は「軍人としてやってきたせいか、民間暮らしに適応できなかった」とする証言がある(実際、家族の元に戻ってからは近所で転職を繰り返していた形跡がある)一方、同時に「海軍軍人らしい、筋の通ったところがあった」「嫌な人やプータローというわけではなく、岩本さんなりにちゃんと家族ともども生活できていた。近所づきあいもそれなりにできていた」という評もある。
一例を挙げると「よくパイロット時代の経験を近所の人に話しては周囲に喜ばれていた」など。
とにかく、復員後も軍人気分が抜けきらないなりにやっていけていた、としていいであろう。



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最終更新:2023年09月21日 11:19

*1 逆に信用が高いのはドイツであり、日本の加藤隼戦闘機部隊の戦果報告も戦後の調査結果と誤差がほぼないようである。

*2 秦郁彦著『鋼鉄の激突』(中公文庫)参考。同書によれば、87機撃墜の西澤廣義は公認ベースにすれば60機、64機撃墜の坂井三郎も40機程度と推測されている。